更新・改訂の記録

過去にとほほ板で発表したものもすべてその後の研究・考察を反映して、加筆・改訂を加えています。また、いったん、当HPで発表したものでもその後に誤りや、新たな発見があるときはすべて加筆・改訂を加えています。「てにをは」やレイアウト程度の変更については書きません。


 
7月29日 百人斬り関係のファイルを一気に3本up。できれば、判決前に仕上げたかったものですが、最近は遅筆になって困ります。東京日々新聞でなく、大阪毎日新聞がオリジナルに近いという発見は我ながら自慢です。「百人斬り報道」は当時は、戦意昂揚のホラ話が書かれていた、というウヨクの思いこみを粉砕するものです。二少尉の話が「ホラ」であったことはフツーに気づくはずですが、意外やサヨクの方でも面白いと言って下さるひとがあります。

2006年6月17日、二少尉の主張の変遷 をup。気が付けば1年以上更新がありませんでした。百人斬りの論考は非常に難しいものがあります。このファイルもわかりにくいと不評だったものを1年くらいかかって書き換えたものです。



1月27日「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度 ニセ写真攻撃−斬首解決編をupしました。渡辺さんにはKen誌の写真の提供を受けて大変お世話になりました。海軍兵の写真はでは左にある大きな花瓶に気が付かず、数人に指摘されました。海軍兵の水平服の襟の色が大きな写真では白色ではなく、光線の加減だということがわかります。現在の中国の写真資料は非常に複写を重ねたものであるようです。

1月22日「『プロパガンダ写真研究家』松尾一郎の目の節穴度」第3弾、写真判定の杜撰−総集編をupしました。相変わらず、松尾氏は引きこもり中です。わけのわからない反論には閉口します。もうひとつ、続きを書きます。


1月16日、「『プロパガンダ写真研究家』松尾一郎の目の節穴度」第2弾「ニセ写真攻撃−凌辱編」をupしました。インデクスの順番は入れ替えました。また、村瀬守保写真編は少しずつ手直ししています。
1月14日、前回に引き続き「『プロパガンダ写真研究家』松尾一郎の目の節穴度」第2弾、写真判定の杜撰−村瀬守保写真編をupしました。前回のページは大好評で、私もこれだれ反響があるとは思っていませんでした。今まで、この種のニセ写真攻撃に対して、あまりにも見え透いた言いがかりなので、誰もまとまった反撃をして来なかったということなのでしょう。その意味では非常に効果的だったわけです。今回は「捏造写真攻撃」ではなく、歪められた写真解釈についての批判ですが、写真を見ても黒と見えないものを白と言い、真っ黒なものさえ、まったく見えない、見えていない、という目の節穴ぶりです。一方で多くの方に励ましとご教示を頂いています。感謝します。
しばらくです。1月10日「「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度−斬首編」をupしました。松尾さんの本の出版記念です。「ニセ写真攻撃」というのも結局のところ、「こんなはずはない!!」と怒ると噴出する妄想反応の一種にすぎません。あまりに見え透いたニセ写真の論拠、基礎知識の不在がかえって、大虐殺写真の信憑性を保証するかのようです。
11月7日 『ティンパリーの謎』を嗤う−その2」をupしました。ティンパリーに関する部分は30万人説を除き、書きつくしました。ネタ本が鈴木明という部分はいつか、もっと詳細に跡づけたいと思います。
11月5日
長く、書きかけ状態の「ふくしま版と南京戦史版との相違点」を、「幕府山事件資料の改竄者たち」と改題してupしました。いつも70-80%書いてからが難しいのです。百里の道も九十九里が半ばということでしょうか。
もうひとつ「向井・野田証言vs記者証言」をup、こちらは内容を増やしたいところを、コンテンツを限って書いたので速攻で仕上がりました。「野田回想メモを検証する」の続編としてお読み下さい。これからもコンテンツを増やしていくかもわかりません。これを書くときに「野田回想メモ」を数行削りました。
11月3日
いま話題の「百人斬り訴訟」に「野田回想メモを検証する」をもって一石を投じようと思いました。この論考も、野田回想メモについての資料の「内部批判」を行ったものです。直接、裁判に資する資料を提供するわけではありませんが、クマ@問答有用さんらの呼びかけに答えたいと思います。
10月21日
「『ティンパリーの謎』を嗤う−その1」はティンパリーのタイム・テーブルの一部が新たに判明したために書き換えました。ティンパリーが南京事件を目撃したのではなかった、また曽がそのことを知らなかったというところは変わらないので大筋は変わりません。

「ネット右翼の妄説批判」−今から読むとたわいないものですが、私が南京大虐殺に興味を持ち始めた原点となった所以をあとがきに書き加えています。

「軍命令に反して捕虜開放」−誰が捕虜殺害の命令を出したかは幕府山の捕虜殺害事件の最大の謎と言えます。否定派、肯定派を問わず、このような考えを示したひとはいないのではと思います。


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