グースの百人斬り否定論を反駁する 2008.07.01 first upload 2008.08.01 reviced |
(1)戦果(スコア)を競う意味 百人斬り報道は(略)、向井少尉、野田少尉が敵陣に乗り込んで日本刀で敵兵を斬りまくり、どっちが先に100人を斬るかを競ったというものです。 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競う、というのはかなり珍しいことと言えます。もっとも空中戦においては、かなり初期から個人の撃墜数(スコア)を記録するということが行われていました。例えば複葉機の時代、第一次大戦でも多数のエースパイロットが誕生しています。 エースの条件は国や時代によって違いますが、現在では5機撃墜以上が条件として定着しています。 空中戦は航空機同士が接触すれば始まります。第二次大戦の頃、戦闘機の武装は機関砲ですから、一度に攻撃可能な目標数は「一機」だけです。 陸上戦の場合は白兵戦が起きるかどうかは未知数です。戦闘に参加したからといって、すべての部隊が白兵戦に加わるとは限りません。とくに砲兵隊などは、遠距離で砲撃するのが仕事ですから、よほどの事がない限り白兵戦に加わることはありません。また陸上戦闘では「複数目標を殺傷」可能な武器が一般的に使用されています。機関銃、機関砲、大砲、手りゅう弾などもそうです。 こういう事情もあって、陸上戦闘では「個人の戦果」というものを確認するのは難しく、空中戦と違って個人戦果が記録されることもあまりないということができます。 |
(1)百人斬り報道は、向井少尉、野田少尉が敵陣に乗り込んで日本刀で敵兵を斬りまくり、どっちが先に100人を斬るかを競ったというものです。 |
東京日々新聞の報道に「敵陣に乗り込んで」、「敵兵を斬る」ことを「百人斬り」としている部分は存在しません。そのように読めるように誘導する文章ではありますが、その誘導を行ったのは両少尉であって、記者ではありませんでした。
もっとも空中戦においては、かなり初期から個人の撃墜数(スコア)を記録するということが行われていました。 |
個人の戦果が確認できる、視認できるという戦闘というのはほぼ個人対個人の接近した戦闘に限られます。近代戦ではこのような戦闘場面は非常に限られます。戦闘機による空中戦で撃墜数を競う
こと
があったのは、比較的最近まで空中戦が基本的には航空機の一対一の戦闘であった時代があったからです。しかし、これも編隊同士の戦いともなれば、個人対個人の戦闘では
ありえず、個人
が申告する戦果は乗員の主観に過ぎませんでした。例えばノモンハン事件での空中戦ではパイロット
が未熟なせいもあり、個人の戦果を集計をしたところ敵機の三倍もの数になってしまいました。空中戦で必ず自分が撃墜した敵機を確認できたわけでは
ありません。
こういう事情もあって、陸上戦闘では「個人の戦果」というものを確認するのは難しく、空中戦と違って個人戦果が記録されることもあまりないということができます。 |
日本刀を振りかざしての闘いにおいては自分の刀が相手に「当たった」という感覚は明瞭に持つことが可能です。その結果が○○人斬りという戦果の公言になり、新聞記事にな
りました。しかし、集団的な白兵戦では
日本刀で敵兵を斬った(敵兵の体に当たった)としても、斬り殺したのか、傷つけただけなのかはわかりません。集団的な白兵戦の場合、軍刀が当たったあと銃剣刺突によって死んだものもあるはずです。集団的白兵戦の中の「○○人斬り」は主観
です。
○○人斬り競争を行うとして、双方の戦果を確認することが出来ないのに、どうして成り立つか、という指摘があります。それは友人同士が「武士道精神」に乗っ取り公明正大な申告をして競技を楽しむという
暗黙の了解において成り立ちます。空中戦での撃墜数においても事情は同じでレフェリーというのはいません。つまり騎士道精神、紳士協定です。もしも、ウソの戦果を言って勝ったとしても、勝った喜びというのはないから、お互いウソはないはずだと思うから
ゲーム、スポーツとして成り立つのです。野田少尉も後に新聞記者に「敵も逃げずだから、百人斬りというスポーツ的なこともできた」と公言しています。ただし、レフェリーが存在しない以上、勝負が白熱し、勝ちを焦れば本来のルールを逸脱しない保証はありません。
(2)なぜ日本刀でなければならなかったのか? 「戦果」つまり「敵兵の殺傷数」を競うのであれば日本刀でなくても構わないわけです。銃でも銃剣でも何の問題もありません。日本刀で殺傷しても、銃で殺傷しても戦果(スコア)は「一」です。ちなみに「据えもの斬り」だとしても同様です。日本刀でなければならない必然性は存在しないのです。 しかしながら、読者受けする物語(虚構)だとすれば、「日本刀」でなければならない必然性があるといえます。 機関銃で100人くらい撃ってもあまりおもしろくありません。虚構としてはいまいちです。逆に日本刀で100人斬りまくるというのは物語として面白みがある。日本は武士道の国ですから、日本刀で敵をなぎ倒すほうが話としては痛快でしょう。戦争ですから、銃で敵兵を百人殺しても当たり前ですから、特ダネにはならないわけですね。 |
