幕府山の捕虜数は何人か?

           & nbsp;                 2003.7.31 とほほ板投稿
                        2003.9.7 初回上網
                             2003.9.15 最新改訂

 

A.兵士らの日記・証言をどう読むか。

  山田支隊は捕虜総数、捕虜殺害数に関していかなる記録も残さなかった。十四日の大量の捕虜獲得以後も捕虜は増え続けたが、捕虜数の把握は新に獲得、収 容した中隊単位、小隊単位でしか行われなかったと考えられる。その理由はすでに支隊が給食能力を上回る捕虜を獲得したので、それ以上捕虜の数の詮索をする 意味がなくなったこと、目前に迫った渡航と捕虜の処理方法を巡っての折衝に明け暮れていたからであると思われる。

  したがって捕虜総数、捕虜殺害を伝えるのは、ただ新聞報道と兵士たちの日記・証言のみである。兵士たちの日記は『南京大 虐殺を記録した皇軍兵士たち』に多数掲載されている他、研究者によっていくつかの証言・日誌が発掘されている。しかし、兵 士たちの置かれた状況によってこれらの記録・証言は相互に矛盾し、錯綜している。

ある人がネットに書いた書き込みを紹介する。兵士らの日記が記す捕虜総数が下記のようにバラバラなので兵士らの認識は信頼性にかけると いう主張をされていた。

  表1. 捕虜総数を示すと思われる数字
目黒福治 山砲兵第19連隊第V大隊段列 3万3千人
新妻富雄 歩兵第65連隊第7中隊 2万5,6千人
高橋光夫 歩兵第65連隊第11中隊 2万5千人近く
佐藤一郎 歩兵第65連隊 2万5千人余
宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊 2万3千人以上
本間正勝 歩兵第65連隊第9中隊 2万余人
大寺 隆 歩兵第65連隊第7中隊 約2万
遠藤重太郎 歩兵第65連隊本部通信班大行李 2万人
伊藤喜八 歩兵第65連隊第1中隊 2万人
菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊 2万人
近藤栄四郎 山砲兵第19連隊第8中隊 2万人
柳沼和也 歩兵第65連隊第7中隊 1万7,8千人
遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊 1万7千25人
中野政夫 歩兵第65連隊第1中隊 1万7千人
杉内俊雄 歩兵第65連隊第7中隊 1万7千人
斎藤次郎 歩兵第65連隊本部通信班小行李 1万4千6百人
堀越文男 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長) 1万4千余人

実はこれらの数字は捕虜獲得経過中の記載であったり、殺害数であったり、死体総数であったり、捕虜数の一部であったり、出てきた数字を 足していたり、その由来は様々である。これらが一致しないからといって、信頼性に欠けると言うのは、資料批判を欠如しているとしかいいようがない。ただ し、この本をはじめて読んだ人もいったい捕虜総数がいくらか、殺害数いくらだったのか、混乱するのは間違いがない。その意味でこれらの数字は粗いたたき台 にはなるだろう。

以下の考察ではこの数字がいかなる由来であるかを明らかにし、捕虜総数を出来るだけ絞り込む。兵士の日記には以下のような特徴があっ た。

(1)兵士は目前の関心事だけを記している。当日、捕虜のこと(獲得、収容、監視、給食、連行、殺害)に関わっていなければまった く書かれない。「支那饅頭うまかった」も「2万人殺された」も同じスペースを割かれる。すなわち、客観的には重大なこともその人ににとってだけ重要なこと も同じスペースで書かれる。捕虜数が次々と増えていても各自の日記において更新され続けるわけではない。また、以前に誤った情報を記したことに気づいても 後で修正しているわけでもない。

 (2)日記はその日のうちにその日のことを書いたとは限らない。作戦行動中は午後十二時に宿舎に着き、午前二時には行軍を開始すると いう強行日程であった。また、捕虜殺害のときも深夜まで死体処理に従事している。このためその日のうちに必ず日記を付けたわけではなく、一日遅れ、二日遅 れで記入した例も少なくない。このためある日付で書いたことの中に後日得られた認識が盛り込まれていたり、甚だしくは起こったことが別の日付になっている こともある。

 (3)関心がない、あるいは直接経験しなしことは書かれない。しかし、書かれなかったからなかったとは即断出来ない。逆に日記に書か れることは兵士個人にとっては重大関心事であり、書いてあることは何らかの根拠、出典があると考えられ、なるべくその根拠を求めるべきである。

