「ほら」と
「冗談」 2006.07.06 上網 2008.06.30 改訂 |
百人斬り競争の根本資料はすべて二少尉の自身の発言、もしくは他者が記憶、記録した二少尉の発言である。にもかかわらず、二少尉の発言
が揺れているところに彼らの真意を測る難しさがある。百人斬りに
ついての彼ら自身の発言、あるいは記事を彼らはさまざまな言葉で呼んでいる。(二少尉の主張の変遷
を参照)
1.戦後になって向井元少尉はあれは「ホ
ラ」だと言っている。
2.南京裁判の中では最初のうち記者が「冗
談」を言ったと言う。
3.次には記者としたのは「笑
談」だと言った。
4.ところがしばらくすると記者が「創作」した、「虚
構」であると言い始めた。
5.判決後に浅海証明書が到着した後は「冗
談が記事になった」と言い直した。
※
注目すべきは「冗談」は当初記者が言ったとしていたのが、自分たちが言ったと変わっていることである。
対して記者らは一貫して「見
たまま、聞いたままを書いた」としていた。すなわち、発言が揺れているのは二少尉の側であって、記者の側
ではない。であって見れば記者の発言の真偽を確定する必要は別にあるとしても、二少尉が使った、これらの用語のうち、どれが最も真実を反映し、適切である
のか、それをはっきりさせることにこそ、「百人斬り競争」の謎を解く鍵があるというべきである。
さて、上記の2.から5.まではすべて南京法廷のさなかに使われた言葉である。ということは裁判に不利な発言を控えようとしたとする疑いは捨てきれない。
反対に1.は法廷に引き出される前、妻に対して言ったことであり、特別のガードを固めた発言ではない。また、否定派がいくら疑い深いとしても向井元少尉の
妻がわざわざ当人の不利になる発言を捏造することはあり得ないので、否定派も共通に使うことができる資料であるはずである。
では、戦後の向井元少尉のホラ発言を見てみよう。
鈴木明著『南京大虐殺のまぼろし』pp67
彼女は、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・・?」と彼にきいた。彼は、「あんなことは、ホラさ」と、事もなげにいっ た。「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと、「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いてたんだから、そんな ことをいい出したら、国中にホラ吹きでない人は一人もいなくなる−」と、真面目な顔をして、そういった。 |
奥さんに対しては「冗談」だとは言わなかった。「冗談」というのは相手にすぐわかるはずのウソということになる。それでは「だましたのね」という奥さんの 怒りに満ちた質問を肯定することになる。それでホラと言ったのだが、当人は「だました」ことは否定しても、ホラはだますことではない、と考えていることが わかる。すなわち、相手はだまされたと思ったとしてもだました当人はウソをついたのではないという意識がないウソ、それが「ホラ」なのである。 ただし、奥さんのほうでは「ホラを吹いてだました」と言っており、だまされたと捉えている。この認識のギャップというのはホラに特徴的なものであろう。
ほらとしての武功談
前述の新聞記事には、現実ばなれした記述が多く見られる。では、兵士は自分がまったくしたことはない戦闘を創作して記者に言ったのであろうか。「ウソをつ
いた」という解釈では兵士の言動を理解しにくい。ウソをつくという行為は一定の心理的抵抗を乗り越えなければならない。それを超えるだけの強い動機と利益
がなければならない。兵士がまったくしてもいない戦闘をしたと功名心から言うことがありえるだろうか、そうではない。表現は誇大ではあるが、実際の戦況に
おいて自らがなしたことを元にして語ったのである。そのキーワードは「ほら」になるはずだ。
ここでホラの心理を解説する。
ホラは戦闘での武功や、スポーツ試合のあとなどに見られる。立派な功績を上げたときこれを他人に話して感心してもらいたい、誉めてもらいたい、これは人間
の当然の気持ちである。自分にとっても意外なほどの活躍をしたときは、自分の挙げた客観的な功績のイメージ以上のイメージを持ってしまう。これもまたよく
理解できることである。このとき、自分の経験をありのままに話をしただけでは相手は自分が期待するほどには驚いたり、感心してはくれない、そういう感触は
相手の顔を見て話していればわかるものである。そのようなときに自分自身に抱いているイメージを相手にも与えるために相手に錯覚を起こさせるような話し方
をする。これがホラを言う心理で
ある。
ここではっきりさせておかないといけないことは、客観的には言葉のあやで相手に誇大なイメージを与え、だましたとしても、当人としては「ウソ」とは区別し
ていることである。あくまで自分自身に抱いているイメージにを与えようと努力した結果であって、「ウソ」とかだましたとは考えていないことである。もし、
ほらを言った結果、自分で抱いている以上のイメージを与えてしまえば、相手が誉めるのは自分の抱いている自身のイメージではないので、少しも嬉しくないわ
けである。
一例を挙げよう。
草野球のバッターが9回の裏に逆転ホームランを打った。ピッチャーの球が速く、それまでみな凡打しか出来なかったのを見事に打ち抜いた、自分がまるでプロ
野球試合のヒーローのように思えた(自分に対するファンタジーの成立)。他人に自分が感じている昂揚感と同程度に
誉めてもらいたい。しかし、ありのまま話したのでは当人の持つファンタジーはそのまま伝わらないと予測がつく。そこでホラをまじえてしまう。
「相手のピッチャーはプロのマウンドを踏んだことのあるやつだ。○○スタジアム、△△球場のマウンドを踏んだこともある選手だ」(ホラ
を信じさせるためのトリック発言)
