栗原証言聞き取り阿羅版批判      
         2006.12.14 first upload
                  2008.4.20 reviced

 

昭和59年(1984年) 毎日新聞と本多勝一氏は南京事件中、最大の大量虐殺である幕府山事件の真相を語った栗原利一氏から聞き取りを行い、虐殺数1万以上、虐殺意図ありを立証して否定派に深刻なショックを与えた。

それに対して危機感を抱いた否定派の論者、畠中秀夫(当時。阿羅健一と同一人物)はその後独自に栗原氏に取材したのち、虐殺数4000、 虐殺意図なし、という毎日、本多聞き取りとはまったく異なる聞き取りを書きあげた。

毎日、本多聞き取りが肯定派の幕府山事件像の中核となったのに対し、阿羅聞き取りは以後否定派の栗原証言の範型となり、両角回想ノートの内容を補強するものとして使用された 。

毎日、本多聞き取りと阿羅聞き取りの二種類の栗原証言聞き取りがある以上、一方の聞き取りを任意に正として他方を否定するのは資料批判の意味をなさない。 この論考では阿羅聞き取り自体の矛盾、不審点を中心に阿羅聞き取りのウソを証明する。また、栗原さんのご子息、核心さんは毎日、本多聞き取りを真実としているが、核心さんの発言 も単に参考にとどめる。


以下に、 核心さん(栗原利一氏のご子息)ご紹介の阿羅聞き取りの「原稿」を紹介しつつ批判する。全文と「原稿」、「記事」の対照は南京事件資料集「畠中秀夫氏の捏造記事」、で読まれたい。

段落1,2,3<省略>

段落4途中より
<栗原氏がなかなかインタビューに応じない描写のあとで>
「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは違います。しかし私は南京を見ていない。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。
今まで私は南京にいった人は何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです」
栗原さんの顔から緊張の色がとけはじめた。
「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘ともおもえません。でも聞く人によって証言が微妙に違って来ます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今迄証言されたものと照し合わせてみたいのです」
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある、(1)1万3千余人の死体といったら5、6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。 (2)四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。
「あなたが今まで書いたものとかありますか」と栗原さんはいった。あわててバックを捜すと偶然に私が今迄書いたコピーがあった。「こういうものを私なりに書いています」と出すと、ちょっとそれを見ながら(3)「毎日新聞には言いもしないことを書かれました。自分の言いたいことが逆になった」という。私はびっくりした。「それはどういうことですか」と聞くと、それまで中腰だった栗原さんは座りなおして語りはじめてくれた。

(1)死体の数がマンション一杯だとかいって数量をおおげさに見せかけるのは否定派がよくやる手口である。板倉も江岸への連行を青梅マラソンに例えて否定しようとしていた。 問題は数を否定できたのか、ということである。

(2)四方から発砲したら向かい側の日本兵に当たるから発砲できない、という馬鹿ウヨの否定論をやっているのには驚いた。これは否定できたであろうか。

(3)このやりとりの部分は転換点としてリアルで緊張感を感じる。栗原さんが、阿羅にこのように受けとられた言葉を発したこと自体は間違いない。それは栗原さんの思想傾向で十分ありえることだ。しかし、これは栗原さんの感想そのままではない。というのは、 後でみるように栗原証言には、この言葉を支える証言や事実が乏しいからである。一方、阿羅にとってはここが一筋の光明であって、とっかかりの部分であった。そのためこの言葉をキーにおいて証言を再構成(捏造)しようと試みたと考えられる。

段落5<省略>

段落6
南京攻略戦では戦友を次々失った。鳥龍山近くに来た時は半分以下に減ってしまった。誰が死んでもおかしくない状況だった。幕府山近くで、栗原さんが分隊長をしている11人は120人の捕虜をつかまえた。武装解除して進む。他の部隊も捕虜をつかまえ( 4)その合計は13500人捕虜をつかまえたと聞いていた南京攻略戦全体では7万の捕虜だとも聞いた。捕虜は廠舎に収容した。自分たちにも充分食べるものがなかったがそれでも捕虜たちには中国の茶碗一杯づつおかゆを食べさせた。
次の日はもう食べる物がなくて捕虜の半分にしかゆきわたらなかった。
(A)まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので一個大隊、135人で護送した。( 5)13500人とは聞いていたが実際の捕虜の数は4千から6千ぐらいだったろう。 (6)捕虜の中には教導総隊のみるからにしっかりした兵もいた。(7)4列か8列かにして護送した。(8)栗原さんは列の一番最後にいた。最初に江岸についた捕虜は座って待っていたが全員が着く迄2・3時間かかった。薄暗くなってきた。( 9)栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた。 (10)日本の将校が殺されたと聞いた。(11)そんな動揺が伝わってきて混乱がおき、その中で射撃がはじまった。(12)ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。(B)最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが殺すか殺されるかの戦争の継続の中で虐殺ではない。
栗原さんの戦争体験、南京体験はこのようなものであった。