 (4)情報源がどこにあるかは注意して見て行く必要がある。ある日付で書いてあっても、古い情報源によっている場合もある。情報源に よってはより新しい情報がより正確であるとも限らない。


  兵士たちは目前の情報、それも関心のある範囲の情報を日記に記したに過ぎない。捕虜数について他の情報との照合を行ったわけでもなく、記載した翌日に なって、前日の情報の訂正作業を行っているわけでもなく、情報を記し、その精度を検証しているわけでもない。これらの作業は読み手である私たちに委ねられ ている。これらの検証は読み手が兵士の置かれた位置と関心のありようを日記から読み取ることによって行わなければならない。兵士たちの置かれた状況を読み とり、情報の取捨選択、総合を行うことで日記に現れた表面上の数字以上の真実に近づくことが出来るのである。

B. 一四日におけるの捕虜数

捕虜の大量獲得がいつからかはさておき、捕虜総数の確定の出発点となるのは十二月十四日の一万四 千七百七十七名であることは間違いない。これは新聞報道記事と写真によって確認されている。新聞報道に協力する と言う意味と、厖大な捕虜に驚いて、一桁の数まで数えたのであろうと思われる。

また、斉藤次郎(本部通信班)が十四日の欄外に旅団本部調査として一万四千七百七十七名の数字を記入している。しかし、午後に収容した 時点から斉藤次郎が日誌にこの数字を記入するまでに既に追加分が相当数あり、十四日中に一万五千を越えたのは確実である。翌日、軍司令部に報告されたのは 一万五六千という数字のようで、十五日の飯沼日記にこの数字が記載されている。

C. その後の捕虜の追加
十四日には数千人単位の捕虜獲得が引き続き、一万数千人が夕刻までに収容された。渡辺寛氏は十五日にも数百人単位の追加が継続して一万五千が二万に増えた ように解釈し、菅野の日記を挙げる。

★菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊一等兵
 〔十二、〕十四  捕虜数約一万五千。
 〔十二、〕十五 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる

菅野は一万五千から捕虜が続々と来て二万になったという認識である。しかし、十五日に捕らえられた捕虜はそれほど多かったであろうか。 日記に書かれた具体的な捕虜獲得数は限られている。まず、宮本省吾は十四日付けの記事で「夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余 もあり」と記したが、これは十五日早朝のことであった。
斉藤次郎は十五日「今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、」と記している。

★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊少尉
 十二月十五日 午前九時台ラ小隊命を受け幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き三百六名捕虜とし尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも午後一時途中より引返す、

情報はあったが、敵兵を認めなかったため引き返したのであろう。

一五日の確認数としては斉藤と遠藤の八、九百名のみである。日記にすべてが書いてあるわけではないとしても、一日に五千は過大ではない のか。他の日記は残兵掃討に出かけたが敵はいなかったと記している。

★中野政夫
十二月十五日 晴
残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。
山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数弾薬を置き逃 走。
右武器を前日占領の自動車にて中隊に運ぶ

渡辺寛氏(注『南京虐殺と日本軍』の著者)は「約二千米」を「約二千名」と読み替えていたが、これはそのままでいいのではないか。

★柳沼和也 歩兵第65連隊第7中隊上等兵
十二月十五日 晴
何する事もなくして暮らす。
其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵は なくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、


★佐藤一郎
十二月十六日 朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残 兵なく帰る。

したがって、菅野の二万という認識は「捕虜総数一万四千七百七十七名」の延長上にあって、不確かな積算であった可能性が高い。端数のな い二万という数字がそれを物語る。十六日の時点での集計が捕虜総数を示すという認識ではなく、十四日の段階での最高値の方が不確かな見積もりや、重複した 積算を排しているのではないか。

 表1. 捕虜総数を示すと思われる数字の目黒福治の三万三千(積算した もの)は誤記による可能性が強い(後述)。斉藤次郎、堀越文男の一万四千 は十二月十四日の早い段階での認識でその後更新されていない。その他を分類すると「二万余−二万五千」、「二万」、「一万七千」の三つになる。しかし、 「二万」の多くは十八日以降になって出てきた認識と思われる(後述)。したがって、「一万七八千」と「二 万五六千名」の二つが殺害前の主要な認識である。ここではまず一万七千を検討する。

