平成の市町村合併反対論 合併反対論ホーム反対論目次

玉井彰のコラム (2001/03/12〜2002/08/14)


戦略合併・ボンクラ合併・店じまい合併 (2001/03/12)

  私は、全ての合併に反対するつもりはありません。地域戦略を持った合併であればむしろ賛成です。問題なのは、合併特例債に魅力を感じたり、地方交付税減額の恐怖心に負けたりした結果、何の地域ビジョンもないまま、「県」のいうままに合併するパターンです。これを、ボンクラ合併と呼びたいと思います。もう一つ、「店じまい合併」というのもあります。「もう、我々の力量では無理だな」とあきらめての合併です。客観的には店じまいなのだけれども、そう思っていないケースもあるでしょう。悲しいですが・・・

 戦略を持った合併なら賛成だと述べましたが、現在の中央集権のシステムの下で本当に戦略が描けるのでしょうか?これは大いに疑問です。地方は、頭脳を持つことを否定されています。様々な発想は中央の意向で否定されることがほとんどです。試行錯誤して新たな挑戦をすることが出来ない体質になってきてしまいました。ここから脱却することは容易ではありません。中央集権のシステムを多極分散型に変更した後に地方の改革に取り組むことを主張します。


「県」は地域シンクタンクに徹すべし (2001/03/13)

  市町村の仕事の重要部分が県の顔色を伺うことにあるということは、地域振興にとってマイナスだと思います。もっとのびのびとやれないものでしょうか。地域シンクタンクとしての県には大変感謝しています。しかし、権力機関としての県のおかげで市町村の創意工夫の大部分が無駄になり、職員のやる気をそいでいるのではないでしょうか。個々の県職員はいい人が多いのに・・


耐用年数 (2001/03/14)

 自民党大会の様子を見ると、この政党の耐用年数がとうの昔に過ぎてしまったことがよく分かります。目前に氷山があるのは分かっていてもどうにもできない。この進路で突き進み衝突するしかないのです。勇気のある人がいれば党を出ているはずですが、党内でのポジション取りの方が忙しいのでしょう。今回の危機を仮に乗り越えても、究極の事態を先送りしただけに終わるでしょう。「変化球」が何球も通じる時代ではないと思います。


自治を語る資格・・・「ままごと自治」でいいんですか? (2001/03/15)

 地方の選挙でよく聞く話ですが、お金で票が買える地域が結構あるそうなのです。その地域の有権者の感覚として、人に頼み事をして手ぶらはないだろう、ということなのです。この心理には面白いところがあります。要するに、お前のような者が議員や首長になっていい給料を取るのなら俺にも分け前をよこせ、ということなのです。地方議会の議員等は名誉職であってその地域のために何か志をもってやりとげるなどということが頭から信じられていないのでしょう。そうであるが故に、選挙の機会に利益を分配することがその地域での正義なのでしょう。「自治」をお金に換えてみんなが食ってたということかも知れません。「社交儀礼」ということについては難しい問題があることは事実です。しかし、21世紀になった今日、票を直接お金で売買することへの違和感を感じるセンスがなければどこかおかしいのではないでしょうか。今回の合併を論ずるに当たって考えさせられるのは、買収選挙の毒素が体中に回ってどうにもならないところまで来て店じまいせざるを得なくなっているところも結構多いのではないかということです。この人に任せたい、ということではない選挙を繰り返して結局自治を失うのは自業自得ですけれども、この国に未だ民主主義が根付かず、ままごと遊びのような自治がまかり通り、挙げ句の果てにお上の言いなりで店じまいというのは何とも寂しい限りです。もっとも、議席を買ってもらってた参議院議員もいますが。民主主義が本当に機能すれば、この国は良い国になれると思います。先人が血を流して獲得した選挙権を売り渡すのでは、国を論じ、自治を語る資格がないというべきでしょう。「売国奴」という言葉がありましたね。


議員定数の削減は地方自治の前進ですか  (2001/03/16)

 合併推進論の面白いところは、地方議員を無駄な存在、経費節減の対象ととらえ、議員が自己保身に走ることを前提に飴をなめさせようとしている点です。確かに、地方議員に首を傾げたくなるような人物が多いのも事実でしょう(国会議員もすごいですが)。しかし、少ない票数で代表になることが出来る利点をもっと大切にすべきではないでしょうか。少数者の意見を大切にすることが憲法の精神にそうものであることは言うまでもありません。少数者の意見が排除されない風通しの良い地域社会であるためには議員定数は多い方がよいと思います。意志決定機関と有権者との距離が近いことが住民自治を達成する上で重要です。今より貧しかった時代と比べて有権者と代表者との距離が遠くなるというのはどういうことなのでしょうか。リストラばやりの昨今ですが、切り捨てるべきものと切り捨ててはならないものとの判別こそが問われているのでしょう。地方議会が改革されれば、かなり大きな力になると思います。有権者の皆さんも地方議会が「痴呆議会」とならないよう監視して下さい。


電子自治体と「県」の役割 (2001/03/17)

 ITの掛け声が熱を帯びています。電子政府なり電子自治体なりの構想には興味深いものがあります。その最中での合併論に何か不自然なものを感じます。電子自治体が出来るのなら、自治体の公務員が庁舎に出勤する必然性はないはずです。そうだとすると、県職員の県都に張り付く人員を最小限にとどめ、町村部に勤務する人員を増やすことが出来て当然です。あるいは、全市町村の庁舎の一角に県職員が出向し手助けが出来るのなら有意義でしょう。その際、県職員の上級機関意識を払拭する必要があります。市町村に出向した県職員は市町村の指揮系統に属するものとすべきです。当該市町村が出向した県職員を気に入れば、ドラフトで取ればよいと思います。地方自治の再編のひとつのモデルとして提案したいのは、県職員の市町村張り付けと県職員を商工会議所、商工会がドラフトで取ることによる組織の充実です(財源の手当は必要です)。地域振興はやりやすくなるでしょう。県が統治する機関であることを放棄すれば、新たな可能性が開けると思います。


合併を考える前に為すべきこと (2001/03/18)

 国家財政が危機的状況であり地方交付税が減らされるであろうということが合併論の重要な論拠です。その割には合併特例債が派手に用意されており、まず合併ありきの感が拭えません。浪費癖の抜けない脆弱な市町村にとって、現在の地方交付税が減額されることは恐怖でしょう。しかし、本当に自治体がしなければならない仕事を吟味すれば、それほど怖い話ではないと思います。まず、交付税減額を前提とした予算の作成をしてみても良いと思います。地域経営がそれで出来ないのかどうかを真剣に議論し、ボランティアで出来る仕事はないかを住民と議論してみる必要もあると思います。団体自治を維持する重要性が住民の共通認識になるのであれば、様々な可能性が見えてくると思います。日本の国民がおとなしすぎるので、国、県が言いたい放題なのです。お上を意識せずに自治が出来るようになれば、この国は変われると思います。  


「失敗する自由」を (2001/03/20)

 中央集権の行き詰まりが明らかなものとなっています。地方に自由を与えず中央が指導し、規格大量生産型の工業社会を完成させるまでは有効に機能していた仕組みが、次の時代を切り開く上で障害になっています。これからは、大胆な権限委譲(というより、地方が権限奪取すること)により地方独自のやり方を試行錯誤していく時代です。大きな声で言いたいのは、失敗する自由を与えろということです。失敗しないようにあれこれ「指導」されたのでは何時までたっても自立できません。総理大臣などボンクラでいいのです。地方から新たな時代を切り開いていくべきです。全国で多種多様な取り組みを行い、中央集権の行き詰まりを打破すべきです。地方自治体も、「他市の状況は・・・」などと言って横並びすることをやめる必要があります。


「店じまい」の覚悟 (2001/03/21)

