北村稔批判
−空前の大姦淫の否定を批判する

                       2003/02/01 とほほ板投稿 
                  2003/09/25 初回上網

この論考は、北村本の「 第三部 証拠資料をめぐる諸問題 」のうちの「 4 南京の真実・・・・・郭岐『陥都血涙録』 」に対する批判です。
コンテンツ

T.老婆の強姦
U.強姦を強要して鑑賞する
V.性器の切り取り
W.ベルリン強姦との比較
   A.被害総数
   B.外的抑制の存在
   C.強姦をエサにして進撃を促す
   D.強要の程度
   E.自発的売春、和姦への移行
   F.強姦後の虐殺、異常な性行動
   G.組織的な強姦の有無

X.強姦の原因
Y.結語−郭岐証言を否定する北村の歪んだ常識


北村は南京法廷における郭岐証人の「虚言」を読者に印象づける。その手法はいかなるものであったか。この論考では特に「空前の大姦淫」の証言の否定に的を絞って批判を加える。

T.老婆の強姦

北村は80歳の老婦人強姦事件を「敵愾心を高揚させる作り話」と断じている。北村が作り話というのは日本兵と「中国語で次のような会話が出来るはずがない」というだけのことのようだ。

#(前略)日本兵が揚子江岸で老婦人を襲い、以下のような会話が交わされたというのである。
老婦人「こんなに歳をとっているのに、どうして乱暴などできるの」 
日本兵「お前に子供を生んで欲しいと思っているのではないぞ」
郭岐は難民の誰もが知っている話だというが、ブラックユーモアのような会話を日本兵が中国語で交わせるはずがない。(pp130)

真偽のほどは日本語が通じたかどうかの些末な問題に左右されないのは言うまでもないだろう。郭岐は明らかに幾度か人から人に伝わった話として書き留めている。老婆を強姦するという驚くべき日本兵を、中国人はポンチ絵に造形して嘲笑し、日頃の恨みを晴らそうとしたのは当然である。

強姦されようとする老婦人が今から起こるであろう事態を信ずることが出来なかったのは明らかである。日本兵の語る内容はもちろん中国人にとってはわからなかった。しかし、仮に日本兵の答えを想定するとしたら、中国人ならずともこれくらいしかないではないか。ブラック・ユーモアは中国人が発想したものではなく、日本兵の行為自体がすでにブラック・ユーモアであったのだ。





しかし、日本兵が老若を問わず、強姦したのは被害側証言、加害者側ともに揃っている。中国人が呆れるほど日本兵は老婆を犯しつづけた。その証言にはこと欠かない。

◆李秀英、女、67歳の証言
(前略)うちの門の処のお隣、粛お婆さんは、もう七十歳余りだったのに、日本兵の一群が無理矢理に強姦しようとし、向日葵の竿を下半身につっこんだりして、そんな風に悲惨に死んで行ったのです。(唐俊英と呉義梅が記録)(『この事実を・・・』pp257)

◆東京裁判 ベイツ証言
【渡辺訳】
南京神学院の構内で、私の友人の見ている前で、一人の中国婦人が次々と十七人の日本兵に強姦されました。時々あった、サディステッィクで変態的な行為の事例を繰り返して述べることはかまいませんが、(金陵)大学構内のみでも九歳の少女と七十六歳の祖母が強姦されたということを申し上げたいと思います。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/articl6.html

◆第十六師団歩兵第三十三連隊第三大隊 井戸直次郎
(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるの見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。(略)
街の中でも女が隠れ取る所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから、殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、物は取りたい放題じゃ、と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。(略)慰安所作っても強姦は減らんわ。(『南京戦』pp275)

U.強姦を強要して鑑賞する

第(三)項−息子に迫って母を強姦させる について

#これは日本人の思いつく行為ではない
これを思いつくのはmother fuckerを罵り言葉として有する中国人であり、日本兵を獣兵と呼んだ郭岐にこそ考えつくことのできることだ。(pp130)

「これは日本人の思いつく行為ではない」というのは北村のいわゆる「常識」による判断であろう。mother fuckerを罵る言葉に使うから郭岐が思いついた、というのはほとんど言いがかりである。罵り言葉に使うことと実際にさせることはまったく違う。mother fuckerを罵る言葉に使うアメリカ兵はこれをしたであろうか。およそ、いい加減な否定根拠である。

