平林証言の
検証その1 鈴木明聞き取り by タラリ 2003/03/17 とほほ板投稿 2003/09/08 初回上網 |
山田旅団による捕虜大量殺害は南京事件論争の当初から、重要論点のひとつであった。平林証言は大量殺害を証言した栗原証言と対立する 内容であり、否定派の論拠のひとつとなっている。
鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)他による平林証言の検証を私なりの方法で行った。
この証言の真偽については対立する証言・記録や、否定派が指示する証言・記録から議論されている。古くから事件を研究しておられる諸兄 にあっては先刻ご承知の証言であり、真偽についても他の証言との比較から一定の認識をお持ちであろう。しかし、私はこの文章自体を子細に点検することだけ で、真偽の判定を行ってみたいと思うのである。
その理由のひとつは、私は職業上、体験の聞き取りの豊富な経験があり、述べられたことが真実か、虚偽かは予備知識なしにでもかなり正 確に言い切れる自信があるからである。
もう一つの理由は私が史料批判は外在批判でなく、内在批判で行うのが正しいと主張しているからである。外在批判、内在批判とは何か。
証言・資料の真偽を判定する方法には資料の来歴を調べ、正しく当人が述べた証言・資料であることを立証したり、あるいは当人が真実を 述べたということを証明する方法がある。これは史料批判のうち「外在批判」とされる。
証言・資料の真偽を判定するもうひとつの方法として資料そのものが持つ内容をその資料自身や他の資料に照らして検証する方法がある。 これを史料批判のうちでも「内在批判」と呼ぶ。
外在批判はいつもなしうる検証方法ではない。むしろ、歴史資料の多くは外在批判の余地が非常に限られるのが常である。ところが南京大 虐殺の否定論者がとる方法論は外在批判だけであることが多い。私の史料解析の方法は、史料の内在批判こそが本質的な史料批判であるということの例証として も行っているのである。
「南京大虐殺」のまぼろし pp198-199より
「大量のホリョを収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜がにげたかどうかは、憶えていません。もっと も、逃げようと思えば簡単等に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシな んか、充分に作れるはずがありません。それに、向こうの指揮者というのがいないから、水を分けるにしても向こうで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食 べたという者もいます。ただし、若い将校はしっかりしていました。感心したのを憶えています」《中略》 だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を船で鎮江の師団に 送り返すときいていたという。月日は憶えていない。 |
■ここまでの記述には取り立てて疑問・矛盾はない。
捕虜の間に、おびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜がてまねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だっ たが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。 とにかく、江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと恐ろしくなってきたのを今でも憶えています。向こうは素手といえ ども十倍以上の人数です。そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運 ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。 捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした 者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、われわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げた者、水にとび 込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナり続けました。 次の日、全員で、死体の始末をしました。ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく悲痛な思いをした ことはありません。我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を”殺す”ことではなく、”逃げる”ことだったからでしょうね。向こうの死体の 数ですか? さあ・・・・・千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないんでしょうか・・・・・」 平林氏は、「鬼哭啾々」という古めかしい形容詞を二度も使った。他にいいようがなかったのかも知れない。 |
検証はひとつひとつの文章の解析を経て内容の検討に続く。
(1)捕虜の間に、おびえた表情はあまりなかったと思います。(2)兵隊と捕虜がてまねで話をしていた記憶があります。 (3)出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。 |
■「おびえた表情」「てまね」の
話は出発以前の話。これは実際に見ていることではあろう。しかし、捕虜の護送の時間的経過の中に埋め込まれた叙述でもなく、必要のない叙述である。その後
の捕虜の動静については具体的な描写がない。してみると、この二つはカムフラージュである。
(4)とにかく、江岸に集結したのは夜でした。(5)その時、私はふと恐ろしくなってきたのを今でも憶えています。(6)
向こうは素手といえども十倍以上の人数です。(7)そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。(8)とにかく、舟がなかなか来ない。(9)考えてみ
れば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。 |
■(4)(8)とも「とにかく」の
語句は説明を無理矢理排除した感じを受ける。(5)「その
時、ふと」が作為的。(7)−(9)まで説明が過ぎる。
■「怖い」という感情はこの証言にあっては特に原因なくして生じている。例えば、《 集結して舟がいつまでたっても来ない、捕虜の間に動揺が見られる、万
一の暴動を予想すると怖くなってきた》これなら通るのであるが、集結したとき「ふと恐ろしくなってきた」の次に「とにかく舟がなかなか来ない」では続き具
