報
道された○○人斬り 「百人斬り」報道に至る軌跡 2006.7.6 上網 |
百人斬り競争の報道はひとつの孤立した、突出した戦争報道のひとこまであった のではない。それ以前にも、そしてそれ以後にも多くの「○○人斬り」という報道があり、そしてそれは士官、将校ときに兵士たちの日本刀を揮っての武勲に対 する憧れから発言されたものであり、その報道であったのだ。○○人斬りの様相は日中戦争の戦況により、発展し、百人斬り報道を経て変質していく。小論では その発展を述べる。 |
日中戦争初期の新聞報道を通読して気づくことは、
1.日本刀が実戦で多く使われていること 2.また、その報道が多いこと 3.日本刀を振るって勇敢に戦う、死を恐れず戦うということが一つの規範となっていたこと 4.将兵が日本刀を使って戦うことに実際的な効果以上の意義を見いだしていること 5.捕虜の据えもの斬りの体験を経て実戦に赴く例のあること 6.白兵戦の機会が少なくなった時期にかえって戦闘の詳細なしの○○人斬りの報道が増加していること 7.戦闘の詳細なしの○○人斬りはほとんどが私信であること |
○○人斬りという見出しが付けられた中にもいろいろなケースがある。下欄の番号はおおむね時代順に推移している。
1.将兵個人の突撃戦闘 敵陣や塹壕に真っ先に飛び込んで、敵兵数人を倒したと
いうもの 2.集団的白兵戦 集団的な白兵戦において、士官、下士官クラスが多数の敵兵を日本刀で倒したとする もの 3.敗残兵・投降兵の即時斬殺 敗残兵の掃討、投降兵の即時斬殺、斬首例としか考えられないもの 4.兵士個人による○人斬り報告 戦闘の具体的詳細が明らかにされないまま三十人、四十人あるいはそ れ以上を斬ったと称するもの 5.捕虜・民間人を斬首したという私信 捕虜を斬首したことを明らかにしている例、あるいは民間人と 思われるものを斬ったという例 |
日本刀を揮っての突撃がもっとも英雄的であり、またそれができるという国民的ファンタジーがあった。白兵戦の機会が少なくなった時期に
将兵の憧れの武功目標として戦闘での斬殺の代りに据え物斬りが代用となった。
1.東京朝日新聞 1937.8.30 敵五名を斬り/壮烈な戦死/奮戦した藤田部隊長 去る二十四日平漢戦良郷西方の大安山北方○○の山地攻略戦に敵陣に突撃して壮烈な戦死を高田部隊長以下の弔い合戦は二十七日の払暁を期して開始され岡本部 隊の精鋭は雪辱の意気に燃えて猛烈攻撃の火蓋を切り、我の砲銃声は暁を破って大峡谷にこだまし凄壮を極めた、藤田部隊長は自ら先頭に立って敵の塹壕に殴り 込み青龍刀を振翳して斬ってかかる支那兵を伝家の日本刀を以つて斬り捲り腕胸数カ所に傷を負うたが、これに屈せずなおも奮戦支那兵五名を袈裟掛けに斬り倒 した、この時敵の一弾は無念部隊長に命中し壮烈なる戦死を遂げた、隊長とともに敵陣に殴り込んだ我が兵は隊長の戦死を見るや敵兵の青龍刀をもぎ取ってこれ また獅子奮迅遂に部隊長の仇を取った 2.東京朝日新聞 1937.9.1 天嶮の敵陣地へ/躍り込んだ肉弾/湯浅部隊の猛攻撃 【部分】二十日夜の夜襲の際のごとき小畑○隊長が重傷を受けるや徒伏部隊長これに代わって○隊を指揮銃眼から雨霰と飛び来る弾丸を物ともせず突撃を敢行し 頑強に抵抗する敵兵 を刺し殺して遂に占領逆襲する敵を攻撃しつつ激戦は二十一日朝に及んだ、これがため湯浅部隊にも戦死傷者を出し目下○○病院に収容中であるが、 3.東京朝日新聞 1937.9.10 上海戦未曾有/今暁の大激戦 壮烈・飯田部隊長戦死/勇奮・弔合戦に起つ/軍工路逆襲の敵を痛撃 4.東京朝日新聞 1937.1017 白鉢巻の抜刀隊長/トーチカを粉砕討死 (抜刀隊を組織しトーチカの敵百数十人を殲滅したが隊長他は戦死したというもの) 5.東京朝日新聞 1937.10.23 誓合ふ三途の川/阿修羅の三勇士散る (敵陣地に三人で突撃して二十数人を斬ったが、衆寡敵せず全身に傷を負って散ったというもの) |
