幕府山の捕虜数は何人か?
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2003.7.31 とほほ板投稿 |
A.兵士らの日記・証言をどう読むか。
ある人がネットに書いた書き込みを紹介する。兵士らの日記が記す捕虜総数が下記のようにバラバラなので兵士らの認識は信頼性にかけると いう主張をされていた。
目黒福治 | 山砲兵第19連隊第V大隊段列 | 3万3千人 |
新妻富雄 | 歩兵第65連隊第7中隊 | 2万5,6千人 |
高橋光夫 | 歩兵第65連隊第11中隊 | 2万5千人近く |
佐藤一郎 | 歩兵第65連隊 | 2万5千人余 |
宮本省吾 | 歩兵第65連隊第4中隊 | 2万3千人以上 |
本間正勝 | 歩兵第65連隊第9中隊 | 2万余人 |
大寺 隆 | 歩兵第65連隊第7中隊 | 約2万 |
遠藤重太郎 | 歩兵第65連隊本部通信班大行李 | 2万人 |
伊藤喜八 | 歩兵第65連隊第1中隊 | 2万人 |
菅野嘉雄 | 歩兵第65連隊連隊砲中隊 | 2万人 |
近藤栄四郎 | 山砲兵第19連隊第8中隊 | 2万人 |
柳沼和也 | 歩兵第65連隊第7中隊 | 1万7,8千人 |
遠藤高明 | 歩兵第65連隊第8中隊 | 1万7千25人 |
中野政夫 | 歩兵第65連隊第1中隊 | 1万7千人 |
杉内俊雄 | 歩兵第65連隊第7中隊 | 1万7千人 |
斎藤次郎 | 歩兵第65連隊本部通信班小行李 | 1万4千6百人 |
堀越文男 | 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長) | 1万4千余人 |
実はこれらの数字は捕虜獲得経過中の記載であったり、殺害数であったり、死体総数であったり、捕虜数の一部であったり、出てきた数字を 足していたり、その由来は様々である。これらが一致しないからといって、信頼性に欠けると言うのは、資料批判を欠如しているとしかいいようがない。ただ し、この本をはじめて読んだ人もいったい捕虜総数がいくらか、殺害数いくらだったのか、混乱するのは間違いがない。その意味でこれらの数字は粗いたたき台 にはなるだろう。
以下の考察ではこの数字がいかなる由来であるかを明らかにし、捕虜総数を出来るだけ絞り込む。兵士の日記には以下のような特徴があっ た。
(1)兵士は目前の関心事だけを記している。当日、捕虜のこと(獲得、収容、監視、給食、連行、殺害)に関わっていなければまった く書かれない。「支那饅頭うまかった」も「2万人殺された」も同じスペースを割かれる。すなわち、客観的には重大なこともその人ににとってだけ重要なこと も同じスペースで書かれる。捕虜数が次々と増えていても各自の日記において更新され続けるわけではない。また、以前に誤った情報を記したことに気づいても 後で修正しているわけでもない。
(2)日記はその日のうちにその日のことを書いたとは限らない。作戦行動中は午後十二時に宿舎に着き、午前二時には行軍を開始すると いう強行日程であった。また、捕虜殺害のときも深夜まで死体処理に従事している。このためその日のうちに必ず日記を付けたわけではなく、一日遅れ、二日遅 れで記入した例も少なくない。このためある日付で書いたことの中に後日得られた認識が盛り込まれていたり、甚だしくは起こったことが別の日付になっている こともある。
(3)関心がない、あるいは直接経験しなしことは書かれない。しかし、書かれなかったからなかったとは即断出来ない。逆に日記に書か れることは兵士個人にとっては重大関心事であり、書いてあることは何らかの根拠、出典があると考えられ、なるべくその根拠を求めるべきである。
(4)情報源がどこにあるかは注意して見て行く必要がある。ある日付で書いてあっても、古い情報源によっている場合もある。情報源に よってはより新しい情報がより正確であるとも限らない。
兵士たちは目前の情報、それも関心のある範囲の情報を日記に記したに過ぎない。捕虜数について他の情報との照合を行ったわけでもなく、記載した翌日に
なって、前日の情報の訂正作業を行っているわけでもなく、情報を記し、その精度を検証しているわけでもない。これらの作業は読み手である私たちに委ねられ
ている。これらの検証は読み手が兵士の置かれた位置と関心のありようを日記から読み取ることによって行わなければならない。兵士たちの置かれた状況を読み
