阿羅雑文を批判する
『南京戦−閉ざされた記憶を尋ねて』を批判する雑文に対する反批判

                 2002/12/19    とほほ板投稿
                 2003/09/18    改訂、初回上網

 

正論の平成14年11月号に『南京戦』を中傷する阿羅健一の雑文「『南京戦・元兵士102人の証言』のデタラメさ」がネット右翼によってネタにしているらしい。最近この反駁のためにコピーをした。随分いい加減な文章で呆れた。その反論内容を紹介して、反駁する。


以下【1】−【13】までは冒頭の町田義成さんの証言に対する異論である。

【1】町田さんは、二年以上も服役していた。さらに伍長まですすんでいた。こんなことはありえない。

△二年以上の服役について。次の規定がある。
兵役法の規定
第十九条 左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ服役ノ期間ヲ延長スルコトヲ得
 一 戦時又ハ事変ニ際スルトキ
 二 出師ノ準備又ハ守備若ハ警備ノ為必要アルトキ
 三 航海中又ハ外国ニ於テ勤務中ナルトキ

町田さんは昭和九年一月一〇日に現役召集、その年の四月から満州のチチハルで一年十ヶ月を過ごした。チチハルでは「満州国」成立以後も長く、抗日勢力の掃討が続いている。つまり、第一九条の規定の二に相当したものと思われる。

他の証言にも二年以上務めたと思われる記述がある。
同時に二年内外で伍長に昇進する例が見られる。平時と違って、実戦を伴う警備や戦時においては努力したときには、かなり早く昇進することが知られている。本書に登場する以下の事例もそれを反映したものであろう。

★第三十三連隊第三大隊 平山仁三郎 1914年10月生まれ
「昭和九年兵です。四月に朝鮮に渡り、満州に入って北上しチチハルまで行った。ハイラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。・・・わしはずっと第一線ばかりで機関銃の射手でな。」

 

−除隊、帰国のことは語られていない。二年以上務めた可能性あり。

★三十三連隊第一機関銃中隊 大川俊介 1913年3月生まれ
昭和八年兵で昭和九年の一月に入隊。久居に一年間いた。一期検閲をすんで昭和十一年、十二年は満州で予備役として初年兵の訓練にあたる。満州から帰ってきてから伍長になった。

 

−現役期間は二年未満だが、引き続き予備役として務めたと思われる記述である。そしていつの時点かははっきりしていないが、伍長に昇格している。

★第三十三連隊第三大隊 沢田好次 1913年1月生まれ
昭和八年暮れ、現役でチチハルの第三十三連隊本部指揮班に勤務。三月にハイラルで毒ガス教育を受ける。ハイラルには昭和九年三月から十一年三月までの大概二年居ました。

 

−2年4ヶ月以上服役したことになる。

★第三十三連隊第一機関銃中隊 吉井光之助
 1913年10月生まれ支那事変で二回目の召集を受けて、北支、中支に行きました。当時の階級は伍長で《中略》昭和八年チチハルに行って二年、北支二年、・・・

 

−いったんは満期除隊ないし、帰休兵となったらしい。伍長昇格もある。

★第三十三連隊第三大隊 金谷正敏 1914年2月生まれ
初年兵で、一期検閲までチチハルで、一年間幹部候補生と下士官候補の特別教育を受けました。

 

−以下の話には除隊になった話は出てこずじまいで、兵隊の苦労が語られたあと、「すぐ支那事変が始まり、歩兵になりましたが、」と続く。

★第三十三連隊第一大隊外山武雄1914年2月生まれ
満州へ行って、それから支那事変で中支へ行ったんや。《中略》満州から帰ってきたときは英雄扱いやったな。その上伍長になってな。その頃は上等兵になって帰ってくるだけでもたいしたもんやった。

 

−いったん除隊になったが、そのときには伍長に昇進している。

【2】歩兵第三十三連隊の第三大隊にいた町田さんだから、下関に進出したのは十三日の午後遅くなってからだ、昼にはまだどの部隊も下関に進出していない。

「町田さんは十時に下関を目指して」と書きだしているのをあえて、十時には着いたように曲解して否定している。しかし、戦闘詳報の記述では午後二時半に「第二大隊(二中隊欠)を前衛とし」入ったとある。つまり、第二中隊に続いてということを意味する。