「なぜ日本刀でなければならなかったのか? 」− グース氏自身はこの問いの重要性に気づいていないで
しょうが、これは真に重大な問いです。
「戦果」つまり「敵兵の殺傷数」を競うのであれば日本刀でなくても構わないわけです。銃でも銃剣でも何の問題もありません。 |
銃では自分が狙撃して殺したという実感も、確信も持たれないことは先ほど確認しました。
軍隊において日本刀に対する憧れ、ファンタジーが生じており、それは銃後の国民にも蔓延していました。これは 報道された○○人斬り を参照して下さい。この背景を理解しなければ百人斬り競争を理解することはできません。同じく殺傷しても銃や機関銃、大砲では
報道されず、日本刀で殺傷すると拍手喝采で受け入れら
、好んで報道されていた、という時代背景があるからこそ、百人斬り競争がありえたのです。
当時の新聞記事全体を見回しても、機関銃掃射で戦況を挽回したとか、砲撃で窮地を脱したという記事はなく、見出しは必ず日本刀を揮っての敵陣突入になっているという事実があ
ります。また、日本刀の携帯を必要とされない、兵士が好んで日本刀を持って行ったこと、銃剣を持っている兵士が捕虜を殺害するときにあえて、上官に願って日本刀を借りて殺害した事例があったことで、日本刀ではなくては得られない満足感を持っていたことがわかります。
しかしながら、読者受けする物語(虚構)だとすれば、「日本刀」でなければならない必然性があるといえます。日本は武士道の国ですから、日本刀で敵をなぎ倒すほうが話としては痛快でしょう。 |
逆説的ながら、グース氏は日本刀による人斬りが受け入れられる背景を理解しています。読者受けするということは兵士にとっても賞賛を受ける、名誉な行為であると受け取られていたことを示してい
ます。
グースの「日本は武士道の国だ」という理解もまたその通り、語られて痛快なことはやってみたくなるのが当然でしょう。
下士官たちは白兵戦での日本刀を振りかざしての突撃に憧れますが、上海陥落後の追撃戦においてはそういう戦場は少なくなりました。その間隙を埋めたのが、
逃走する敵部隊から脱落した敗残兵の掃討です。弾薬を撃ちはたし、有効な抵抗はできなくなっていたとしても、日本刀で殺害されるとなったら、なにがしかの抵抗はします。
敗残兵の掃討は真正の白兵戦と据えもの斬りの間をつなぐ、「白兵戦もどき」となり、下士官の意識の中では一続きのもの、同質のものと認識されるようになります。南京戦当時
は捕虜の殺害でさえ、「戦闘の続きだ」と言われることもありましたから、最も勇ましく、晴れやかなイメージで捉えられていた日本刀による「戦闘行為」
を好んで記者に語ったのは容易に理解できます。
斬首は
選ばれて兵を率いる士官だからこそできるという一つの栄誉でもありました。また、捕虜の斬殺はしばしばはじめて戦場に出て戦う下士官の戦闘訓練のひとつとして行われていました。
士官は日本刀を振るって捕虜を斬首することで一人前になったような感覚を抱き、その行動を通じて日本刀を振るって敵陣へ斬り込むための勇気をつけ、憧れを増幅させて行ったのです。戦闘においても、捕虜、敗残兵の処刑においても
日本刀を揮っての行為が合理性を超えてひとつのシンボライズされた様式になりました。戦況が追撃戦になるに及び日本刀を揮っての白兵戦
の機会はいよいよ少なくなりましたが、それが出来ない代わりに据えもの斬りが流行ることになりました。
日本刀をふるっての「戦闘行為」に対する自己陶酔は新聞記者を巻き込んで、国内の読者を熱狂させました。新聞記事は国民と兵士の間で百人斬りを鼓舞し増幅
し、多くの追随者を出します。百人斬りは決して空虚な実体からなる虚構ではありません。捕虜・民間人の斬首や、敗残兵・投降兵の処刑、白兵戦もどきを含めた虐殺行為を、日本刀をふるって戦場で活躍する勇壮なイメージで覆い隠
したのが「百人斬り報道」「○○人斬り報道」でした。
