「日米対決」と石原莞爾
マーク・R・ピーティ著 大塚健洋、他訳
1993年1月25日発行 税込価格 \10,185
A5判 並製 458頁 ISBN4-88636-062-9 C0095
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序文
石原莞爾はその生涯を通して、大日本帝国の矛盾を数多く示している。教育勅語が発布される前年、つまり、明治憲法が発布された年に生を受けたので、彼の教育や訓練や思考は、軍事と戦争に、そして、略奪的で脅威的な「西洋」を日本が最終的に支配することに、集中的に向けられた。日本の指導する東亜連盟という彼のビジョンが、満州事変に火を点じ、それが大陸での五年戦争へとつながった。しかし、彼は平等な民族からなる「東亜」をロマソチックに夢想し、満州国と中国における帝国陸承と官僚の政策を非難した。戦史家、戦争理論家として、彼は科学技術によって勝敗が決する究極の終末論的な「最終戦争」が起こると、信ずるようになった。ところが、日本社会が都市化と工業化へ向けて不可逆的変化を始めようという矢先、一九四九年に彼はその生を終えたが、その時、農村への回帰を訴えていたのである。成年期のほとんどの間、彼はソ連が日本を直接脅かす危険性を感じ、軍事的対決が避けられないと信じていた。だが、彼の死後四〇年を経て、冷戦の終結とソヴィエト帝国の解体によって、そうした恐怖は歴史の屑籠へと消え去った。
石原は「軍人」、「軍国主義者」、「帝国主義者」と言われるが、彼の経歴や個件を見ると、至るところそうした規定にあてはまらないことばかりである。石原の生涯をマーク・ピーティ氏は巧みに論じているので、読者は大日本帝国に特有の多くの事柄の定義や説明を、考え直さざるをえないであろう。
石原は、日本を太平洋戦争と敗戦という悲劇に導いた重大事件の中心にいた。彼は一九三一年の満州事変の計画と実行の中心であり、松岡洋右が国際連盟から日本代表団を引き上げた時、ジュネーヴにいた。また、二・二六事件鎮圧の中心人物でもあった。参謀本部の有力な地位に就いて、一九三七年には日中戦争の勃発を阻止し、その拡大を防ごうと戦った。自分に同意しない人物の意見を軽蔑し、荒波が立つような仕方で無視したので、彼は行く先々で敵に出会った。石原は最高次元で政策を支配しようと努力した。しかし、それは林内閣と共に失敗に終わった。その後、彼は急カーブを描くように失脚していったので、日本降伏後の極東国際軍事裁判では起訴を免れた。思想的、理論的テーマと年代のバランスをとるのは容易なことではない。この点で、ピーティ教授の本書は、世界史におけるあの宿命的な時代を、極めて力強く扱うのに成功した重要な書物の一つであろう。今日読み返してみて、幾つかのテーマについて感銘を受けた。
そのなかでも、第一は何といっても、石原の個性と性格の力である。我々は日本社会における協力と規律の重要性を、毎日聞かされている。通常軍事組織は、逸脱や、かんしゃくや怒りを公然と示すことを、決して許さないものである。とすると、上司を面と向かって非難し、公然と反対することも辞さない人物、たとえば、石原のような他人を苛立たせる人間が、着実に昇進し権力を握ったことを、一体どのように理解すればよいのだろうか。至るところ皮肉だらけである。一九三一年の陰謀家は、一九三七年には、部下が自己の意志を切り崩そうと企てているのを知る。一大佐が植えた「独断専行」の種が、少将の首を締める有害な喪章となって戻ってきたのである。だが、石原が示した野蛮さと強情さにもかかわらず、兵営中心の彼の生き方も印象的である。彼にもし重要な非軍事的関心や私的領域、家族があったとしても、我々は全くそれを知ることはできない。