この5本の記事は敵陣も塹壕に隊長を先頭に斬り込んだというものである。
しかし、ここまで危険な白兵戦を敢行するというのはおそらく日本特有の事情であろう。ここには「死を鴻毛より軽く見る」という軍による教育が徹底されてい
るのを伺うことができる。欧米の例であれば、
火力を集中してギリギリまで敵の消耗を待ってはじめて突入するであろう。
狭い陣地、あるいは塹壕に飛び込めば腹背に敵を負うことになり、いくら剣の達人でも危険である。(日
本刀の専門家は陣地内で戦うには一尺八寸の刀を推奨している。通常の日本刀の刃渡りは二尺四、五寸である)。案の定、無謀な突
撃を強行した結果
は多くが戦傷、戦死しているのである。
面白いことに敵陣地によじ登って最初は日本刀で戦っていたが、途中でピストルに持ち替えて、そのほうが多くの敵兵を倒しているという記事さえある。少しで
も敵との間隔があくと銃砲のほうが有利なことは当然である。
ところで疑問に思うのは、隊長氏が斬った敵兵の数であるが、これをどうして勘定したのであろうか。隊長氏が生還していれば、とにもかくにも本人申告を採用
するであるが、部下に隊長氏の戦果を確認する余裕がどれだけあっただろうか。
4.などは何人の抜刀隊であったか不明だが、援護射撃も当然あったはずである。しかし、報道の焦点は抜刀隊だけに当てられている。
報道にある、無謀とも思える敵陣突入と田中軍吉中隊長の冷静な敵陣突入のエピソードを比較してみよう。
『1937南京攻略戦の真実』 東中野修道編 我らの田中軍吉中隊長殿−歩兵第四十連隊(鹿児島)第十二中隊 K・T 五月二十一日はリョウ山の討伐であります。<中略> リョウ山の敵陣地は鹿柴があり、掩蓋壕があり、さらにトーチカまで構築されて、なかなか堅固な陣地であると聞かされました。 いんいんと轟く砲声の下を、胸をとどろかせながら戦友に続きました、中隊は敵鹿柴と相対峙する小高い山を占領、ここで突撃準備をいたします。 彼我の重火器の応酬は物凄いばかりでした。友軍の砲弾は、次々に敵の掩蓋、鹿柴を吹き飛ばします。その光景は、全く映画でも見るような気が致しまして、緊 張した中にも何だか夢心地といった感じであります。 しかし損害は敵ばかりではありません。友軍にも忽ち四、五名の負傷者が出ました。 敵は死物狂いです。特にチェック機銃は、頭も上げられないほど猛烈に正確に、猛射を浴びせかけます。 こうした中に我らの中隊長殿は、鉄兜も未だ被ってはおられません。そして絶え間なく敵陣を観ては、軽機に、擲弾筒に、射撃の目標を命じておられるのでし た。 初陣の私は敵が見たくてたまりません。戦友三、四人と、山の中腹を攀じ登りますと、ちょうど中隊長のおられる足下に出ました。頭を上げて敵の方を見ようと した時です。 「馬鹿、危ないじゃないか、下がれ下がれ」 とものすごい大声で叱られました。中隊長こそ危ないじゃないかと、ぶつぶつ言いながら中腹まで退りました。 その頃から友軍の砲撃は一層猛烈になりました。 間もなく、中隊長の軍刀が、さっと天空をきってひらめきました。突撃です。 私も遅れてはならじぬと稜線に駈け上がりますと、もう中隊長殿は敵鹿柴に迫っておられます。 軍刀が前後左右に振り下ろされる。忽ち敵死体が三つ、中隊長の足下に横たわりました。 無我夢中のなかにも、この光景は強く頭に焼きつけられました。 喚声が敵陣地深く、何回となく上がりました。突撃成功です。敵の遺棄死体が十数個ころがっています。 向こうの山脚を、転ぶようにして逃げる数十名の敵に、狙撃の火蓋が切られました。 リョウ山山頂で天地も轟けと、万歳が三唱されました。 |