(3)戦果競争はあったのか? 両少尉が最前線で戦う歩兵の隊長であれば、互いに戦果を競うということはありえるかもしれませんが、現実には向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官でした。両者とも所属が違いますし、最前線で積極的に 白兵戦に参加する兵科でもありません。 戦争ですから敵に包囲された場合などは、砲兵でも工兵でも白兵戦に参加することになりますが、基本的に砲兵隊は遠距離砲撃が仕事です。砲兵隊所属の向井少尉が予め白兵戦の予定を立てるということはまずないでしょう。 つまり、兵科の違う二人が、相談して「何らかの戦果を競争する」ということは理論的に考えるとまずあり得ないということができます。つまり百人斬りやそれに類する競争行為はそもそも行われていなかったと考えられます。 百人斬りに関する一次資料が不自然なほど出てこないのも、「虚構の競争」であると考えればむしろ当然ということになるでしょう。 (※ 大隊司令部が戦場に位置する場合もあるので、状況によっては大隊長クラスでも副官クラスでも戦場に出ることはあります。当然ですが戦死する場合もあります。これは作戦の内容またはは戦況によってそうなるだけで、大隊司令部、大隊副官が常に白兵戦を行っているわけではありません)。 |
新聞記事において「戦果競争」という呼び方、位置づけはされていません。百人斬り競争を認めていた二少尉の発言においても同様です。戦果とはもともと作戦命令を出す側が作戦目的と照らし合わせて言う言葉
ですから、当人たちが私的なゲームと位置づける百人斬り競争を、あえて「戦果競争」と言い換える意図が疑われます。
二少尉の発言から見る限り、
競争は友人の間の武功、武勲の自慢、手柄話という位置づけであったことを示しています。
両者とも所属が違いますし、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科でもありません。 |
野田少尉が報道されるくらいの戦果に憧れていたことを示す資料があります。 しかも、戦闘の最後を決するのは日本刀だと考えていたことも明かされています。友人の六車少尉(第一大隊副官)などが、日本刀を振るって敵を斬っていると言う話を聞いてうらやまし がっている様子を手紙に書いています。
野田少尉が百人斬りを開始する以前の10月段階で書かれた手紙 「同隊の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。・・・・なお大阪毎日と鹿児島の新聞を一部ずつ送って下さい。ほとんど一月おくれの新聞を読んでいるし、戦線では新聞がなにより楽しみです」「ご期待に副うだけの働きはこれから十分するから安心してくれ」 既報百人斬りを誓って江南の地に勇名をとどろかせている冨山部隊の野田毅少尉は、鹿児島県肝属郡田村村出身、鹿児島県立一中から士官学校にすすも、本年八月少尉に任官した青年将校・・・・出陣にあたって「近代戦争は科学兵器の戦闘であるが、最後を決するものは依然として大和魂だ。日本刀だけとわざわざ郷里にいる愛刀家の叔父田代宮熊氏の愛刀二百本のうちから鹿児島の名工波平作の二口を撰んで譲りうけ「これさえあればやるぞ」と勇躍出征したものである。 |
第二大隊の副官であった六車政治郎少尉は「敵を斬った数は俺の方が多い筈だ」と思ったことが書いてあり、副官も日本刀を揮っての武功に関与したことは明らかです。
「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。 |
同じ部隊に所属し、友人である二人の少尉が会う機会はあっておかしくありません。二人がそれぞれに日本刀を振るっての戦闘もどきの体験をし、それを自慢しあうところからこの競争が始まったのです。
真正の白兵戦ではなく、敗残兵相手の「白兵戦もどき」として始まったとすれば、百人斬り競争を説明できます。
百人斬りに関する一次資料が不自然なほど出てこないのも、「虚構の競争」であると考えればむしろ当然ということになるでしょう。 |
私的なゲーム、スポーツでしている競争に対して公的な記録がないのは当然です。しかし、野田氏は浅海記者の取材以外にも鹿児島毎日新聞、郷里への手紙、小学校での講演などで証言したことが、資料として残っています。百人斬り競争の実態
を示す程度の量の一次資料は本人たちが残しています。
(4)据えもの斬り競争はありえるか? 虐殺肯定派(あった派)は、百人斬りは戦闘行為ではなく、捕虜(捕虜扱いされた民間人を含む)の処刑だったと主張しています。いわゆる「据えもの斬り」で、しばられ無抵抗になった捕虜を日本刀で殺害したのだとしています(例えば、本多勝一氏、『南京大虐殺否定論13のウソ』など)。 しかしちょっと考えれば、「据えもの斬り」で、どっちが先に100人殺害するのか競争するのはナンセンスということがわかるでしょう。 無抵抗の捕虜を殺害するのですから、剣術の腕などもあまり関係なく、捕虜の処刑に立ち会う回数で勝負がついてしまいます。また、処刑数を競うのであれば日本刀でなければならない理由もありません。 そもそも捕虜は安定して確保されるわけではなく、もしかすると南京陥落まで捕虜と出会わない可能性もありますし、逆にいきなり数百、数千の捕虜を確保する場合もあります。このように他人まかせ運任せな据えもの斬りの場合、競争そのものが成立しないと考えられます。 日本軍は南京に向かって強行軍で進んでいましたから、のんきに時間をかけて捕虜を集めたり、時間をかけて日本刀で殺害している時間はなかったものと考えられます。また、砲兵隊は通常部隊の後方に位置する為、進軍中に捕虜を確保する機会はあまりありません。 理論的に考えると、両少尉が”競争として”据えもの斬りを行っていた可能性は限りなく0に近いと言えます。 |