実際は日本兵が強姦を強要して見て楽しむという事例は日本兵の中の少数の告発によって記載されている。この行為が日本において知られていないのは日本人証言が数少ないからである。その理由はあまりにも恥ずべき行為であるために、語られなかったということに尽きる。性犯罪について加害者証言だけを取り上げれば発生件数は激減する。

中国側文献にはその行為が頻回に行われたことが書かれている。そして被害者側証言集である『この事実を・・・』を読むと日本兵のありふれた「娯楽行為」であったことが見いだされるのである。以下の6例はいずれも同書による。

強姦の強要例

◆萬秀英、女、57歳の証言
(前略)別の時ですが、九歳の児童がその八十歳くらいにもなるお婆さんに手を貸して歩いて行くのを日本軍が見るなり、その九歳の児童に強いて自分のお婆さんに強姦させ、それから日本軍は銃剣をそのお婆さんの下半身に差し込み、お婆さんを刺し殺し、ハッハッハと大笑いして楽しんでいました。(揚進文と項如常と夏龍生が記録)
pp261

◆黄国華、男、70歳の証言
 民国26年の冬月に、日本軍が江心洲の南上村まで来て、長江の堤で、かっぱらって来た掛け布団を土手の上に敷き、婦女を強姦しました。ある日、女の人を一人捕まえ、顔にあばたある婦女でしたが、その衣服をみんな引っ剥がして掛け布団の上で眠らせ、それからわたしの父と毛正友の父親とを捕まえて来て、二人にその婦女を強姦
させようと強いましたが、二人はどうしてもそうはせず、日本軍はまたもや徐という男を捕まえ、その衣服を引っはがし、女の人の体の上まで引きずってきましたが、徐という人はどうしてもそうしないで、日本軍に顔を踏みにじられ、途端に顔じゅう血だらけになりました。(陳天寿が記録)pp369

◆沈応木、男、67歳
1937年の末に、日本人が南京を占領しました。ある火の午後、わたしと隣の伯父さんが城内に行き、帰ってくる道で、ある見張り台の日本軍が婦女を一人通せんぼし侮辱しているのを見かけました。わたしたちが彼らの前まで来たら、日本軍は隣の伯父さんとその婦女とに銃をくっつけ、二人に強いて衣服を脱がせ、伯父さんにその婦女と関係させようとしましたが、伯父さんは応ぜず、日本軍が銃床で二人を殴り、二人が懸命に逃げたので、日本兵はハッハッハと大笑いしていました。pp371

◆銭伝興、男、66歳の証言
(1938年)2月に、九伏洲(今の大新大隊)の王元生が訳もなしに日本軍に銃殺されました。同年4月に日本軍はまた旧の九伏洲小王莊(今の大新大隊王莊生産隊)の六十歳余りのるお婆さんの着ていた衣服を全部ひっぱがし、お婆さんの後輩(甥)に汚させようとしましたが、甥はどうしてもやろうとせず、日本軍は彼を殴り、しかもなおやらんのなら、俺達お前等二人の命を貰う、と言うので、お婆さんはどうしようもない情況で甥にやんなさいと勧めるしかありませんでした。(王志雲が記録)pp373

◆金徳新、男、68歳の証言
わたしは金徳新といい、1937年には家は洪武路理髪店の後で、幼い頃から鳥を捕まえるのを生業としていました。日本軍が南京を占領してから、私は母について漢中路の難民キャンプに住まいました。ある日わたしが高橋門に鳥を捕まえに行く途中、中和橋を通ったら、女子が十何人かズボンを脱がされ、頭に煉瓦のかけらを載せて並んで立たされているのが見え、日本軍がわたしを見つけて、わたしにその婦女たちを踏みつけに行かせようとしましたが、わたしが肯んじないので、日本兵はわたしの頭を銃の床でわたしの頭をぶち破り、血がどくどく流れましたが、わたしは河に跳び込んで逃れました。(後略)(周子廉が記録)pp380

