食は運命を左右する
水野南北著 玉井禮一郎訳
2002年8月15日 第2刷発行 税込価格 \1,575
A5判 並製 160頁 ISBN4-88636-018-1 C0039
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水野南北略伝
水野南北の先祖は遠く人皇三十代敏達天皇にさかのぼり、その家系である小野家からは小野篁、小野道風、小野小町などが出ている。小野妹子から数えて六十七代目が小野文章で、水野南北の父である。南北の代に水野姓に変り、名は勝三郎忠良。
小野文章は、大阪の浄瑠璃小屋阿波座で芝居の脚本を書いていた座付作者であったが、南北が幼ないころ他界し、*孤児となった南北は、鍛冶屋だった叔父のもとにひきとられ幼名を鍵屋熊太といっていた。
〔注〕*釈尊は叔母に育てられ、イエス・キリストは養父に育てられ、マホメットも孤児であった。その他偉大な哲学者のほとんどが家庭的には恵まれていない。
熊太は十歳のころから飲酒をはじめ、喧嘩口論で生傷が絶えなかったという。十八歳のころ、酒代を稼ぐため犯罪を犯し、入牢したが、牢内で囚人と娑婆の人間とのあいだの人相に、きわだった差異のあることを発見し、観相に興味をもった。
出獄後、巷の易者に自分の相を観てもらったところ、剣難の相とあと一年の寿命を予言され、避難の方法は出家にあり、と教えられた。禅寺を訪れて弟子入りを志願した熊太に、住職はことわるつもりで、一年間、麦と大豆だけの食事を続けてきたら入門させようと約束した。
熊太は命惜しさの一念で沖仲仕をして暮しながら、麦と大豆を常食にして一年を送り、禅寺を訪れるまえに、くだんの易者に会うと、「剣難の相が消えた。なにか大きな功徳(くどく)を積んだにちがいない」とおどろき、熊太が食生活を改善したいきさつを話すと、「それが陰徳を積み、相まで変えたのだ」と自信をつけられた。そこで熊太は禅門に入るよりも観相家を志すべきだとして、諸国遍歴の旅へ出た。
南北が相学を志したのは二十一歳のころといわれ、人間の全身の相を学ぶために湯屋の三助となったり、死人の相をたしかめるため火葬場の隠亡(おんぼう)にまでなったという。南北の観相法は顔や手を見るだけでなく*全身を裸にしたといわれるが、これはそのころの修業の成果であろう。
〔注〕*中国医学の診断法も全身を裸にしたという。その診断法を四診という。
(1) 望診……神色・舌診・部分望診(2) 聞診……音声・気味(口気・汗気等)(3) 問診……家族歴・既応症・起病理症(4) 功診……脈診・按診(腹診・肌表・手足・胸腹・額部・臓穴)
しかし、従来の相学では百発百中というわけにはいかず、悩んだすえに伊勢皇大神宮に参詣し、断食・水ごりの荒行を修めた結果、「人の運は食にあり」という真理に想い到るのである。それには、伊勢外宮の祭神が豊受姫命(別名・御食津神)という、五穀や一切の食物をつかさどる神体であったことも手伝っている。
そして名古屋の宮宿、熱田神宮の近くに居を構え、観相家として一家をなし、晩年は皇室のひいきを受け、光格天皇の時代に、従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号をおくられたという。
また、南北という号も、
「相法に於て日本中祖の号を賜う。天命を恐れ、家名は我れ一代かぎり、子孫にこの相法を伝えず、門人に免ず」
としるしているように、法統を重視したといわれる。
*南北自身の相貌は(「背は低く顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく落ち込み、印堂は狭く眉は薄い。家続も狭く鼻は低く、顎骨は高く歯は短かく小さい、また足も小さい」とみずから書いているように貧相であるが、「人の運は食にあり」の大悟によって、「我れ衆人のために食を節す」と、一日に麦一合五勺、酒一合、米のものは餅すら食さず、副食は一汁一菜と食を慎しんだ結果、晩年は屋敷一丁四方倉七棟に及ぶ産をたしたという。
〔注〕*南北自身の人相所見=(1) 小さな口…愛情に欠ける(2) 背が低い…愛情に欠ける(3) 眼がけわしい…犯罪者(4) 眼がくぽむ…ひっこみ思案(5) 印堂がせまい…精神不安定(6) 眉がうすい…兄弟運がない・短命(7) 鼻がひくい…貧乏・短命(8) 歯が小さい…貧乏・短命(9) 足が小さい…賎しい・不健康。
南北の相法は*「血色気色流年法」という独特のもので、従来の宿命論的観相法を打ち破り、いかなる運命の星の下にある人も、神仏を崇敬し、修身努力すれば、宿命を転換できると説いた画期的なものである。