第二に大きく印象に残っているのは、日本の伝統と過去の要素が、この二〇世紀の軍人を内から突き動かしている点である。彼は日蓮のことをいつも忘れたかった。そのために、危機に際して自分自身を予言者や殉教者であると考えたほどである。更に、社会工学的事業を始めようとして、国内的及び国際的次元で、彼は時に興奮を誘うほどの規模で準備を行った。それは七世紀の大化時代の計画者や、日本と東アジアに新たた構造を打ち立てようとした一九世紀の空想家を思わせる。
石原の賛美者たちにとって、彼がどうして予言者でありえたのか、理解するのはたやすい。また、マッカーサー司令部宛の覚書で打ち出された農業国家日本について、彼が最後に詔ったことが、日本の国民性と伝統に対する最終的な訴えであったことを、理解することも簡単である。
しかしながら、ピーティ教授はこれに十分注意を払いながらも、そこに止まらず、石原の思想と生涯の限界、矛盾・欠点を示してやまない。石原は権力の座にある時、日木の隣国がそのリーダーシップの論理を理解できない場合、最終的決定者として常に軍事力の行使を控えた。石原は陸軍の愚かな冒険と、アジア大陸の占領地域に対する露骨な支配を罵倒した。だが、その際、大陸征服のために彼が計画した赤裸々な侵略が、同様の結果に陥ったはずであることを、石原は見落としている。一九三七年に、支那派遣軍指揮官たちの勝手な行動を抑えようとして、石原が必死に努力をした時、彼らから石原自身が一九三一年に行ったやり方を思い出せ、と指摘される始末であった。彼が苛立ってますます喧嘩腰となり、ライバル集団が成長するにつれて、参謀本部内の支持者は次第に姿を消し、結局、石原は孤立して追放される。その意味で、石原は彼のかかわったことをすべて台無しにしてしまったかのように思われる。
とはいうものの、ある点で、石原は予言者の色彩があったかもしれない。一九四五年に日本が降伏した時、彼は「敗戦の日に東亜連盟員に訴う」を作成し、将来の戦争は、科学的戦争であり、研究所で開発された決戦平気で戦われ、組織された軍事力を全く必要としない」(本文、二六七頁)ので、動員解除と非武装が日本の利点となると考えた。元軍人である石原は、科学技術が日本の軍国主義的再生を根絶する役割を果たす点で、そうした強みとなると思った。しかし、石原が予想した科学技術は、平和で民主的な国に収入と安全をもたらし、石原と彼の世代が遂行した政策の犠牲者に、現代的製品を供給することによって、彼が夢見た以上に、実際日本国民に素晴らしい貢献をした。
本書は石原莞爾の生涯を巧みに語った素晴らしい物語である。日本の読者が、翻訳を通じて本書を読むことができることを、私はうれしく思う。
マリウス.B.ジャソセン
(プリンストン大学)
日本語版への序文
私が石原莞爾の生涯と思想を論じたプリンストン大学の博士論文の調査を終えたのは、一〇年前のことであった。その研究は一九七五年にプリンストン大学出版会から刊行されたが、このたび日本語版が出版されることになった。本書出版のために尽力された玉井禮一郎氏、並びに、出版社たまいらぼにお礼申し上げたい。
この仕事を終えてから今日に至るまで、私の関心は、日本帝国主義の歴史、ミクロネシアにおける日本の興亡、東南アジアヘの日本の進出、日本海軍の戦術と科学技術など、その他の問題へと移って行った。だが、これまで時間と思考を傾けた近代日本史上のテーマのなかでも、石原莞爾論に匹敵するほど私が心引かれたテーマはなかったのである。彼はあたかも流星のように、輝きながら日本政治の大空を飛び去り、あたかも流星のように、突然現れ瞬く問に姿を消した。従って、西洋では、彼の名前や一九三〇年代の流血事件での彼の影響力を、思い返す余裕を持った人はほとんど存在しなかった。日本でさえ、大日本帝国の数多くの矛盾を輝解しようとする日本人研究者の問では、石原は一九四九年に亡くたってから何十年間も、強烈な興味の対象となってきたにもかかわらず、彼の名は当時一般にはほとんど馴染みのないものであった。石原については、多くの素晴らしい伝記やそれ以上に洞察力あふれる論説や研究論文が、専門家によって書かれてきた。彼らは数多くの言い伝えや関連した公文書に通じているだけでなく、日本人として日本の政治文化をよく知っているので、その研究では、外国人である私などとてもなしえない、高度に洗練された分析を行うことが可能であった。この意味で、石原の同国人に対して、非常に複雑な一日本人の個性を、私が実際に説明できるだろうと期待するならば、僭越なことであるにちがいない。