合がおかしい。
(10)捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。(11)突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。(12)日本軍 の方から、威嚇射撃をした者がいる。(13)それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。(14)一挙に、われわれに向かってワッと押しよせて来た感 じでした。 |
■(10)憶測の必要はない。伏線にしたいようである。(11)極めて不自然な展開である。(後述)(13)(14)劇的な場面であり、文章の素養がない
ひとでもこういうときだけは言葉が生き生きとするものであるが、なぜか緊迫感皆無である。例えば結びの句「ワッと押しよせて来た感じでした」。
(15)殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。(16)なにしろ、真暗闇です。 (17)機銃は気狂いのようにウナり続けました。 |
■(15)唐突に想像を言い始める。(16)「なにしろ、真
暗闇です」ののんびり感と(17)「機
銃は気狂いのようにウナり続けました」の動的内容とがつながらない。それから、どう考えても(17)の機
銃掃射の方が(15)より先に来るべきでしょう。
(18)次の日、全員で、死体の始末をしました。 |
■あれれ、場面転換が不自然。これだけの重大事件に対する総括的言葉、感想が一切ない。疲れて帰ったとか、ほうほうのていで帰ったと
か、失態に対する責任追及を心配するとか何かあっていいはずでしょう。暴動鎮圧とまったく無関係に死体処分に出かけた印象を受ける。
(19)ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく悲痛な思いをしたことはありません。 |
■曲がりなりにも本人の感慨。
(20)我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を”殺す”ことではなく、”逃げる”ことだったからでしょ うね。 |
■概念的、説明的である。
(21)向こうの死体の数ですか? さあ・・・・・千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないんで
しょうか・・・・・ |
■(21)死体の数を訊かれて「さあ?」は
ないでしょう。(後述)
■(22)平林氏が殺戮後の現場を「鬼哭 啾々」といったのはそう感じたのであろう。ただ、具体的な描写がなく上滑りの形容ではある。
【 単文の総括 】
具体的な叙述が少なく、説明、憶測が叙述の中にしょっちゅう割って入っている。その説明、憶測は一つの断定に向けて次々と伏線として与
えられている。連行や待機、暴動の開始と終了が常に曖昧である。事実関係は必ずしも時間の流れに沿って叙述されていない。
【 事実関係 】
一度これらの説明的描写を除いて事実関係についての文章にして再掲する。そして、事態の流れの不審な点を一部他の資料も交えて追及す
る。
(捕虜を連行したとき)出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。江岸に集 結したのは夜でした。舟がなかなか来ない。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。あとはもう大混乱で す。一挙に、われわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナり続けました。次の日、全員で、死体の始末をしま した。ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく悲痛な思いをしたことはありません。向こうの死体の数ですか? さあ・・・・・千な んてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないんでしょうか・・・・・ |
■根本的におかしいと思うこと。ただ舟を長く待たされるだけで捕虜が反抗をはじめるのは不審に思える。10分の1の人数の機関銃、小銃
を持った兵士に監視されている。兵舎の火事の際にも積極的には逃げなかったらしい。仮にも釈放を約束されているとすれば、具体的に日本兵の方からの違約・
殺戮が始まらない限り、夜明けまででも待つのが捕虜の心境であると思われる。また、一人や二人が反抗・逃亡することはありえるだろう。多数が一度に反抗・
逃亡するような共謀が成り立つにはそれなりの状況と準備が必要である。その可能性はまったく示されていない。いきなりワッと立ち上がるというのは起訴事実
の省略が多過ぎるか、あるいはウソである。
■この話には話者が何をしたかと一切書かれていない。暴動を経験したものの証言らしくない。翌日の死体の始末の方がまだ、参加した実感
がある。
■暴動の描写に精彩がない。それは、暴動の開始、展開の時間順がしばしば乱れ、「あ
とはもう大混乱です」とか「押
し寄せて来た感じでした」と腰砕けの描写になっているためである。話者はそのときどうしたのであろうか。当
然、銃(機関銃?、歩兵銃)を駆使して鎮圧・殺戮したはずであるが、そ
の肝心の描写もない。
■もしも、証言のように「真暗闇」な
らば、日本兵も機関銃をどちらに向けてどう撃ったのであろうか。捕虜たちが一斉に立って日本兵の方に押し寄せてきたとしたら、どの程度の捕虜を機銃掃射に
よって撃ち殺しうるであろうか。
■逃がすように言われていて、殺してしまったとの主張である。とすれば、死体の数には敏感でなければならない。そもそも、護送のときには何人の日本兵で何
人の捕虜を送ったのであろうか。捕虜の数は護送する兵士の数の十倍くらいとは書いてある。だから、どれくらいを殺してしまったのかはそれとの比較でキチン
と目視するはずである。
■万のオーダーなら、数え切るのも難しかろうが、戦場にあった将校ともなれば、千か三千かは確実に数えられるのではないか。例え自分で数えなくても報告は
上がる。衝撃を受けた重大事件と本人が証言している以上死体の数を忘れることもなかろう。今
になって話している途中で千とか三千とか揺らぐのは不自然である。
■翌日に死体処理に際して持った感慨は事実であろう。しかし、殺害に加わっていたとしたら、殺害の合理化にしろ、反省にしろもっと複雑な、痛切な感慨の色
が滲みでるはずである。むしろ、単調な感慨に見える。
【 文体・内容からする判断 】
話者が当日は護送に関わっていた感じがまったくない。暴動のストーリーは不自然であり、作り話が相当入っているか、事実の一部を故意 に隠しているとしか思えない。翌日の死体処理には実際に参加したと思われる。死体の数を知らないはずはないが、なぜか忘れるのは隠しているのであろう。