解放説捏造の証明

2008.06.30 upload


すでに c.軍命令に反して捕虜開放 では
支隊、師団、軍司令部の意図について解説し、  7.大湾子への連行が処刑目的であったことの証明 を 通じて処刑目的であった決定的な資料を提示して解放説を批判した。 しかし、否定派は自らが信頼し、論拠とすることができるとする、旅団長、連隊長、大隊長など将官クラスの証言(否定派側証言)のみを使って議論を組み立て、小野資料や栗原証言(その毎日、本多聞き取り)を無視して「解放説」を組み立てて穴熊戦法を決め込む。これでは議論にならないので、こちらから打って出て将官クラスの証言の矛盾をついて、解放説を捏造したことを証明するのが目的である。


1.解放か、処刑か、兵士・士官の認識
 

否定派側証言では解放目的は一致しているが、送り先が一致していない。

両角業作手記 (1962年1月に阿部輝郎が筆写し、初出は1982年『ふくしま 戦争と人間』)
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」

当時、揚子江北岸は国崎支隊の支配下にあるから、秘密裡に「開放」することにはならない。実行すれば必ず露見して重大な軍規違反を問われ軍法会議 にかけられる。 信憑性ゼロの記述である。

山田証言 鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」pp195 1973
しかし、山田旅団長は、この期に及んで、あえて第二の道を選んだ。彼の案では、村からできるだけの舟を徴発し、揚子江を渡して北の方に逃がしてしまおうということだった。北にもいくらかの日本軍が渡っていたはずだが。そこまでは考えなかったろう、と彼はいう。僕は「その舟はどの位の大きさで、何隻あったんですか」ときくと、山田氏は「数隻だったろうなァ。一隻は見たよ。数十人は乗れるからかなり大きな舟だったなァ。揚子江には小さな舟はないんだ」といったが、その言葉は弱々しかった。

当事者である山田氏は「北岸」移送を証言した。しかし、対岸の日本軍の存在については「そこまでは考えなかったろう」で片付ける 。これは無茶というものである。

平林証言 鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」 pp198-199より
だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を船で鎮江の師団に送り返すときいていたという。 ・・・

平林中尉は高位の士官であるから、連行目的を知らないで命令を実行することはありえない。南京と鎮江とは60kmもの距離があるから、船を往復させて捕虜を送る、ピストン輸送は 不可能である。とすれば、数千人を一度に運ぶ巨大な船舶が必要であるが、そのような舟を用意したという証言は平林氏自身を含めて皆無である。

角田証言 阿部輝郎著『南京の氷雨』 1989
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか――。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。

16日に「開放目的の連行」があったという証言は角田氏のものしかない。「両角連隊長に呼ばれ、意を含められた」としているが 当の両角氏の手記には16日に捕虜を開放しようとしたという記載はない。したがって信憑性はきわめて低い。ところで魚雷営から船で逃がすとしたら送り先は北岸となる からこれもありえない。

角田氏は鈴木明の聞き取りの際には、なにを恐れたのか、泥酔して鈴木に面会して「虐殺したのはこの俺だ、中国に謝罪に行く」と叫んで鈴木を驚かせたことがあり、この証言はそれから 10年以上後に立ち直り弁明を期して証言したものであるということを念頭に置く必要がある。

田山芳雄証言 阿部輝郎著『南京の氷雨』 1989
でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……

連行現場の大湾子の向かい側は八卦洲という中洲である。解放先としては対岸(北岸)よりは現実的である。 しかし、両角、山田は対岸への解放を命令したことになっており、田山少佐の一存で変えられることではない。田山少佐が、「揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません」という認識を 当時持っていたのなら、 上官に対して解放先の変更を提言してしたはずであったが、それをしたという記録・証言はない。

阿部輝郎は1982年に「ふくしま 戦争と人間」を著している。その中には田山氏の証言もあるが、「なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました」という部分はなかった。1989年になって阿部輝郎が解放先を中洲と証言する田山証言を持ち出してきたのは、対岸(北岸)を解放先とする「解放説」では破綻が明白となったため、これを修正するために持ち出したものである可能性もある。

その背景には、1984年に毎日新聞、本多勝一による栗原証言の聞き取りが行われ、「解放説」は根底から覆されたという事情があった。

栗原利一証言 本多勝一『南京への旅』P307-318 1984
上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の一七日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。