◆高平、女、72歳の証言
1937年に日本軍が南京を占領した時、家は中山門外の青龍山の付近でした。日本軍が村にやって来るなり、人を殺し、火を放ち、強姦し、物を掠め奪いました。わたしは三十人余り碾坊里に隠れていたのが、日本兵に殺されて一人も残らなかったのをこの眼で見ました。彼らは婦女を強姦し、強姦してしまってから、村の男の人にも強姦させようとしましたが、その時お爺さんが日本兵に婦女の一人を強姦するように強いられ、お爺さんが肯んじないと、日本兵が殺そうとするので、どうしようもなく、その婦女を強姦するしかありませんでした。村に十七,八歳の女の子が一人いて、日本兵に強姦された後、沼の縁に隠れていたら別の日本兵に見られて、発砲され、お腹の調が全部流れ出て来てしまいました。日本兵はそれにある婦女に衣服を全部脱ぎ捨てて立っているように命じ、肯んじないでいたら、殺そうとするのでどうしようもなく脱ぎ捨てるしかなかったところ、彼らは傍らで手を叩いて好いぞ好いぞと叫んでいました。(後略)(陳家栄が記録)


V.性器の切り取り

#第(四)項の僧侶の性器切断事件は、日本兵たちが通りがかりの和尚に自分たちが乱暴した女性を犯すように迫り、従わぬと見るや「おまえの物は役にたたなくなったのだな」と言い放って性器を切り落とし死に至らしめたという事件である。しかしこれもまた、性器を切り落とす「宦官」の伝統をもつ中国人ならではの発想に基づく作り話と言わざるを得ない。そしてやはり、日本兵が流暢な日本語を話すのである。(pp131)

北村の考えでは宦官の伝統のある中国人のならではの発想であるという。これまた、悪いことはみな中国人が考えたことという蔑視観丸出しである。北村はいったい誰が、この話を「創作」したというのであろうか。この話は郭岐が『陥都血涙録』に記すものと少し異なる内容の話が伝わっているのである。

◆呉秀珍 女 77歳の証言
・・・花塘村では地に遍く死人が見られましたが、日本兵は男の人を何人か捕まえて来て女の死体に強姦させてから、男の生殖器を切り取りました。(『この事実を・・・』pp203)

この事件とちょうど同じものまではない。しかし、これらは日本兵が中国人をムシケラのように扱い、嗜虐性が極度の昂進状態にあって、誰からも制止されない状態であったということを示している。証言はまさにそのことを示しているのだが、北村はいっこうにその認識を持つことが出来ず、それ故に否定しているのだ。

W.ベルリン強姦との比較

北村は言う。

#戦争のさい女性への性的暴行が頻発することは、今も昔も変わりがない。pp129

北村はヘルケ・ザンダー、バーバラ・ヨール著「1945年 ベルリン解放の真実−戦争・強姦・子ども」を例にひいて、日本軍の強姦を今も昔も同じだと言うのである。はたして同じであるのか。同書によって、ベルリンと南京の実態を比較する。

A.被害総数

【ベルリン】最も少ない見積もり(確実例)で8万人、11万人、最大の見積もりによれぱ女性人口140万人の60−70%(84−89万人)が被害を受けた。この最大の見積もりは被害の大きい中心部であり、単に女性数人からの聞き取りであるとも言われる。ソ連兵は45万人である。その結果強姦された女性の20%が妊娠していた。そのうち90%は中絶し、10%が出産した。1945年と1946年に生まれた子どもの5%が「ロシア人の子ども」だった。その結果約1万人の女性が強姦のために命を落とすか、(病死、自殺、虐待による死、殺人など)、後遺症に悩まされたであろう。(主にp72-73)被害者年齢は12歳から70歳に及ぶ。
■南京■においては約25万人の市民のうち2万人が強姦の被害を受けたと報告される(外国人の見聞による)。日本兵の数は7万人である。別の報告では8万人という。中国人の間では南京に処女なしと噂された。岡村寧次中将は日記において強姦件数数万と記している。これは南京城内のことと思われる。近郊農村においては南京城内に軍紀が少し回復し、慰安所が開設されたあとも長期にわたり、強姦が継続された。強姦後の妊娠、出産数の記録はない。中国においては医師の堕胎を受けることはほとんどなく、無理な堕胎によって体をこわすことが多かった。不幸にして生まれた子は例外なく「間引き」によって処分されたらしい。被害者年齢は8歳から80歳に及ぶ。

件数について見るとベルリンと南京も同じ程度のように見える。強姦については訴えることが少なく、また警察、憲兵の記録は不完全なので確定的なデータは出ないものである。では、ベルリンでも南京でも同じであろうか。