据えもの斬り競争はありえるか? |
ここでなされている議論は「ありえるか、ありえないか」の話であり、「あったか、なかったか」の話ではありません。「あったか、なかったか」は資料を元にした議論ですが、「ありえるか、ありえないか」の話はともすれば主観でなんとでも言える話に堕してしまいます。南京事件の論争の各分野では否定派がこのような「ありえるか、ありえないか」の議論に矮小化することが行われています。
まず、二少尉が自ら東京日々以外のメディア、あるいは講演会、あるいは家族のものに「百人斬り競争」と称するものを行っていたことを公言しており、その実態は戦闘での百人斬りではありえないのですから、「白兵戦もどき」あるいは「据えもの斬り競争」であることは間違いがないと言っていいでしょう。
無抵抗の捕虜を殺害するのですから、剣術の腕などもあまり関係なく、捕虜の処刑に立ち会う回数で勝負がついてしまいます。また、処刑数を競うのであれば日本刀でなければならない理由もありません。 |
当時は敗残兵、投降兵は他の将兵もただちに殺害していました。したがって、据えもの斬りといえども捕虜をとるにはそれなりに、前線に出ていって投降する中国兵を確保しなければなりません。副官や砲兵隊長といえども、戦況によっては戦闘に参加することは出来たこと、また、草場支隊の戦いは
敵部隊との正面戦闘を避けて迂回してでも早めに南京到着を目指していたことが判明しています。トーチカに籠もる敵兵との塹壕戦などは避けており、戦闘らしきものは敗残兵の掃討
以外にはなかったという事実があります。
斬首には斬首の技術があります。また、敵兵の処断(斬首)自体がその将兵の武功として認められていたという当時の軍隊内の状況があります。日本刀でなければならない訳はすでに述べました。
そもそも捕虜は安定して確保されるわけではなく、もしかすると南京陥落まで捕虜と出会わない可能性もありますし、逆にいきなり数百、数千の捕虜を確保する場合もあります。このように他人まかせ運任せな据えもの斬りの場合、競争そのものが成立しないと考えられます。 |
無錫から常州に至る間での「戦闘」で二人とも多くの敵兵を斬ったわけですが、それまでのような捕虜の獲得ペースが続くことを予想したからこそ、競争を始めたのでしょう。私的な競争であり、「スポーツ的なこと」でしたから、百人に満たないで不成立になったり、中断を余儀なくされてもそれはそれで問題はありません。百人も斬れば面白かろう、賞賛を浴びるだろうという、始めるに当たってのモチベーションがあれば百人斬り競争をする理由としては十分です。
二少尉のうち向井少尉は昭和14年になっても野田少尉に約束した三百人斬りをしようと努力している、と述懐しています。すなわち、百人斬りとか○○人斬りは二少尉にとってもともと自らを高めるための努力目標であったのです。
「据えもの百人斬」りの場合は(狭義の)戦場ではない場所での処刑ですから、軍による組織的行為ということになります。 これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。また、処刑の光景を目撃した者や準備を行った者も多数存在することになります。こういった情報や伝聞はかならずなんらかの一次資料(同時代に存在した史料・陣中日記など)に残るものと思われます。 こういった一次資料(同時代史料)が不自然なほど出てこない以上は、百人斬りは限りなく虚構に近いと考えて、歴史学上は問題ないのです。 |
「据えもの百人斬」りの場合は(狭義の)戦場ではない場所での処刑ですから、軍による組織的行為ということになります。 これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。 |
「据えもの百人斬り」が軍による組織敵行為に当たるかどうかということをなぜ問題にするのかよくわかりません。敗残兵・投降兵・捕虜の「掃討」まで含めて当時の軍は戦闘行為とすることが多いようですが、軍が「据えもの斬り」とか「百人斬り」というジャンルそのものを組織的行為と認識することはないでしょう。戦闘詳報を見ても捕虜数の報告はありますが、「捕まえた記録、連行した記録」などが記載されたものを見たことはありません。