〔注〕*流年法とは、正確には「百歳運気流年法」といい、一歳から百歳までのうち何歳で運気が終り(死ぬ)となるかを論ずる観相法のこと。現代中国ではこの流年法が全盛である。水野南北の相法は日本においては独特であろうが、中国では珍らしくない。
南北いわく「天地自然の相を得ざる相者は我を見ること能わず。我を見ることを得ずして書を見るときは、その書我にありてその用をなさず、これ書を見ざるが如し。故に相者はまず我を知りて後人を相するが肝要である。人相、家相よくとも其家主、意定まらず、そのいとなみおこたる時は必ず家を破る」
これが南北の相学ないし人生哲学の要諦なのである。
南北の生年は宝暦七年(一七五七年)、没年は天保五年十一月十一日。享年七十八歳。
著書に、「南北相法十巻」「相法和解二巻」「秘伝華一巻」「修身録四巻」「皆帰玄論」「神相全篇精理解」「燕山相法」「相法対易弁論」各一巻(そのうち後の四書は未刊)など。また南北伝に『浪速人傑談』(安政二年、政田義彦著)がある。
目次
水野南北略伝
相法極意修身録 巻之一
相法極意抜粋自序
1 運命の吉凶は食で決まる
2 粗食の者は貧相でも幸運をつかむ
3 粗食でもときに大食すれば大凶
4 食事時間が不規則な者は吉相でも凶
5 食事量が一定していれば心身健全
6 美食をつづけると消化器系の病気になる
7 子なき相でも食を慎しめば跡つぎを得る
8 小食の者には死苦や長病がない
9 肉体労働者は大食をしてもよい
10 人格は飲食の慎しみによって決まる
11 厄年に難を避ける法
12 高齢者の肉食は害が少ない
13 子供の貧相・悪相は親の責任
14 家運が尽きていても減食で再興できる
15 吉相でも碁・将棋を好む者は出世しない
16 築山・泉水のある家は衰運に向う
相法極意修身録 巻之二
1 陰の男は大陰の妻をもとめる
2 万善万悪みな食を本(もと)とする
3 神官が貧しく僧侶が裕福なのはなぜ?
4 遊興放蕩も食を慎しめば許される
5 神への祈りをかなえる法
6 自分の食べる分を施すのが真の陰徳
7 身分の低い者が身分の高い者と親しくすると…
8 人相だけを論じてもあてにならなし
9 一粒を惜しむ者は一飯を余分に食す
10 食物を粗末にする者は成仏しない
11 相法の秘密は法華経にある
相法極意修身録 巻之三
1 毎朝昇る太陽を拝む長寿法
2 食欲がなければ食べるな
3 現世に食を慎しめば来世に果報を得る
4 食器の大小は身のほどに応じてきめる
5 精神を治めるために食を慎しむ仏法
6 貧乏人は金持ちの趣味をまねるな
7 夜なべは大凶、朝寝坊は貧窮短命
8 女性が吉相を自覚すれば凶相と変る
9 慎しみを守っていても天からためされることがある
10 衣・住も過ぎたるは凶
11 太陽の運行と不可分の運勢
12 朝早く起きればなぜ運がよくなるか
13 倹約は吉だが吝薔(けち)は凶
14 食を慎しめば気が開け、気が開けば運が開く
15 学ばなくて知る者、学んで知らぬ者
16 善人短命・悪人長命の理由
17 才気煥発の子を育てる心得
18 生命は不生不滅、無始無終である
19 人体を堅める塩の徳
相法極意修身録 巻之四
1 儒者(学者)かならずしも徳者ではない
2 万物即天地創造の神である
3 日本・中国・インドはともに神国である
4 神・儒・仏の三教の役
5 ただの大酒飲みではなかった李白
6 難病は粥(かゆ)で治せ
7 味バカは減食で治せ
8 一念・一業を貫ぬかない者は世に無益
9 神・儒・仏の三教に垣根はない
10 一年以上の余命があれば延寿できる
11 吉凶の根源を知らない観相家は「盗賊」
相法極意抜粋賊
監注者のことば(松原日治)
訳者あとがき(玉井禮一郎)
▼相法極意抜粋跋
先生の人を相するや肢体容貌を相せず、先ずその食を相す。先ずその食を相し而して後一心の善否得失、一世の浮顕沈隠を相す。件々一毫を失わず、なお止水影を照し、妍醜局別し、耋穉(てっち)を格断するが如し。夫れ食は天也、人にして一日この食を食せずば何んぞよくその天年を全からしめんや、蓋し食の多少を以て世の行芸を律するは先人未発の論なり、余また古語を今に徴すべきもの一二を集めて付す。尚雲顧君子の心得、躬行は日ならずして先生の徴する処を徴す
(湖南宗清謹跋)。
【注解】これは巻末に付せられた、弟子の手になるものと思われる跋文であるが、水野南北の観相法の真骨頂を簡潔にまとめている。すなわち、南北が観相するとき、世間の観相家がするように肢体容貌を相することは一切しなかった。その食事の作法や分量をたずねるだけで、その人の利害得失や一生の運命をト(うらな)って、一度も当たらなかったことがないという。この食の多少をもって人間の運命を占ない、その行動の全体の基準にするという発想は、前人未踏の分野であると讃嘆しているわけである。