B.外的抑制の存在

【ベルリン】ソ連兵の強姦は4月25日から5月3日に集中していた。占領から数日後に強姦を禁止する明確な指令が出され、将校は兵に強姦を中止するよう命令した。ソ連警察は強姦の被害届けを出すよう布告をした。また、所管将校は強姦犯罪者多数を即刻射殺した。赤軍指導部は無規律な兵員を帰還させる措置を執った。
■南京■憲兵による制止はほとんどなされていない。南京市民の被害届けを受ける日本軍部署はなかった。安全委員会がそれを代行したが、日本兵の強姦は南京市政府が発足したあとも頻発した。

ところで、北村が制止した例として以下の例を挙げる。

#三七年の十二月十八日にラーベ沢を永井少佐が訪問中、向かいの家屋に日本兵が進入して婦人に乱暴しようとした。少佐は件の日本兵を捕らえて平手打ちを加えたあと放免した(ティンパーリー付録の第五十九件)。pp82

強姦未遂の現行犯を憲兵に引き渡すこともなく、身元を確認することもなく、逃がしたというのである。強姦は当時の日本軍にあっても重大な軍規違反である。これを「放免」することをもって制止したという北村の神経を疑う。

◆第十六師団第三十三連隊第大隊 井戸直次郎
だいぶたって治安がよくなるとな、部隊のみんなを並ばせて、憲兵隊が強姦された女を連れてきて、誰がやったと調べたこともあった。平時とは違って罪にはならんかったが、「やめとけよ」と怒られる程度じゃった。罪にも何にもならへんかったけど、叱られたくらいじゃ。(『南京戦』pp276)

南京においては強姦において処罰された例は法務部の記録においてもほとんどなかった。天野大尉は例外的に強姦罪も適用されたが、上官抗命のような別の重罪があったためと、部下を使っての女性拉致・監禁・強姦があまりにも目についたからである。憲兵の中には強姦を取り締まるどころか、立場を利用して自らも強姦をするものがあったほどである。

C.強姦をエサにして進撃を促す

【ベルリン】ソ連軍においては具体的には何の示唆もなかったにも関わらず、ベルリンを落としたら、強姦もやりたい放題だという了解が暗黙のうちに拡がっていた。この了解はベルリン陥落後、数日のうちに明確な布告によってうち砕かれた。
■南京■それまでの進軍でも強姦などを黙認していた以上、「南京に行ったらもっといいことがあるぞ」とエサにして下級兵士を鼓舞する上官もあった。南京に入っても公式に止めるものは誰もいなかった。

前述、井戸直次郎の証言を参照。

D.強要の程度

【ベルリン】5月3日までは有無を言わさずという形の強姦であるが、その後は出来るだけ合意を尊重する場合がある。女性が強く出たり、機転を効かせることにより強姦を免れることがあった。妻を守ろうとして命を落とした男たちの数は少ない。そして興味あることには妻が被害後に夫により非難される場合が多い。つまり、夫よって「逃れる余地があったのに抵抗しなかった」と見られた場合が多い。すなわち、強要の程度は南京に比べると軽いということである。強姦前に他の家人を殺すことが少なく強姦後に女性を虐殺することはなかった。
■南京■家人、女性の虐殺の頻度が高く、女性が夫の非難を受けた例は「この事実を・・・」には一例があるのみである。むしろ、強姦後の女性が自殺しようとして夫など周りの人に止められた例が多い。これは強姦が圧倒的な強要によって行われ、女性にはまったく落ち度がなかったことを示している。また、家族の殺害、略奪、放火などにより、女性の自殺企図、精神に異常を来す例は非常に多い。

E.自発的売春、和姦への移行

【ベルリン】強姦に関してはドイツ女性に物資、特に食糧を与える場合があった。日を追うに連れ、ドイツ女性の側でも食糧・物資を求めて「自発的な」形での売春に転じることがあった。ソ連兵によって愛人として認識される交際に発展する場合があった。兵士の暴行から免れるために将校の庇護下に入ったところ将校によって暴力的な優越ではなく、地位・権威上の優越に基づく和姦への移行を含めた、強姦を受けたことがある。
■南京■終始、暴力的な形の強姦が主流であった。性欲望を持続的に満たすために拉致・監禁をおこなって強姦の常習、性奴隷化を伴うことがあった。この帰結として慰安所が開設されたが、自発的売春行為者とは性格を異にし、日本軍による管理売春であり、組織的な強姦であった。その頃から中国人女性の間にも自発的売春行為に応じる女性が出現しているが、記事は少ない。また、慰安所ができても強姦は減らなかった。これは破壊的、嗜虐的性行為が癖になってしまったからである。