これが事実であるならば、捕虜を捕まえた記録(戦果)、連行した記録、などの当事者の記述や目撃情報が数多く残ることになります。また、処刑の光景を目撃した者や準備を行った者も多数存在することになります。こういった情報や伝聞はかならずなんらかの一次資料(同時代に存在した史料・陣中日記など)に残るものと思われます。 |
捕虜として拘束後、収容されたり、後送したりした場合は記録に残るでしょうが、敗残兵・投降兵の段階では収容する前に殺害するのが十六師団の方針でしたから、記録として残らないのは当然で
した。
この場合は掃討・殲滅の中に記録されます。また、民間人、農民の場合、記録する対象ではありません。捕虜獲得や、敗残兵殲滅自体に特に戦況を転換し、戦局を動かす
働きはありません。捕虜獲得に至るような戦闘であって戦況を転換するようなはたらきには勲功を与えられるでしょうが、敗残兵の掃討や捕虜の処分の当事者を特に記録するという習慣は
ありません。また、一人で通算して百人を斬ったとしても、一回では数人、十数人の殺害であり、当時はよくあったことですから、目撃記録を残すほどのことでもなかったでしょう。
また、百人斬り競争があれば、一次資料が残るはずだというのは多数の一次資料が残っているという前提があってはじめて言えることです。もっとも重要な十一中隊の戦闘詳報
まるごとが失われた状態では(あるいは、特に秘匿されている状態では)文献にないから、事実がないということは言えません。「一次資料が不自然なほどない」と
すればそれは敗戦時に出された資料を焼却する命令のせいではないでしょうか。
A.志々目回想記をめぐる議論
100人斬りを支えるあやふやな資料(1) 志乃目(ママ、 グース氏のミス、志々目が正しい)回想記 「百人斬り競争」が「据えもの斬り競争」であるという根拠としてよく引用されるのが志乃目回想記です。この回想記は、志乃目氏が小学生の頃に聞いた講演の内容を、1971年になって月刊誌『中国』12月号で発表したものです。
この回想記を『重要な史料』と位置づける学者はまずいないと思います。 |
この回想記を『重要な史料』と位置づける学者はまずいないと思います。 小学生の時に聞いた講演内容を、何十年も後に書いたのですから、記憶が変質していたり、実際の講演の内容と記述内容に齟齬があって当たり前だからです。 |
小学生であったから記憶がすべて変質しているという決めつけはよろしくありません。各自、振り返って見て小学生時分の記憶のすべてがまったく信頼性がないと考える人はほとんどいないでしょう。記憶というのはその人の興味の焦点を少しはずれた部分ではかなりの記憶の変質、改変が起こりますが、一番の関心事や興味の焦点に対して、あるいは強く感情を刺激する点においては強く、保存されます。
また強い記銘というものは反復想起されて記憶の強化が起こっているものです。
志々目回想記
では「(野田少尉が)ずるいな」という思い、「支那人というのはそんなに馬鹿だろうか」と強い疑問が後々まで残り、その記憶が成長の過程毎に反復して追想され、次第に野田少尉のレトリックを見抜けるようにな
った経過が語られています。記憶を裏付ける関心の焦点が明らかであり信憑性はかなり高いものです。
これを史料として使う為には、関係者が多数生存しているのですから、講演を行った学校の先生や、同級生その他の生徒に講演の内容を確認する必要があります。 |
野田氏が講演をしたことは他の証言・新聞資料にもありました。
同様の記事は昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞「斬りも斬ったり敵兵三百七十四人剛勇野田少尉突如加世田に凱旋」
でも見られます。
|
当然ながらこういったあやふやな根拠で、両少尉を犯罪者扱いすることはかなり問題があります |
百人斬りを裏付ける資料その他の資料とともに、信憑性の高い証言に基づいて歴史的事実を指摘することは問題ありません。また、個人を犯罪者として扱うために摘示したものではないことも明らかです。
もともと百人斬りの報道は戦場での武勇伝ですから、両少尉がこれを否定する理由は何もありません。かなりの有名人でしょうから講演に呼ばれることも多々あったと思います。報道された以上は「100人斬りの英雄」を演じなければなりませんから、野田少尉が百人斬りで講演を行ったということは不審ではありません。が、志乃目回想記の講演内容はちょっと異様な感じがします。 百人斬りの英雄として呼ばれたはずなのに、いきなり、戦闘では四、五人しか斬っていないと語るのはいかにも不思議な感じがします。もっとも、日本語はちょっと変えるだけで印象がかなり変わってきますから、小学性だった志乃目氏の記憶違いもあるのかも知れません。 もっとも戦場での百人斬りはあまりに常識ハズレなので、適当につじつまを合わせた可能性もあります。いずれにしても「百人斬りの英雄」としての講演ですから、野田少尉が「戦果を競う行為」をまったくやっていなかったとしても、やったという前提で語るでしょう。でなければ講演など引き受けないでしょう。 百人斬りは武勇伝です。空中戦で何十機も撃墜したエースパイロットを思ってもらうと判りやすいのですが、戦果を否定しなければならない理由はありません。百機撃墜と報道されたら、次の目標は二百機と語ることになるでしょう。原因(報道)と結果(英雄を演じる)を考えれば、おのずから結論は出るものと思われます。 |