だが、私はあえて次のような希望を抱いている。それは、私が他ならぬ日本の文化的伝統、近代日本の歴史的経験、日本の学界外にいるというまさにそのことの故に、本書では異なる視野に立った見方を述べることができるかもしれない。そして、それは日本の読者にとって、必ずしも無益ではないであろうということである。
いずれにせよ、石原莞爾選集を堂々刊行された「たまいらぼ」が、選集に続いて本書を出版されることに、心より敬意を表したい。
マーク・R・ピーティ
一九九二年三月二一日、 マサチューセッツ州ケンブリッジにて
はじめに
パール・ハーバーに至る日本の激動の一〇年を歴史的に評価する場合、第二次世界大戦での敗戦以降、「毀誉褒貶に満ちた」歴史学的手法がごく普通に用いられてきた。それによれば、この時代は軍国主義、超国家主義、ファシズムといった邪悪な勢力が、進歩的、民主主義的分子を追い詰め、徐々に屈服させていった時代ということになる。何が進歩的、民主主義的であるかは、自由主義者、社会主義者、共産主義者、それぞれ論者の立場によって異なるが、こうした歴史解釈は、明らかに苛酷な断罪であったにもかかわらず、戦争の勝者のみならず、敗者をも感情的に満足させた。なぜなら、そうすることによって勝者は白己満足し、敗者は今や権威を失墜した体制やイデオロギーに責任を転嫁できるからである。だが、それはあたり一面に立ち込める靄のような通念となって、一九三〇年代の日本の政治状況に対する我々の目を曇らせる一囚ともなったのである。マリウス・ジャンセンが述べたように、「我々は過去の細かな事実はよく知っているが、それが何を意味するのかということについてはほとんど知らない。薄気味悪い悪意に満ちた集団はあっても、我々が複雑さを理解しうる人物はほとんど登場しない」。過去一〇年問に発掘された多量の公文書によって、新たにこの泥沼から抜け出そうと試みる昭和史研究の道が開けたが、本書ではそれに従って、戦前期の重要かつ疑いなく最も複雑な人物の一人、大日本帝国陸軍将校石原莞爾を扱おうとするものである。
軍事史家、参謀将校、戦略家、思想家、謀略家、汎アジア主義者の肩書きを持つ石原莞爾は、次の三つの重要な時点で、昭和の日本の進路に深くかかわった。一九三一年の満州事変、一九三六年の二・二六裏件、一九三七年の日中戦争の悲惨な泥沼化が、それである。初めの二つの場合、彼は戦前の日本の運命を左右する事件の渦中で、中心的な役割を果たした。第三の場合、彼は舞台の中央にいたが、ドラマの進行に影響を与えるだけの力はなかった。そして、この事実は、それ自体、戦争と平和という問題に極めて車大な意味を投げかけている。
従来の欧米の研究では、石原が以上のような危うい歴史の岐路に現れたのをかいま見るだけで、彼がどうしてそこに到達したのか、実際にそれらの事件に対処した時の彼の態度や思考様式はいかなるものであったのか、こうしたことについてほとんど注意が払われたことはなかった。のみならず、彼の精巧かつ奇抜な思想体系についてもよく知られていない。二〇年もかけて構築されたこの思想体系は、軍の有力な中堅層、多くの指導的な文民官僚や政策立案者、様々なイデオローグや理想主義者など、広範な日本人を熱狂的に引きつけたのである。