この証言集で他の第三大隊兵士二人が、下関には「第二大隊も第三大隊もいた」と証言している。そして、同時に「海軍の砲撃によって下関の岸壁が破壊されたり、味方が撃たれたりしたので大声を挙げて止めさせた」という証言を残しています。(これはこの証言集以外にもあり)。

ちなみに★『歩兵第三十三連隊史』では以下の記述である。
「連隊主力(二,三大隊)は、午後二時三十分、その先頭をもって下関に到着[略]徹底的に殲滅の効果を挙げた。」pp409

 


【3】伍長に任官していたはずなのに、ここで町田さんは一兵卒になっている。

伍長という階級は最小単位である分隊、通常10名を束ねる最下級の下士官である。この先いくらキャリアを積んでも昭和12年当時では特務少尉止まりだ。この文章の中では、部隊の作戦命令がどうなっているかはあずかり知らない、どうこう言う立場にない、というところで一兵卒に過ぎないという言葉が出てくる。特に無理な言い方ではない。

【4】十三日といえば、ユー江門はまだ閉ざされたままだ。

この主張の根拠は何だろうか。ユー江門を通って城内に入った記載は『南京戦』に多数出てきた。実際にユー江門を見たひとが閉ざされていたといったのだろうか。

★第三十三連隊歩兵砲 下村宇一郎
「太平門から入ると思っとったけど、太平門は土嚢が積んであって、わしらの部隊は馬を使ってるので入れなかった。《中略》わしらは道がなかったんで、ぐるっと下関へ迂回して入ったので、南京入城は遅れました。下関の時にはもう、城門の土嚢は全部どけてしもて、とって入れた」

 

−歩兵砲を積む馬が通れた。

★第三十三連隊第三大隊 金谷正敏
「南京城内は、陥落の当日に入ってちょっとしてから出て、翌日十四日にまた入りました」

★第三十三連隊第三機関銃中隊 河田義一
「下関に着いたその日の明るい時に、ゆう江門から南京城内に入りました。わしらが入城する時は城門は開いておったんです。外から見て右の門が開いてました。つまり南通路が開いてあったわけ。その門はだいぶひろかったですな。《中略》城内に入って掃蕩する時には機関銃を分解して持ち歩きました。《中略》私らは小銃中隊の兵隊と一緒に入城しました。小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを目撃しました。男はみんな捕まえてましたな」

−「下関に着いたその日の明るい時に」と日時もわかり、「外から見て右の門」と具体的な指摘がある。

★第三十三連隊第一大隊 藤井次郎
それは下関です。ユウ江門って門があったわね。《中略》城内に残ってるのは、本当によう動かん婦人、年寄り、若い人たちでしたね。《中略》そのまま掃討に入るが・・・

★第三十三連隊第三大隊井戸直次郎
南京陥落の日じゃった。城内にはいる時、・・

町田さんだけではない、五人もの証言が一致して十二月十三日にユウ江門からの入城を証言しているのである。その後の掃討の様子もそのひとごとに違った細部が書かれているのである。もし、町田さんの記載をウソだとするなら、他の五人の記載もウソだとするしかないが、何人もの記載を創作することなどとてもできはしない。

