「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度
写真判定の杜撰−村瀬守保撮影写真編
2004.1.14 first upload
松尾氏はサイトの中のページ「大虐殺派のウソ写真と証言」
において村瀬守保撮影の以下の写真をすべて戦死体であり、虐殺死体ではないと言っています。しかし、松尾氏自身による画像の解析の内容はほとんどなく、その論拠は高橋義彦氏(元第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官(陸士47期))の手紙によっています。では、かれらの主張を見てみましょう
「大虐殺派のウソ写真と証言」の中には「南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)」という松尾氏自身の筆による章があり、そのはるか下に「高橋義彦氏の手紙による写真解説」の章があります。章の間で共通した3枚の写真があり、高橋手紙の写真1が南京戦死体の写真2−2、写真1019が写真2−4、写真3が写真2−1と同じです。「高橋義彦氏の手紙」の中の写真の方が精細なので、そちらをお借りしました。以下のテーブルは著作権のこともあるので、議論に必要な部分のみの抜粋です。
1.高橋手紙の写真1について
松尾氏によれば、
1.全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる
2.新河鎮における・・・
3.敵の遺棄死体(戦死体)である
4.戦闘後数日から一週間以内の水死体である(昭和12年12月13日〜20日頃まで)
だそうです。
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それでは、松尾氏の論拠を検証する前にこの写真を撮影した村瀬守保さん当人の文章を読んでみましょう。
(17)大虐殺のうわさが… ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。 揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。 死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。 |
1.全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる。
a)えーと、少なくとも一人は全裸なのですが、いったい、どういうことなのでしょうか?
b)私は軍服の特徴と断定できるものを指摘できませんでした。(3.高橋手紙の写真3についてを参照のこと)
c)村瀬守保写真集に「軍服を着た者はほとんどなく」と書いているのですが、現物より情報量の少ない写真を見て
すべて戦闘服と断定できる根拠はなんなのでしょうか?
2.新河鎮における・・・
a)村瀬守保写真集では「揚子江岸の、下関埠頭へ行きました」と書いてあります。高橋氏はこの写真の場所についてコメントしていません
松尾さんはいかなる根拠で新河鎮と言われたのでしょうか?
残る言い逃れは「新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)」とは、「新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)」ではなく、「新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)《が、この場所に流れ着いた》」という意味だもということでしょうか。
高橋氏は「死体の方向が一定である」ことを死体の吹き溜まりの根拠として挙げています。この根拠自体は説得性があります。しかし、この写真では死体の方向は乱雑です。ということは漂着した死体ではないということになります。
いったい、死体を見てどこの戦闘での死体かどうやって見分けがつくのでしょうか?
3.敵の遺棄死体(戦死体)
写真で認められる限りで、6人の後手に縛られた、あるいは縛られたと推測される死体があります。これらの人たちは明らかに「戦闘」で殺されたのではない。また、高橋氏が言うところの逃げるために河に飛び込んだ人でもない。捕虜として拘束されたあとに殺害されたものに間違いない。また4.のように後手に縛られた姿勢から上着が脱げることはあり得ない。これは生前に加えられた暴行の存在を示している。
いったい、戦闘というのは後手に縛られてできるものでしょうか?
4.戦闘後数日から一週間以内の水死体である(昭和12年12月13日〜20日頃まで)。
村瀬氏が下関を訪れたのは12月13日の約2週間後、すなわち、27日以降です。
■村瀬守保写真集
兵士が写した戦場の記録 私の中国戦線より
十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。
(17)大虐殺のうわさが… |
2.高橋手紙の写真1019について
松尾氏によれば
新河鎮近くの遺棄死体。当然単なる支那軍兵士の戦死体。
だそうです。
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高橋氏の写真1019 | 下 土手に倒れた二人の死体 |
松尾氏は「新河鎮の近く」であると言うが、高橋氏は新河鎮にはこのような材木置き場はないと書いています。
高橋氏の略図からすると、北河鎮には材木置き場があったというから、北河鎮は一応この場所の候補である。
松尾氏は高橋氏の手紙の「裸の写真(作者注・左写真)もあるので」の部分を写真1.の説明のように解釈して注をつけているが、高橋氏の手紙はすべて写真1019について述べているとしか読めないので、裸の男とは左の黄色枠線の男であろう。また、高橋氏は「死体の方向が一定であり、死体の吹き溜まりと思う」と発言しているが、はたしてそうか?