易やト占の思想は、人間の運命が移ろいやすく易(かわ)りやすいことに根ざしてはいるものの、決定論的であり宿命論的に過ぎるきらいがある。しかし水野南北は、「天」という他力を認めながらも、「慎しみ」という自力によって宿命を変えられることを発見した点で、他力本願を喝破して、自他の二力による救済を唱えた、その世界における革命児であったといえる。
中国に「医食同源」ということばがあり、*「食(じき)は医なり」という格言もある。
*中国医学でいう食医に次の二義がある。(1) 食は、医なり。(2) 食事で病気を治す医者。つまり、(A) 疾医(内科医)、(B) 傷医(外科医)、(C) 帯下医(産婦人科医)、(D) 獣医、(E) 食医
――で、以上の医者のうち、食医が最尚の位にあった。
水野南北の思想は「食宗同源」または「食は宗教なり」ともいうべきもので、生命や宇宙を一個の総合的存在と洞察した点で、すぐれた哲学者、宗教者の横顔すらみせてくれる。(玉井禮一郎)
監注者のことば 松原日治
世の中には色々な健康法がある。しかし、ものに動じない玉井さんの心をゆさぶるものは少ないはずだ。ところが水野南北の修身録はその玉井さんをうならせた逸品である。すばらしい健康法であるといえよう。
さて健康法というと仏教に関係あるものが多い。まず漢方薬だが、素問(そもん)の異法方宜論(いほうほうぎろん)で「●石(へんせき。石偏に乏)は東方より来り、毒薬は西方、灸は北方、九鍼(くしん)は南方より来る」と、インドから渡ってきたものだと記されている。その漢方の根本理論である、陰陽の原理(ハ・タ.ヨガ)、経絡やツボの原理(秘孔)は、有名な僧医ギバが研究して発表したみであり、この流れをうけつぐインド拳法は菩提達磨によって少林寺拳法として伝えられている。また手技療法も仏教に関係が深い。按摩・指圧・導引などは経典にしばしば登場するし、最近馬王堆(まおうたい)で発見された導引図によると、各種の手技療法は紀元前二百年前後にインドより中国に渡ったことが証明されている。
食事による治病法あるいは健度法も釈尊のご考案である(くわしくは拙著『リューマチ・神経痛が治る』〈たまいらぼ〉を参照)。
中国でも食事による治病が古くからおこなわれていた。BC六五〇年『千金方』に食治という言葉がみられるし、七〇〇年代には『食療本草』が著わされ、一五九六年『本草綱目』十六部六十類一八九二品が季時珍によって発表され不動のものとなった。一方日本においては奈良時代に『神農本草経』十部に「食治」が初めて紹介され、江戸時代には貝原益軒の『大和本草』によってその重要性が説かれた。
しかしこれらの食事による治療法は残念ながら、口と身体の養ないにとどまっている。ところが水野南北は、これを、口と身体と心の養ないを目的とした「修身録」にまで高めているのだから、玉井さんがうなるのも無理はない。
水野南北は観相家であったから、現代人でその名を知っている人は少ない。しかし貝原益軒に勝るとも劣らない健康法を発表していたのである。それは個人の健康についてだけでなく・食糧危機・エネルギー危機・人口増加問題など現代がかかえる難問題すら解決できる杜会の健康法でもある。
世の中は医学だけで解決できるものではない。たとえば江戸時代中期の漢方医和田東郭(わだとうかく)は『蕉窓雑話(しょうそうざつわ)』の中で、いかなる漢方薬方よりも厳格な食生活が大切であることを述べている。現代でもさまざまな健康法が医療不信をカバーしている。ところがその健康法を煮つめてみると、みな水野南北の指摘するところに突き当ってしまう。
たとえば石塚左玄氏の食養論――
一、食欲のコントロール(腹八分目医者いらず)
二、身土不二の法則(人は住んでいる土地、その季節に生産される食物を食べるのがよいとする説)
三、食動平衡の方則(摂取する食物の質と量は、身体の動きとつりあっていなければ健康は保てないとする説)
などはすべて水野南北の説の亜流である。
この石塚左玄氏の説に心酔した桜沢如一氏の食養療法は、著書三百余冊にあらわされ、世界各地にその運動を展開しているが、その内容は水野南北の説そのものである。
西洋医学で水野南北の主張するところを支持する学者も多い。お茶の水クリニックの森下敬一医博などもそうだし、東北大学名誉教授の近藤正二医博はその長寿法で、
(1)米の偏食・大食をやめる。(2) 肉・魚・卵また大豆を毎日食べる。(3) 野菜を多くとる。(4) 油は毎日少しずつとる。(5) 海藻類を常食する。(6) 牛乳はなるべくのむ。