 今回の合併推進論は、町村部店じまいを促進するものであると考えるのが合理的であると思います。町村部で新しい自治体の中心地にならない所は、高齢者だけが住む地域になると考えておいた方がよいでしょう。学校も閉鎖になり、廃校を高齢者福祉にどう活用するかを新しい自治体が決めるようになる日がそれほど遠い未来ではありません。日本全体として人口が増加してきたこれまででも人口が減少してきた地域が,役場を失ったら人口減少に加速度がつくことは目に見えています。そういう地域での合併は店じまい以外の何者でもありえません。私は惜しいと思います。やり方如何なのに従来と同じ発想しかできないから合併論に押されてしまうのです。店じまいの覚悟をするくらいなら、悔いを残さないようゼロから自治体を創る発想で臨むべきではないでしょうか。


赤信号みんなで渡れば怖くない (2001/03/22)

 合併特例法に平成17年3月という期限が付いていることで、実質あと1、2年で結論を出さなければならないと各自治体が焦っています。優遇措置が受けられなくなるからです。しかし、そのことにのみ気を取られ地域戦略なき合併をすれば、後悔することになるでしょう。一体感のない自治体が新たに出来ても、地域間融和に明け暮れるだけで、前向きな施策を行うことが困難になるのではないでしょうか。私は、中小自治体が全国的に連合を組み、サボタージュすることを考えてもよいと思います。自分の所だけがいい思いをしたいという小さな発想を乗り越え、本格的に地方の自立を考える機会にすべきだと思います。


合併論の面白い理屈 (2001/03/23)

  「例えば5軒の家があれば、それぞれにトイレも風呂も台所もリビングも、あるいは家によってはピアノの部屋も欲しい、ピンポンの部屋も欲しい、庭も欲しいという形で全部を揃えていこうとすることがいつまで続けられるか。5軒が一緒に住めば少なくとも台所やトイレやお風呂場が全部5つは要らないでしょう。2つか3つという形になれば、その余力で、例えばじゃあピアノルームが欲しいとか、あるいはオーディオルームが欲しいとかいう形で整備ができていくんじゃないでしょうか。そういった行政の効率化というのは市町村が目指す方向に向かってどんなものをまちづくりしていくかという時に、5つがバラバラでそれぞれが考えるよりは、5つが一緒に考えた方がコストダウンにも繋がるし、税金の使い方としてもそれが正しいのではないかという意味で今の市町村合併を進めているんです・・・・・」(ある会合での推進論者の意見)

 こんなことを言って合併しましょうと説得に努めている人がいます。住宅地へ行って、5軒の家を一まとめにして一軒で住めば節約ですよ、などと言って喜ばれるでしょうか?少なくとも、基本的な部分(台所やトイレ等)はそれぞれのお家になければ快適な生活は出来ないでしょう。基本的な部分は何かが大切です。基本的な部分以外は共有でも良いでしょう。しかし、それぞれのお家に必要なものは大切にしていくべきです。それぞれの自治体にとって大切なのはそれぞれの歴史であり、個性であり、自治ではないでしょうか。自治を省略しなさいという議論は本当に地方自治を理解している人の言葉ではないと思います。ピアノルームやオーディオルームより大切なものを見失わないでいただきたいと思います。


自治体の尊厳 (2001/03/26)

 個人に犯すべからざる尊厳があるように、自治体(特に基礎自治体である市町村)にも尊厳があることを認めるべきでしょう。合併推進論者は、地方政治を見くびり、札束で頬を張るように、利益誘導によれば合併は出来るだろうと高をくくっているように見えます。それで駄目ならムチをあてればよいというのでしょう。このようなことが自治体の尊厳を踏みにじることになると考える品性を持ち合わせている人ならば、今回の合併推進の手法に疑問を感じるでしょう。品性卑しい人たちに自治を踏みにじられて黙っていられる人はともかく、そうでない人に今回の合併論を真剣に検討していただきたいと思います。


介護保険はトロイの木馬 (2001/03/28)

 介護保険制度に伴うサービスが提供されるようになって1年が経過します。今年度は介護保険会計は黒字になりますが、将来的には相当苦しい事態になるのではないでしょうか。各自治体は苦労するでしょう。特に、高齢化率の高い町村部は大変だと思います。子供は都会で独立し、親は田舎暮らしというパターンがかなりあるでしょう。自治体単位で考えるには問題の根が深く、人的、財政的にも無理があるにも関わらず介護保険制度が自治体の仕事になり、その結果、自治体の力量をアップする必要があるとして合併を促進することが元々織り込まれていたというべきでしょう。本来、ナショナルミニマムとして国が行うべき仕事を自治体にやらせ、行政サービスの向上を旗印に合併を推進することに国の無責任な発想を感じます。介護保険を内部に抱え込むことにより、小さな自治体は内部に自治を崩壊させる因子を植え付けられました。そもそも、自治体の仕事を増やすのなら、財源、権限、人材を国、県から基礎自治体に大幅に委譲することが必要です。地域主権なき介護保険は町村部店じまいを促進する地方リストラの先兵でしかないと思います。


地方分権の受け皿論について  (2001/03/31)

 地方分権を進める上で受け皿としての市町村に体力を付けなければ権限委譲ができないと合併推進論者は言います。典型的な上からの発想です。統治する側の論理だと言ってもいいでしょう。国が上位機関であることを自明のものと考え、権限を分け与えてやるのだから大きくまとまりなさいということです。私は、住民(=国民)を上位者と考え、住民に一番近い市町村が県、国の上位者として命を下すのだという理念を確認すべきだと思います。本来、事柄の性格上外交、防衛については権限を有しないけれども、それ以外については自治体が権限を有しても何らおかしくないと思います。現行法制度がそうでなければ、まず市町村に全ての権限を与えるべきです。(介護保険のように責任のみを自治体に押しつける話とは区別すべきです。私は、現行の権限しかないのなら介護保険は国の責任だと思いますが、市町村に全ての権限があると考えれば市町村の責任になると考えています。)市町村の手に余るのであれば、そのとき合併を含めあらゆる方法を考えればよいのです。県という中間団体に意義あらしめようとするのであれば、市町村が有する権限を補完する機関としての県を考えても良いでしょう。中央集権のシステムに制度疲労をきたしている現在、地方主権により新たな時代を切り開く必要に迫られています。中央集権の延長線上で合併を論ずる思考方法こそが問題視されるべきです。


行政サービスを提供する民間企業が成立する余地はないのか?(2001/04/01)

 小さな自治体は各種の行政サービスを効率よく提供することができないので、合併により人員を強化し行政サービスの向上を図るべきであるというのが合併を推進する理由の一つです。そのことが当てはまる自治体が全国で仮に3000あるとして、100社程度の企業が1社につき30自治体にサービスを提供すればITを武器に採算の合う経営ができるのではないでしょうか。これは新たなビジネスとして雇用の場となるでしょう。地方自治法等の規制をはずし地方に自由にやらせてもらえば、これに限らず様々な可能性が開けるでしょう。無論、各自治体に従来の職員雇用に替わる雇用が生じなければ世代交代は図れず、地域の消滅が待っています。地域を維持する最小限度の職員数を確保しつつ、効率的な行政サービス提供をどの様に行うかが検討されるべきでしょう。「行政そのものの民営化」などと言うと常識はずれのようですが、360度あらゆる角度から地方行政を洗い直すべきではないでしょうか。「合併推進論」にはメニューが少なすぎます。真摯にに考え抜かれた案ではないからでしょう。なお、民間が行政サービスを行うとした場合、公正、中立、機密保持の責任が生じることは当然であり、民主主義の要請として住民により選挙された代表者の存在は不可欠です。


自治体の主体性を奪うもの (2001/04/04)

 従来、市町村は県の意向に添う形でなければ自らのビジョンを掲げることが出来ず、県においても国との関係では同様でした。しかし、最近は東京都や長野県のように国と対立しても政策を断行する気概のある自治体が現れています。無論、地方分権の進展により従来とは権限のあり方が異なる面もあるでしょう。しかし、断固として行う気概があり、これを住民が支持するならば、可能となる事柄は結構多いのではないでしょうか。制度として地域主権が確立することが地方の自立につながると思いますが、制度が先行しても従来型の意識に変更がなければ本質的な変化は起こらないでしょう。多少の不利益を甘受してでも信ずるところに従う気概こそが地方の自立につながると思います。そのように考えてみると、住民のお上意識の払拭が重要な課題となってくるのではないでしょうか。市町村合併問題は地方の精神的自立を促す契機となりうる面白い問題だと思います。