もともと百人斬りの報道は戦場での武勇伝ですから、両少尉がこれを否定する理由は何もありません。かなりの有名人でしょうから講演に呼ばれることも多々あったと思います。報道された以上は「100人斬りの英雄」を演じなければなりませんから、<略> |
武勇伝の話を期待されているとわかっている講演依頼に身に覚えのないものががすすんで応じるとは普通では考えられません。講演に出る、出ないは当時でもまったく個人の自由でしょう。
もしも、記者の虚偽の戦功報道にすすんで協力したとすれば、講演では漠然とした武勇伝を語るくらいはしたかも知れません。しかし、志々目回想における講演内容は
リアルな投降兵処断の話でした。この内容では「虚偽報道」に協力した話にならないことは明らかです。
グース氏の原文では「記憶違いの例」というのが掲示してあるのですが、意味不明なのでここでは省略しました。
B.望月手記をめぐる議論
100人斬りを支えるあやふやな資料(2) 望月手記 100人斬り裁判(名誉毀損で両少尉の遺族が毎日新聞社、朝日新聞社、本多勝一氏を訴えている裁判、現在係争中)の過程で出てきた新史料がこれです。私家版(自費出版?)ですからこれまで埋もれていたものと思われ検証もされていないと思います。当然ながら私も現物を見てはおりませんが、WEBサイトで提示されているものを抜粋して引用させていただきました。
こういった、戦後に捏造可能なものしか百人斬りを支える史料はないというのが現実です。東日記の裁判でも、日記原本は存在せずと認定され、回想記であり記述内容は虚構であると最高裁判決が確定しています。また『南京事件』偽史料列伝(6)で例をあげているように、虐殺があったという戦後の回想記や証言に虚構が多いことはすでに事実として証明されています。 |
これが日記であれば史料価値は高いのですが、戦後の1985年に発行された回想記です。100人斬り論争真っ只中に出版された回想記ですから、論争の内容を踏まえて出版することが可能だったことになります。つまり、記述内容が戦争当時のものであるという根拠がどこにもないので、史料価値はかなり低くなります。 |
私家版ということは個人の戦争記憶を記録にとどめようという目的のもとに書かれたものと解するのが相当です。したがって百人斬り論争に特段の肩入れをする目的はなかったと推察されます。また、この記録が全体としては日本軍を悪く言う目的ではなかったことは
戦後はもっぱら南京大虐殺否定論、百人斬り否定論の旗振り役の1人として活動してきた犬飼総一郎氏がこの著作を靖国神社に寄贈したことでも明らかで
す。
参照http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/intisol/hyakunin4.htm
望月回想記の問題点 |
「処刑の日時」「周囲の状況」「人数」などの詳細がないから信頼できないということはありません。記憶は記録者のそのときの立ち位置、関心事に照らして合理的な言及範囲を持っていることが自然なあり方です。望月氏のこのときの関心 の中心は百姓を捕らえて斬首するという残虐行為に対する怒りであって、「処刑の日時」「周囲の状況」「人数」に対する関心まではないのが当然でしょう。グース氏自身「取り合いの現場を望月氏が目撃できるという状況はかなり限られている」と考えていますから、望月氏 の証言にそれらを求めることはできないはずです。
指揮系統から考えると野田少尉は望月氏に命令する権利はなかったと考えられます。 |
作戦行動においは直属の上官の指令だけを受けます。民間人を拘束して連れて来るのは、作戦行動に当たらないのは歴然としています。厳然たる階級社会である軍隊において はたとえ私的な用向きだとしても士官の命令を兵士が拒否するということは考えられません。私的な制裁さえ横行する軍隊において上官の命令の拒否を権利・義務関係で判断するのはかなり非常識な議論だと思われます。
こういった、戦後に捏造可能なものしか百人斬りを支える史料はないというのが現実です。 |
戦前の資料では百人斬りをした、という資料しかなく、しかも
それは当人の証言です。また、百人斬りや捕虜の斬殺をしなかったという証言も裁判に直面していた当人の証言です。また、志々目証言は戦前における野田少尉の講演内容を伝えたものです。つまり、これまで百人斬りに関しては当人自身の証言しかなかったわけです