『1937南京攻略戦の真実』は日中戦争当時書かれた、日本軍が奮戦したエピソードを集めたものである。田中軍吉中隊長とは捕虜の斬首
で南京法廷によって裁かれたもう一人の人物である。筆者の田中軍吉に対する賛嘆の念は強いが、敵陣地への斬り込みの情景は
実見しているだけに新聞記事よりリアルである。
敵陣はまだ戦意旺盛であり、田中軍吉が敵陣に火砲による攻撃の指示を与え、十分な打撃を与えるまで慎重に戦機を待っているのが印象的である。また、田中軍
吉が斬った敵兵は三名、逃げた敵兵は数十名であ
る。敵の遺棄死体が十数名は、兵士の銃剣刺突によるものと射撃によるものが混在するであろう。
決して相手と一対一に斬り結ぶようなものではなく、剣の達人が一瞬の隙をついて突進し怯んだ敵を追いすがりつつ斬っているのである。
日本刀、銃剣による陣地、塹壕突入はけっして多数の敵を倒
すことはない。多数の敵を「斬った、斬った」としているものは実はすでに敵が戦意喪失しているものと考えられる。敵の戦意横溢するにも関わらず、無謀な突
撃をして
死傷しているのは日本軍の作戦指揮の偏りを示している。
1.東京日々新聞 1937.9.2 四十人までは数えたが/後は覚えぬ千人斬り 殊勲・和知部隊の夜襲 羅店鎮正面の戦闘に関し○○当局は一日午前左の如く語った。 ○○付近に上陸した○○部隊は先ず羅店鎮の敵を撃滅して爾後の作戦を容易ならしめんと永津、和知部隊を並べて二十七日から攻撃を開始した、その日はまだ○ 兵の主力を使用する事出来ず敵前概ね二キロまで接近して夜に入ったこの晩に至って和知部隊は夜襲によつて韓宅付近を攻略すべく揚家宅付近から南進を開始し 遙家村東側地区を通過しようとする時、急に右側方面より有力な敵の攻撃を受けたので和知部隊長は全部隊に対し右側攻撃前進を命じ、自ら陣頭に立って斬り込 んだのでその側にいた将兵は期せずして部隊長を傷つけまいと左右に蝟集し一発の弾丸をも撃つことなく敵陣に斬り込み当たるを幸ひ薙倒し、突倒した、 恒岡部隊長の如きは伝家の宝刀を振翳して手当たり次第に斬りまくり、三十余名の敵を斬倒し、○○准尉は四十名まで数えては斬ったが後は覚えないという猛烈 さであった。翌二十八日朝、 薩家村付近に遺棄されてあった敵の死体は五、六百であったが悉く斬傷、突き傷であったのを見てもこの白兵戦の物凄さを想像することが出来る、 二十八日○○部隊羅店鎮を占領するや和知部隊長は羅店鎮東北側付近の家屋に陣取ったが、東南方周家宅、朱家宅付近の敵砲兵隊から盛んに射撃を受けその家屋 にも敵弾が命中し屋根の半分が吹き飛ばされる有様であったが、部隊長は泰然として悠悠刀を杖つきつつ、煙草をくゆらせて戦闘の指揮を続けた、上陸以来和知 部隊長の豪胆振りは部下一同の敬服する所で弾丸雨飛の中でも姿勢を低く構えるでなし■物を利用して身をかくすでもなく凛然刀を握って部下の士気を鼓舞し部 下は隊長の姿を見て勇気百倍するという有様であった。 2. 東京朝日新聞 1937.9.2 隊長白刃を揮い突撃/敵兵四十名を薙倒す/羅店鎮・闇の修羅王 (ほぼ同様の記事である) 3. 東京朝日新聞 1937.9.4 羅店鎮闇夜の死闘/藤田曹長魔神の働き 日の丸鉢巻十七名/六百の敵を斬り捲る/やっつけた百余名 <六百名の部隊と二十メートルまで接近し、声をかけたところ、支那語の返事が返ってきたので、覚悟を決めて日本刀で斬り込んだ。戦闘が終わって部隊に復帰 した五名が戦闘の場所に案内したところ、敵兵百名が倒れており、日本側は藤田曹長以下八名死亡、四名負傷であった>
|
1.2.東京朝日新聞の記事も総合すると夜襲をかけようと行軍しているとき、敵から様子見の銃撃があったらしい。敵の所在を知った和知部隊長が間近に敵が