 第二次大戦後、政権交替がほとんどなく、国民は自民党以外の政党が政権を担う姿を想像しにくくなり、何となく変化を恐れる意識が定着したのではないでしょうか。自民党ほど政権担当能力のない政党も珍しいと思うのですが。国民がオーナーなのですから、「支配人」である政権党が失政をすればこれを「首」にして政権交替をさせることが一番良い解決なのです。政権交替は政党が実力を付ける良い機会であり、その機会が与えられなかったことが、自民党の自堕落政治を生み出した元凶ではないでしょうか。国民はもっと気楽に政権交替を考える必要があると思います。


地方政治の改革  (2001/04/07)

 地方政治のあり方を考えるに当たり、地方議員のセンスが国会議員よりも古いということを抜きに語ることは出来ないと思います。国会議員だと、マスコミの目があり、余りに馬鹿げたことを言うと政治生命を失う恐れがあるので、それなりに気をつけることになります。しかし、地方議員の場合、監視の目が厳しくないので、ただの名誉職だと思ってやっていても何となく年数が経ってしまうのです。地方政治に活を入れる良い方法は、市民が監視するシステムを確立することです。

 一案として、市民から抽選で一期限りの「選抜議員」を創ることです。早い話が、検察審査会の検察審査員のようなもので、選挙を経ないで抽選によって議員の資格を与えます。任期が一期限りであるということを除いて他の議員と同じ権限を持ちます。複数任命すると威力があるでしょう。選抜議員は、議員のしがらみに囚われることなしに市民の常識を地方政治に注入することが出来ます。議員の常識は社会の非常識といった事態を改善できることにもなるでしょう。議員の定数削減などというけちくさい発想が支配する昨今ですが、民主主義には金を掛けるべきです。良い政治を知らない、貧しい国民のままでは駄目だと思います。

 法律の制約を無視して柔軟に考えれば、地方政治、ひいては国政の改革案は無限に出てくると思います。要するに、市民の感覚と議員の感覚とが同じであれば問題の80%は解決すると思います。とりわけ、議員で居続けたいと思う心情が政治のダイナミズムを奪う最大のものでしょう。その意味で、永年勤続表彰は「民主主義の敵」と言ってもよいでしょう。


国民の意識  (2001/04/08)

 私は、政治の改革案として、選挙で選ばれていない検察審査員のような議員を置き、一種のオンブズマンとして機能させるべきであると考えています。選挙は民主主義の根幹をなすものです。選挙で選ばれた者を信頼できないということは、民主主義への不信を意味します。しかしながら、我が国の政治腐敗の現状を見るにつけ、民主主義が真に機能していないことを痛感させられます。国民の意識が政治家に何をしてもらえるかということに偏り、自分が国家や社会に対し何をなし得るのかという問いかけをやってこなかったということがあります。そのような国民の意識を前提として、政治がサービス合戦を行って来たのが第二次大戦後の現実でした。しかし、その原資がなくなってきたことから、政治行政のリストラが求められ、地方においては市町村合併を推進しようという動きになってきたのです。考えるべきことは、政治とは何なのかという反省ではないでしょうか。行政サービスの向上のみが政治でしょうか。哲学のない政治が横行し過ぎたのではないでしょうか。問われているのは国民であると考えます。行政サービスの低下を招いても自治を守ることの意義が上回ると考えることが出来なければ、自堕落に合併していくしかありません。それで本当に良いのでしょうか。国民が哲学を持ち政治を監視する気概があれば、私の改革案など必要ありません。


議員は無駄なものか (2001/04/13)

 行政改革が叫ばれる昨今です。国会や地方議会で議員定数を率先して削減することが正義であると考える傾向があります。行政組織の場合は効果効率が問題にされてよいでしょう。けれども、議会の場合はそれとは根本的に原理が異なるのではないでしょうか。議員にかかる経費も職員にかかる経費も経費に変わりはないのですから、経費削減と言うことでは同じではないかと言われるかも知れません。しかし、民意が政治に反映されるパイプが細くなることはそれだけ少数意見が排除されることになり、きめ細かな配慮に欠ける政治になる恐れがあります。また、当選ラインを高く設定することで現職優位の体制を固め、新規参入を阻止することになります。現在の国会がそうですが、まっとうな人が選ばれず、二世議員や官僚、あるいは身も心も特定団体に売り渡した人が指定席を占め、国民とかけ離れた価値判断で政治が行われるようになっています。当選することが困難であり、議席が一握りの有名人や選挙プロだけの私物となっているからではないでしょうか。リストラされているのは民主主義そのものだという認識を持つべきです。今よりうんと貧しい時代に決められた議員定数を社会全体で支えることが困難になったという話に、「変だな」と素朴な疑問を持つべきでしょう。


横並び意識からの決別 (2001/04/18)

 会社でいえば「他社はどうか」、市でいえば「他市の状況は」ということがよく出てきます。新たな提案をする場合に、他に事例があれば説得はスムーズにいきます。しかし、前例がないと大変です。地方の活性化を真剣にやろうとすれば、前例がないことを行う気概を醸成することが必要です。「我が道を行く」ことは不安です。前例があればどこか安心です。しかし、不安を乗り越え信じる道を行く人が尊重される社会にならなければ、新時代を築いていくことは困難です。欧米に追いつけ追い越せということで済んでいた時代は終わりました。創業の志を持った国造り地域造りが必要な時代です。横並び意識から脱却し、自由な発想を大切にすべきです。市町村合併についても、「バスに乗り遅れるな」という議論が必ず出てくるでしょう。しかし、そのような発想こそが問題なのだということを肝に銘ずるべきだと思います。じっくりと自分たちの地域の将来ビジョンを練っていくべきです。期限を切って合併を促進しようとする人々は、地方自治体や地方住民の幸せなど本当はどうでもよくて、国策の遂行を自己目的とし、ノルマ主義に陥っているだけの小役人根性の権化であると申し上げてよいでしょう。 


息を止めることが出来る自民党 (2001/04/22)

小泉純一郎氏が自民党総裁=総理大臣になることが確実視される状況です。参議院選挙で勝てる候補を担ぎたい一般党員の意思が表れているのでしょう。自民党の主流がこの流れに乗れば小泉首相誕生となり、参議院選挙で自民党が巻き返すきっかけを作ることになります。自民党の凄みは、政権党で居続けられるならどんなことでも出来るし、正反対の主張とでも妥協できるところです。しばらくは息を止めて自分の色を消し、選挙まで耐えるのでしょう。その内、元の状態に修復すべく様々な手を繰り出してくるはずです。


小泉氏が自分の色を鮮明に出すことは、主流派が息を止めている間は可能でも、選挙のほとぼりが冷めれば困難になるでしょう。そのときどうするかでしょう。小泉氏に党を割る覚悟があれば改革が可能でしょうが、半年、1年程度の使い捨てで終わると見るのが妥当でしょう。政界再編なしに済むほど今日の政治状況は生やさしくはありません。歴史が求める21世紀初頭の総理大臣は、リセットボタンを押せる人物だと思います。ゼロから国造りが出来なければ、高度な技術を持ったまま中流国への道を歩むことになります。 


「自分のことしか考えていないから」  (2001/04/25)

 4月25日付の愛媛新聞。愛媛県議会総務企画委員会で、自治体が合併を求めながらも相手先に難色を示された場合の見解を質問されたのに対し、県総務部長は「合併を求められた相手先が、財政問題などで自分の市町村のことしか考えていないからそうなる。困難な作業だが、シミュレーションを進めると建設的な議論になるし、県もサポートしていく」と回答しています。

 合併は至上命題であり「善」であるとの思い込みに由来する発言です。この立場からは、合併に消極的なのは地域エゴと映るでしょう。私は、市町村合併絶対反対の立場ではありません。県が看板を下ろし、四国州実現を明示すれば、地方政府としての基礎自治体の実力を付けるために市町村合併は必要であると考えています。市町村合併に先行して、単なる県の合併ではない、外交防衛以外の権限を有する「国」としての道州制の実現への道筋を示すべきです。「道州制を睨む」等と言うのは、その場しのぎの無責任な話です。中途半端な数の自治体にまとめられると、県の目が行き届き過ぎ、息苦しい最悪の地方政治になります。県にとってもっとも気楽な地方政治の「改革」が今回の市町村合併です。県が国の「代官」として、県民の目線に立つことなく合併を推進していることへの反省こそが求められます。県が自分のことしか考えず、総務部長が自分のノルマのことしか考えないことはどうなのでしょうか?強力な反対論者がいるが行って説得しろと言われて、当該総務部長氏は、権力で嫌がらせをしたりせず、自ら説明に出掛ける気概を持っているのでしょうか?