右の黄色枠線の二人は河土手に一人はこちら向き、一人は向こう向きに両腕を挙上して土手に対してほぼ垂直に伏しているから、これらは流れ着いたものではない。また、漂着死体ならば、ほぼ一層に並ぶはずであるが、死体が折り重なっているので全体として流れ着いた死体ではない。戦闘の死体ならば、あちこちに散乱するはずであるが、漂着でもないのにまとまっている。この写真でも軍服と断定できるものはない。武器の携行も認められない。
いったい、これが戦死体であると主張する証拠はなんですか?
3.高橋手紙の写真3について
松尾氏によれば
新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)
放置すると腐り、疫病の原因となるので焼却した
そうです。
←高橋氏の写真3 |
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次の写真4は松尾氏のサイトにはない、村瀬守保氏のものであるが、石段の上に立った将兵の足の部分みて、写真3と同じ場所であるのは一目瞭然であろう。どれが体のどの部分ともつかないようであるが、最も近くの二体は焼死体を思わせる特徴が認められる。
(写真キャプション)虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした。(村瀬守保写真集より)
部分1.なぜか、鉢巻きのように見える白い布が頭に巻きついている。手がどこにあるのか、原図をいくら眺めてもわからなかったが、本の向きを90度変えて頭が上になるようにして見たら、手の位置がようやくわかった。上に黄色の輪郭線で手の位置を書いてある。 |
部分2.顔はサッカーボールのように膨らんでいる。上の前歯がのぞいている。顔のすぐ下の白いものが手のように見えるが、はっきりしない。もし手だとすると、これも襷のような白いひもをからみつけている。軍服らしいボタンは正面で一列に並んでおり、3個確認される。 |
「焼死体」の参考イラストbyタラリ |
しかし、これらの死体は戦死体ではない。通常の死亡であれば、筋肉は弛緩、その後硬直するので、概ね四肢の姿勢は弛緩状態に固定される。これに対して黄色の枠線で囲んだ死体はいずれも前腕を曲げてこわばったような姿勢を示している。法医学では拳闘家姿位(Pugilistic
or boxer's
attitude)と呼ばれる。すなわち、これらは「焼死体」であることを示している。焼死体は左図のような肢位を取るのはご存じであろう。
焼死体を示すもうひとつの特徴として左の人物の顔面が通常の1.5倍くらいに腫れあがっていることが挙げられる。これは生体に起こった、火傷による炎症反応で起こった浮腫であり、死体を焼いてもこのようには決してならない。また、各組織は収縮傾向にあるが、一方で舌などは水蒸気により膨張し、開口する。 |
松尾氏は村瀬守保氏がとった写真を誰が、いつ、どこで撮ったとはっきりわかっている、と評価している。
松尾氏の弁ちなみに写真が裁判でも証拠として採用される際には「誰が?どこで?いつ?撮影したのか?」という条件は最低問題である。これが満たせない場合は証拠とはならない。常識でしょ。でも写真からそれらが推測される場合は別ですが。 |
それならば、日時、場所については村瀬守保氏の写真説明に従うべきだろうが、それは無視している。
かといって、写真から読みとれることで村瀬氏の主張を覆しているかというとそれもない。
村瀬氏の写真の説明に使われた根拠はすべて新河鎮で戦った高橋氏の説明の説明に依っている。そうでなければ勝手な思いこみである。
しかも、高橋氏は材木置き場あたりのことはよく知らない。死体を新河鎮での戦闘の死者だろうというのは高橋氏の推測に過ぎない。写真からは否定される。
高橋氏は、下関についてはもっと知らない。松尾氏は、そういう人の証言を元に下関埠頭の死体写真を論じている。下関では12月13日に新河鎮を上回る大規模な戦闘があった。これは否定派でさえ誰もが否定しない事実である。ところが、下関の死体を論じるのに、遠い新河鎮の戦闘で論じる。この時点で既に十分おかしい。
さらに、下関では13日以降、捕虜・民間人の大量虐殺があった。そのことを示す、数多くの史料、証言がある。これは当然、無視してかかる。
しかし、写真は正直である。これらの写真の中に、後手に縛られた、決して軍服とは決めつけられない死体と明かな焼死体が認められたのである。
村瀬守保氏の写真によって出来るのは虐殺の証明であり、けっして虐殺の否定ではない。