「始末せよ」とは明らかに「最終的な処分をせよ」という意味で処刑、銃殺の意味である。そして、「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」という言葉は 単に捕虜たちへの説明のためであった。栗原証言に動転した否定派は栗原氏に接触を図って、証言の修正工作をしたのであるが頑固をもって聞こえた栗原氏 の証言を変えるのは困難であった。氏が変えようとしない部分はむしろ従来の主張を捨て、栗原証言の一部を生かしてそれにすり寄るように解放説の修正を図った節がある。

その流れをわかりやすく示すのが 田中正明である。例によって、証言や著作を勝手に歪曲・捏造して「解放説」の破綻を取り繕おうとした。その証拠を示す。

この捕虜の処置について、その真相を明らかにするため、鈴木明氏は、昭和四十七年、わざわざ仙台に山田少将はじめ、この時期の関係者数名を訪ねて『「南京大虐殺」のまぼろし』にその真相をレポートしている。その真相というのは、山田少将はこの大量の捕虜の処置に窮し、ついに意を決して揚子江の中洲に釈放することにし、護送して目的地近くについたとき、暴動が起き、捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、<以下略> 田中正明『南京事件の総括』pp186 1987

さきに見たように『「南京大虐殺」のまぼろし』中の山田氏が、中洲に釈放することにしたと発言 した事実はない。田中正明によるまったくの捏造である。

両角連隊長、山田支隊長が12月16日、17日に捕虜の江岸への連行を命じたことは争いのない事実である。その命令内容は北岸にいる日本軍のことなど顧慮することなしに実行できることであった。とすれば、それは捕虜の射殺・処刑以外ではありえない。 解放命令をしたとされる両角連隊長、山田支隊長が対岸に解放と言ったことは解放説の決定的な欠陥であって、そのために否定派は中洲解放説を主張しはじめたが、後になって主張を変えたとしても、説得力はない。


日記に解放のために連行したと記録するものは皆無である。すべて、射殺、処刑、処分と書いている。 否定派の中には兵士は連行の本当の目的を知らされていないから、根拠にならないというものもいるので、士官の日記を二つだけ紹介しておく。
 

宮本省吾 陣中日記 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充 少尉  1996
〔十二月〕十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

〔十二月〕十七日
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。


「大隊は最後の取るべき手段を決し、」−この切迫した表現が「開放」を示していると解釈する人はまれだろう。宮本少尉が受けたのは大隊長の命令であった。

「夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、」− 入場式に列席した宮本少尉を待ち受けていたのは、処分に加われという命令であった。

遠藤高明 陣中日記 歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充 少尉
十二月十六日 晴
 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般 情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し

十二月十七日 晴
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書きにて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。

「軍命令により」というのは後にあるように、当人が「命令ありたるものの如し」と受け取ったということである。 その命令内容は、はっきり、射殺、処分と書かれている。
ところで、東中野や最近のネット否定派は放火して逃亡しようとしたので、厳罰として殺害したという珍解釈をとっている。
実際には
「午食事中俄に火災起り」であり、混雑する収容所で調理する際にいつ起こってもおかしくない火災であって、少尉にも放火との認識はない。「不服従の場合、必要なる厳重手段を施すことを得る(第二章 俘虜、第8条」としても放火に参加するものが三千とか捕虜の三分の一もいるわけはないし、選ぶことも不可能である。

最初の命令が「開放」であれば、それが失敗に終わったことに関する省察があるはずであるが、そのような記述は当時の資料には一切ない。 また、戦後における証言でも解放が未遂に終わったことについて悔やんでいるものは一切ない。



2.移送するための船は用意されていたか。

第65連隊の生き残りがいかに「解放説」を唱えようが、移送するための船が集められていなければ、解放の計画は絵に描いた餅になる。 ところが移送に十分な舟を集めたとする証言は両角手記ひとつしかない。

両角業作 手記 
田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
 「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ
<略>
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行った・・・

両角氏が舟を用意せよ、と命令したのは事実である(田山芳雄少佐、箭内亨三郎准尉証言を見よ)。しかし、二、三百人乗りの「軽舟艇」は実在しなかった。なぜなら、両角大佐は現場には行っていないから、この「手記」の記載内容は両角大佐が命令した部下からの報告を受けたものでなくてはならない。ところが軽舟艇を用意したと証言するものは田山大隊長をはじめとして、だれ一人いないのである。