 なお、合併を申し込んで相手が難色を示すのは相手側の地域戦略の問題です。相互に機が熟していないのに合併を申し込んだ場合、相手に買い叩かれることは当然予想すべきです。それぞれの自治体が自分に最も有利な合併を模索することは当たり前のことだと思います。


市町村自治とNPO (2001/04/29)

 NPO(民間非営利団体)とは、ボランティアを継続的組織的に行うものです。職業人、家庭人としての自己とは別に地域人、社会人としての自己を大切にし、自分の好みの分野で社会に貢献しようとする人が増えています。男性の場合、ともすれば職場、職域での交流が支配的でしたが、これからは終身雇用の幻想も解け、自分が真にやりたいことを追求することが幸せであると考えられるような社会になっていくでしょう。このような人生観の変化は、地域社会にとって歓迎すべきことです。NPOと自治体が連携して地域の様々な課題を共に考え共に解決していく契機になるものと思われます。

 従来、例えば地域消防団では、公務員だけで担うことが不可能な消防、災害救助活動に民間が協力する仕組みがありました。その意味では、これまでも様々な分野で行政を補完する民間の活動がありました。非常勤の公務員としての資格が与えられていたにせよ、ボランティア的なものではありました。これからは、全く自発的で自然発生的な団体が社会の様々な分野で貢献することになると思われます。市民の自発的なネットワークは、地域社会のあり方を変えることにもなるでしょう。自治体は、ボランティアがしやすい環境づくりを行うと共に、NPOとの連携を深め、財政的な支援を含め協力関係を強めていき、自治のすそ野を広げていく工夫をすべきです。もちろん、NPOは自治体の下請け機関ではありません。自主性自立性が重んじられることは当然です。そのことを前提として、方向性が一致する分野について、協議する機会を持ち、お互いが補完しあえる関係を築いていければ相互にプラスになってくるものと思います。その過程で、自治体が行政のプロとして真に行うべきことは何か、民間(NPO)が肩代わりできることは何かということも考えてみるべきでしょう。 


町村部は団結せよ (2001/05/01)

 市町村合併特例法は「町村部店じまい法」だというのが私の主張の一部です。周辺部が寂れないような配慮がなされるという説得があるでしょう。しかし、役場が無くなり、支所が置かれるようになればどうなるかは、町村部の方が一番分かるはずです。役場以外に基幹となる職場があるところは別です。多くの町村は役場が基幹産業であり、これが無くなったり大幅に縮小されれば、青壮年層が住むことが困難になり、世代交替が出来ない寂れた地域になることは目に見えています。それを敢えて行うということは、その地域が店じまいするということに他なりません。周辺地域への配慮を従来通りに行うというのであれば、新しい自治体のアイデンティティーを確立することは出来ません。地域内調整に明け暮れるということになります。それなら、合併ではなく広域連合で対応すべきなのです。合併論者の提案は、その場限りで、真心のないものだと思います。

 町村の自治を軽んじ、効果効率主義に毒された人々が町村部の統廃合を画策しているのです。地域主権を伴う道州制を実現するため、道州と直接取り引きする地方政府としての基礎自治体を充実しなければならないのであれば、市町村合併が説得力を持つでしょう。自治体の権限が充実し、地域が自立できる可能性が開けるからです。しかし、中央集権を前提とし、地域を自立させないままでの今回の合併論は、中央政府の失政の付けを地方に回しただけのことです。町村部の自治体は団結して不条理な合併策の撤回、ないしは、合併特例法の期限を撤廃するように運動を展開すべきです。単に抗議声明を出すだけではなく、地域戦略を描けない合併には応じないとの協定を結ぶべきです。「町村部連合」を創り、新たな地域の発展策を考え、将来の地方のあり方を考えるべきです。期限を切って脅迫まがいの手法で町村部を切り捨てようとするさもしい発想に屈することは不名誉なことであるとの自覚を持っていただきたい。


公務員は究極の有償ボランティア (2001/05/04)
 市町村合併は、相対的に高くなった自治体職員の人件費を削減することを一つの目的としています。もちろん、首長や議員もリストラの対象になっています。行政サービスにかかるコストの削減は必要です。しかし、公務員が単にコストとしてしか認識されないことは残念なことです。彼らが必要不可欠な存在であると住民が判断するならば、公務員リストラに賛成する人は少ないでしょう。現実には、地方へ行けば行くほど役場が「良い職場」であり、公務員は嫁の来ても多い地域のエリートです。彼らは公務を一つの職業としてしか見ず、労働者としての自己を守ることが正義であると考えてきました。このような公務員像を前提とするならば、彼らの給与は「コスト」としてしか認識できないでしょう。

 しかし、これからの自治は、NPOと行政とが連携することにより、住民本位のものになって行くべきであるし、皆がボランティア的に参加するものになることが理想です。それに伴い、コストの削減も期待できます。そうだとすると、公務員像も変わってくるべきだと思います。一方では行政のプロとしての責任を担いますが、他方で一市民として行政に参加することに喜びを感じるボランティアとしての公務員像です。現に、そのような情熱を持った公務員も存在します。公務員とは究極の有償ボランティアではないでしょうか。そのような公務員像を前提とするならば、地方こそ公務員を減らすべきではないと考えます。特に中山間地や島しょ部においては、公務員は「防人」として地域造りの先兵でなければなりません。都市部においては公務員のリストラを行っても民間活力で地域の実力を補うことが出来ます。しかし、地方では、真に地方主権が確立し民間に実力が付くまでは公務員が先兵として地域造りに邁進するしかないと思います。


屯田兵としての公務員 (2001/05/13)

 町村部が都市部に吸収される形の合併は町村部の店じまいであり、世代交代が進まなくなり、地域が消滅することになります。このことは繰り返し主張したいところです。町村部はこれからやっていけなくなるから合併は避けて通れないという反論も聞こえてきそうです。本当にやっていけなくなるのでしょうか。私は、町村部の首長や議員が猛省すべき点があると思います。これまで、町村部においては民主主義が前向きに作用せず、過剰サービスを公約に掲げて甘い甘い自治を継続してきました。過疎を脱却するために仕方なかったのだと言われるでしょう。しかし、甘すぎました。首長や議員はもっとサービスを低下させてでも自治を守ろうというメッセージを出すべきです。それとも、年金が保証されそうだから地域を売り渡してもいいということなのでしょうか。首長や議員を無報酬にしてでも地域を残そうという人はいないのでしょうか。

 私は、国土の均衡ある発展という公共事業推進のための論理ではなく、国土を保全し活用するためには、現時点で人が定住している地域はこれからも定住者を確保すべきだと考えます。その為には、地域での世代交代が継続できる仕組みを作るべきだと思います。辺境の地域には公務員を張り付かせるべきです。ITを活用すれば県の事務所を町村部中心に張り付かせることも可能です。現地に長期間家族ぐるみで生活することを条件として採用した職員が地域人として生活すれば、地域の消滅を食い止める最低限度の効果はあると考えます。「屯田兵としての公務員」というものを考えてもよいのではないでしょうか。


自治体の分割 (2001/05/21)