いることを察知し、発砲することなく、敵に接近し軍刀、銃剣による突撃を敢行した。遺棄死体五、六百の死因が刀傷か銃剣の突き傷という
のは、戦国時代の合戦を思わせるものがある。相手の不意をついての突撃で白兵戦に完勝したケースであるが、もしも、敵が日本軍の接近に気づいて機銃掃射で
もしていたら、大損害を被る危険もあった。
また、部隊長などが何十人も撫で斬りにしたとあるが、集団戦の中の斬殺であってみればそもそも、一撃で致命傷を与えたのか、それとも兵士の銃剣によってと
どめを刺されたのか不明である。刀が敵兵の体に当たっただけで斬った、斬ったと錯覚している可能性もある。そもそも集団戦の中での殺害であり、個人だけの
力ではないので、何人斬ったと
いって個人記録のように言うのは適当ではない。数では多数を占める銃剣を持った兵士の中にはもっと多くの敵兵を刺殺したものがいるかもしれない。集団戦で
は斬るよりは突く方が遙かに実際的であるとは軍刀で戦ったものも指摘するところだ。それでも新聞記者は銃剣で何人突き殺したという
方を記事にすることはない。
3.の例は気がついたときは銃撃より銃剣突撃の方が有利であるほど接近していた。日本側が機先を制したため圧倒的多数の敵に対して勝利を収めた。
これには中国軍の部隊は日本軍包囲網から脱出していくところであり、戦意は高くはなかったという事情があった。それでも敵が多数であったため、斬り込んだ
側の被害も大きかった。
互角の白兵戦のような書き方ではあっても、実は敗残兵に対する一方的な殺戮である場合もある。
1.東京朝日新聞 1937.11.16 敵・六十名を斬る/勇猛無比の関准尉
【崑山にて近藤特派員十五日発】杭州湾から敵前上陸驚異的快速さを以って敵敗残部隊の剿滅戦を続けて居る○○部隊の目醒ま
しい活躍は徹底的に日本刀の戦ひであつた。 |
敵弾が当たらない、と豪語するモチーフはよく見られる。弾丸がなくて、あるいは弾丸を惜しんで日本刀で戦闘するというのも武功談のひと
つのモチーフである。
敵兵の殺害数は羅店鎮の場合に較べて1桁多くなっているが、これは相手が落ち延びて行く敗残兵であるからである。『1937南京攻略戦の真実』pp81に
よればその舟の群には「民舟、筏、戸板等」が多数混じっており、女性も同乗
したというから、難民も混じっていたらしい。クリークの戦闘では水中からようやく這い上がった敵兵を思うさま斬り殺すという一方的なもので、到底互角の白
兵戦ではなかった。少ないものでも二十名は斬ったというから、ほとんど武器も
持たないような、弱体化した敗残兵だったのではないか。
部隊単位の白兵戦においては多くの将兵が一度の会戦で、数十人の敵兵を斬殺した記録が報道されている。これらは敵が油断ないし、戦意をもともと喪失して
おり、さらに日本軍が機先を制したという状況でのみ可能である。もし、敵が
同程度の戦意、戦力があったならば、このような戦果をえることはないだろう。このような機会はまれであり、また常に白兵戦で勝利するとは限らないであろ
う。白兵戦で勝利したとしても個人的戦果を日本刀にのみ焦点を当て
るのは報道に歪みがある。
3.敗残兵・投降兵の即時斬殺 部下とともに敗残兵を追いつめて、逃げ遅れた敵兵をその場で斬ったり、捕獲した後ただちに斬殺、斬首した例