その後、松岡環さんの『南京戦』の続編ともいうべき中国人被害者の聞き取りの本が出版されたが、ここにははっきりこう書いてある。

恐らく両氏とも[阿羅氏と東中野氏を指す]、『南京戦史』(偕行社、一九八九年)や島田克己氏の編集した『歩兵第三十三連隊史』(一九七二年)の説明を文言のまま鵜呑みにしたからであろう。『南京戦史』は歩兵第三十三連隊の下関付近の戦闘と城内外の掃蕩について「歩兵第三十三連隊史と同戦闘詳報」を参考にしたと書いている。島田市は当時、歩兵第三十三連隊第二機関銃中隊長だった人だが、連隊や大隊全体を把握できる立場ではなかった。自身も序文の中で「中隊以下の小部隊や将兵個人の行動については記述が少なく、具体性を欠いている点は否めない」と書いている。<中略>
また、同じ第三大隊の第十一中隊M氏の陣中日記(私家版)には、「十二月十三日、・・・・ゆう江門に近づく、家方に依頼して直射してもらっても城門が開かない。両側の城壁は高さ五十尺と聞く、反物がたれてゐる。所々に支那兵の死体が切り株に引き掛かってゐる。垂らした反物を伝って揚子江に逃げたのだ。砲撃の小さな穴から城内に入り、三つの内一つの城門をやっと開けた。土嚢と馬、支那兵の死体・・・・実に異臭鼻を衝く。場内掃蕩、五階の地下トーチカもある。電話線が束になって居る。・・・・憲兵司令部、国民政府、軍官学校、海軍司令部と残敵掃蕩して下関に帰り露営」とある。


【5】城壁の高さが違う。10mだのに25mと言った。

ユウ江門あたりの城壁の高さを25mと認識した、あるいは記憶が変わったとしても、証言の信憑性に問題が生じるようなことではない。ところで、非難している阿羅氏も正しい高さはご存じないようである。このあたりは五十尺と言われた。つまり約15mである。

【6】南京に租界はなかった。

12月13日に城内に入った兵士は「外国の権益」を侵害してはならないという注意を受けている。このことを租界と同じように受け取ったと思われる。証言の信憑性に問題が生じるようなことではない。

【7】たとえ翌日城内に入ってたとしても、そこは金沢の歩兵第七連隊の掃討地域だから町田さんが難民収容所から中国兵を剔出できるはずがない。

十二月十三日当日は城外の戦闘が終わったばかりである。その日に戦闘が終了する見込みがあったとは思われず、城内における部隊の掃討範囲が確立していたとは考えられない。第三十三連隊は上記のごとく、短時間城内で掃討を続けており、「掃討範囲の取り決め」をもってこの掃討を否定することは出来ない。

なお、第三十三連隊の戦闘詳報と連隊史にはこの日の入城、掃討を記述していないが、被害者側の証言としては以前より十三日の難民区掃討を伝えるものがある。加害者・被害者証言の一致である。

■潘開明による被害者側証言
侵攻当時は20歳そこそこの人力車夫であった。12月12日国民政府の呼びかけで鼓楼二条巷の難民区に移ったが、翌13日、起居していた家屋の玄関前にいたところ、現れた日本軍にいきなり連行されたという。
筆者の質問に対して潘は、逮捕されたときには何の取り調べもなく、侵入してきた日本軍は青年と見れば誰彼の区別なく片っ端から連行していったと協調した。大方巷の華僑招待所に一時監禁された潘は、その後、15日の日に三,四百人の青年といっしょに後ろ手に縛られ、ゆう江門から下関を通って煤炭港の石炭集積場まで連行された。気がつくと野積みされた石炭の山の上には何梃かの重機関銃がすえつけられており、突然その一斉射撃が始まった。この機銃掃射によって大部分の青年が射殺されたが、潘はじめ八名ほどのものがかろうじて生き残り、夜半にその場を脱出したという。
(本多勝一『南京への道』より)

また、松岡環さんの『南京戦』の続編ともいうべき中国人被害者の聞き取りの本が出版されたが、ここには前掲書「『南京戦』切りさかれた受難者の魂」には城内の掃討には各師団が入り、難民区の掃討にも参加したことが書いてある。

第三大隊第十二中隊のH氏の従軍日記
「十二月十四日、晴、午前七時、下関の駅に着いて各師団の連合の城内掃蕩に参加した。大隊はユウ江門から入場した。城門は天上(ママ)まで土嚢にて積み上げられ、僅かに人が入れるだけだ。<中略>・・・難民区には軍隊は立ち入らぬ約束があったが、敵兵の軍服が山と積んであったので掃蕩に行った」

【8】「伍長に任官されました」という言葉遣いがおかしい。

−本来なら「伍長を拝命しました」とでもいうべきところであろう。しかし、日本語で自動詞と他動詞の誤用が起こるのはよくあることである。阿羅はご丁寧に自分に敬語を使ったと曲解してみせる。