−ほおー。
「そのピッチャーの球には9回までみんなかすりもしなかったが、ストレートに狙いを定めて踏み込んで打ったら、見事スタンドインだ」
−それはすごい。
というような話にすると表面上は元プロ野球選手のように聞こえます。相手は草野球のバッター氏の実力からすると、プロ経験者とはいっても、かなり昔にプロ
入りしたがあるが、一軍には上がることもなく、やめてから10年ほどたったくらいのやつかな、と思いつつ感心してくれるわけである。
しかし、実際はプロの経験者でなくてプロ野球球団のテスト生の試験のときに○○スタジアム、△△球場のマウンドを踏んだことがあるだけだった、もちろんテ
ストには不合格、プロ志望だけが強いど素人だったというわけである。このバッターは聞き手がだまされるように話しを持っていっているのは自覚している。し
かし、字面だけ取ると本当のことには違いない。これによってバッターである話者は心理的抵抗感なしに自分を誉めてもらえて満足するのである。
では、野田少尉の場合はどうか。新聞の第一報を読むと、
−無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ−
とある。
おそらく、トーチカの敵はほとんど弾薬を使い果たし戦意を失っていたのである。そうでなければ、いくら勇敢な兵士でも踏み込むことは出来ない。なぶり殺さ
れそうになった中国兵が最後の抵抗を試みたのを叩ききったというような状況で
あろうか。表面上は白兵戦での斬殺のように聞こえる。驚倒すべき戦功にさすがに浅海記者は疑いをもって問いかけた。その返事が
−ぼくらは逃げる敵は斬らない−
であった。
これもホラを信じさせるた
めのトリック発言である。表の意味は逃げる敵は追わず、向かってくるやつだけを斬る、という武士道精神の
宣揚だが、裏の意味は逃げない敵である、座らされて頸を垂れている敵を斬ったということで
ある。裏の意味では真実を語っていることになり、心理的抵抗感なしに、表の意味を相手に通じさせて白兵戦での百人斬りと錯覚させているわけである。
さて、ホラの目的は自分自身の持つイメージを相手に伝えて感心させることであるが、自分自身の持つファンタジー以上のイメージを与えてしまっては本人に
とって、ウソをついてだましたことと
同じになり、嬉しくない。このようなとき、ホラは相手の理解の程度で言い方を変えることがある。先ほどの草野球のバッター氏が小学生に話をするときはどう
言ったらいい
だろうか。
「相手のピッチャーはプロのマウンドを踏んだことのあるやつだ」と言ってしまうと、小学生は「プロの選手だ!」と完全に短絡してしまう恐れがある。プロ選
手の球を打ち込んだとまで思ってもらっても嬉しくはないので、「もう少しでドラフト外でプロになるところだったやつ」と言い直
す。これで、プロ級という言外の意味は小学生には十分伝わるが、字面上はプロ経験という経歴をはっきり否定する。
志々目証言におけるホラの修正
では、野田少尉は小学生相手に百人斬りをどう説明しただろうか。志々目証言の話が出ると、否定派右翼は「中国兵は馬鹿ではない、勇敢だった」、「ゾロゾロ
出てくるわけはない」などとお馬鹿な話を連発するので、二の句が継げなくなるのだが、ホラ説では明快に説明され
る。
小学生たちは、すでに学校の先生からは百人斬りの勇士の講演を聞く、と言われているから、白兵戦でバッサバッサと斬り殺したと思われている。そう思われて
感心されるとかえってだましたようで居心地が悪い。そこで中国兵は馬鹿だから、ニーライライと呼びかけたら陣地からゾロゾロ出てきた、そこを、バッタバッ
タと斬り殺した、というように言い換えたので
ある。敵陣や塹壕に飛び込んで斬りまくったというイメージだけは少なくとも修正を加えて、それでもほとんど据え物斬りという実態は
「中国兵はバカだから」という説明を加えて隠したつもりであった。
しかしながら、小学生といえども洞察力のレベルはさまざまである。野田少尉にとって、すべての小学生の洞察力に合わせて、勇猛な戦功のイメージを保存しつ つ、けっして超人的な活躍ではなかったという修正を完璧に行うのは難しかったようで ある。小学生である志々目氏は勇猛であるべき少尉と不審な行動をする中国兵、だまして討ち取る卑怯な少尉のギャップが印象に残って後年、真実を悟るに及ん だのであった。
まとめ
二少尉が記者に話したことを、二少尉自身は「冗談」、「笑談(笑い話)」と言った。しかし、冗談、笑い話とは明らかに相手にもウソとわかる話であるから、 笑いを取れるのであるが、そのような話をあえて、真実の話として記事にするほどの悪意に満たされた動機というものは、どの否定論者の説明を聞いてみても納 得できる話は出てこなかった。二少尉が記者に話した内容がまるきりの虚構であったとすれば、これもまた説明困難な事情であった。
ところが、ホラ説で解釈する限り、なんら怖じることなく大きなウソをつくことに対する良心の呵責というものがなかったという事情を完璧
に説明できるのである。
ところでホラは当人の主観ではウソではない。しかし、ホラを真に受けたものにとってはウソである。これは、向井元少尉の奥さんが「だましたのね」と言った
ことでも明らかである。それだけではない。ホラは客観的にもウソを構成する。なぜなら、当人にとっての動機はなんであれ、こう言えばこのように間違って受
け取るだろう、という予測のもとにホ
ラを信じさせるためのトリック発言をしかけて、結果として、ホラを聞いているものに虚偽事実を信じさせて
いるからである。つまり、ホラを見抜けなかったものはだまされたのである。浅海記者ははっきりいって「二少尉にだまされて
『百人斬り競争』の記事を書くように誘導された」のである。
二少尉が事実として何人を斬っていようが、民間人を斬っていようが、いるまいが、彼らが有罪判決を受けたことは身から出た錆以外の何ものでもない。