柳沼と杉内は十四日においてすでに一万七千の数字を記している。

★柳沼和也
 十二月十四日
出発して直ぐに八中隊で敵に山から手榴弾を投げられて戦死一、負傷者を出す、南京も目の前になる、明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)に して置え(い)た、居るわ居るわ全部集め て一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる、第五中隊が幕府山攻撃をして 完全に占領する、そのため両角部隊が南京攻略の戦史にのったのだ、軍旗中隊となり夕方支那軍の水雷学校に宿営を取る。


★杉内俊雄  歩兵第65連隊第7中隊少尉
 十二月十四日
 バクウ山麓附近にて敗残兵捕虜する事、約 壱万七千、武装解除す、第V大隊収容隊トナル、

柳沼と杉内の一万七八千、約一万七千はあるいは過大な見積もりの気味があるかも知れない。しかし、遠藤高明が記す、「捕虜総数一万七千 二十五名」は端数まできちんと数えられ(積算され)たもののようで信頼性が高いと思われる。ただし、いつの時点における積算かは不明である。

★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊少尉
十二月十六日 晴
−午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、 夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。


D.「捕虜総数二万五千」を記す日誌の存在
では、二万五千と記すもの十四日早朝からの一万三千、一万四千七百七十七、一万五、六千、一万七千と続く捕虜総数の増加の系列上にあって、しかも、もっと ずさんな積算の結果なのであろうか。そうではない。なぜなら、二万五千という数は、早くも十四日の夕刻に出現しているからである。この数字は一四七七七名 の捕虜群の系列とは別の捕虜群の存在を意味するのである。

二万五千という見積もりが出た日記を検証しよう。

★佐藤一郎
十二月十四日
朝四時出発。晴れの道だが、どこをどう歩いたか、二時間行軍して夜が明ける。朝十時、残兵五百余と交戦し、二百余を武装解除。警戒しながら戦闘をし、二百 夜連れて行軍。途中で揚子江岸を一里余、軍艦が江を上流へ進んで居る。海軍旗がひらひらして、実際に気分良かった。盛んに揚子江岸の残兵に射撃して居り、 大砲も射つ。軍艦は四艦だ。夕方、南京城 外の支那軍宿舎にて、連隊本部に解除した残兵を引渡す。両角部隊にて約二万五千余名の敗残兵。こ れをどうするのやら、自分たちの食糧もないのに、と思った。
                                 『南京の氷雨』P24


★新妻富雄  歩兵第65連隊第7中隊上等兵
十二月十五日晴天 海軍宿舎にて
 <略>朝聞くからに敵 の捕リヨ兵二万五六千名我が連隊でのみシウヨウしたと云ふ事だ。

他に二万人余と記すものがある。数は二万五千より少な目であるが、十四日時点での認識であり、二万五千の系列に属するものと考えられ る。

★本間正勝  歩兵第65連隊第9中隊二等兵
十二月十四日 中隊でも五〇〇名余捕慮(虜)す、聯 隊では二万人余も捕慮(虜)とした。

「南京城外の支那軍宿舎」も「海軍宿舎」も揚子江岸のほぼ同じ場所にあると思われる。十四日にはすでに二万人余、二万五千の捕虜が明ら かで、翌朝これを聞いたものもいる。どういうことか。佐藤一郎の属する隊は揚子江岸沿いに南京までのコースを行軍し捕虜を捕まえている。佐藤一郎と同一と 思われるコースを行軍したものの中には宮本省吾がいる。宮本の日記を読んでみよう。

★宮本省吾  歩兵第65連隊第4中隊少尉
 〔十二月〕十四日 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚すべく出発す攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕 方南京に捕虜を引率し来たり城外の兵舎に入る無 慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八カ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず、 捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、〈略〉
 夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余もあり

宮本中尉の属する第四中隊は南京に向けて進撃、掃討し、南京周辺の残兵を次々に捕獲しつつ、捕虜を引率しながら南京城内に入ったと読め る。夕刻、城外の宿舎に戻った。城外宿舎に入ると同時に、第四中隊によって警備を始めている。ということは宿舎近くに捕虜を収容したということに他ならな い。「無慮万以上」とはむろん捕虜の数のことを言っている。昼間の行軍途中には「何千に達す」であったのが、夕刻には「万以上」に増えている。「万以上に 達す」は行軍途中にさらに何千かの捕虜を加えたのか、それまでに宿舎近くに収容されていた捕虜と併せての話か判然としない。しかし、中隊によって警備を始 めたからには、少なくとも主力は第四中隊の得た捕虜と思われる。