 合併の方向への議論だけが盛んですが、市町村分割のことも考えてみるべきではないでしょうか。大きすぎて小回りの利かない自治体は分割することにより住民サービスを向上させることが出来ます。合併でコストダウンを図ろうとしているときに妙な提案のように見えます。しかし、そもそも自治体が何のためにあるのかということを考え、住民にとってどの様な自治がふさわしいかを考えれば、合併と同様分割についても考えるべきです。住民本位の合併を主張する立場の方は、分割についても住民が欲する限り否定することはないはずです。これから、合併を急ぎすぎたために失敗したというケースも出てくるでしょう。そのような場合、住民が元の状態に戻そうと考えれば出来なければなりません。制度的な担保をしておくべきだと考えます。
 分割が自由に出来るのであれば、地方の形を住民が自由に描くことも出来そうです。一案として、県を1つの市にまとめます。権限のほぼ全てを県から市に委譲し県を形骸だけのものとします。他県でも同様な手順を踏んでもらい県を実質的になくします。そして、各市で協議して「州」政府を創ります。この州を受け皿として国に外交防衛以外の権限の委譲を迫ります。州政府樹立の後、大きすぎる市を分割して新たな市を創ります。国にお願いしなくても住民の力で道州制実現を目指すことが出来る訳です。このくらいの大技が利くのであれば合併論議も面白いのですが。小役人主導の合併論に実りはないと思います。


選択肢の少なさ (2001/05/27)

 合併推進論について、選択肢が異常に少ないことが気になります。地方自治の形を変えようというのですから、もっと色々な角度から検討を加える必要があるのではないでしょうか。中間団体である県を廃止して300程度の基礎自治体(市)と国で政治を行う方法もあるでしょう。市町村合併に伴い県を事務局的なものにして、従来県が持っていた権限を全て市町村に委譲することも考えてよいでしょう。道州制も視野に入れるべきであり、その場合も市町村合併とセットで提案すべきです。単に財政的理由だけでことを急ぐのではなく、21世紀におけるこの国の形をどうするかの議論の一環として市町村のあり方も検討すべきです。住民が主体的に決めるべきだと言う以上、もっと叩き台となる資料を準備すべきでしょう。
 今回の合併論に対する感想は、よくもこれほど貧困な発想を国民に示したものだということです。市町村を小馬鹿にしているということ以外にはありません。市町村は能力がないからこの程度で充分納得させられるし、逆らえば痛い目に遭わせればよいのだから、目標は達成できると高をくくっているのだと思います(これは私の誤解で、提案者に能力がないのかも知れません)。もし、市町村の自治に敬意を払う気持ちがあるのなら、このように権限が大幅に委譲されます、財源もこのように充実します、人材については国、県、民間からから市町村の裁量で特別枠での採用を行い地域戦略を立てられるようなスタッフを整備してください、国、県は職員を引き抜いて頂いて結構です(天下りではなく、市町村への再就職)、という提案をすべきです。政治の矛盾をもの言わぬ市町村にしわ寄せする発想は官治主義そのものであり、市町村がこれに唯々諾々と従うようでは地方が中央依存から抜け出し自立することは困難だと思います。パラサイト自治の継続は地方政治の腐敗を招くだけであり、アイデンティティーのない新たな自治体での無原則なバラマキを助長するだけで終わるでしょう。過剰なバラマキで地方財政が破綻する懸念すらあります。今回の合併を推奨する役人や学者はその結果に対して責任を取る気持ちなどサラサラないでしょう。全部住民が決めたことだと言って逃げるはずです。


スーパーマンに頼るな (2001/06/03)

 小泉総理の支持率が危険水域を超えています。国民の政治不信が形を変えて現れているのでしょう。しかし、一人の英雄が蛮勇を奮えば世の中が簡単に変わるほど現代社会は単純ではありません。スーパーヒーローに矛盾を全部解決してもらおうという安易な発想は、一歩一歩国民との対話を通して問題を解決しようという民主主義特有の苦しい過程を省略する全体主義の発想であると思います。マスコミが、この傾向に拍車を掛けることの危うさに無頓着であることが、かつて戦争を賛美したことへの真の反省がなされていないことの証左だと思います。小泉総理に過剰な役割を求め、記号化し中身を吟味されることのない「構造改革」が全てを解決する特効薬だと安易に考えてしまう風潮に歯止めを掛けられないことが、後々もっと深い政治不信の火種にならないか心配です。小泉氏が善良な政治家であるとしても、客観的には守旧的勢力の隠れ蓑として使われているに過ぎません。主観と客観とのズレがこれほど顕著な例も珍しいと思います。政治の劇場化がもたらす危険な流れを見抜き、冷静な判断を求めるのが報道機関の役割だと思います。国民も、他力本願を脱し、自らの手で未来を築く気概を持たなければ、真の民主主義を手に入れることは出来ないと思います。


背後霊としての自民党 (2001/06/13)

 小泉政権の最大の罪は、国民が選挙で政権を支持したとき、背後の守旧派に栄養分を与える結果になるという矛盾を抱えたまま選挙で内閣の信を問おうとするところです。熱狂した国民が背後霊と化した自民党の姿を見ることなく小泉氏を支持することにより、日本の政治を10年遅らせることになる可能性があります。小泉氏の人気にはすがるが、指示に従って派閥を離脱する者は極わずかです。自民党の候補者が、小泉内閣を選挙向け内閣であると考えていることが良く分かります。国民の錯誤による意思表示によって国会の勢力図が塗り替えられるとすれば極めて残念です。小泉氏が本当に日本を変えるつもりなら、民主党、自由党に呼びかけて大連立を組み、その後、路線の違いを明確にして分裂させることを考えるべきです。そのくらいの大技が決まらないと日本は沈没すると思います。


日本はアメリカの岡っ引きでいいのか (2001/09/30)

 テレビ朝日、サンデープロジェクト(9月30日)の党首討論で、小沢一郎氏の意見が一番説得力がありました。同時多発テロへの国際社会の対応が武力の行使に至るとすれば(後方支援も戦闘と一体のものです)、これに日本が加わるためには、少なくとも集団的自衛権の行使を認める見解を前提としなければ説明が付きません。政府は従来の憲法解釈を変更しなければなりません。なし崩しにアメリカに追随するのでは無原則きわまりない話であり、「アメリカの岡っ引き」でしかありません。
 政府は、まともな国家でありたいのであれば、従来の憲法解釈を変更し、国連決議を要求し、国連決議を経た後に国連軍に参加すべきです。その後、解釈改憲であることの疑念を払拭するために、憲法改正案を国民に提示し、然るべき時期に憲法改正を決する国民投票をするのが憲政の常道でしょう。その際、衆議院は解散するのが自然です。この程度の決断も出来ないのに、自衛隊派遣などを口にすべきではありません。自分たちが政権に恋々としながら、自衛隊員には命を賭けさせるのは、卑怯、卑劣という以外ありません。


功なり名遂げて・・・ (2001/01/15)

 
「功なり名遂げて身退くは天の道なり」と「老子」にあることは有名です。事業を大成し、その功名を遂げたならば、潔く引退して後進に道を譲るのが天の理にかなった生き方であるということです。翻って、日本の政界を眺めると、この道を大きく踏み外している方が目に付きます。古希をとうに過ぎた総理経験者が、後進に道を譲ることなく、国を憂うと称して国会議員で居続けようとするのは老醜という表現では尽くせない醜さがあります。ある程度見識のある実力者であれば、国会議員を辞めても人が意見を求めに寄ってくるはずです。それでは飽きたらず地位を求めるのは、どの様な神経なのか理解に苦しみます。

 成人式で荒れる間抜けな若者を叱る前に、成仏しきれない醜い老人の自己顕示の有り様の滑稽さを指摘したいと思います。


憲法第9条 (2002/01/28)

 戦争を放棄し、戦力不保持を明記している憲法第9条については、様々な議論があります。私は、憲法改正をすべきだと考えます。しかし、それには前提があります。戦前への反省です。「大日本帝国」は何故滅びたのかということへの反省です。ラッキーにも、我が国は戦争を仕掛けた相手方に助けられ、奇跡の復興を遂げたため、国が滅んだことへの反省をする機会がありませんでした。アジア諸国への侵略についての反省については、繰り返し求められ、反省する振りをしているので、それなりに考える機会がありました。しかし、「亡国」への反省はなされていません。このことは、侵略への反省と同様、避けるべきではないと思います。