(4)聞いていた のではありません。自ら数えたのです 。これはスケッチブックに書かれています。
栗原さんのスケッチブックとは毎日新聞聞き取りに備えて、中支上陸以来の作戦経過を書き綴ったものです。栗原さんは戦闘詳報の元になる陣中日誌を書いていたため 記憶は詳細です。この資料を 否定することはだれもできません。
その中には第一大隊は135人、捕虜は4列に並ばせて、50mおきに二人監視兵を付けて連行したと書かれています。列の間隔を1mとすれば、兵士1人につき100人を監視した計算になり、135人で135000人となります。13500人は毎日新聞聞き取り、本多記者聞き取りで「創作」されたのではありません。

(5)ここも聞いていた のではありません。捕虜獲得時に13500人と認識し、その認識が改められていなかっただけです。連行前に4千から6千と見たならば、13500から減った理由も記憶されているはずです。その記憶、説明がないままに4千から6千と 言うことはありえません。

→ 捕虜数・殺害数を13500人から4千から6千と阿羅が証言を捏造したことが確定しました!

(6)細かいことですが、捕虜の組成について発言するのは捕虜獲得の際であったはずです。時間順に流れない証言はおかしい。他人が証言を再構成するとこういうことがおきます。

(7)栗原さんのスケッチや証言には8列という記載はありません。阿羅がなぜ、8列というのを付け加えたか不明です。というのも、監視兵を50mに2人の割合とすれば捕虜の数が阿羅の意図に反して多くなってしま います。おそらく、50mに2人の割合という証言をつかみきれていなかったので 意図に反する錯誤を書いてしまったのでしょう。

(8)列の一番最後にいる栗原さんは現場に到着する以前に、「混乱」が始まったとするのですから、「全員が着く迄2・3時間かかった」と証言することはありえません。”自分が護送をはじめてから、2・3時間して江岸の捕虜開放の現場まで来た”とでもいうの ならわかりますが。

(9)この辺から文章のおかしさが際だってきます。「護送している頃、」? 頃という のは二つの現場が切り離されていることを示します。たとえば”私が寝ている頃、ドイツではクローゼがシュートを放っていた”。栗原さんは最初に江岸についた捕虜が座っているのを目にしたのではなかったのか?

(10)混乱のさなかに「将校が殺された」ということ情報が後列にいた栗原さんにどうやって伝わる?
本多聞き取りのように「丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった」であれば、伝わりますが、阿羅聞き取りのように後列で護送中の栗原さんには50m間隔で配置される兵士を介してですから容易に伝わりません。

(8)、(9)、(10)は連行中・「混乱」発生時における栗原さんの立ち位置に関する「新証言」です。立ち位置の変更をした結果、証言には以上のように不審な点が生じました。

(11)暴動がおきたなら、即時鎮圧行動でしょう。文章中に流れる時間がスローモーションになったり、逆転したりするのは頭が悪い阿羅が鉛筆をなめなめ書いているから でしょう。

(12)「ほぼ全員射殺」とするならば、栗原さんが護送していた捕虜はどうしたのか。真実の証言であれば、遠くのことを書くより、まず自分がそこで何を見、何をしたのかを言 うはずです。それがないのはウソの証言です。
全員射殺しても日本兵の死者は数名しかいないということは、包囲した兵士があらかじめ向かい合った方向には銃を向けていなかったことをしめします。
(11)、(12)は栗原さんが「鎮圧行動」のときなにをしていたか、を書いていないことが注目点です。

(A)(B)ここは”開放”意図か、”処分(虐殺)”意図かについての部分です。
(A)まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので の部分は そのように捕虜に説明せよ、という意味で開放/処分に対しては触れていないものと思われます。
(B)最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが 
第1文の「射殺するつもりではなかった」というのは栗原伍長の意志のことでしょうが、伍長がそういう「つもり」であったことしても連隊としての意図とは何の関係もありません。雑誌発表時には
 
最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはもともと射殺するつもりでつれてきたのかどうか分からない。しかし、自分は射殺するつもりもなかったし、射殺の命令もうけていなかった。

と書き換えられました。 この書き換えで文意はより明確となりますが、連隊の意図もわからないことが明確になりました。

それまでの栗原資料、証言を振り返ってみましょう。
「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って船を川の中ほどにおいて、船は遠ざけて四方から一斉に攻撃して処理したのである」(スケッチブック)

捕虜には島に送ると説明した、これは間違いないことです。捕虜の「処理」という書き方は事後においてなされたものであり、事前にどういう認識であったかは書かれていません。
 
沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、突然「撃て」の命令が下った。(毎日新聞聞き取り)

「上官から聞いていた」という以上の説明はありません。
 
上からの「始末せよ」の命令のもと、この捕虜群を処理したのは入城式の一七日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した。(本多聞き取り)