東京朝日新聞 1937.8.22 支那兵廿名西瓜斬り/上海陣の”宮本武蔵” 【上海にて高橋特派員二十一日発】 我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において敵の正 規兵、便衣隊の中に斬り込み血しぶきを浴びて敵の頸を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦ぶりが陣中の話題になってゐる。【写真は讃井(上)迎の両 勇士==大■■発】 <■■つぶれて判読できず> 柴田部隊の讃井、迎両兵曹長がそれぞれ二手に分かれ部下数名づつ引率して敵最前線に近づくと、突如空家と思われた民家の蔭から数十名の便衣隊が次々にピストルを持って発砲してきた。そ の中に数名の正規兵も混って発砲してゐる。「何を小癪な」とばかり両兵曹長は部下を指揮して猛襲する。勇敢無比の我が兵士は片っ端から敵兵を引捕まえてくる。 両兵曹長は勇敢にも敵中に躍り込んで日本刀を抜き放って斬っ て斬って斬りまくる。斯くて讃井兵曹長は敵の頭を四つ刎ね、迎兵曹長は斬りも斬ったり十六人をなぎ倒し た、二十一日朝柴田部隊を尋ねるとちょうど讃井、迎両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしてゐる所だ。両兵曹長は鞘を払って見せてくれた。氷の ような日本刀にはまだ生々しい血がついてゐる。両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ。十六名を斬ったというのに一カ所の刃こぼれもない。 支那兵なんてまるで大根か蕪のようなものさ、いくら斬っ たってちっとも手応えがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬って見せるぞ。 両兵曹長は豪快に笑い立ち上がって再び前線に向かった。 |
勇壮な白兵戦のような語り口であるが、「民家の蔭から数十名の便衣隊がピストルを持って発砲」す る中を猛襲などできるはずがない。銃やピストルを持ってい る敵兵を「片っ端から」捕 まえるなど、到底不可能である。 便衣というのは民間服のことであるから、ピストルを撃ってゐることが確認されない限りは単なる逃げ遅れた民間人であるという可能性もある。 結果的に「片端から捕まえた」ということは、銃、ピストルを持っていた敵兵は数名でそれも早々に弾が尽きていた、他は逃げ遅れた民間人、ぐらいの状況か。
戦闘の具体的詳細が明らかにされないまま三十人、四十人あるいはそれ以上を斬ったと称するもの
いわゆる百人斬り競争がこのような記事の典型である。他の記事はほとんどが私信の転載である。
1.
福島民友新聞 1937.12.14 百人斬りの超記録/向井106・・・105野田(転載) 2.福島民 報 1938.3.13 本県出身の”鬼軍曹”/四十二人斬りの記録/部隊一の勇士と折り紙 (私信の紹介) ・・○○隊軍曹宗像金蔵君は上海戦線に於いては部下十六名と胡家宅を死守し十二日間約三ケ大隊の兵をクヒ止めました、その間敵の逆襲も一回あったがクヒ止 め追撃戦闘に於いては度々敵の糧秣■■に■■・■を部下数名と襲ひ友軍の食糧難をすくひついに敵四十二名を斬るにいたり部隊長より部隊第一の勇士と賞賛さ れました<中略>また本宮町冬室■君は二十六人を斬り○○隊では二十人斬りは十指に余りあります |
戦闘の具体的状況はまったく書かれていない。斬殺数は積算しか書かれていない。もし、白兵戦があれば具体的状況の説明にもっと力を入れ
るはずである。それがないということは、
実際は戦闘らしい戦闘ではなかったと思われる。
9.東京日々新聞 1937.11.6 敵兵廿八名を斬り/愛刀、用をなさず 【私信の転載】 12.会津新聞 1937.11.28 自分乍ら驚く日本刀の切れ味/ 若松七日町出身 堀慎吾氏陣中便り 【私信の転載】 13.東京日々新聞 1937.12.12 相次いで部隊長を失ひ/涙ぐましきリレー指揮 15.福島民報 1938.3.13 本県出身の"鬼軍曹"/四十二人斬りの記録【私信の転載】 16.東京日々新聞 1938.8.25 "十六人斬りとは/倅、よくもやった"/ 佐藤軍曹の両親大喜び 【家族の談話】 14.東京日々新聞福島版 1938.1.27 名刀"直胤"の冴え/廿六人を斬捲る【私信の転載】 15.東京日々新聞 1938.8.20 十二人斬りの荒武者/広田伍長母の喜び【家族の談話】 |