鈴木明「『南京大虐殺』のまぼろし」pp195
しかし、山田旅団長は、この期に及んで、あえて第二の道を選んだ。彼の案では、村からできるだけの舟を徴発し、揚子江を渡して北の方に逃がしてしまおうということだった。北にもいくらかの日本軍が渡っていたはずだが。そこまでは考えなかったろう、と彼はいう。僕は「その舟はどの位の大きさで、何隻あったんですか」ときくと、山田氏は「数隻だったろうなァ。一隻は見たよ。数十人は乗れるからかなり大きな舟だったなァ。揚子江には小さな舟はないんだ」といったが、その言葉は弱々しかった。

解放の立案者である山田氏も解放のために必要な船が集められたとは言えなかった。

田山芳雄少佐 阿部輝郎著『南京の氷雨』
解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻――いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。

「四隻――いや七隻か八隻は集めましたが、」というおそるおそるの数字の出し方はウソを言うときの特徴である 。
「とても足りる数ではないと、私は気分が重かった」
−つまり、実際に舟で中洲に送ることは不可能であったと認めているのである。これは実質的には解放否定説を構成する。

箭内亨三郎准尉 阿部輝郎著『南京の氷雨』
明るいうちに場所の設定を終えた。上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。

   舟を実際に調達したという証言は箭内氏のものだけであり、貴重である。数について記憶が正確であるかどうかはおくとしても、 数隻であったということ、上流や下流を捜して見つけたという証言は事実であろう。南京防衛軍の撤退に際して船は対岸に乗り捨てられ、あるいは破却されてしまった。 多少とも大きな船が揚子江南岸にあったとすれば、それは第十六師団の碇泊司令部が管理して残されてい たはずである。上流や下流を捜し歩いて集めたとすれば、それは何十人も乗り込むような大きな舟ではなく、放置されていた小舟であった。

箭内氏は開放説に沿って証言を行っているのであるが、他のページで指摘したように、すべてがウソの証言というのはありえない。主題となる部分はウソを書いても、それを真実らしく見せようと自分がよく知っている事実はつい、そのまま書いてしまう。
角田氏の証言 阿部輝郎著『南京の氷雨』
月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。(注 角田氏は捕虜数七百人、あるいは千人と証言)

小船と称するものがいったい、何人を乗せられるほどの大きさなのか不明であるが、北岸まで約2kmくらいの川幅があるので、一晩ではとても無理である。

試算  20人乗りとして、5隻で100人、時速2kmで漕いで乗り降り10分ずつとして140分×7または10で16時間または23時間かかる。角田氏本人が、「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、・・・」と発言しているが、これでは昼にかかってしまう。

しかも、実際には16日の殺害数は5000人以上であった。紅卍字会の埋葬資料では魚雷営周辺のものは5800人を数える。いずれにしろ、対岸に送るだけの船は用意されていないことは確かである。
 

平林証言「南京大虐殺」のまぼろし pp198-199より
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。
平林証言 田中正明『南京大虐殺の虚構』
船について記載なし
平林貞治(中尉)証言『南京の氷雨』 pp108-109
船について記載なし

平林氏は鎮江に送り返すと聞いていた。この証言は当時において開放不可能を認識していたということを示しており、実質的には開放否定説である。このため、田中正明、阿部輝郎は、ついに船の部分をカットしてしまったもののようである。

 



もし、解放のための連行であれば舟に対する関心は大きかったはずである。しかし、日記では射殺・処分について実行に加わったものでも船についての記述はない。ということは、なかったか、あるいは特に注意を引くものではなかったことを意味する。証言では2名が舟がなかったと証言している。

I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長『南京大虐殺の研究』pp139 1986
虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位 の桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。

 

H氏(西白河郡) 証言 第2機関銃中隊所属・下士官『南京大虐殺の研究』pp138-139
揚子江岸に船などなかった。(注 12月16日、17日について言っている)

I氏、H氏とも船はなかったとしているが、これは捕虜を送致するに必要な舟の大きさと数がなかったため記憶に残らなかったためと思われる。

栗原利一証言 毎日新聞 昭和59年8月7日
 「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って船を川の中ほどにおいて、船は遠ざけて四方から一斉に攻撃して処理したのである。
栗原利一証言 本多勝一『南京への旅』P307-318
分流の彼方に川中島が見え、小型の船も二隻ほど見えた。
栗原利一証言 阿羅聞き取り版
船についての証言なし

