合併反対論ホーム反対論目次

市町村合併は地域切り捨てである

伊予市議会議員

玉井 彰
2003/05/18

*以下は、月刊「自治研」・平成15年2月号に寄稿した論文を若干補正したもの です。 


「地域」とは

 本稿のタイトル中にある「地域」とは、中央に対する意味での地方(中央集権国家の首都である東京を含まない)に位置する相対的に見て立地に恵まれない区域を指しています。地方の中でも、大都市や県都周辺、および有力市部を除外したところ、即ち、小さな市、町、村を想定した上で、市町村合併により中心部(役場があるところを中心分と考える)でなくなる場所・区域を「地域」と表現します(その様な意味を持たない、身の回りの狭い領域を指す場合もあります)。

 市町村合併の問題は、市町村のあり方の問題に矮小化されるべきではなく、国のあり方、中間団体である道府県(以下、「県」とします)のあり方、住民と直接接する市町村のあり方が、三位一体で論じられるべきものです。そして、中央集権国家・日本における中央と地方の構図を明らかにした上で、合併が地域に及ぼす影響を考え、国と地方の政治のあり方を追求するのが妥当です。


「地方分権」とは何か

 「地方の時代」と言われて久しい年月が経ちます。「地方分権」が政府の方針として掲げられることも多々あります。しかし、「地方分権」の語がどの様な文脈で語られるのかを検討すると、所詮、中央による地方統治の合理化に過ぎないと思われます。地方自治体はあくまで地方統治の道具であり、「分権」も中央政府が自らの業務を下請け機関としての自治体にアウトソーシングするということに他なりません。

 地方分権一括法が平成12年4月に施行されて3年経ちました。この間、地方自治体の自主性は高まったでしょうか。機関委任事務が自治事務になったと言っても、国の名による事務が自治体の名による事務に変化しただけであって、実質は何も変わることなく自治体の仕事(義務)が増えただけというのが実態です。改革派知事についての報道は賑やかです。しかし、多くの県では他国の出来事の感があります。中央へのパイプがものを言うのが相変わらずの地方自治(地方政治)であり、地方が独自の産業政策を樹立して自立出来るだけの権限が与えられることはありません。財源もなく、人材も東京一極集中です。

 「地方分権」を疑う。これが本稿の出発点です。中央集権国家・日本において、地方は「客車」としての地位を余儀なくされてきました。テレビのキー局は東京に限られ、地方はローカル色を出すことが期待され、ほのぼのとした愛すべき地方を演ずるより他の選択肢がありませんでした。中央という「機関車」が地方という「客車」を引っ張る形で長らくやってきたこの国の仕組みを変えることなく、「分権」を実施することは、客車の連結方法を変える程度の変更に過ぎません。手足を縛られ、考えることを制約されてきた地方が、今になって自立を迫られる。「自立」という名の地方切り捨てです。


地方自治規制法としての「地方自治法」

 地方自治法第1条は、「この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。」と規定します。地方自治に関する基本法です。

 このように書くと美しい法律のようですが、私には「地方自治規制法」に見えます。例えば、議員定数。自治体の人口規模により議員定数の上限を定めています。自治体の判断に任せると碌なことをしないから中央が上限を決めてやろうという思し召しなのです。しかし、こんなことは地方で決めれば良いことです。馬鹿げた人数の議員をつくれば審議も出来ないし財政も破綻しますから、自ずと落ち着くところがあるはずです。

 中央集権国家・日本は、「親」として、「子」である地方の堕落が許せないのです。地方は、パターナリズム(父親的干渉主義)に立脚する地方自治法により、法的思考の面で型にはめられています(政策面では補助金の要件を充たさなければならないことにより思考を制約されます)。

 地方自治では、二元代表制が取られています。首長と議員が別々の選挙で選ばれるのです。ところが、首長選挙が連続何期も無投票という地域が珍しくありません。小さな自治体で地域を二分する選挙を戦うと、その傷が癒えるのに長期間を要します。親族でも敵味方となり、口も聞かなくなることがあります。その為、選挙は選挙戦に突入する前に収束します。これは地域の知恵かも知れません。