F.強姦後の虐殺、異常な性行動

【ベルリン】強姦後の虐殺、異常な性行動の記述はない。
■南京■強姦後の虐殺、それも腹を切り裂いたりとか、胸を切り裂いたりとか、それをまた人目につくところに曝すとか、異物を性器に刺入する、周りにいるものに性交を強要させて見て楽しむというような異常性欲、猟奇犯罪じみた行為があった。もっと残酷な例では妻が強姦・輪姦される間、夫が身動きできない状態でその行為を見させ続けたという例がある。

G.組織的な強姦の有無

【ベルリン】組織的な強姦に関する記述はほとんどない。
■南京■上官の強姦示唆発言は占領後も生きていた。憲兵は強姦の阻止に働かず、効果的な防止策をとられなかった。また、小隊単位で拉致・監禁し輪姦を行った。

『南京戦』では次の証言がある。

◆第十六師団第三十三連隊第三機関銃中隊 依田修
私らが行く所は慰安所というのはなかつたし、いつも一線ばかりだったので慰安所なんかは行ったこともないし、あるということも知らなかった。その代わりに「女性を徴発して来い」と言いわたされることがあります。夜中に一ぺん、「女を洗濯婦として徴用せよ」と言われたことがありました。それは小隊に出た命令です。いい顔の女は皆連れて来ました。大体向こうに行くとクーニャンは一人で部屋にいるんですな。夜中に襲撃して、寝ている女性を二十人から三十人連れてきて、各分隊に三人ぐらい配分する。《略》分隊に配分された場合は分隊長からやるんです。連れてきたときは抵抗するよりも泣いていましたな。(『南京戦』pp97)

◆第十六師団第三十八連隊第一大隊 田所耕太
分隊で訓練しているときは駐屯しているところへ女を見つけてきて分隊で飼うとんや。一週間か二週間したらもう帰して替わりを捕りに行くんや。寺へ行ったらなんぼでもおるんや。寺は大きな家やから逃げてきてるんや。行ったらおるんや。《略》分隊の駐屯は民家を使っていた。三人くらい連れてきて飯を食わせていた。飽きたら替える。(『南京戦』pp282)

つまり、小隊、分隊単位での拉致・監禁・輪姦を行うわけでこれは立派な軍の組織としての行動といえる。この行動が師団、連隊としての命令に基づいていないから組織行動ではなかったと捉えるのは正確ではない。あらゆる階級において上官命令の無視の風潮がまん延しによって、小隊、分隊単位の自主的・組織的な強姦活動が発生したとらえるべきであろう。


さらに天野郷三中尉のごときは中隊長でありながら、部下に命じて女を集めさせ、自らは専属の女を連れて歩いていたという。ベルリンにおいては兵士の組織的強姦は将校によって阻止された。将校によってかわりに行われたのは、強姦されかかった女性に対し、助けた恩を着せつつ自分の権力をカサに巧みに和姦に持ち込むことであった。将校みずから、性奴隷化を追及するやり方と精神的な風土の違いを感じさせる。


このように、日本軍の強姦はベルリンにおけるソ連軍の強姦とははっきり異なっていた。ヘルケ・ザンダーは同時に、ドイツに進駐した各国連合国軍による強姦との比較研究を行っており、どの国の軍隊でも多かれ少なかれ強姦を行った。しかし、その悪質さはその国の民主化の度合いや貧富の程度によって違っているようである。二階家というものを見たことがない、ワイン樽の栓というものを知らず、ピストルで穴を開けて飲んだという、粗暴なソ連兵、フランス軍の一部であるセネガル兵部隊がひどかった。アメリカ軍の場合は総じて大人しく、力づくの強姦よりはその周辺に出来るバーや売春施設の繁盛にすぐさま寄与したようである。
  これらの中にあって、日本はそれほど民主主義の進展度合いは遅れてもおらず、貧しくもなかったはずでもあるのに、二〇世紀で最悪の強姦事件を達成した。ドイツ大使館員ローゼンの言を借りれば「恥辱の記念碑」をうち立てたのである。

虐殺否定論者や自由主義史観の論者は「強姦はいつの時代の戦争にもどこの戦争でもあったこと」と言って日本軍の強姦を相対化する。しかし、ヘルケ・ザンダーの著書によって比較すると、日本軍が比較を絶した残虐な強姦行為をした事実が明らかになった。