。望月証言は第三者による唯一の目撃証言ですから、ひじょうに重要な史料としなければなりません。
「戦後に捏造可能だから、信憑性がない」という議論は成り立ちません。もしそれが成り立つのならば、百人斬りや捕虜の斬殺をしなかったという二少尉の証言もまた
戦後になされたものですから、信憑性がないということにな
ります。望月回想記が「百人斬りが問題とされた後にされた証言だから、信憑性がない」というであれば、二少尉の否定発言は裁判を意識した証言であるから、信憑性がないことにな
ります。二少尉の百人斬り否定証言がなくなれば、百人斬りをしたという資料しかなくなりますから、論争はそれにて終結します。
そもそも、戦前において野田少尉は鹿児島朝日新聞、郷里への手紙、小学校での講演における証言でも百人斬りを公言しているのですから、百人斬りを支える史料が「戦後に捏造可能なものしかない」というのはまったくの誤りです。
まったく滅茶苦茶ですね。 |
当時の報道を知らない人が本多氏のルポを読んだら、百人斬りは戦争当時から殺人競争として報道されたと思うことでしょう。 |
本多氏は中国人の間に伝えられている「百人斬り競争」像をレポートしただけです。日本で殺人競争として報道されたと思う人がいるとはありえない話です。
中国の民衆の中に語り継がれた「百人斬り競争」像は外国人ジャーナリストが東京日々新聞の記事を翻訳、転載し、それがさらに中国の新聞に載ったものです。転載においては、日本人が持つ日本刀を揮っての戦闘に対する憧れという文化的背景は
到底伝えることが不可能であり、
理解不可能な残虐な殺人競争として紹介されました。しかし、どのような文化的背景で行われようと、百人斬りの実行内容は殺人競争以外のなにものでもありません。
「据えもの斬り」を示唆するような資料は本多ルポ(1971年)以降のものしかありません。それも歴史史料とよべるかどうか微妙なものばかりです。 |
戦前において百人斬りを二少尉が自ら認めていたことは新聞記事その他で明らかです。 百人斬りと呼ばれておかしくない競争そのものはあったのです。そして百人斬りの内実がなんであったかといえば、それは「据えもの斬り」でしかありません。
据えもの斬り説は、本多ルポ以降に誕生した「虚構」というのが客観的な評価ということになるでしょう。 |
据えもの斬り説は戦前からありました。
当時の一般国民はほとんどが白兵戦における百人斬りという虚構を信じていましたが、その中にあって、日本刀専門家と前線の軍人だけが、百人斬りとは「据えもの斬り
」のことを言っているのだ、と知って
いました。外国人ジャーナリストもまた、新聞を通じて日本の軍国主義的風潮を読みとり、捕虜・民間人の殺害であることを理解し、外字紙に翻訳・転載しました。
白兵戦による百人斬りが不可能という常識的な判断を下すことができた、この三者がそろって捕虜・民間人の殺害、すなわち「据えもの斬り」であるとみなしていたのは偶然ではありません。
白兵戦における百人斬りはないという常識が戻った戦後にあって本多勝一も据えもの斬り競争という見解をとりました。
当時の日本刀に対する信仰を客観視できるものにとっては明瞭なことでした。
三つの可能性 (1)百人斬り真実説 肯定派、否定派含めて百人斬り武勇伝が真実であると論じている研究者はおりませんし、話を聞いた新聞記者が白兵戦100人斬りを事実と考えることはありえませんから、この説は排除して構わないと思います。 (2)向井少尉もしくは野田少尉創作説 この説が成立する為には、予め二人が相談して物語の概略が完成している必要があります。仮に片方だけが創作した場合、もう一人は話を合わせられないわけですから、新聞記者も作り話であることがわかることになります。 この点は、「据えもの斬り」を「武勇伝に創作」した場合も同様です。 しかしながら、インタビューされるかどうかも分からず、報道されるかどうかも分からない「虚構」を、所属も行動も違う二人が、予め綿密(完璧)に打ち合わせていたという可能性はまずないでしょう。 (3)新聞記者創作説 新聞記者が、両少尉のいずれか一方に「100人斬りの記事を書きたい」と創作を持ちかけたとします。 この場合、一人では競争になりませんからもう一人協力者を探すことになります。そして三人で考えながら100人斬りの細部を作り上げたとすればどこにも矛盾点はありません。兵科の違う二人が『戦果の競争を行った』というおかしな点にも説明がつきます。 |
なんと、あらかじめ「据えもの斬りの百人斬り競争」を排除しているという三択リストです。
(1)百人斬り真実説
肯定派、否定派含めて百人斬り武勇伝が真実であると論じている研究者はおりませんし、話を聞いた新聞記者が白兵戦100人斬りを事実と考えることはありえませんから、この説は排除して構わないと思います。 |