 民主主義を金科玉条とする立場からは、民主主義が根付かない「田舎政治」として揶揄されます。しかし、制度の設計としては、二元代表制ではなく議院内閣制的な発想もありうるのですから、地域の実情に応じて制度を決めることがあっても良いのではないでしょうか(私がそのような地域の住民であれば二元代表制を主張するでしょうが)。

 要するに、地方ないし地域が決めればよいことを事細かに規定することは、取りも直さず地方自治への規制です。このことがもっと意識されるべきです。


植民地としての地方、見返りとしての交付税・補助金

 東京一極集中は、東京による地方収奪の仕組みに他なりません。地方は考えることを許されず、官僚主導体制の下、民間大企業や各種団体は東京に本社・本部を置く傾向が強まりました。地方は、大企業による営業の対象であり、地方から得られる収入は本社所在地の所得としてカウントされます。無論、地方税の部分もありますが、国税として地方から収奪され中央に納金された税収を土下座をして頂くという図式は、地方の「お上」意識を助長する上で効果がありました。

 中央頼みの自治の蔓延は、地方から思考能力を奪います。補助金のシステムは、国の意向に従うことが最も安全な地方自治運営の方法として理解されるようになり、地方独自のアイデアは極力控えられるようになりました。地方交付税のシステムは、努力して産業振興をしても地方に豊かさをもたらさず、「貧しく可愛い地方」を演じ続けることこそが地方に富をもたらすことに繋がります。

 地方は、「東京」の植民地であり、地方交付税、補助金は、植民地であることの見返りとしての意義を有するのです。


「自治」が食い物にされた

 それでは、地方は被害者としてのみ描かれる存在でしょうか。地方が衰退するとしても、それは「自業自得」の面が否定できません。地方は、自らの収入(税収)以上の生活を保障されてきました。そこに「甘え」があったことは否定できません。

 自民党政権は、右肩上がりの経済を背景に、地方の甘えを是認し、「おこぼれ」を与えることにより政権安定の道具にしてきました。定数の不均衡により地方の得票に力があったことから、政治の力で都市部の収益を還元してきました。このことの政治的表現が、「国土の均衡ある発展」です。

 地方は、「中央とのパイプ」を誇る官僚を中心とする勢力に牛耳られ、中央集権の忠実な僕(しもべ)として生きることが最も有効な方針でした。ここでは、地方自治経営の能力・手腕というものは全く必要とされません。自尊心さえ犠牲にすれば、おこぼれは充分に満足できるものがありました。

 市町村は、政権党の集票マシーンとして期待されました。農村部での政治は、農村型地域ボスによる支配であり、選挙のあり方も現金・飲食の饗応による買収スタイルがスタンダードとなりました。議員報酬のかなりの部分が選挙資金として地域に還元され、非合法的な富の移転による地域内福祉として地域活性化のイベントと化すのが地方選挙の実態です。「自治」は、結果として食い物にされています。

 しかし、情勢は一変しました。「原資」がなくなったのです。大都市有権者の反乱、地方での1区現象は、地方・地域を甘えさせる政治からの決別を迫っています。700兆円に迫る国と地方の借金を目の前にして、中央主導の合理化が必要であるとの政治決断がなされるに至りました。


「ぶらさがり自治」からの脱却

 「ぶら下がり自治」。私は、現在の地方自治をこう表現します。考えることが忘れられ、考えることが損になる仕組みに安住しておこぼれを頂戴する生き方全体を「ぶら下がり」と表現したいと思います。ぶら下がり自治からの脱却が必要です。

 裏を返せば自立です。「恒産なくして恒心なし」と言います。財政的な裏付けがなければ中央依存の自治を卒業することは出来ません。「自由」がなければ企画力を磨くことは出来ません。「自由」それも「倒産の自由」を地方に与えるべきです。倒産という地獄と接する以外に真剣な経営努力はあり得ません。

 「人材」の奪還も必要です。中央集権体制の下での高度成長は、都市部での労働力を地方から供出することを必要としました。地方では、次男、三男に教育を施し、従順な長男が親を守りました。優秀な頭脳が都市部に流出し、争い事を好まぬ穏やかな長男が農村型政治を支えました。地方が自立するためには、奪われた人材を奪還する必要があります。