  「亡国」の原因の重要な要素として、政治が官僚システムを統制できなかったことが挙げられます。戦前は、軍部の独走を許しました。戦後は、「文官」が支配し、特に経済官僚に政治が従属してきました。バブル崩壊後の経済失政に際しては、大蔵官僚の能力不足が露呈されたにもかかわらず、政治が舵取りを出来ず仕舞いでした。現在、外務官僚が大臣無視の態度を顕わにしているにもかかわらず、小泉総理は傍観者以上の態度を取ることがありません。官僚機構に踏み込む気概が全くないにもかかわらず、「聖域なき構造改革」などという欺瞞的キャッチフレーズを連発する無責任にはあきれますが、それ以上に、官僚に屈服する政治姿勢に終始する政権しか持てない状況で、「軍」を正式に認めることが出来るのかという根本的疑問を持つべきです。「令外の官」である自衛隊を黙認する危険と、官僚機構を統制できない政治に「軍」を委ねる危険との比較の問題です。私は、志の低いブローカー政治しかできない自民党支配の継続を前提とした改憲は、官僚機構への従属により「亡国」への道を歩む危険が大であると考えます。自民党に改憲論者が多いことは承知しています。しかし、彼らの手による改憲は亡国への道であると考えます。


大岡裁き (2002/02/01)

 悪代官(鈴木氏)が手下の岡っ引き(野上氏)と組んで、町人(NGOの大西氏)を虐めていたら、じゃじゃ馬の没落大名の娘(田中氏)が出てきて、証拠をつかんだと言って訴えたところ、言った言わないの話になり、南町奉行は、「喧嘩両成敗」「三方一両損」などと訳の分からないことを言って、悪代官も、岡っ引きも、じゃじゃ馬娘も全員処罰した。事実は不明のままだった・・・・。しかも、悪代官は別の部署に回っただけだった・・・。この話を聞いた江戸の町民は奉行所に石を投げて怒った。

 これが今回の田中外相解任劇についての大雑把なたとえ話です。「俺たちが昔から見てきた時代劇と違うじゃないか・・・こんな不条理があるか」という思いが国中に駆けめぐりました。素朴な正義の観念から程遠い解決だったということです。「真相」を曖昧にすることこそが従来の自民党政治の特徴だったのであり、この手法と決別できなければ、この国の体質を変えることは不可能であると思います。特に、今回の場合、族議員と官僚機構との癒着体質がどの様なものであったかを検証する絶好の機会だっただけに、官僚機構や自民党に過度の配慮をしたことが鮮やかに浮かび上がって来たのだと思います。返り血を浴びる気迫もないのに改革など出来ません。8月13日の靖国参拝前倒しについても、外国の内政干渉を排する気概を持てば道は開けたはずです。「構造改革」での「抵抗勢力」とのバトルもプロレスまがいの「八百長」だと思いますが、従来支持していた多数の国民から見ても、そうとしか写らなくなってくるでしょう。


野党の責任 (2002/02/14)

 小泉内閣の「構造改革」もようやく色褪せてきた感があります。「本能寺」に兵を向けようとしない似非改革者・カリスマペテン師・小泉純一郎に引導を渡すのが野党の役割です。「本能寺」とは、1940年体制です。官僚主導の体制と決別しない限りこの国は「失われた10年」どころか「衰退の1000年」に突入することになりかねません。
 野党については、本気で政権を取りたいのなら、地方選挙での相乗りを直ちに止めるべきです。地方にはそれぞれの地域の特殊性があります。もちろん、そのことは十分考慮すべきです。しかし、知事選挙、中核都市以上の首長選挙では独自の候補を出すべきです。候補を出せなければ、潔く「棄権」すべきであって、自民党との相乗りなどという見苦しいことは慎むべきです。都道府県や政令指定都市・中核都市や「県都」は、言ってみれば、「上場企業」であり、政党が公然としのぎを削る場であるべきです。そのことを野党党首にお願いしたいと思います。


官僚政治 (2001/02/21)

  田中真紀子元外相に「スカートを踏む男」と言われた小泉氏の政治は、硬直した官僚政治と言うべきものだと思います。各地方自治体の来年度予算も超緊縮型であり、景気の悪化をさらに深刻化する可能性を秘めています。そうかと言って、単なる財政出動では従来型の公共事業中心のバラマキになってしまいます。不必要なダムに力を入れるなど旧態依然でありながら、しかも、緊縮という、何の夢もないメリハリもさほどない予算のあり方には失望を禁じ得ません。全てが官僚のシナリオに沿っているだけです。自分で考えることに疲れたということかも知れません。

  今、日本の将来にとって一番必要なことは、経済敗戦の責任を明確にして官僚主導体制を一新することです。本庁課長級以上を全員「清算事業団」に出向してもらい、課長補佐級以下プラス民間人の起用で機構を革命的に改めることが必要だと思います。加えて、中央集権の仕組みを改め、道州制により地方主権を確立すべきです。その際、「清算事業団」の人材を地方がセレクトして再雇用する方法があります。希望があれば、課長級以上に限定せず「事業団」に出向してもらえばいいと思います。

  小泉氏が頼みとする官僚機構それ自体が最大のガン細胞であって、このガン細胞の除去なくして日本の再生はないと思います。地方のボンクラ自治体を騙すだけの合併騒ぎをしているときではないと思います。


小泉純一郎という人物 (2001/02/25)

 小泉氏が自民党総裁になって以来、この人物に不信の念を持ってきました。自民党という組織に依拠して前代未聞の改革をやろうというのは、余程綿密な計画を持ち、優秀なスタッフを従えて、満を持して登場したケースか、本人が天才的な人物か、さもなければペテン師なのか、思い付きだけの口先男か、いずれかであると思います。自民党で1年も国会議員をやれば、この党は良くできた骨抜き組織であるということが分かるはずです。なにかやろうとしても、手続きを踏む間に換骨奪胎してしまう為に各部会があるのです。そのことが分からずに、「改革」を叫んでも、アリ地獄に落ちるような思いをするだけです。
  これまでの経緯を見ると、総裁選以前から綿密な計画を持っていた訳ではないし、優秀なスタッフを有していた訳でもありませんでした。もしそうであったなら、半年で画期的な成果を上げ得たと思います(抵抗に遭えば解散・総選挙が出来ました)。どう見ても、小泉氏は天才ではなさそうであり、結局、ペテン師か、口先男かどちらかであると判断するしかないと思います。田中真紀子氏は、そのことに気が付いたのだと思います。痛みだけが伴う、官僚のシナリオ通りの「改革」が小泉改革であるということです。


松山市議会の定数削減は「前進」か? (2002/03/02)

  愛媛県・松山市議会は、定数を48から46に削減する条例案を賛成多数で可決しました。地方自治法の「改正」により、来年1月に施行されると松山市の条例より法律上の定数の方が少なくなるからです。ただし、従来の定数で議員が選ばれても「違法」ではありません。本日の愛媛新聞は、記事の解説に「市民から批判受け前進」との見出しを付けています。これは、「前進」なのでしょうか。くだらない連中の数が減って清々するとでも言いたいのでしょうか。民間企業のリストラになぞらえて考える向きもあるようです。しかし、代表者の数が減ることは、民主主義のリストラであると思います。市民が市政に参加する窓口が減るのです。松山市で市議会議員になるには、前回の選挙で2607票必要でした。前回の46位は2765票です。百数十票の違いがあります。民意が市政に反映する筋道から考えると、パイプが狭まったのです。もし、今回の議決に対して市民が賛成するとすれば、主権者が自分の首を絞めて喜んでいるということになります。

  国会議員の定数削減については、別の考えが必要です。原則は上記の通りですが、国の権限をどうするのかの問題が絡むからです。私は、地方主権を確立し、国の権限を国防・外交および地方間の調整に限るべきであると考えます。そうだとすれば、国会議員の定数は削減すべきかも知れません。従来国でやっていた議論のほとんどを地方でやるようになるからです。