従って本書では、特定の危機的局面における政策決定者としての石原の役割だけではなく、思想家としての石原と彼の認識、すなわち、戦争の本質をどう考えるか、いかにして戦争の準備を行うか、日本の国内構造とアジアにおける日本の地位をどのように見るか、といったことにも焦点を合わせるつもりである。筆者は石原のような重要人物の多面性を浮き彫りにすることによって、日本の戦前の指導者の迷宮のように錯綜した動機と態度を、更に明確にすることが可能であると信じている。また、それによって、日本の近代軍政史上の幾つかの大問題について、一層正確な理解をもたらすことができるのではないかという期待を持って、この研究に取り掛かった。そのなかで主な問題を挙げると、二〇世紀前半における日本と西洋、とりわけアメリカ合衆国との対立の顕在化と、そうした対立のなかで日本が直面せざるをえなかった戦略的問題、工業上の問題、日本が自国のみならず他のアジア諸国、特に中国に対して有益な役割を見いだすという癒しがたいジレンマ、更には、一九三〇年代の日本の内外政策の説明として「軍国主義」が妥当かどうかという問題、軍中堅層による下克上が当時の軍の規律や政策決定を歪めたか否か、そして最後に、近代日本官僚制における異端者の運命が挙げられる。
極めて錯雑とした騒擾事件に生前直接関与しただけではなく、それに匹敵するほど重要かつ有意義な著作を残した歴史的人物を論じようとすれば、書き手は必ず特別な構成上の問題に直面する。
石原莞爾の生涯と思想を扱う時、そうした問題は特に厄介なものとなる。それには幾つかの理由があるが、なによりも、彼の思想と彼がかかわった一連の歴史的事件との間には、分かち難い関係があるからである。しかも、いかなる状況下で彼が事件の一翼を担ったのか、これは注目に値するほど十分ドラマチックで意味のあることである。こうした事情を考慮すると、石原の生涯と著作を年代順に論じていくのが適切であるように思われる。
ところが、同時に石原の思想はやや風変わりな樹木の構造に似ている。木の主根は戦争の科学的分析と日蓮信仰から得た啓示であり、年々成長していく幹は「最終戦争」という観念で、茂った枝が国防国家、昭和維新、そして東亜連盟という理念である。このような図式からすれば、主題別に論じた方が良いのではないかとも思われる。
筆者は二つの方法を折衷することにした。本書の全体的な骨組みは、年代順に四つに大別して、石原の人生の重要な時期を扱おうというものである。第一部は、理論を構想し始めた若き青年将校時代であり、第二部は、日本の満州征服のために働いた関東軍参謀将校の時代、第三部は、彼の権力と影響力が絶頂に達した参謀本部時代、そして第四部は、参謀本部を追放されてから一九四九年の死に至るまでの晩年である。しかし、各部には、その期における問題を主題別に慨説した章も含まれている。もっとも、「最終戦争」に関する第三章では、ある程度年代にとらわれずに論じた。この場合、他の若干の場合もそうであるが、石原が様々な時期に書いた論稿を並置した。このように関連文書を挟み込んだ箇所もあるが、石原の思想に対して一貫した説明を与えるために、それは認められると思う。
その結果、本書は単なる伝記でも純粋な思想研究でもない代物となった。それはむしろ、血生臭い昭和前期に立ち向かった、聡明で極めて異端的な一日本陸軍将校の思想と行動との相互作用を検討するものである。
書誌学的議論をするつもりはないが、この研究で用いた主な資料について一言触れておくことにしたい。本書のなかで石原の思想を扱った箇所は、彼自身の膨大な論稿に依拠した。これらは大雑把に言えば、二つの大きなカテゴリーに分かれる。第一は、石原がまだ現役の軍人であった時に書いた覚書、講義録、種々雑多な通信である。彼の戦争史の講義録と覚書はほとんど例外なく公的性格を持ち、生前には出版されなかったが、最近二冊の本にまとめられた。著名なアーキビストである角田順氏の編になる『戦争史論』と『国防論策』が、一九六七年に原書房から出版され、それらは共に『石原莞爾資料』として知られている。この二冊の書物は、本研究で決定的な役割を果たした。