 その源泉を中央官僚と大企業リストラ組に求めたいと思います。彼等が現在の地方公務員より優秀だとは思いません。しかし、現在の地方公務員にはライバルがいません。緊張感の持てない地方官僚と化しているのが多くの地方公務員の実態でしょう。中央集権のシステムを破壊することは「ライバル」特に官僚を「失業」という形で自由にします。

 このために有効な地方政治の枠組みが「道州制」です。地方に産業施策をはじめとした地域のグランドデザインを描ける企画能力を備えた人材が必要です。「どうやってこれからの地方が食べていくか」ということを真剣に考えるべきです。

 「市町村合併」論の中にその答えはありません。道州制(県の合併ではなく)を先行させ、地方の産業政策上のフリーハンドを確保すべきです。誤解をして欲しくないのは、人材は中央から「輸入」するのではないということです。中央の人材が「自由」になることにより競争が起こり、しかも地方に権限と財源が確保されれば、新たなタイプの人材が中央・地方の双方から出現すると思われます。

 公務員にとって現在の体制は安住と不満足とが共存するものでしょう。使命感を持って仕事をすることには様々な障害があります。中央官僚にしても「国益より省益」という発想になじめなければ地位を確保することは困難です。彼等の能力が最大限生かせる環境を創る為、国と地方の政治機構をリニューアルする必要があります。

 リニューアルの仕方としては、中央集権を延命させる形の市町村リストラ(市町村合併)ではなく、地方主権的地方自治、即ち、外交・防衛・国内の総合調整以外の権限を地方が取得することを前提とした道州制を目指すべきです。

 要するに、地方が自立するためには、財源、権限、人材が必要です。中央が地方に自立を呼びかけるならば、この3点セットが不可欠です。これを伴わぬ「地方分権」は、中央集権を前提とした地方統治合理化の別名でしかありません。そして、現在強行されようとしている「市町村合併」は、地域にしわ寄せする形で中央集権体制の仕組みを維持しようとする試みに過ぎません。


行政サービス提供者から見た合併

 現在進行形の市町村合併を考察するに当たり、行政サービス提供者である国、県、市町村の側から光を当てた場合と、行政サービスの受け手である住民が居住する地域の側から光を当てた場合とでは、異なった面が見えてきます。まず、行政サービス提供者から見た市町村合併について考察します。

 国家の側から見れば、700兆円に達しようとする国と地方の財政赤字を削減する手段として、市町村合併により地方における無駄を省くことは極めて合理性のある話です。中央集権国家としての日本国としては、中央の機構にはあまり手を付けない形で統治の合理化を図りたい。その際、地方における行政サービスは国の名において行うよりも地方自治体の名において行わせる方が「地方分権」の流れに沿うものです。

 基礎自治体は住民に総合的な行政サービスを提供する行政体でなければならないとの前提を置くと、一定以上の規模の団体でなければ基礎自治体にはふさわしくありません。行政効率の悪い零細自治体には「閉店」してもらい、合理的な統治機構として基礎自治体が再編されることが好ましいとの結論が導かれます。

 中央集権体制を是認する限りにおいては、この考え方は正しいと思います。日本株式会社の支店が県であり、営業所が市町村であると考えれば、営業所の統廃合をしなければ無駄を省くことが出来ず、累積赤字の解消は出来ません。営業所の管轄が拡大すると、次に見直しを迫られるのは「支店」のエリアです。営業所の管轄が拡大すれば、支店(県)の見直しは必至です。ここでも無駄を省くことの合理性が最大限追求されるでしょう。県は国家の側から見て無駄な存在と見られる余地があります。

 


吸収される側の論理

 合併においては、役場(本庁)を失う自治体が必ず出てきます。町村部における役場の意義・機能を考えると、役場を失うことは地域に壊滅的打撃を与える可能性があります。立地に恵まれない地域に限定した議論であることをお断りしますが、地域での基幹産業は役場です。役場を中心としてお金が地域を循環する仕組みがあります。このことを直視すべきです。役場の本庁を取れない地域は崩壊するおそれがあります。

 私は、地域経営を断念する合併を「店じまい合併」と呼ばせてもらっています。因みに、地域戦略を描いている合併を「戦略合併」、戦略がなく「お上」の言うことだからとか、合併特例債が使えるからといった次元で合併を決断するのを「ボンクラ合併」と呼ばせてもらっています。合併には、大きく分類して以上の3つがあります。

