2.収容所の火事の際に捕虜の大量逃亡はあったのか |
火事の際の逃亡について詳しく述べるのは両角手記しかない。この手記は両角が書いていた「日記/メモ」を元に戦後になって書いたものであり、阿部輝郎氏はそれを書き写したものを持っていると言う。ところがこの手記/回想ノートには二つのバージョンがあるのである。ひとつは「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」にあるものであり、もうひとつは『南京戦史』のものである。掲載は「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」が早い。読み比べると微妙な差がある。「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」が発刊されたときにはすでに両角氏は故人となっており、偕行社には阿部氏が書写本から提供したとされる。ということは同じ書写本からずるずると「ふくしま」版と「南京戦史」版が出てくるのである。阿部氏の研究者としてモラルが問われる所以である。
★両角手記『ふくしま 戦争と人間』『ふくしま 戦争と人間』白虎編版 八千人の捕虜は、【幕府山のふもと】に十数むねの細長い建造物(思うに【幕府山砲台】の使用建物らしい)があったので収容した。周囲には不完全な鉄線が二本か三本張られているだけであった。食物はとりあえず、【砲台の地下倉庫】に格納してあったものを運び、彼ら自身で給養するよう指導した。 当時、若松連帯は進撃に次ぐ進撃で兵力消耗が激しく、幕府山のこの場所にいたのは千数十人でしかなかった。この兵力で多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いたことはできない。四周の隅に警戒兵を配置して監視をするのみだった。夜の炊事で火事が起こった。火はそれからそれへと延焼し、その混乱はたいへんだった。直ちに第一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、火事は彼らの計画的なものであり、この混乱を利用し、申し訳ないことだが、半数の捕虜に逃亡されてしまった。もちろん射撃して逃亡を防いだのが、暗闇に鉄砲では当たるものではない。報告によると”逃亡四千名”とあった。 |
★両角手記『南京戦史』版 残りは八千人程度であった。これを運よく【幕府山南側】にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに【幕府山要塞】の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は【要塞地下倉庫】に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。 |
ほぼ同趣旨であるが、後になって発表された南京戦史版の方が多くの語句が付け加わって内容豊富となり、整理されている。
大きな違いは
1.
【幕府山のふもと】→【幕府山の南側】に変わっている。
2.
【幕府山砲台】、【砲台の地下倉庫】→【幕府山要塞】、【要塞地下倉庫】に変わっている。
つまり、【幕府山のふもと】は幕府山西端のことであり、上元門集落(日本側呼称では北部上元門ということもある)のことである(二つの収容所 図1参照)。【幕府山砲台】もこの場合は幕府山西端の小さな砲台のことである(同 図2参照)。【幕府山の南側】とは幕府山の南麓にある原野であり、【幕府山要塞】とは頂上尾根に展開する砲台・陣地群のことである(同 図3参照)。
これによって収容所Bにかかる記述を収容所Aに読み替えたのである。これは収容所Bの存在を隠し、捕虜総数から収容所Bの収容者数を除くことを意図したものであろう。
阿部が「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」を書いたときには、既に両角業作氏は故人となていた。ということは南京戦史編集部にこの原稿を持ち込む前に阿部がこの資料を書き換えたことになる。この書き換えは以下に示すように重大な内容の書き換えであり、研究者、資料紹介者としての阿部のモラルは問われる。
この、収容所の火事−捕虜逃亡に対しても、両角配下の元将兵からの証言は非常に少ない。「ふくしま」では両角手記のあとに続けて「関係者」の証言を引用する。
★『ふくしま 戦争と人間』白虎編 p122 放火、脱走・・・・・。このとき捕虜を収容していた建造物の警備を担当していたのは第十二中隊(八巻竹雄中尉)などだったが、関係者の回想によると・・・・。 「建造物は細長く、草屋根のバラックのようなものだった。最初は彼らを捕虜という感じではなく、とにかく投降の意思があるように見えたので、集団でそこに宿営してもらうという感じだった。武装解除はしているが、しかし身体検査をいちいちしたわけではないから、爆薬などを持っていた兵隊がいたかもしれなかった。警戒もそれほど厳重にしていなかったのが仇になり、いっぺんに二むねが全焼し、半分ほどの兵隊に逃亡されてしまった。けれども私たちは、本音をいえば”これで安心”と思ったのです」 |
【捕虜という感じではなく、とにかく投降の意思があるように見えたので】【爆薬などを持っていた兵隊がいたかもしれなかった】−いちいち突っ込みを入れるのがアホらしいほどウソっぽい証言である。
ただし、焼けたのは十数棟のうち【二棟】だけというのは、両角手記にはない記述である。収容所Aの火災では半数が消失したとされるから、これは収容所Bのことであり、相継いで二つの収容所に火災があったことを示している。
両角の主張する自衛発砲説、殺害少数説を補強する立場の平林貞治(中尉)は捕虜逃亡について次のように発言する。
★「南京大虐殺」のまぼろし pp198-199より 「大量のホリョを収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜がにげたかどうかは、憶えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした」 |