栗原利一氏は当時は伍長を努め、戦闘詳報を書くために詳細な戦闘記録をつけていた。その記録自体は現存していないが、記録行為を通じて他の元兵士が忘れてしまった詳細を しっかり記憶しており、その一部を「スケッチ帳」に再現した。
毎日新聞、本多聞き取りはともに、船はあったものの、捕虜を運ぶような大きさ、数ではなかった(小型の船も二隻ほど見えた)、そればかりか別の目的で使われたこと まで証言している。ところが阿羅の聞き取りには船についての証言がない。船の有無は「開放説」の真偽にかかわる重大事項であるから、これを聞かないということはありえない。阿羅は いくら誘導しても栗原氏が思うような証言をしてくれないので、あえて船に関する部分をカットした、と考えらる。
 


舟は実在したが、沖合に浮かべて捕虜を監視し、射撃の際には引く予定にしていたようである。否定派関係者が述べる舟の数、規模はさまざまであるが、対岸や中洲に運ぶだけの舟があると言い切ったものは両角を除いて一人もいない。舟がないのに連行したとすれば、その目的は処分(処刑・銃殺)しかない。
 


3.いわゆる「暴動説」−「自衛発砲説」の行く末

いわゆる
「暴動−自衛発砲説」なるものは捕虜数千人を殺したことは認めるが、それは「暴動」が起こったための「自衛発砲」のためであって、もともと 解放のつもりで連行していったのであって殺すつもりではなかったのだ、自衛のためであるから虐殺には当たらない、というものである。この主張は解放説が成り立たなければ破綻する。 すでに見てきたように、捕虜の解放説は解放先が不自然あるいは決定していない、舟が用意されていないことで、崩壊した。
しかし、ここではあえて一応、解放の意図を棚上げしてこの 説を考察する。その目的は否定証言がいかなる目的で行われたかを分析し、否定論の成り立ち自体を論証するためである。

捕虜の 騒ぎ、または暴動に関する当時の資料は次のふたつの日記だけである。はたしてこの二つの日記は「暴動−自衛発砲説」を取っているのか。

上海派遣軍参謀長・飯沼守少将日記
十二月二十一日 大体晴
 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

派遣軍は榊原参謀を捕虜引き取りのための連絡に行かせたが、引き取るべき捕虜はいなかった。榊原参謀が要領を得なかったとは、捕虜引き取りもして来ることが出来なかったばかりか、それに到った経過の説明も出来なかったということを示す。

上海派遣軍副参謀長・上村利通大佐日記
十二月二十一日 晴
 N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

この二つの日記が伝えるところを否定派は「暴動−自衛発砲説」と読むのであるがそれは違う。表面上は似ているようだが別の目的から書かれているのである。
「暴動−自衛発砲説」はまず、解放目的連行という前提なしにはありえない。
ところが飯沼日記では

「逐次銃剣を以て処分しありし処」−もともと処刑をしようとしていた、という背景説明があり、
「相当多数を同時に同一場所に連行せる為」−集団殺害と思われてもしようがない状況であることを示唆していると読める。
「彼等に騒かれ」−殺害の間際についに騒ぎが始まった、とも読める。
つまり、連行目的は伏せてはいるが処刑目的をほのめかせているのであり、解放目的は一切主張していないのである。解放目的がないところでは、「殺すつもりではなかった」論は成立しないのである。
次に、捕虜数千人を殺したことを認めた部分は一切ない。「我将校以下若干も共に射殺し」、「敵味方共々MGにて打ち払ひ」であって、捕虜殺害の規模は一切書かれていない。対して逃げられた捕虜は「相当数」「可なり有る模様」とある。したがって、ここには多数殺したが、それはやむを得なかったという主張はない。

二つの日記資料は、連行した目的は伏せつつ、「連行した先で捕虜に騒がれ、射撃したがほとんど逃げられた」ということである。すなわち、日記にある噂は「暴動−自衛発砲説」とは趣を異にするのである。

さて、「解放は当時絶対伏せておかなければならなかったはずである」とか「当時は捕虜を殺害したことを言い訳する必要はなかった」という疑問・反論が当然出ることだろう。「実際に起こったことは暴動であり、自衛発砲であったはずだ」、「したがって日記に書いてあることの裏を読め」という議論がおこるであろう。