【9】「現役で入隊しました」という言葉遣いがおかしい。
【10】「現役で派遣されました」という言葉遣いがおかしい。

−「現役として入隊」「現役として派遣」とでもいうべきところである。

【11】「大召集」という言葉がおかしい。

−召集と動員という似た言葉があり、十二年八月は「大動員」といわれた。このようなとき大召集という言葉を誤って創作して使うのもよくあることである。事実他にも「大召集」という言葉を使った証言がある。

【12】外科手術ではあるまいし、中国兵をどう剔出するのか。この場合摘出ではないか。

剔出は「えぐりだす、えぐりとる」。摘出は「つまみ出す、つまみとる」。摘出が普通であるが、意味は近く戦前においても混同されたことはある。

【13】「掃討」という言葉がおかしい。下関に達するまでは遭遇戦、追撃戦だから「掃討」というのはおかしい。

−戦闘詳報に「掃討しつつ」と書いてある。おかしいのは阿羅の方だ。


△以上は冒頭の町田義成さんの証言否定の根拠として阿羅が書き連ねたことである。
【1】、【2】、【4】、【7】は事実関係に属することであるから、他の資料も駆使して検証しなければならない。

■『南京戦』では従来は曖昧であったり、資料が乏しかった事実を明らかにしている。検証には既に名の通った資料との突き合わせだけでなく、従来、軽視されていた資料ないし省みられなかった資料とも突き合わせる必要がある。場合によってはそれらの資料の重要性、真実性が明らかになるときもある。13日における難民区の掃討を確定したのは潘開明証言との突き合わせによる。

自分が持っている知識を絶対化して、それと違う事実を一切否定しようとすれば、新しい発見もなくなる。新しい証言・証拠が出たならば、その証言内容を精査し、今までにあった資料すべてを見直し、突き合わせ、どちらが信憑性が高いか、言及能力が高いかを元に判断すべきである。この証言集はその豊富な証言がお互いに支え合って新事実を提示している。

他の項目は言葉遣いなどの取るに足らないことである。元兵士が正確な用語を知らなかったり、正確な事実を知らなかったりしたといって、証言内容すべての信憑性に関わることはない。


【14】「ソ連製のチェッコ」というのはない。

−当時の日本兵は敵兵の持つ機関銃のことをチェコ、チェコと言い習わしていたから、チェコと言えば機関銃のことと思ったものがいても不思議はない。

チェコと言う言葉の使われ方について
特に日本軍兵士の中国戦線での話で"チェッコ機銃"という記述がとてつもなく多い事を考えると、かなり日本はこのZB26に苦しめられたのが想像できる。しかし、「水冷式のチェッコ機銃・・・」とかいう記載もあり、すべてがすべてこのZB26とは考えられず、むしろ「舶来の機関銃=チェッコ機銃」という構図だというのが正解なのだろう。
          http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/m_gun/zb26.htmより

【15】「重機関銃を半時間も連続発射」はあり得ない。
「二時間も連続して撃てない」と同じなので省略。

【16】「重機関銃は歩兵と別」
 どこのページに書いてあるのか、まだ確認していないが、重機関銃は機関銃中隊として一般の歩兵中隊と別に編成されている。行軍のときは重機関銃を分解して四人で運搬するほか、重い銃弾を運搬する。また、戦闘の際には第一線に立つことが多く、機関銃による制圧の後に一般の小銃を持った歩兵が突撃する。「歩兵」と別と言って何の不思議もない。

【17】「わしら砲兵」
 これもどのページに出てくるか確認していないがこれも、歩兵砲小隊のものが、砲を扱うという意味で砲兵と言った可能性がある。。

【18】「馬車が重砲を積む」
ユウ江門から入った時、死体をようけ[たくさん]見た。死体が五、六尺に重なっていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。pp67

−重砲の重量では馬車に積載することは出来ない。馬で牽引していたことを手短に「積んだ」と言っただけであろう。

野砲を牽引車で運ぶところもありましたけど、わしら馬六頭でした。砲身とか、車両だとか、現在は分解できるが、当時は出来なくて馬で引いていた。pp174

【19】「鉄舟から垂直に縄梯子で降りた」
御用船から上陸用の小舟艇である「鉄舟」に降りたというのが正しく、『南京戦』の他のページにはそう書いてある。これも本人がその当時、誤って認識したのか、証言時の言い間違いなのかはっきりしない。