石原の論稿のうちで第二のカテゴリーに入るのは、予備役となった一九四一年から一九四九年に亡くなるまでの間に、一般大衆向けに執筆あるいは講述した本、論文、記事、講演録である。それらのなかには彼の生前に出版されたものや、そうでないものもあるが、いずれにせよ、資料集にまとめられてはいない。彼が一市民として晩年に残した考察の記録は、このように膨大かつ四散してしまっており、筆者はかなり選択した上でそれを用いた。というのは、一つにはその多くが本研究にあまり関係のない問題を取り扱ったものであるからであり、二つには彼が現役の陸軍将校時代に既に練り上げ、公式の覚書を通して推し進めた着想を、一般の日本人向けに焼き直したにすぎないからである。
石原の経歴について、私は第一章の註(31)で引用した主要な伝記資料と、参考文献に掲げた様々な石原論に主として依拠した。
本書執筆に当たって賜ったご支援に対して、ここで感謝の意を表したい。まず指導教授のマリウス・ジャンセン氏に感謝しなければならない。プリンストン大学の大学院生として研究中、四年間、彼にはご指導ご鞭燵を賜った。本書はこの間に研究執筆した博士論文をベースにしたものである。当時ジャンセン氏は筆者を懇切に導き、激励して下さったが、それに優るとも劣らず、日本史の複雑な構造に関する独自の深い理解に基づいて、豊かな洞察を示して下さった。
コロンビア大学のジエームズ・モーリ教授にも、初めに特にお礼申し上げたい。彼は筆者がプリンストン大学で研究を始める前に、最初に本書のテーマを示唆されたのである。
本書の草稿を読んで、鋭い批評と思慮深い示唆を与えて下さった方々には、プリンストン大学のヘソリー・スミス教授、コロンビア大学のヒュー・ボートン教授、プリンストン大学のシリル・ブラック教授、一橋大学の細谷千博教授、プリンストン大学のジェームズ・リュー教授がおられる。東京経済大学の色川大吉教授、エルサレムのヘブライ大学のベンアミ・シロニー教授、パシフィック大学のレオナード・ハンフリーズ教授、日本興業銀行の湯川真人氏、ペンシルバニア州立大学のウォーレン・ハスラー教授、ハミルトン大学のエドウィン・B・リー教授からは皆、草稿の一部を読んで有益なコメントをいただいた。元岩波書店編集長で現在プリンストン大学の客員研究員である玉井乾介氏は、親身になって原稿をチェックし、日本語の表記を正して下さった。
プリンストン大学の歴史学部と東アジア研究学部からは、一九七一年夏の日本への研究旅費をいただいた。この場を借りてお礼申し上げたい。ペソシルベニア州立大学人文科学研究所からは、一九七三年夏から秋にかけて、原稿を修正しタイプするために、極めて豊富な研究助成金の提供を受けた。
日本で筆者の研究を助けて下さった方々のなかでは、特に古くからの友人である猪木正道氏に感謝したい。彼は防衛大学校校長として、防衛庁戦史室所蔵の関連資料の閲覧に便宜を計って下さった。同室長の島貫武治元大佐からも多大なご協力を得た。彼は参謀本部で石原の部下として働いた思い出を語って下さった。石原莞爾の生涯と業績について深い知識を持つという点では、太平洋の両岸を探しても、広島大学の五百旗頭真助教授を凌駕する研究者は見当らないだろう。彼は学者に必要な礼儀をはるかに超えて、自らの洞察を語り、数多くのあまり知られていない資料を提供して下さった。日本の軍事史一般、とりわけ石原の果たした役割についての屈指の専門家である大蔵省の秦郁彦氏は、多くの時間をさいて貴重な助言を与えて下さった。国立国会図書館の角田順氏は、既に述べたように、石原の軍事論を二冊本にまとめた方であるが、多忙ななか一日午前中の時間をさいて、細かく複雑な質問に答えていただいた。石原の盟友であり、東亜連盟の創立者の一人でもある木村武雄氏は、石原資料の収集に生涯をかけた田村和彦氏と同様に、数々の石原の稀らしい出版物を分けて下さった。石原が亡くなるまで暮らしていた山形県西山の家では、彼の弟の石原六郎氏のご助力によって、石原の生涯と経歴に関する様々な疑問を解くことができた。
本書に用いた写真や図表は、石原六郎氏、五百旗頭真氏、原書房、平凡社、UPIのご協力によるものである。