X.強姦の原因
 北村はおそらく、性的欲求の充足としての強姦しか想像することが出来なかったのであろう。戦場で行われる強姦は次のような種類がある。

1.男性側と女性側の力関係が男性側に一方的に傾き、かつ外的な抑制がないとき
2.戦時の緊張状態からの解放としての性欲の昂進
3.敵性住民に対する報復、懲罰、復仇、征服の情念
4.嗜虐趣味とその快感の全面開放

1.は平時でも一定の条件が満たされるときは起こりえる。
2.南京でも、ベルリンでも陥落直後に多く見られた。しかし、南京では陥落により戦争が終り、本国へ帰れるという期待が裏切られ、ストレスは続いた。
3.ベルリンでは陥落後には女性を敵性住民と見る見方はない。南京では「残敵掃討」は持続して行われ、また老若男女みな殺せの指令があり、敵性住民との意識は持続した。
4.による強姦は南京にあって、ベルリンにはなかった。

嗜虐の快感の全面的な開放は1−3が揃い、しかも強姦を繰り返す学習効果と、敵国人をムシケラのごとく見られるようになって始めて起こる。南京における強姦をもっとも特徴付け、他と区別するのはこの嗜虐趣味とその快感の全面開放タイプの存在である。

日本兵が徹底した侮蔑によって残虐な強姦が可能になっていたことを示すエピソードがある。

◆「斉藤曹長は<境>にいた頃から、軍務はしっかりするし、ふだんは善い男だった。ただ女癖だけが滅法悪くて敬遠されていた。女を強姦した経験のある兵隊だってチョイチョイあるが、彼の場合は、作戦中にみたシナ人の女を必ず強姦して必ず殺した。それも数十人斬りどころではなく、数百人斬りだろうと噂されていた。 ところが昨年十二月初、<境>が貴州省の独山まで攻めこみ、例によって彼が女を犯そうとしたとき、その女が日本語で「やめて」と叫んだ。ビックリして事情を訊くと、横浜育ちの日本人でシナ人に嫁ぎ、シナ事変勃発後は夫に従って独山にかえったのだという。彼は単にやれなくなったばかりではない。その日の驚きを親しい戦友にその日に洩らしただけで、黙り込んでしまった。 人柄もすっかり変わり、女になんの興味も示さない。軍務は依然としてキチンとするが、軍務以外のことは何もしゃべらない。」(阪本楠彦『湘桂公路一九四五年』)


Y.結語−郭岐証言を否定する北村の歪んだ常識

北村が郭岐証言を否定する根拠を述べる。

#筆者は、郭岐を嘘つき呼ばわりをするつもりはない。これらの虚構は、中国人の深層意識に訴えて抗日意識を喚起するために考え出された戦時宣伝の一環である。それは、各節のおわりに必ず戦意高揚の言葉が書き連ねていることからも理解される。(pp131)

 北村は、まぎれもなく「嘘つき」と言っているではないか。何を言っているのだろう。証言が真実か否かは、証言者の動機や背景、主張とは独立した事象である。証言が真実か否かは、その証言内容が詳細であり、真実の告白を持つかどうか、他にその証言を指示する事実、証言があるかどうかで判定しなくてはならない。

  現在の自分の「常識の枠」によって証言内容を否定してはならない。この方法では動機、背景を憶測する検証者の先入観、偏見というものが検証される機会というものが与えられない。自分にとって理解しにくい事実を見たときこそ、その事実の確認を万全にしなければならない。そのような事実こそ、真実の曝露や「常識」の枠を越えた人間行動の真実を発見する手がかりになることがある。そして、動機がないからしていないはずだ、というのは過去に現れた否定論者のすべてに共通した思考方法であった。

本稿においては郭岐証言と共通する、あるいは類似する事件多数を確認し、その上で日本兵の行動の原因・背景を突きとめた。日本兵の強姦は中国人蔑視と、敵視に基づき、軍上層部が大姦淫の下地を作って置きながら、その具体的な防止策を一切取らなかったことにより、下士官、兵士の自主的組織行動によって乗り越えられてしまったのである。

北村の主張する「常識」には戦前からの中国人蔑視観、中国人特殊論が入っていた。歴史学者、法律学者としての豊富な知識も解析能力も北村の持つ「常識的見方」のために目をふさがれてしまった。北村が今後もまともな歴史学者、法律学者として扱われたいなら、まず事実が何であるかを原点に立ち返って、調べ直すべきだろう。

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欧陽都隣証言参照のこと。