 役場を取れない合併はこれといった地域産業のない町村においては「店じまい合併」を意味します。合併する際には地域を大切にするということが謳われても、首長が交代する毎にリストラ圧力が増し、「支所」の人員は削減されます。ということは、その地域の青壮年層の職場が減少することを意味します。青壮年層が職を求めて地域を去り、人口減少が加速し、高齢化率が格段に上昇します。世代交代が行われにくい衰退地域になる可能性が極めて高いのです。

 国土の荒廃が広範囲で起こることが予想されます。合併して大きくなった自治体では住民サービスが向上すると合併論者は言います。しかし、高齢者のみで構成される地域は、座して消滅を待つだけになります。地域から見ると、「寂れた地域で手厚い介護」という現実が残るだけのことではないでしょうか。地域の切り捨て。これが市町村合併の一側面です。

 


「県」は無駄な中間団体か?

 県職員の間では、次は我々の番であるという認識が、中堅から若手にかけて広がっているそうです。国と基礎自治体とを結ぶ中間団体としての県は、市町村の「上位」に君臨してきました。県は、「代官」として地方統治を代行し、市町村合併についても、その旗振り役となりました。

 中央集権体制の再構築としての市町村合併の次に来るものは、「県の合併」です(「道州制」と表現されたとしても、県と本質的な相違がなければ県の合併と言うべきでしょう)。「支店エリア」の見直しです。これにより、地方統治は合理化されます。しかし、地域から見ると、切り捨て路線の加速です。県の合併は、基礎自治体に対し、より広域の合併を要求するからです。

 そもそも、県とは何でしょうか。県は市町村自治を補完する団体ではなかったのでしょうか。本来あるべき姿を突き詰めると、地方自治の主役は市町村であり、県はあくまで脇役です。県は小さな自治を守り育てることにその存在意義がある、と私は考えます。基礎自治体が実力を付ければ、中間団体の力を借りることなく「中央」と取引が出来ます(小沢一郎氏の主張する300自治体の発想は、中間団体を介しない地方政治を想定しています)。小さな自治体は店じまいしろというのなら、県は自らの存在意義を否定したことになります。地域から見ても、県は無駄な中間団体だということになります。

 県を有効に活用するとすれば、地域シンクタンクとして、また、自治体の事務を補助する機関として再構成することが必要です。県とは、見方を変えれば、機構のしっかりした広域事務組合なのです。

 


人口減少と超高齢社会・・・合併論の根拠になるか

 2006年以降、我が国では人口減少が起きます。地方では既に進行中です。2050年の日本の人口は、中位の予測で1億59万人とされます。2割減です。2050年、多くの県は3割以上の減少を覚悟する必要があります。

 県都では1割〜2割減程度でしょう。問題はそれ以外の地域です。県を3つ程度のエリアに分けているところがよくあります。県都を持っていないエリアでは人口は半減します。それ以上人口が減少するエリアも出てきます。大都市への人口集中、県都等への人口集中の反面で、「地域」は人口激減の波に洗われます。7割、8割の人口減少率を想定する必要があります。

 それとともに、超高齢社会がやって来ます。高齢化率は2050年の日本で35%(現在は18%)、田舎の県では40%になります。中山間地域では、60%、70%、あるいはそれ以上という事態が容易に想像できます。高齢者だけでコミュニティを形成する場合も出て来ます。

 大量の移民受け入れ政策が取られない限り、このような激烈な事態が想定されます。そうだとすれば、市町村があらかじめ合併しておくことにより将来の人口減少に対応すべきだとの結論が出て来そうです。果たしてそうでしょうか。むしろ、自治体が失われる(役場が無くなる)ことにより人口減少は加速されます。かと言って、役場があっても人口減少に見舞われます。どうすればいいのでしょう。

 私の結論は、少人数の自治のノウハウを早めに確立すべきであるということです。ITをその手段として用いることが考えられます。自治体の事務の民営化・アウトソーシングも検討されるべきです。県(州)を自治の下請け機関と考えれば、少人数の自治体でも、自治全体を大まかにチェックできるのであれば、基礎自治体としてやっていけます。