これと対比するに斉藤次郎の場合、宿舎と捕虜収容所の距離のニュアンスはこのようであった。

★斉藤次郎  歩兵第65連隊本部通信班小行李輜重特務兵
十二月十四日<略>午後五時頃まで集結を命ぜられたも[の]数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山のように化す、<略>此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄篠 網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗戦だったらしい、真紅の太陽が正に西山に沈まんとする頃出発して宿営地に向かふ、吾等小行李一行が十字路を右に折 れるのを左に入り十町程も迷って行く。愈く連絡をとり南京一里半前方の支那海軍の海兵団に到着する、此処が両角部隊の宿営地、

宿営地に着いて捕虜を収容したとの記載がない。ということは、明記していないが、捕虜は要塞地帯の一角に収容したことを示す。要 塞地帯の一角に捕虜を収容した後、西の方向にある宿営地に出発したと解される。「真紅の太陽が正に西山に沈まんとする頃」という語句がそれを示す。南京辺 りから東に向けて出発したとすればこのような記述にならない。また、たとえ道に迷ったにしろ、漸く宿営地にたどりつくには相当歩き回ったことが示されてい る。宿 舎と捕虜収容所の距離の違いから収容所が二つあったと推定せざるをえない。

また、十四日に宮本が所属する第四中隊は捕虜をただちに監視したが、一万四千七百七十七名(後に一万七千に増加?)は杉内俊雄の日記に あるように第V大隊が収容隊であった。

★杉内俊雄  歩兵第65連隊第7中隊少尉
 十二月十四日
 バクウ山麓附近にて敗残兵捕虜する事、約壱万七千、武装解除す、第V大隊収容隊トナル、

収容隊が交代することもあり得ようが、第V大隊所属の天野三郎は十二月十七日の軍事郵便においても、収容隊が第V大隊であったと記して いる。すなわち、収容隊も二つあった。この事実も収容所が二カ所存在したことを裏付ける。

E. 収容所は二カ所存在した

一四七七七名を収容した収容所の所在は幕府山の支脈を越えてその南麓に位置したことは今では定説になっている(二つの収容所 )。この収容所の近くには宿舎に利用できるところはなく、揚子江からは数キロ離れている。したがって一四七七七名を収容した収容所とは別の収容所が「城 外」にあったということになる。一四七七七名を収容した収容所を収容所A、宿舎近くのものを収容所Bと呼ぶことにする。

ではこの「城外」とはどこを指すか。南京の地理には疎い日本軍部隊である。城外といっても広い範囲を指すが、この場合は部隊の多くが南京城から1里半東方 の揚子江岸沿いに展開する海軍関係の施設に宿泊しており、日誌などには支那海軍学校(杉内俊雄)、水雷学校(柳沼和也)、虎子台海軍独立陸戦隊兵営(新妻 富雄)などの名称が出てくる。

したがって、佐藤一郎、新妻富雄の二万五千は収容所Aの捕虜 一万五千人と収容所Bの捕虜一万人を足したものを言っていたということになる。

ただし、十四日の時点において収容所Bの捕虜数が一万に達したかどうかは疑わしいと考える。宮本省吾の中隊では、早朝より強行軍、掃討を続けていたのであ り、捕虜数を勘定する余裕はなかった。また一時に多数の捕虜を得た驚きにより、その数は過大に見積もられた可能性が高い。宿舎に帰り着いたのも夜半のこと であり、一四七七七名捕虜の場合のように、時間的な余裕を持って勘定できたものとは違うのである。その後に増えた可能性も含めて、五千以上一万までとすべ きではないか。

収容所が二カ所あったとすれば、兵士の捕虜総数に関するコメントはどの収容所を対象とした認識か、ということを注意して読まなくてはならないということに なる。兵士の日記を通覧すると収容所Bの存在はこの収容所に 捕虜を収容した隊以外にはほとんど知られていない。逆に収容所Aの存在は全員に知られていたと考えられ る。

収容所Bがあまり知られないのはなぜか。幕府山の戦闘と付近の掃討には部隊の大半が関与し、昼間に収容された。揚子江から南京への道筋を掃討したのはより 小部分でしかも、夜間に帰隊している。兵士たちは常に目前の関心事に縛られ、周りを見回す余裕はなかった。総数二千くらいの隊においてわずか十数人の日記 を収集したにすぎなかったから、統計的学的に見て、よりマイナーな存在である収容所Bの記事がほとんどないという可能性も大いにあると考えられる。