新愛知 昭和十三年六月十七日 隊長から貰った/日本刀で−敵の首三十二/新城町の剣道選手峯野君の/痛快な武勲をきく 【私信の紹介】 峯野君が部隊長より連隊表彰を受け、感状とともに隊長所持の日本刀贈与の光栄に浴した。徐州攻撃のときは真っ先にこれを翳して突進、真っ向唐竹割と敵 兵の首十二個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても十八個の首を切り落としており、衛兵勤務立哨中にも敵の敗残 兵二人の首を切り落とした。現在刀の刃はボロボロに零れてゐるが。切れ味は大丈夫だ。 合計三十二首を葬ったが凱旋までには五十個を血祭りにあげる覚悟だから安心していて呉れ。 |
戦闘で敵兵の首を切り落とすということは間違いなく不可能である。単に斬ったというのを首を切り落とすと表現したのであろうか、それと
も据えもの斬りだったのだろうか。これに対して敗残兵の首を切ったというのは、据え物斬りと見て間違いないだろう。
首を何個とる、という予告は武功談につきもののようであるが、戦闘の予定が立てられないのである。
これら○○人斬りの新聞記事のすべては武功をなした当人による主観的、主情的な戦況報告であり、大局的戦況は不明であ
る。当人の武功は日本刀を振りかざして「○○人斬った」ということにほとんど集約されている感がある。
○○人斬りが容易ではなく、部隊による大規模白兵戦の機会がまれであることはすでに指摘した。手紙を書いた当人は戦闘でも何人かは斬ったことがあるのかも
知れないが、大部分は敗残兵、投降兵、捕虜ときに民間人さえも混じっているかもしれない。それを、斬った状況
の一部をあえて伏せることによって戦闘での殺害を印象づけていると思われる。
○○人斬りの報道が私信の転載ばかりであるということは重要な意味がある。敗残兵の掃討、白兵戦もどきで数人斬り、その後投降兵の即時斬殺や捕虜の斬首を
数十人したところで本人のファンタジーはパンパンに脹らんでいる。ところが、他人は自分が感じているほど凄いことをしたとは見ていないことがわかるのであ
る。
実際の戦場を知っているものに○○人斬りと言えば、白兵戦の斬殺か据えもの斬りかのチェックが入る。
「なんだ据えもの斬りか」と言われれば自分自身が持っていたヒロイックなファンタジーが傷つけられる。
現場の新聞記者に語るときはアピールのしかたが下手ならば、戦闘の実態を察知して記事にされない。これに対して戦場の実際を知らない家族に対しては
思い通り、誇りに満ちたファンタジーを家族と共有し、誉めてもらうことができるのである。
また、内地の新聞編集者も実際の戦場を知ることなく、初期に送られてきた派手な戦闘記事を読んでいるから、私信であえて状況の一部を伏せて成り立つ戦功の
ホラを信じてしまうのである。
私信が多くなった理由であるが、新聞報道の立場からすれば初期のような激戦、白兵戦が少なくなってネタ切れになったことが挙げられる。
また、戦争が長期化して家族の不安が増していたということに関連し、家族の反応が必要になったことが考えられる。また、戦争や殺戮に疑問を呈することはで
きなかったとは言え、家族が○○人斬りを喜び、賞しているという国民感情のあり方が注目される。