とまず第一に過食をいましめている。
水野南北の説は実に色々な思想が混然と盛りこまれている。観相家だったのだから儒教はもちろん、仏教の精神も神道の精神もあふれている。しかし、なんといっても彼の説を決定づけたのは仙術との出会いだった。略伝では伊勢神宮で断食・水ごりの荒行の結果、自ら体得したことになっているが、本文の中では仙術の道士に教えを受けたとなっている。多分後者が正しいのだろう。いずれにしても水野南北はその仙術にすらきびしい批判を加えている。これは彼が仙術を自分のものにしきったからできることで、その点この本を読まれるみなさんも、自分なりの健康法をあみだして、きたるべき老齢化杜会、無保険医療杜会、資源不足杜会に対応できる抵抗力を養なってもらいたい。
過去の日本がそうだったように、世界の食糧危機は必ずやってくる。その日のために私は、アワ・キビ・コーリャン・ソバ・イモ・トウモロコシなどの非常用食糧を庭で栽培し、常食している。備えあれば憂いなし。この点だけは水野南北よりすぐれていると自画自賛している。
訳者あとがき 玉井禮一郎
この本は「腹八分に病いなし」という健康法の基本中の基本を、手をかえ品をかえ、さまざまな角度から、徹底的に、しつこいくらいくりかえしている。そのしつこさにはただならぬ気魂が感じられる。
「仏法は道理なり」(日蓮)ということばがあるが、健康法もまた道理でなければたらない。
道理とは自明の理であり、常識でもある。「腹八分に病いなし」という、古人が発見した道理を、キチンと守っていればもとより病気などは受付けないはずである。そういう簡単明快で、しかももっとも基本的な道理を無視して、ともすれば節度をこえた暴飲暴食に走ろうとするおのれの本能をコソトロールできないから、病いがはびこる。人間、病いを得れば、どのような強運の持主でも、その運命にかげりを生じる。
ところがいかなる医書にも健康書にも料理書にも、「食事が運命を左右する」などということは一行も書いてない。また、人間の運命を論じる易の本や宗教書をひろげてみても、そんなことには触れていない。
ところが、人間にとっていちばん大事たことは「生きる」ことであり、生きるためにもっとも必要なことは「食べる」ことであり、この基本中の基本、大事のなかの大事をなおざりにして、「……」健康法を追っかけたところで、あまり効果は期待できない。
原本を活字で翻刻した人間医学杜版『南北相法極意修身録(全四巻)』の「はしがき」で大浦孝秋氏は、こう述べている。
「水野南北が食は命なり運命なりと断じ得たことは、当時の観相家としては破天荒の考え方であったと思われる。南北が若し現代に生きていたら、今日の栄養科学を巧みにとり入れて、更に正確な運命判断を下し得たかも知れない。科学無き時代、医者でもなかった市井のいわば一介の売ト(ぼく)者が、〈食〉という本能をとらえ、その本能のつつしみと乱れが健否を左右し、心身の健否は精神と肉体を、よい方にも悪い方にも持ってゆく、それが即ち運命をつくる根元であると考えついたことは、余程の卓見である。〈中略〉古今医統に曰く(百病のくるしみは多く飲食にあり、飲食の患は色慾に過ぎたり、色慾は断つとも飲食は半日も断つべからず)と、話は少し極端ではあるが、食こそ生命の基本とすれば、生命の発展的活動が強弱正邪に岐れて、人の運命を左右することは当然といわねばならぬ。本書をひもとく読者よ、南北は宗教家ではないが宗教精神をもち、道学者ではないが倫理道徳の道を教えようとしている。ただ文字が足らず、表現が拙いために、その精神を掴み得ないことがある。この点、読む方で斟酌し心読熟慮されたい〈後略〉」
人間医学杜版では、原文それ自体のもつ時代の味を生かすために、原文をそのまま活字に組んである。そこで私としては、さらに一歩を進めて現代語に訳し、不明瞭な部分は削除した。
監修・注解は、群馬県境町の無宗派平等山福祉寺住職松原日治師にお願いした。師は中医学(漢方)、易などに造詣が深く、その関係の著書もいくつかある適任者である。
貝原益軒の『養生訓』は有名であるが、水野南北の『修身録』は、食を形而下の次元にとどめず、運命という形而上学に結びつけ、人問を総合的にとらえている点で卓越しているにもかかわらず、意外に世に知られていたいのはもったいない。これからのあるべき医学や健康法、そして人間そのものを示唆する本として、ひろく世にその存在を知らせたいものである。
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