さて、火事はあったが、【捕虜がにげたかどうかは、憶えていません】と言うのである。これでは半数逃げた可能性はほとんど否定される。しかし、【もっとも、逃げようと思えば簡単等に逃げられそうな竹がこいでした】などと逃げ道を開けておき、その上で、逃亡の有無から話題を避けるかのように、【それより、問題は給食でした】と話を逸らしていくのである。つまり、両角証言を否定したくはないが、かといって、自分の知るところとあまりに違うことを言うのもはばかられるということであろう。
『兵士たち』の日記には十六日の火災については多数の証言があるが、発生時間は十二時三十分頃と一致している。また、消失は約半数の房である。捕虜の逃亡があったと書くものはひとつもない。自衛発砲説を唱える兵士らの間でも収容所の火事のさいに捕虜の逃亡があったという事実を述べたものは一人もいないのである。これでは、両角ノートの信憑性は疑われてしかるべきである。
ところで平林証言にはもうひとつ田中正明聞き取りが存在するのであるが、こちらの方は11年前の鈴木聞き取りをあっさりと覆し、「非戦闘員の釈放」も「夕刻の火災」も両角回想ノートの筋書きにしたがって「思い出す」のである。このへんが田中正明という人物のいかがわしさをよく表している。
ところが、捕虜の脱走について述べた証言がひとつだけ存在していた。それは中国側証人によるものであった。
★唐広晋『私が経験した日本軍の南京大虐殺』−−『南京大虐殺と日本軍』より 「私たち二人はこの一群にしたがって、幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎に連れていかれた。この臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった。中は捕まえられた人でぎっしり詰まっていた。 私たちは中に閉じこめられ、ご飯さえたべさせてもらえず、三日目になってようやく水を飲ませてくれた。敵は少しでも思うようにならないと発砲して人を殺した。五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。 明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。 その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。 このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添いあっておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった」 この翌日朝早くから、縛られ河岸の空き地で大虐殺に遭遇するが、唐さんは奇跡的に殺害を免れた。 |
唐さんは揚子江沿いにいったん燕子磯まで落ち延びたあと、日本軍に捕えられ、十華里以上も離れた草営房に収容されたらしい。このルートからすると収容所Bに収容されたと思われる。草営房を出てすぐのところに絶壁が迫っていたということも、幕府山西端の収容所Bであることを示している。
唐さんの日付に関する記憶は不確かで、いくつかある証言の間でも少しずつ食い違っている。捕まった日が十二月十二日というのが早すぎるように思われるし、収容所に入れられてからの日数も長すぎるのである。日本兵のように記録を残すことは不可能だったし、拘禁の時間を長く感じるのは心理状況としてあり得ることである。十二月十二日の捕まった日を一日目としたとすると、五日目の十二月十六日に火災が起こり、六日目の十二月十七日虐殺があったことになる。
ところで、唐広晋氏は別機会にはこう証言している。
★証言集『この事実を・・・』 「四川の兵が一人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、一千人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました」 |
一千人が射殺されたというのは信じがたい。一緒に逃走しなかった唐さんは堀の中の様子を直接見たのではなく、その後に房に戻された仲間から様子を聞いた。逃亡しようとしたものは恐怖から被害数を多めに見積もるものである。また唐氏は収容人数を二万人としているから逃亡する捕虜の見積もりもそれに応じて多くなる。
もうひとつの状況として、唐さんが後に新四軍に加わったという経歴も考慮する必要がある。共産軍である新四軍の兵士であったということは、日本軍との勇敢な抗戦を鼓吹することを常に求められる立場にあった。それ故に仲間の捕虜が勇敢にも逃亡を心がけ、多数の死者を出したという筋書きを話すことはありえるのである。
唐さんの経験した火災は夜起こった。そして収容所はBである。これは両角ノートと一致している。ただし、逃げようとした捕虜は全員射殺あるいは引き戻された。この事実は他に記録したものがいない。しかし、収容所Bで火災があり、脱走未遂があったということは後年、両角が捕虜人数を少な目に言うためのヒントとなった。
両角は収容所の人数が八千名であったという。実は収容所Aの捕虜数を一万七千としたとき、収容所Bの捕虜数が八千とすれば、くしくも私が考えた捕虜総数二万五千に一致する。人数を少な目に言う場合にも、人間、何らかの実際に起こったことを時間・空間をずらして、それにことよせてウソを言いたくなるものだ。ひょっとすると、八千は実際に把握していたのかも知れず、ただ収容所Bだけの人数を言ったとも考えられる。
ただし、両角の言う半数逃亡はなかった。両角ノートの骨子を補強すべき人物さえ、肯定していない。また、逃亡する捕虜の数を過大に言うことが予想される唐氏の証言でさえ、逃亡を試みたのは5%にとどまり、しかも失敗して収容所に引き戻されたというのである。ここにおいて、半数逃亡説ははっきりとこれを否定される。
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