白兵戦での百人斬りがあったと考える論者はどこにもいません。ただし、話を聞いた記者が白兵戦の百人斬りだと考えたことは事実です。このことは浅海記者、鈴木記者、佐藤カメラマンの証言でも明らかです。
(2)向井少尉もしくは野田少尉創作説 |
グース氏は虚偽事実の創作を前提としていますから、二人同時の創作はありえない、としているのですが、百人斬り競争は虚偽事実ではなく、実際の行為ですから二人同時の発言はありえます。「ホラ」と「冗談」 にも書きましたが、虚偽事実を、しかも新聞に書かれることを想定して捏造するということはかなり良心
に痛みを感じます。ホラ説の場合、そうした良心の痛みなく、しかも二人が揃ってすることが可能です。
(3)新聞記者創作説 新聞記者が、両少尉のいずれか一方に「100人斬りの記事を書きたい」と創作を持ちかけたとします。 この場合、一人では競争になりませんからもう一人協力者を探すことになります。そして三人で考えながら100人斬りの細部を作り上げたとすればどこにも矛盾点はありません。兵科の違う二人が『戦果の競争を行った』というおかしな点にも説明がつきます。 |
「創作を持ちかけたとしたら」「・・・矛盾点はありません。・・・・にも説明がつきます」−まことに明快な論理というべきでしょうか(笑)。
実際には
していない百人斬り競争の創作記事に協力してくれる軍人を二人も調達するために、いったい記者は忙しい戦場取材の間に何人に声をかけたのでしょうか。それから、この説明では「三人で考えながら・・・作り上げたとすれば」となっているので新聞記者創作ではなく、共同創作説になって
しまいます。
新聞記者は知っていたはず 浅海記者が自分で創作を持ちかけたなら当然ながら虚構であることを知っているはずですし、仮に両少尉が完璧に打ち合わせて演技したとしても、所詮「チャンバラ小説レベルの武勇伝」ですから、作り話であることは容易にわかるでしょう。 戦場に同行する従軍記者が「白兵戦百人斬り」を真実であると考えたとは思えませんし、当然ながら新聞社も「虚報だと知っていて、戦意高揚の為に」あえて誌面に掲載したことと思います。 つまり百人斬りが報道が「虚報」であることは論争するまでもないのです。 野田少尉、向井少尉は新聞記事だけを証拠に『死刑』となりました。 当時記事を書いた浅海記者が『記事は創作でした』と真実を伝える勇気があれば、両少尉が『無罪』になった可能性が高いと思います。 |
浅海記者が自分で創作を持ちかけたなら当然ながら虚構であることを知っているはず |
創作なら虚構は当たり前の話。しかし、創作という証拠は何一つ提示されていません。
「浅海記者が創作を持ちかけた」というのは二少尉が裁判中に主張し始めたことであって、しかも最後にはその主張は引っ込めてしまった経緯があります(二少尉の主張の変遷
を参照のこと)。浅海記者、鈴木記者、佐藤振寿カメラマンはそれぞれ二少尉が話したままを記事にしたという証言をしています。
史料の上から「浅海記者が創作を持ちかけた」という推測は成り立ちません。
また、前節でグース氏は三人で作り上げた話であれば矛盾はない、としましたが、もしそうであるならば、国民政府に捕らえられた二少尉は記者が創作したなどといわず、最初から三人談合してでっち上げたものだ、と主張して記者の証言を求めたはずです。無実の人間ならば
最初のうち、記者の創作だと記者に責任をなすりつけ、後になって自分たちも関与したなどというように証言を変えるはずはないでしょう。
戦場に同行する従軍記者が「白兵戦百人斬り」を真実であると考えたとは思えませんし、当然ながら新聞社も「虚報だと知っていて、戦意高揚の為に」あえて誌面に掲載したことと思います。 つまり百人斬りが報道が「虚報」であることは論争するまでもないのです。 |
グース氏が「思えない」というのは何の証拠になるのでしょうか?
どうやら、百人斬り報道が虚報であるという証拠はグース氏の思いこみ以外何もないわけです。
野田少尉、向井少尉は新聞記事だけを証拠に『死刑』となりました。 |
これは南京軍事法廷の裁判批判ではあっても、百人斬り競争はなかったことの証明にはなりません。 鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」のルポにあるように、裁判長は二人はブランデーを賭けていたという証言していますから、実態がなにかを別として二少尉が日本刀を使っての競争をしていたこと になります。おそらく、二少尉はある程度、検察 に対して真実の証言をしたのだと考えられます。
南京軍事法廷では客観的な証拠が積み上げられて有罪が確定したかというと私にもそうは思われません。しかし、今回、否定派が求めて訴訟に訴えた結果、かえって両少尉の百人斬りの証拠が次々と発掘され、歴史的事実として確定するに至ったのが事実です。