しかし、それは違う。ここまではあくまで「書かれていること」が何であるか、を考察したのである。まず第一段階としては「暴動−自衛発砲説」とは違った言い方をしていることをきちんと確認した上で、書かれたことの裏の意味というものを分析しなければならない。その上で、日記にある「噂」が隠す真実は何であったか次に明らかにする。

日記の内容は噂、すなわち誰から聞いたのかはっきりしない伝聞にすぎない。N大佐から聞いた話 というのも、N大佐がだれから聞いたかは不明であ る。しかし、「捕虜の始末」 の出所はいずれにせよ、65連隊関係者以外ではありえない。このような場合、噂の発信元になった65連隊関係者の意図はなんであったかを確認して分析をする必要がある。

兵士を連行した目的を明らかにしていないから曖昧な話に終始するのだが、全体として処刑目的で集めたらしいとしか飯沼・上村には読めなかっただろう。しかし、連行目的がなんであろうと、連隊の将兵の何人かが殺害されたとしても、捕虜の大規模反抗が発生したのであれば、65連隊 は「非常なる暴動が発生したため一部は逃げられましたが、ほぼ全員射殺しました」と報告して連隊のメンツを保つのが当然であった。 連隊の将兵に被害が出たことなど、伏せておけばだれも知る由がない。

ところが、「一部は射殺しましたが、かなり逃げられました、捕虜は残っていません」ということを人づてに伝わるようにしたのである。 そればかりか「連隊の将兵の7人までが、捕虜のやつらにやられてしまいました」と連隊にとって不名誉きわまりない情報を連隊の誰かを使って噂に託して流したのである。

ひとが自らの不名誉な事跡を公表するのは、必ず、不名誉な事跡よりさらに知られたくない悪業、非行、違背を隠すためである。それは 軍命令に対する違背、反抗を隠蔽することが目的であった。軍命令に反して捕虜開放で示したように、軍の意向は「いったん、十六師団に預かってもらい、軍が引き取ったあと、上海に移送する」であった。その依頼を中島師団長がけった結果、実質的な軍命令は「捕虜は殺してはならない、預かっておけ」ということにならざるをえなかった。一方、第十三師団からの渡可命令の板挟みになって両角少佐の取った解決策は捕虜は殺すが、不始末にも逃げられたという言い訳するという筋書きを考えたのである。 N大佐に流した噂はもちろん、両角のアイデアであった。

戦後の証言者、特に実行者の場合、暴動であった、自衛発砲であったということが自己の行動の正当化の中心になっている。殺したけれども、それは仕方がなかったという言い訳である。ところが、飯沼、上村に流された噂話では「逃げられました」ということが中心になった言い訳である。それを戦後になってしているのが実は両角業作氏であることは偶然の一致ではない。

両角手記 
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面 に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである

見てきたようなことが書き連ねられているが、両角大佐は現場に居合わせなかったので、この状況は部下の誰かが報告したことがもとになっているはずである。ところが下線部分と同じことを証言したものはひとりもいないので、両角氏のまったくの創作であることがわかる。

この手記では、捕虜は殺されると「即断」して、「死に物狂いで逃げまど う」とある。日本兵に対する抵抗、暴動とは書いていないのである。実は 両角手記を書く材料になったとされている「両角日記」(実は戦後に創作されたものである、このことは幕府山事件資料の改竄者たちに書いた)においても、「捕虜の脱逸」 とは書かれているが、暴動の発生については一言も書かれていない。 また。自軍の将兵の死亡について書かれていないのは他の証言と較べて際だった特徴である。混乱の結果、大部分が逃亡、銃で殺されたものは僅少の数、というのが結論である。

兵士たちの証言は殺害の実行者である、自身の免罪を意図して、「暴動」であったから自衛発砲をしたという言い訳を世人に向けて発している。対して 両角氏の手記は「死にもの狂いでにげまどうので」、「銃火をもって制止」しようとして、「大部分逃げられた」と記した。これは実は「派遣軍司令部」に向けられた言い訳である。 軍司令部の命令は「引き渡せ(殺すな)」であったから、 「殺してない、逃げられた」と言い訳をしたのである。