 専門的なことが分からなくても「監督」は出来ます。住宅の施主が業者に注文を付けるのに専門知識は必要としません。知識がないからといって馬鹿にされることもありません。主権者である住民が上位にあり、住民と直接接する基礎自治体が県、国の上位者です。このことは、国家主権とは矛盾しないと考えます。住民の生活領域については基礎自治体が上位機関であり、外交・防衛等については国が上位機関であっても不都合はないはずです。

 次に述べる「集約居住」も1つの回答です。

 


集約して居住する

 合併論の弱点として、人口の足し算に執着する余り、自治体の面積の問題を捨象する点が挙げられます。人口規模が拡大すれば財政的な実力が増すと考えられていますが、面積がそれ以上に広がると行政効率は低下します。10万都市でも、従来からの10万都市と足し算で出来た10万都市とでは都市の集積に著しい差があります。都市の実力とは都市機能の集積です。これの伴わない10万都市は、所詮「似非10万都市」に過ぎません。

 「集積」という問題を意識しながら人口激減と超高齢社会とが到来する将来の地域の姿を想像すると、地域で集約して居住することが重要になってきます。自治体を拡大することにより無人の荒廃地を量産するよりも、各地域で一定規模のコミュニティにまとまって居住してもらい、日常生活が歩いて暮らせる範囲で賄えるシステムを構築すべきです。そのエリアを「街(まち)」と呼びたいと思います。地域にも街を創ることにより効率的なサービスの提供が可能となります。

 車に依拠するシステムは破綻します。車の普及により日常生活の範囲が拡大したという合併論の論拠は、痴呆の老人が運転しても事故の起きない車、体の不自由な人が自力で乗り降り出来る車が開発されない限り、これからの時代に適合した議論になり得ません。中央官僚は、人口激減と超高齢社会とが重なってやって来る地域の具体的イメージを描き切っていないのです。

 一般の地方都市においても、集約居住が必要になります。ほとんどの地方都市が人口減少に見舞われる以上、都市の拡大・拡散は後々の投資効率を悪化させることになります。都市の拡大・拡散を防ぎ、持続可能な発展戦略が練られるべきです。集約居住による戦線縮小こそがこれからの地方戦略・地域戦略の要に位置付けられるべきだと思います。

 


地方自治の本旨とは?

地方自治の本旨とは、団体自治と住民自治をその要素とする、と教科書的には叙述されます。それでは、団体自治と住民自治は如何なる関係に立つのでしょうか。団体自治が自由主義および権力分立の発想に基づくものであり、住民自治が民主主義の要請によるものであることは容易に推測できます。

 問題は、その関係です。団体自治のエリアが拡大することは住民自治の濃度が薄まることであり、国政と地方自治との違いはどうなるのかが曖昧になります。市町村合併が、「大きいことはいいことだ」ということを根拠とするのであれば、究極の合併として全国を1つにして「日本市」を創ると、国政と市政は同一になり、その対象とする事柄が違うということになります。これで「団体自治」が保障されたということなのでしょうか。

 「団体」とは、一定のまとまり感がある範囲でなければならないでしょう。そうだとすると、合併のエリアには事柄の性質上の限界があります。そのエリアはどの様にして決められるのかと言えば、結局、住民が決めるべきものです。この範囲を国や県が指導しようとするところに根本的な問題があります。団体の権限をどうするのかも住民が決めるべきです。基礎自治体を選択するのか、自治体内の「近隣政府」(地域自治組織)を選択するかは住民が決めればよいことです。

 私は、「自治」とは、突き詰めれば、住民意思の決定システムであると考えます。団体がどの様な事項について決定を下し、どの様な権限を持つかについても、住民が決めればいいのです。住民自治を具現するために団体があるのです。団体自治は住民自治実現の手段です。

 あらかじめ地方分権の受け皿として「基礎自治体」を定義するのは本末転倒の議論です。産業政策実現のための自治の最適単位、福祉における自治の最適単位、住民意思の決定の最適単位等々、問題別に最適単位を考えてみるべきでしょう。そのことにより「団体」自治のあり方が真摯に議論できると思います。

 因みに、私なりの団体自治論を展開させていただくとすると、自治における基礎的団体とは、存在感をもった一個人として関わり合いの持てる範囲で地域に関する事項について意思決定を行うものであって、地域が健全に存続し発展するための施策を遂行する「地域づくり機関」として定義すべきだと思います。