1.東京朝日新聞 1937.7.26 十六名薙倒す/痛快・山西の敗敵掃討戦から (捕虜の斬首4人) 2.会津新聞 1937.11.28 自分乍ら驚く日本刀の切れ味/若松七日町出身 堀慎吾氏陣中便 (私信の紹介) 去る○○月○日初めて我軍刀を使用致敵四五人斬り又生捕り兵五人を連れ来り打首に処し日本刀の切味たるや実に驚き入り最初打首する時一人目は思ふように首 が切取れず二回目よりは見事打切り自分ながら驚き入りたり六日の朝の戦闘は自分ながら思ひ切つて軍刀片手に敵陣地に第一人目に飛び込み支那兵を切り取り全 く日ごろの思ひが叶ひ非常にうれしく思ひたり。 竹田様に日本刀の切れ味満点なりと君より聞し下さる様、前田様にも御かげさまにてと宜敷御伝言下さる様東条さまにもたのむ 七八人切れども刀の刃先一片もコボレズ実に自分ながら驚きたり 3.新愛知 昭和13年2月6日 日本刀の切れ味/初めて知った/剣道三段氏痛快便り (私信の紹介、部分)昆山から蘇州へ移動中初めて日本刀のきれ味を味わひました、それは夜戦友一人と小生と二人で辻斬りですね他の戦友は知らないで居る夜 のことですが一刀両断唐竹割の手ごたへは胸のスク程気持ちよくきれました、又来る奴を一太刀三人目も一太刀で切り伏せました |
2.は公開を予期していない私信であるだけに事実を粉飾する意志はないと判断される。現代のわれわれにとって驚かれるのは堀氏が捕虜を 斬ることに対して心の痛みがまったくなく、むしろ見事に斬れたという喜びだけを語っていることである。 戦闘に対する貢献ではなく、個人的な戦闘がうまく行ったことへの満足が大きいことも特徴である。日本刀に対する執着から、彼の意識の中 では斬首と日本刀を振るっての戦闘 が連続していることが注目点である。
しかし、敵陣に一番乗りをしたというが、詳細が書いていないのでどのような状況かは不明である。敵陣に斬り込
んで七、八人を斬ったというのは敵は戦意喪失していたと考えて差し支えないと思われる。
3.の「辻斬り」の対象は「敵兵」とは書かれていない。通りすがりの民間人であろう。日本刀を揮っての人斬りにことさら執着した日本兵がいたことを伺わせ
る。これも私信であればこそ、ざっくばらんに明らかにしているものであろうが、これを堂々と「痛快便り」と銘打つ新聞社の意識も驚くべきものである。
結語
日本刀を振りかざしての突撃が危険極まりないものであり、成功したとしても少数しか斬れないのは明らかである。それにも関わらず、日本
刀による突撃がしきりに敢行され、多く報道され、銃後の国民の喝采を受けたことは日
本刀に対するファンタジーが国民的に形成されていたことをしめすものである。
百人斬り競争の報道を「戦意昂揚のため」という見方があるが、これは違うと思う。戦意昂揚とは困難に打ち勝ち、犠牲を払って、大きな戦果を挙げたと
いうことを報道することである。初期の報道に見られた、「陣地、塹壕に恐れることなく飛び込んで敵兵を斬ったが負傷した、戦死した」
というパターンが最も戦意昂揚のパターンである。百人斬り競争はスーパーマンの行動であるから、戦意昂揚のためにはならない。
戦場でのエピソードのひとつである。
日本刀で戦うことだけに留まらず、日本刀を使うこと、それ自体が将兵にとってひとつの魅力ある行動となっていた。そのため対象は戦闘に留まらず、捕虜、民
間人の不法な斬殺に広がっていた。これこそが百人斬り競争を支えた心理的背景である。
数十人を斬るという記録はあったが、それはほとんど大規模白兵戦のときに限られた。したがって、戦闘状況の詳細が書かれていなくて数十人斬ったというのは
信用できない記録である。しかし、戦闘で実際に日本刀を使ってもいないのに○○人斬りということを自ら発言することはないであろう。
白兵戦もどきや敗残兵の掃討を経験したのち、あるいは投降直後の敵兵を斬首する経験を経た後、純然たる捕虜の斬首をも「戦闘の続き」という解釈を強行する
ようになった将兵の発言を報道した、それが「百人斬り競争」報道の真実である。