  今回の議員定数の問題でもう一つ指摘したいのは、国の法律を無条件で上位のものとする考え方の是非です。地方自治体の議員定数を何故「法律」で決めるのですか。地方の連中に任せると訳の分からないことをするから国で決めてやろうと考えることが、「地方自治の本旨」に合致するのでしょうか。地方自治法が地方自治をがんじがらめにしており、地方自治の可能性を狭めているのではないでしょうか。この点の指摘を報道機関にして欲しいのです。我々は、中央盲従の発想から決別すべきだと思います。反論があればお聞かせ願いたい。


辻元氏の疑惑と宗男氏の疑惑はどう違うか (2002/03/23)

 与野党の疑惑合戦で「どっちもどっち」というような理解で政治への失望感が出てくる可能性があります。このことが強く懸念されます。しかし、本質を見極めるべきです。辻元清美氏の場合は、疑惑が事実とすれば、キセル乗車の感覚に近いと思います。誘惑に負けたという誰しも陥りがちなことであって、本人に犯罪者としての反社会的な要素はないのですが、刑法上は犯罪と認定される可能性があります。 

 これに対し、鈴木宗男氏の場合は、国会議員の権力を最大限活用しての反国民的・反国家的な行為です。一連の疑惑の中で、法律に違反するケースと、そうでないケースとがあります。しかし、法律に違反したかどうかより、税金を環流させ、自己の利益を図るために政治家をやっていたのではないかと思われるところが問われるべきです。誘惑に負けたというのと、政治家を儲かる商売としていたというところが根本的に違うのです。鈴木氏についても、自己の利益を図ったのではないとの弁明がなされる余地があります。他の政治家や自民党に献金したのであって自分だけが儲けようとしたのではないというのです。しかし、お金で自己の地位を形成すること自体が利益であり、お金で地位を買うという政治スタイルの一環をなすものとして、そのこと自体が批判されるべきだと思います。
 今回の騒動で、議員個人の情報を収集し、何時でも恫喝できるような仕掛けを施すことにより、多くの議員の口を塞ぐことができるということが明らかになりました。辻元氏の場合は、あまりに嫌われていたので、猶予期間がなかったということなのでしょう。舌鋒鋭かった議員の角が取れたときの方が要注意です(裏取引の可能性あり)。それにしても、自民党幹部の粒の小ささには失望しますし、心根の卑しさを感じます。それとともに、辻元清美氏、加藤紘一氏、鈴木宗男氏の全ての疑惑について、雪印食品などに見られた不祥事と同様、「業界の常識は世間の非常識」ということを肝に銘じたいと思います。


合併と地名について (2002/03/27)
 
 民俗研究家ら約250人が加盟する民間団体の日本地名研究所(川崎市、谷川健一所長)が、合併で生まれる市町村名について、安易な命名が横行しており、現状を警告するという内容の声明文を発表したとの報道がありました。地名は日本の伝統文化の根幹をなすものであり、合併後の名前をひらがな書きにしたり、北や南などの方位を冠したりする命名を憂慮しています。「日本人の風土感覚を狂わせる重大な問題をはらんでいる」と指摘。さいたま市、東京都あきる野市、西東京市などを好ましくない例として挙げています。

  地名を安易に決めているのは、合併についての姿勢が安易だからだと思います。合併すれば様々な恩典があり、合併しないと損だというさもしい気持ちが地名の決定にも表れているのでしょう。


有事の法制度 (2002/05/06)
 
  武力攻撃事態法案等の有事立法が話題になっています。有事を想定することは必要です。大規模災害を含め、自衛隊が、如何なる事態において、どの様な態様で出動し、国民の権利にどの様な制約が加わるのかを想定し議論する必要があります。しかし、アメリカの要請を受けて、慌てて法律を作るという態度は、主権国家のあり方として問題があります。1つの会期で強引に決めるのではなく、数年掛けて1条項ずつ吟味し、抜かりのない法律に仕上げるべきです。政府は、国会に下駄を預けても良いのではないでしょうか。国会(野党)も政府の提案を廃案に追い込むという姿勢ではなく、より遺漏のない制度に仕上げるべく、継続して審議すべきではないでしょうか。
 有事法制は、周辺諸国の警戒心に火を付け、却って安全保障上憂慮すべき事態を招く懸念もあります。そのことを織り込みつつ、あらゆる事態において国民の命と暮らしを護るという政治の第一義的な責任を果たして頂きたいと思います。自民党は、安全保障を口にするにもかかわらず、国民世論を見て、自己の政権維持に不都合と見ると問題を先送りしてきました。このような卑怯な態度を取るべきではありません。政権を失っても、言うべきは言うという態度であるべきです。野党も、「有事法制は戦争への道」といったワンパターンのキャンペーンを張ることなく、現実に即した議論をすべきだと思います。あまりに問題を単純化しすぎると、思考停止に陥り、現実には何の力にもならないことになりかねません。「オオカミ少年」と言われても仕方ないくらい同じパターンの反対論を展開し、同じように敗北してきた歴史を振り返るべきでしょう。有事などあってはならないと言って、有事を考えないようにするといったスタンスで国民を納得させることは出来ないと思います。
 それにしても、自民党は、狂牛病や薬害エイズのように、あってはならない事態(有事)への対策を打たずに平気でいられる無責任な官僚機構をコントロールできない無能政党であるにもかかわらず、武力組織をコントロールしなければならない有事法制の必要性を主張するのはどういう神経なのでしょうか。主権国家の責任政党としてはいささか心許ない政党だと思います。「大丈夫なのか」「能力以上の問題ではないのか」というのが率直な感想です。


地方議員による有事法制反対の運動 (2002/05/16)

「有事法制に反対する地方自治体議員・共同アピール」の賛同人になってください、というメールをいただきました。
趣旨は、
『 今国会に提出されている有事関連3法案が、市民生活・自治体・労働者を戦時動員する重大な法案であり、自治体に対する説明はほぼ皆無で、国会審議でも非常にいいかげんな内容である。地方自治に責任を負う自治体議員の立場から声を上げようと、「地方自治体議員の共同アピール」運動を立ち上げた。 地方分権の流れに逆行する動きに対して、さらに地方自治体の中から廃案に追い込む動きを広げていきたいと考えている・・』
というものです。 

これに対する私の返事を以下に掲載します。


申し訳ありませんが、アピールには参加できません。

私は、「有事」を考えることには賛成の立場です。

「あってはならないこと」は考えないようにしよう、見ないようにしようという発想は、思考停止を生み、結果として無責任な態度になると思います。

官僚達に危機に対する感受性や想像力が欠如していたことが、薬害エイズの問題、狂牛病問題、そして、外務省の無様な対応の原因になっています。

国民の命と暮らしを護ることが政治の第一の任務だとすれば、あらゆる事態を想定しておくことが政治の重要な役割だと思います。我が国の政治の致命的欠陥は、あらかじめ、あらゆることを想定しておくという作業を日常的にすることをせず、「外圧」や突発的な状況に流されて、泥縄式に対応することにあると思います。

私は、自民党の提案に賛成ではありません。米国に追随するしか戦略を持たず、プライドのかけらもない外交姿勢の延長線上に今回の有事立法の提案があることは、国民として残念の極みです。国会が、自民党サイドの提案をたたき台にして、真に有事を想定したと言える法案に仕上げていただきたいと考えています。継続審議をし、数年
掛けても構わないと思います。拙速な立法には反対です。

太平洋戦争に対する反省も必要です。「侵略」への反省だけではなく、「亡国」への反省も必要だと考えます。軍部を操縦できない国家が国家戦略を誤り、自殺行為をすることにより、国民に多大な迷惑を掛けたことへの反省もすべきです。現在の日本の政治は、官僚機構を操縦することが出来ていません。官僚機構を操縦できない国家が有事を考えることは、「キレやすい」少年に刃物を持たすような危うさがあります。官僚機構を国民の意思で操縦できる真の民主国家になることが先決だと思います。「小泉改革」が成功しないのも、政官もたれ合いの中で、内閣が官僚機構に太刀打ちできないからだと思います。「政治」以前の状況が継続中なのです。