とり、情報の取捨選択、総合を行うことで日記に現れた表面上の数字以上の真実に近づくことが出来るのである。
捕虜の大量獲得がいつからかはさておき、捕虜総数の確定の出発点となるのは十二月十四日の一万四 千七百七十七名であることは間違いない。これは新聞報道記事と写真によって確認されている。新聞報道に協力する と言う意味と、厖大な捕虜に驚いて、一桁の数まで数えたのであろうと思われる。
また、斉藤次郎(本部通信班)が十四日の欄外に旅団本部調査として一万四千七百七十七名の数字を記入している。しかし、午後に収容した
時点から斉藤次郎が日誌にこの数字を記入するまでに既に追加分が相当数あり、十四日中に一万五千を越えたのは確実である。翌日、軍司令部に報告されたのは
一万五六千という数字のようで、十五日の飯沼日記にこの数字が記載されている。
★菅野嘉雄 歩兵第65連隊連隊砲中隊一等兵 |
菅野は一万五千から捕虜が続々と来て二万になったという認識である。しかし、十五日に捕らえられた捕虜はそれほど多かったであろうか。
日記に書かれた具体的な捕虜獲得数は限られている。まず、宮本省吾は十四日付けの記事で「夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余
もあり」と記したが、これは十五日早朝のことであった。
斉藤次郎は十五日「今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、」と記している。
★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊少尉 |
情報はあったが、敵兵を認めなかったため引き返したのであろう。
一五日の確認数としては斉藤と遠藤の八、九百名のみである。日記にすべてが書いてあるわけではないとしても、一日に五千は過大ではない のか。他の日記は残兵掃討に出かけたが敵はいなかったと記している。
★中野政夫 |
渡辺寛氏(注『南京虐殺と日本軍』の著者)は「約二千米」を「約二千名」と読み替えていたが、これはそのままでいいのではないか。
★柳沼和也 歩兵第65連隊第7中隊上等兵 |
★佐藤一郎 |
したがって、菅野の二万という認識は「捕虜総数一万四千七百七十七名」の延長上にあって、不確かな積算であった可能性が高い。端数のな い二万という数字がそれを物語る。十六日の時点での集計が捕虜総数を示すという認識ではなく、十四日の段階での最高値の方が不確かな見積もりや、重複した 積算を排しているのではないか。
表1. 捕虜総数を示すと思われる数字の目黒福治の三万三千(積算した もの)は誤記による可能性が強い(後述)。斉藤次郎、堀越文男の一万四千 は十二月十四日の早い段階での認識でその後更新されていない。その他を分類すると「二万余−二万五千」、「二万」、「一万七千」の三つになる。しかし、 「二万」の多くは十八日以降になって出てきた認識と思われる(後述)。したがって、「一万七八千」と「二 万五六千名」の二つが殺害前の主要な認識である。ここではまず一万七千を検討する。
柳沼と杉内は十四日においてすでに一万七千の数字を記している。
★柳沼和也 |
★杉内俊雄 歩兵第65連隊第7中隊少尉 |
柳沼と杉内の一万七八千、約一万七千はあるいは過大な見積もりの気味があるかも知れない。しかし、遠藤高明が記す、「捕虜総数一万七千
二十五名」は端数まできちんと数えられ(積算され)たもののようで信頼性が高いと思われる。ただし、いつの時点における積算かは不明である。
★遠藤高明 歩兵第65連隊第8中隊少尉 |
★佐藤一郎 |
★新妻富雄 歩兵第65連隊第7中隊上等兵 |
他に二万人余と記すものがある。数は二万五千より少な目であるが、十四日時点での認識であり、二万五千の系列に属するものと考えられ
る。
★本間正勝 歩兵第65連隊第9中隊二等兵 |
「南京城外の支那軍宿舎」も「海軍宿舎」も揚子江岸のほぼ同じ場所にあると思われる。十四日にはすでに二万人余、二万五千の捕虜が明ら
かで、翌朝これを聞いたものもいる。どういうことか。佐藤一郎の属する隊は揚子江岸沿いに南京までのコースを行軍し捕虜を捕まえている。佐藤一郎と同一と
思われるコースを行軍したものの中には宮本省吾がいる。宮本の日記を読んでみよう。
★宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊少尉 |