この研究の技術的問題で誰よりも日常的に力になってくれたのは、プリンストン大学ゲスト・オリエンタル図書館の職員であった。彼らは珍しい出版物を探索したり、日本語の文書の曖昧な表現を幾つか解読したり、多くの細かな、しかし不可欠な仕事を行ってくれた。そうしたたゆまぬ努力がなければ、この仕事は調査に困難を極めただろう。職員のなかでも、とりわけ館長のジェームズ・S・K・トゥーン氏、日本課課長のスーウォン・Y・キム氏、ヒサコ・シマダ氏、マリコ・シモムラ氏、ヤスコ・ワット氏、シンフェン・リュー氏にお礼申し上げたい。
アメリカ合衆国での資料収集に当たっては、議会図書館の東洋部日本課のキー・コバヤシ氏の惜しみない協力に謝意を表したい。
原稿のタイプでは、シャーリー・ニタハラ氏のお世話になった。彼女のプロ精神と入念な仕事ぶりに筆者は負うところが大きい。
最後に妻のアリスと三人の子供たちに感謝を捧げなければならない。筆者が政府の外交官という職を棄て、不安定な学者の道を選んだあの日以来、四年間の大学院での研究を通じて、そして新たな職に初めて就いた今日まで、彼らの愛情と忍耐とユーモアが筆者の心の支えであった。筆者は生涯をかけても彼らに報いることはできないと思う。
一九七四年一月一日
ペソシルベニア州パーク大学にて
M・R・P
目次
序文(マリウス・ジャンセン)
日本語版への序文
はじめに
目次
写真
第一部 戦争論の起源(一九一八年〜一九二八年)
第一章 日本陸軍(一九〇五年〜一九二五年)
賛美される日本陸軍(一九〇五年〜一九一五年)
逆境の日本軍(一九一五年〜一九二五年)
日本の新しい軍エリート
若き日の石原莞爾
第二章 空想的青年将校の肖像
戦争論の形成
アジア問題
国体問題
石原と日蓮仏教
石原と「日蓮主義」
日蓮の終末論と石原の最終戦争論
第三章 「最終戦争」
陸大講義
戦争の歴史的意味
将来の戦争
最終戦争に対する日本の準備
今日から見た最終戦争
第二部 関東軍参謀時代(一九二九年〜一九三二年)
第四章 満州征服
満州問題に関する三つの見解
満州における石原・板垣コンビの形成
満州問題と石原(一九二九年〜一九三一年)
征服戦略の立案
日本占領下の満州統治計画(一九二九年〜一九三一年)
解決の時機
「石原の戦だ」
石原と満州における軍事行動――動機と意味
第五章 満州建国――歪められた「民族協和」
満州独立――日本人居留民の見解
満州問題と日本の解決策
満州人のための満州?
満州国――「独立」の矛盾
石原と協和会
ひび割れ始めた汎アジア主義の理想
第三部 参謀本部時代(一九三五年〜一九三七年)
第六章 国防国家計画の試み
危機の一〇年の軍事戦略――見解の相違(一九三二年〜一九三五年)
国防――仙台からの展望
ソ連の挑戦への対抗策
国防調整の失敗
「戦争指導」と「宮崎機関」
五ケ年計画
国防国家理念の崩壊
第七章 維新、反乱、権力の幻想
農村不況と青年将校運動
連隊長の社会的関心
昭和維新の両義性
石原と二・二六事件
国防国家の政治的側面と満州派
軍民関係論
全体主義体制としての国防国家
権力の幻想
満州派の崩壊
第八章 時流に抗して――石原と日中戦争
南北における日本の軍事政策(一九三三年〜一九三五年)
中国に対する見方の変化(一九三五年〜一九三七年)
日中戦争前夜の日本陸軍
泥沼の瀬戸際――日中戦争勃発
参謀本部を去る石原
第四部 晩年(一九三七年〜一九四九年)
第九章 幻のアジア連盟(一九三七年〜一九四五年)
満州への帰還
東亜連盟の理念
東亜連盟運動
東亜連盟運動に対する弾圧
陸軍を去る石原
東亜連盟再考
第十章 理論的黄昏(一九四五年〜一九四九年)
石原と太平洋戦争
敗戦の予測
アメリカ軍によるパージ
[新日本の進路]
石原のイデオロギー的遺産
第十一章 結び
年表
解説(大塚健洋)
解説(玉井禮一郎)
註
参考文献
人名索引
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