なぜ、両角氏は戦後において大部分が逃亡したという言い訳をしたかといえば、事件当時からそれと同じ言い訳を考えていたからではないか。戦後になって阿部氏の訪問を受けたときにとっさに出てきたのは事件当時に用意した筋書きの言い訳だったのではなかろうか。 したがって、上村、飯沼参謀たちに噂を流したのも両角連隊長らの仕業と考えるとすべての辻褄が合ってくる。上村、飯沼日記にある記事のうち、処刑連行の示唆の部分は戦後になっては具合が悪い。そこで処刑目的の示唆を連行目的と言い換えたものである。両角手記は捕虜はほとんど殺していない、という結論を導き出すためにだけ創作された。「民間人の解放」と「放火の際の捕虜逃亡」の記載が両角手記だけに存在して、他の将兵の証言にはほとんどそれを支持する内容がないことがそれを示している。

以上、飯沼・上村日記と両角手記の趣旨は同じで、「捕虜逃亡説」というべきものである。多くの点で両角手記は他の65連隊関係者の証言からは突出している。 むろん、 この説は実態をまったく反映しない創作であって、実際にはほとんど全員殺害であったことは言うまでもない。 「解放説」は両角手記にあるが、「暴動−自衛発砲説」は否定派論客が両角手記を必死になって歪曲した挙げ句創作したものであった。



 

 第一大隊長・田山芳雄少佐 
銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです
(阿部輝朗氏『南京の氷雨』 P103)

田山第一大隊長は「監視」の責任者であり(山田日記参照)、現場にいたことは間違いがない。しかし、最初の船が出たことは銃声が起こる原因にはならない。銃声のキッカケ、捕虜が騒然となった原因は 説明されない。「騒然となっり」、「手がつけられなくなった」までは暴動とは言えない。「味方が何人か殺され」たことが発砲の原因のように言っているが、暗夜の中で騒然とした状態では「味方が何人か殺され」たことはわからなかったはずではないか。真に暴動が起こったのであれば、発砲を制止しようとするはずはない。しばらく威嚇射撃が続いて、沈静化した後に発砲やめ、と命令するのが本当であろう。この証言からは捕虜の積極的な暴動の存在は読みとれない。

連隊砲中隊・平林貞治中尉
捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、われわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナり続けました。

平林氏は三回聞き取りを受けているが、その度に内容が大きく違う。最も内容豊富なのが、鈴木明聞き取りである。その聞き取りにおいても騒ぎが起こったキッカケは曖昧である。

ところで、平林氏は連行に参加したという証言をしているが、彼は実は連行には参加していない。なぜなら、連隊砲の兵は小銃を持たず、ゴボウ剣のみである。連行のとき捕虜が走って逃げ出せば ゴボウ剣では制止できないから、彼らを連行に動員するはずがない。また、平林氏の証言内容は連行と射殺の場面が特に空疎で臨場感がないからである。

平林証言は現場にいなかったし、キッカケも説明されていないし、数千人を射殺するまで射撃をする理由も説明されていない。
 
第一機関銃中隊・箭内享三郎准尉
「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し――巻脚絆などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです」
 縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。
「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね……。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです」
(阿部輝郎著『南京の氷雨』)

  箭内氏は機関銃中隊として午前から舟の調達、整地作業、銃座の構築などに携わっており、射撃の指揮をとった。箭内氏の証言にある、暴動のさまは最も過激である。暴動が過激であれば鎮圧、射撃 の正当化も認められようが、この状況説明は不自然で信憑性はない。第一に、きっかけの説明は「その途端、どうしたのか銃声が……。が まったく放棄されてる。第二に田山少佐が発砲を制止したことを証言していることである。 暴動が過激であるという証言と発砲を精一杯やめさせようとした行動は矛盾している。

単に処刑するつもりがなかったことを強調するためならここまでは書かない。実際には捕虜の整理に当たっていた日本兵が捕虜集団から逃れるまで発砲を待とうという制止の声だった。意味のある行動だったのである。とにもかくにも、暴動を証言するものたちはすべて暴動のきっかけを納得行くように説明できてない。

以上、
田山芳雄少佐、平林貞治中尉 、箭内享三郎准尉の証言は「暴動」の原因を合理的に説明できず、鎮圧・自衛のレベルを越えて捕虜数千人もの射殺を遂行した理由を説明できなかった。解放説の破綻で「暴動−自衛発砲説」は成立もしないし、暴動自体の存在もありえなかった。

インデクスへ戻る