 


「自治体の尊厳」、「地域の尊厳」・・・「西尾私案」を考える

 中央集権国家生き残りのため、市町村合併は企画されています。財政破綻の中で、行政機構の再構築(リストラ)を真剣に考えれば、巨大な中央集権システムの改革(徹底的な縮小)こそが喫緊の課題となります。中央のシステム改革を「橋本改革」で完了済みであるとしておきたいのが中央の本音です。「次の改革」を地方に求めなければ彼等の生き残りはありません。結果としての地域切り捨て・地域消滅は織り込み済みです。

 これが中央集権国家・日本の繁栄を約束するのであれば、それはそれで1つの立場として是認する余地もあります。しかし、「失われた10年」の語を持ち出すまでもなく、中央集権国家としての日本は衰退過程に入っています。中央集権では解決不能の問題が山積しています。

 それにもかかわらず、なりふり構わず、地域切り捨てにより中央の機構を温存しようとして、禁じ手まで使おうとする動きがあります。昨年、小さな自治体を抹殺しようとする「西尾私案」なるビーンボール(危険球)が投ぜられました。政府の地方制度調査会に西尾勝副会長が提出した私案は、一定規模以上の市町村を基礎自治体とし、合併しない小規模自治体は事務権限を縮小したり基礎自治体に編入させるという内容のものです。合併特例法の期限までに合併しなかった場合、法律に規定する人口規模以下の自治体は財政支援なしに合併を推進し、さらに、それでも合併しなければ、「特例的自治体」として事務を窓口業務に限定して県が代行し、あるいは、県議会の議決により知事が基礎的自治体に編入させるのです。

 西尾私案について私が憤るのは、この案が小規模自治体の「誇り」を奪うことによって白旗を揚げさせようとするものであり、品位の欠片もないことです。この私案は、このような案があることを仄めかすだけでも相当の効果が期待できます。現実に行おうとすると、「地方自治の本旨」に反するとの反対論が巻き起こる危険があるので、牽制のためのものと見るべきでしょう(現時点−2003年5月−で、西尾私案そのものは採用されない見通しですが、既にかなりのアナウンス効果があったと見るべきです)。しかし、ここに地域切り捨てを策する合併論の本音が如実に表れています。

 彼等合併論者に根本的に欠けているもの、それは「自治体の尊厳」、「地域の尊厳」という概念です。個人には侵すべからざる「尊厳」があります。個々人の集合体である「自治体」「地域」にも尊厳があります。これを侵すことは民主国家における基礎的単位への冒涜であり、民主主義への間接侵害です。

 


結論としての合併反対論

 平成の市町村合併論は、中央集権国家・日本の延命策であり、地域切り捨てを含んだ施策です。国、県、市町村のあり方を総合的に考察すると、中央集権から地方主権的国家(道州制)へと大きく舵を切るべきです。その中で、地域を維持するための施策を検討する必要があります。自治とは何かについての真摯な議論がなされることなく、地方リストラだけが進行することに警鐘を鳴らしたいと思います。

 地方では、「市議会議員」は自分達の自治体が中心地であることが約束されている場合には合併問題に無関心です。彼等には拡張主義的発想もあります。「町議会議員」「村議会議員」には、特例措置による合法的買収が行われており、彼等の「市議会議員」への憧れとも相俟って、「地域の将来より自分の老後と名誉」という傾向が見られます。

 市町村としては、単独での血の滲むリストラが回避出来る、問題先送り型の合併論には魅力があります。合併特例債によるバブルへの期待もあります。「先ず合併ありき」の議論では、往々にして足して2で割る決定が下され、自治体内部の政治的妥協にのみ気が配られる「内向きの合併」になってしまいます。そうなると、新しい自治体として外部に発信できる街の魅力づくりは後回しにされかねません。

 地域の魅力づくり、まちづくりに多くの方々が情熱を燃やしてきました。しかし、内向きの政治バランス重視型の合併が横行すると、自分達の地域の魅力を対外的に発信しようとして来た彼等の努力が合併によって破壊されることにもなります。

 「平成の市町村合併」は、中央官僚達が地域切り捨てにより体制の延命を図り、自らの職域(既得権)を保全しようとする試みです。この本質を見極めることが肝要です。

 


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