有事→戦争→人権侵害(悲惨な結果)というだけでは国民を説得しきれないと思います。とんでもない事態が起こり、国民が憤激するような状況になれば、安直な平和主義は吹き飛ばされることもあり得ます。結果として、政治による「軍部」のコントロールを放棄し、暴走への歯止めを欠くことになりかねません。アピール文の中で、財産権を侵害されるから有事法制はいけないという趣旨の部分があります。国民の義務を考えるのが嫌で、権利のみの発想で戦争反対を叫ぶ人は、結局のところ、平和と民主主義にぶら下がっているだけの人達ではないでしょうか。私は、歴史上血を流して権利を「生産」した先輩達への尊敬の念を持ちますが、単なる権利の「消費者」であってはならないと思います。責任ある国民として、我が国の政治と行政とが無責任体制であり、真に民主主義国家の体をなしていないことを共に憂いたいと思います。

地方自治においても、「ぶらさがり自治」が継続しています。権限・財源で中央依存というだけでなく、発想の面でも中央依存ではないでしょうか。自分の頭でものを考え、地方発の「平和的生存権」を構築したいものです。

御提案の趣旨に半分程度は共感しています。皆様の御健闘をお祈りしています。


合併と議員の覚悟 (2002/06/03)

 市町村が新設合併をすると、首長は失職し合併後50日以内に選挙が行われます。これに対し、議員の場合は在任特例制度があり、合併後も最長2年間その地位に留まることが出来ます。また、定数特例があり、合併時の選挙の場合は法定数の倍の定数が認められます。私は、在任特例制度は不当であると思います。新しい市になるのなら、新しい首長と共に新しい議員が選挙で選ばれなければなりません。ここを曖昧にしてしまうと、極めて不徹底な合併になってしまいます。我が身は安泰な議員が職員や住民にのみ痛みを伴う提案を出来なくなるからです。定数特例については、法律で定数を決めること自体に反対であり、住民参加の門戸を広げる意味で定数は多い方がよいと考えています。しかし、合併時のみ定数の特例を認めるのには反対です。既得権益の保護ないしは、議員の懐柔策に過ぎないからです。

 合併反対論者が妙なことを言うと思われるかも知れません。私は、地域の将来にとって今回の合併は失敗になる公算が大きいし、また、地方自治の敗北だと考えます。しかし、議員として、最善の策が駄目なら、次善の策を提示する義務があります。やるなら、引き締まった合併にすべきです。私たちの地域では合併の範囲は確定していませんが、住民アンケートでも賛成が多く、議員レベルでも賛成多数です。この状況下では、より良い合併のあり方を示すことも必要だと思います。
  
 議員の年金が保障され、またはアップするとか、新人が出にくくなり現職が数年間安泰でいられるとかいうような、議員への「合法的な賄賂」を貰わないという決意を各議員が示すべきでしょう。我が地域で平成17年に合併があると、(伊予市の場合)来年1月の選挙で選ばれても2年程度で合併となります。この段階で議会を解散して法定数の定員で選挙を行えば、来年当選しても2年しか議員でいられなくなり、新しい市での選挙で当選するには従来の倍の得票が必要となり、これまで誰も取ったことのない票数での戦いになります。議員が本気かどうかを試すには一番のリトマス試験紙になります。
  
 「あなたは、地域の将来を考えているのですか、自分の将来を考えているのですか」合併に対してどう考えるにせよ、議員の意見が保身を考えてのことなのかどうかが厳しく問われます。

 あくまで、「次善の策」です。念のため。


終戦記念日にあたって (2002/08/14)

<敗戦記念日> 
 1945年(昭和20年)8月15日 、大日本帝国は、米英等の連合国の提示するポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしました。
 この日は、「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」です。1931年の満州事変以降の我が国では、歴史上特筆される無責任体制が支配し、国民を何らの展望もない戦渦に巻き込み、最終局面としての太平洋戦争では、全く勝ち目のない対米戦争に突入することにより、破滅への道を突き進みました。

<しかたがなかったのか>   
 あの戦争は日本が米国等に追いつめられてやむなく立ち上がったのだとする考え方をする人もいます。しかし、負けると分かっている戦争に、何故国民を引っ張り込んだのでしょうか。軍の幹部で、米国と戦って勝てると思っていた人はほとんどいなかったそうです。それなのに、無謀な戦争をやめようとする国家意思は形成されませんでした。

<ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約>
 1922年のワシントン海軍軍縮条約で、主力艦の建造を10年間中止すること、主力艦の保有比率を米国・英国が5、日本3とすること等を定めました。
 これは、国力の比較から考えても、日本にとって有利な比率でした。米国の5分の3も主力艦があれば、西太平洋を守ることは充分可能です(米国には太平洋と大西洋とがあります)。外交能力さえあれば、心配する必要のない状況だったと言えます。
 1921年の軍事予算は一般歳出の50%でした。それが1924年には30%を下回りました(ちなみに、現在の防衛関係予算は一般歳出の6%、GDPの1%です)。
 このような流れに対して、軍部には不満が蓄積していました。1930年のロンドン海軍軍縮条約で、浜口雄幸内閣は、補助艦の保有比率について、海軍が主張していた対米英10対7の要求を下回る10対6.975の比率を受け入れました。僅かな譲歩です。
 しかし、これが大問題になりました。海軍は、海軍軍令部の反対を押し切って条約を締結したのは、天皇の統帥権を侵したものだとして国家主義団体等とともに政府攻撃をしました(統帥権干犯問題)。このような雰囲気の中で、浜口首相は右翼の青年に狙撃され、翌年死亡しました。
 
<合理的な国家意思形成が出来なかった戦前の歴史>
 陸軍に比べて理性的であったと言われる海軍においてすら、このような有り様でした。軍縮条約が終了した後は、国力がかけ離れていたので、あっと言う間に建艦競争で米国に大差を付けられました。軍縮は日本に有利だったのです。今なら、誰が考えても分かるような話が通用しなかった時代があったのだということを、胸に深く刻んでおきたいものです。
 何故、合理的な国家意思を形成できなかったのでしょうか。何故、道具であるべき軍隊が政府を振り回すことが出来たのでしょうか。この点での真摯な反省がなければ、この国は何度でも同じ間違いをするでしょう。
 不良債権問題、狂牛病問題、薬害エイズ問題等々の問題が山積する今日、「第二の敗戦」「失われた10年」という言葉が使われることがあります。今こそ、歴史(特に20世紀前半)に学ぶことが必要ではないでしょうか。

<扶桑社の歴史教科書>
 扶桑社の歴史教科書採択問題が話題になっています。この本は、読み物としては面白いものです。
 扶桑社の教科書は、歴史を学ぶことが、今の基準から見て過去の不正や不公平を裁いたりすることではなく、過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があったと主張します。
 その通りだと思います。しかし、それは歴史の彼方の出来事については妥当するとしても、現代社会およびこれからの社会を考える為の参考として歴史を考える場合には、有害な発想になりかねません。
 扶桑社の教科書は、太平洋戦争について、「しかたがなかった」と言っているように読めます。むしろ、アジアの人達に勇気を与えたと評価しています。しかし、それで歴史を教訓に出来るでしょうか。
 太平洋戦争では、「大本営発表」という名の粉飾が横行した結果、軍部自体が正確な戦局を掴めなくなりました。
 不良債権問題で、橋本内閣は正確な不良債権額についての情報を知らされませんでした。太平洋戦争時と酷似しています。

<散って逝った英霊達に>
 自分が命を捨てるのは、国のため、父母のため、弟妹たちのためと考えて、若い命を犠牲にした人達が多数います(勿論、戦争の被害にあった方々、日本が侵略した国々で不条理な扱いを受けた方々も多数います)。
 多くの人達の犠牲の上に成り立っている現在の平和を守ること、合理的な国家意思を形成できる政治を実現すること。これが、散っていった英霊達に、我々が、今、誓うべきことではないでしょうか。


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