【20】「従軍慰安婦、パンパン」という言葉を使うはずがない。
南京戦当時の言葉より後年のこの言葉の方がピンとくる言葉になった。何の不思議もない。

【21】生年と入隊の食い違っている人も二十名ほどいる。

−最初から20人か調べてみたが、食い違いと見なせるものはなく、途中で止めた。


氏名 生年 入隊(昭和) _年兵 年齢
町田義成 1913.2 9.1.10 20
古川康三 1912.12 12.8召集 12 24
平山仁三郎 1914.10 19,20
吉川定国 1915.9 10.12.1 10 20
大川俊介 1913.3  9.1  20 
佐藤睦郎 1914.2 20
野田典吾 1915.11 22
田中次郎 1908.2 20
三上翔 1919.6 (南京戦当時18歳)
沢田好次 1913.1  20
依田修 1916.11  11.12.10 11 20
松田五郎 1914.4. (11.7.9帰休除隊)
秋山源治 1915.1 10.12.1 10 20
谷山吉蔵 1916.7
吉井光乃助 1913.10    8  19,20
出井孝一  1916.3 12 11 20
吉川克己 1913.12 21
岡崎茂 1915.5 10 20
金谷正敏  1914.2
中川洋平 1915.12  
                                  
                          

兵役法の規定により19歳の場合と20歳の場合がある。古川康三さんは徴兵を何らかで免れていたのであろう(当時の徴兵率は国民の25%程度)、召集によって始めて入隊したので24歳でよい。三上翔さんは南京戦当時18歳と若いが、徴兵適齢は19歳または20歳であっても、17歳から入営できた。吉川克己さんは船員で遠洋航海をしていたのため入隊が遅れたと思われる。岡崎茂さんは証言では21歳のとき入隊というが、昭和10年には19歳か20歳のはずで数え年を言ったと思われる。

阿羅は徴兵適齢の規定を正しく理解しているのだろうか。兵役法の規定を掲げる。
兵役法   第三章 徴集

第二十三条 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年十二月一日ヨリ其ノ年十一月三十日迄ノ間ニ於テ年齢二十年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査ヲ受クルコトヲ要ス
  2 前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス
第二十四条 戸主ハ其ノ家族中毎年十二月一日ヨリ同月三十一日迄ノ間ニ年齢二十年ト為ル者アルトキハ翌年一月中ニ、一月一日ヨリ十一月三十日迄ノ間ニ年齢二十年ト為ル者アルトキハ其ノ年一月中ニ本籍ノ市町村長ニ届出ヅベシ戸主年齢二十年ト為ルトキ亦同ジ但シ命令ヲ以テ定ムル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ


【22】天野中隊長に関する兵士の話が違う。

これは噂話として口から口に伝えられた。詳細が違ったり、尾鰭がついて何の不思議もない。

【23】纏足の若い女はいない。

これはpp275にある。清朝末期から纏足禁止令はたびたび出されたが、纏足が美人との考えは漢民族に行きわたっており、なかなか廃れなかった。中華民国成立後に禁止令が出されてようやく、廃れたかに見えたが、現在まだ70歳以上の人にごく少数、纏足の婦人がいるという。1937年当時では少数ではあったが、確実にいた。

【24】久米宏キャスターが下関を「げかん」、「げかん」と言った

ニュース報道では中国の地名は中国語音がよく知られているものの他は原則、日本語音読みである。黒竜江は「こくりゅうこう」であり、南京は「ナンキン」である。これらは慣習であり、規則ではない。

地名をまともに読めないものが戦争のことを語れないとする、阿羅氏はでは、ユウ江門(ジンジャンメン)、孝稜衛(シャオリンウェイ)などすべて読めるであろうか。

以上、馬鹿馬鹿しいのを承知であえて事実を確認しつつ、阿羅の無内容な揚げ足とりを批判した。つまりは否定派論客が頻繁に引用する阿羅健一もネット右翼と同じ程度の無知をさらけだし、虐殺・暴行証言に肝を冷やして、あらぬ限りの否定材料を書き連ねたということだ。


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