宮本中尉の属する第四中隊は南京に向けて進撃、掃討し、南京周辺の残兵を次々に捕獲しつつ、捕虜を引率しながら南京城内に入ったと読め
る。夕刻、城外の宿舎に戻った。城外宿舎に入ると同時に、第四中隊によって警備を始めている。ということは宿舎近くに捕虜を収容したということに他ならな
い。「無慮万以上」とはむろん捕虜の数のことを言っている。昼間の行軍途中には「何千に達す」であったのが、夕刻には「万以上」に増えている。「万以上に
達す」は行軍途中にさらに何千かの捕虜を加えたのか、それまでに宿舎近くに収容されていた捕虜と併せての話か判然としない。しかし、中隊によって警備を始
めたからには、少なくとも主力は第四中隊の得た捕虜と思われる。
これと対比するに斉藤次郎の場合、宿舎と捕虜収容所の距離のニュアンスはこのようであった。
★斉藤次郎 歩兵第65連隊本部通信班小行李輜重特務兵 |
宿営地に着いて捕虜を収容したとの記載がない。ということは、明記していないが、捕虜は要塞地帯の一角に収容したことを示す。要 塞地帯の一角に捕虜を収容した後、西の方向にある宿営地に出発したと解される。「真紅の太陽が正に西山に沈まんとする頃」という語句がそれを示す。南京辺 りから東に向けて出発したとすればこのような記述にならない。また、たとえ道に迷ったにしろ、漸く宿営地にたどりつくには相当歩き回ったことが示されてい る。宿 舎と捕虜収容所の距離の違いから収容所が二つあったと推定せざるをえない。
また、十四日に宮本が所属する第四中隊は捕虜をただちに監視したが、一万四千七百七十七名(後に一万七千に増加?)は杉内俊雄の日記に あるように第V大隊が収容隊であった。
★杉内俊雄 歩兵第65連隊第7中隊少尉 |
収容隊が交代することもあり得ようが、第V大隊所属の天野三郎は十二月十七日の軍事郵便においても、収容隊が第V大隊であったと記して
いる。すなわち、収容隊も二つあった。この事実も収容所が二カ所存在したことを裏付ける。
★G氏 証言 歩兵第65連隊第9中隊・上等兵 |
収容所Bの棟数は一〇棟であり、収容者数は一万人、つまり規模は収容所Aのそれの約半分であるという。収容者数一万人は前述したように
多めの見積もりの可能性がある。
また、『私が経験した日本軍の南京大虐殺』唐光譜( 教導総隊第三大隊所属 )によれば「幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎」に押し込められ、
「臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった」。「兵舎の竹の囲い」の外には「一本の広くて深い溝が」あり、その向こうは絶壁で
あった。また捕虜たちを縛り上げた「庭」があったという。兵舎の数は収容所Aの半分以下であり、収容所Bに似る。
★I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長 |
捕虜収容所が「幕府山の南側」、「幕府山がなだらかに見える」というのは収容所AとBに共通する。しかし、「収容所から虐殺現場まで二 〜三キロメートル」は収容所Aにしては近すぎる。捕虜は「南京附近」で捕まえられたというのは佐藤、宮本日記と共通する。「敗残兵は少なかったのではない のか」、というのも収容所Bに合致する。収容所Aのほうは幕府山の攻防戦で捕らえられた捕虜、収容所Bは南京城に向かう途中で捕獲した捕虜という区別があ るからである。
F.総括収容所Aの最終収容人員は約一万七千と確定される。
収容所Bは宮本の日記からは少なくとも五千以上はいたと思われる。他の隊でも隊の人員の十倍以上の捕虜を連れて行軍したという記事があ
り、五千人は無理な数字ではない。十四日以後には「一万と言われていた」などの証言がある。一万というのも宮本らの認識を引き継いだ可能性もあろうが、こ
れを否定すべき絶対的な根拠もない。したがって収容所Bの人
員は五千から一万の間にあり、確定することはできな
い。
よって捕虜総数は二万二千から二万七千とすべきである。ただし、兵士らの日記・証言には二万二千も二万七千の数字も出現しない。二万五千については何人か
の日記に記載がある。したがって、二万二千から二万七千の幅で可能性を持つ数値の 代表値として二万五千人を捕虜総数として取りあげることにする。