しかし、その前にこの二つの収容所の所在、規模などについて検討してみよう。収容所Aは幕府山の戦闘のさいに捕らえられた一四七七七名を収容し、草葺きの 二十二棟の廠舎であり、数本の針金で申し訳程度の柵がある。アサヒグラフに写真が載っているのはこの収容所である。洞富雄、本多勝一は写真に見える稜線の 形から、具体的な場所を東部上元門附近と推定している。場所は幕府山支脈の南麓にあり、江岸に向かう道路に近い。

もう一つの収容所は揚子江岸の海軍の施設に近いところにある。しかし、この収容所は新聞の取材を受けていない。その詳細を記載する兵士の日記もない。G氏 の証言はこの収容所についての数少ない記述ではないか、と思われる。

★G氏 証言 歩兵第65連隊第9中隊・上等兵
収容所は一〇棟あったが、捕虜は鮨詰め状態だった。この時、一万人といわれていた。食料には非常にこまり、全員には行きわたらなかったが、飯を炊いて少し は与えた。私は捕虜が連行されて行くのを見ただけだが、連行は二日間にわたって行われた。初日は三〇〇〇人連行。『収容所が焼けて入れる所がないので』と の理由だった。二日目は七〇〇〇人、『前日と同じ場所に連行した』と聞いた。二日目に連行された捕虜は虐殺されるのを察知していた様子だったというが、暴 動が起きたとは聞いていない。しかし、捕虜の中に整理係として入った日本兵が引き揚げないうちに撃ち始めてしまったことは聞いた。                        『南京大虐殺の証明』P139〜140

収容所Bの棟数は一〇棟であり、収容者数は一万人、つまり規模は収容所Aのそれの約半分であるという。収容者数一万人は前述したように 多めの見積もりの可能性がある。

また、『私が経験した日本軍の南京大虐殺』唐光譜( 教導総隊第三大隊所属 )によれば「幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎」に押し込められ、 「臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった」。「兵舎の竹の囲い」の外には「一本の広くて深い溝が」あり、その向こうは絶壁で あった。また捕虜たちを縛り上げた「庭」があったという。兵舎の数は収容所Aの半分以下であり、収容所Bに似る。

 

★I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長
 南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年輩の捕虜もおり、十四〜十五歳の若者もいた。敗残兵は少なかったのではない のか。捕虜収容所は幕府山の南側にあり、そこから見た幕府山はなだらかにみえた。山の下に”もろ”があり、捕虜はそこに全部収容した。何日か収容した後、 捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方、五人ずつジュズつなぎにして、二日間にわたって同じ場所に連行した。捕虜収容所から虐殺現場までは二〜三キロメー トルで、一日目の捕虜連行数は四〇〇〜五〇〇人だった。虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位  の桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。笛の合図一つで銃撃を開始し、一〇分 間位  続いた。銃撃は一回だけだった。重機関銃は三〜四丁あり、軽機関銃、小銃も加わった。この時、我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。死体 処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、二日目は次の日に片付けた。                 『南 京大虐殺の証明』P139

捕虜収容所が「幕府山の南側」、「幕府山がなだらかに見える」というのは収容所AとBに共通する。しかし、「収容所から虐殺現場まで二 〜三キロメートル」は収容所Aにしては近すぎる。捕虜は「南京附近」で捕まえられたというのは佐藤、宮本日記と共通する。「敗残兵は少なかったのではない のか」、というのも収容所Bに合致する。収容所Aのほうは幕府山の攻防戦で捕らえられた捕虜、収容所Bは南京城に向かう途中で捕獲した捕虜という区別があ るからである。

F.総括

収容所Aの最終収容人員は約一万七千と確定される。

収容所Bは宮本の日記からは少なくとも五千以上はいたと思われる。他の隊でも隊の人員の十倍以上の捕虜を連れて行軍したという記事があ り、五千人は無理な数字ではない。十四日以後には「一万と言われていた」などの証言がある。一万というのも宮本らの認識を引き継いだ可能性もあろうが、こ れを否定すべき絶対的な根拠もない。したがって収容所Bの人 員は五千から一万の間にあり、確定することはできな い。

よって捕虜総数は二万二千から二万七千とすべきである。ただし、兵士らの日記・証言には二万二千も二万七千の数字も出現しない。二万五千については何人か の日記に記載がある。したがって、二万二千から二万七千の幅で可能性を持つ数値の 代表値として二万五千人を捕虜総数として取りあげることにする。

 

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