”「始末せよ」という命令”があったとする唯一の聞き取りです。しかし、この文章は事後において回想的、総括的に述べたもので個々の兵士に対して「始末せよ」という命令あったかどうか疑わしい。始末せよ、は支隊長、連隊長レベルの命令が大隊長に発せられた、ということを事後において推定した、というのが事実ではないかと思われます。
 
動く者を刺すときの脳裏には、「これで戦友も浮かばれる」と「生き残りに逃げられて証拠を残したくない」の二つの感情だけしかなかった。これも作戦であり、何よりも南京城内の軍司令部からの命令「捕虜は全員すみやかに処置すべし」であった。(本多聞き取り)

脳裏に浮かんだ二つの感情は説得力があります。発砲直後において「これは処分だ!」ということを疑う兵士はいなかったと思われます。しかしながら第二文は事後においていろんな情報を総合して述べられたものとしか考えられません。

※本多氏の聞き取りは「そのとき何を見、何を聞き、何をしたか」ということと「後になってどう思ったか」ということをきちんと仕分けしていない部分があります。

結論としては、捕虜に対して「対岸に送るとか、中洲の島に送る」という説明を兵士にさせたが、「処分するぞ」ということは言わず、「何かあったら発砲せよ」とだけ命令したと考えます。それでも兵士の中には「処分するものの如し」と感じたものもありました(兵士の日記資料)。捕虜の側で も、対岸に送ると言われて、当初は希望的観測を抱いたものもいたでしょう。しかし、江岸で座らせて待つ間には兵士も捕虜も射殺必至と感じ始めたのではないでしょうか。

虐殺か開放かは連行前の兵士の認識の如何で決まりません。 そうではなく、栗原証言はその場の状況からして処分−虐殺−であったことを示します。

(1)【自発暴動の否定】捕虜はゲートルまでほどいて後手に縛り(本多)、数珠つなぎにした(毎日)。
      よって捕虜の側の自発的暴動はありえない。
(2)【開放目的の否定】捕虜を運ぶに十分な船は来なかった。(毎日、本多、両角派の将兵の証言)
(3)【発砲準備】船を川の中程において集めて、船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理した。(スケッチブック)
(4)【徹底した殺戮】3−4mの人柱が出来た。(毎日、本多)
(5)【証拠隠滅】虐殺の証拠が残らないように捕虜を焼却した。(スケッチブック、毎日、本多、日記資料)
この5点が虐殺の証拠です。

阿羅は「後ろ手に縛った」 、「人柱」、「捕虜の焼却」に対する反対証言を 聞き取っていません。 このような重要部分が片方の証言にあって、もう一方にないとすればどちらかの証言がウソになりますから当然、その反対証言を取らなければ、先行する聞き取りを否定することはできません。特に「人柱」についての記述は栗原証言の白眉とも言えるところです。 「人柱」の部分のすさまじさは絶対に創作できるようなものではありません(栗原さん本人であろうと、あるいは福永記者、本多記者であろうと)。


段落6のまとめ

1.栗原さんが捕虜の人数を13500人と証言したことはスケッチブックに書いてあり間違いない。
2.連行中・「混乱」発生時における栗原さんの立ち位置に関する「新証言」は捏造である。
3. 処分−虐殺−の方針は前後の状況からして、証明されている。
4.「人柱」について書き留めない聞き取りはウソである。






段落7
<前略>
その栗原さんが7月22日の毎日新聞を手にびっくりした。社会面のトップには「南京大虐殺、中国側、初の史料で立証」という大きい見出しがでており、中国側の史料によれば30余万人が南京で虐殺された、と報じていたからである。
  これを読んで栗原さんは「正義感に燃え」、毎日新聞に抗議の電話をした。今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほどの大々的な記事ははじめてである。(1 3)このままにしていたら日本人が30万人の中国人を殺し たことになる。南京攻略戦に参加し、自分の目でみてそれはありえない。そう思って抗議した。電話のやりとりがあり、記者が栗原さんを訪れることになった。( 14)訪れた毎日新聞の記者に栗原さんは私に話してくれたと同じ体験を話した。その時昭和13年、漢口攻撃戦で負傷して入院中に書いたスケッチブックをみせ「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではなく、中国の本に載っているようなことはなかった」と語った。
その話が8月7日に記事になった。読んでみてびっくりした。(15)毎日新聞では4〜6千人の捕虜が「13500人」になり、暴動と混乱の中で攻撃が始まったのが「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。虐殺は事実」になった。
「言ってないことが記事になり、30万人虐殺に抗議したのが一転して虐殺の証人になった。全く逆になった」と栗原さんはくやんだ。

(13)阿羅聞き取りによる証言の動機です。本多聞き取りと毎日新聞聞き取りによる動機と較べてみましょう。
 
南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側で否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。
あと20年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う。(『朝日ジャーナル』「南京への道」21回目、9月7日号)

毎日新聞には一回目の証言のあとで次の証言もしています

「子孫にウソを伝えぬために」

 元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証” 犠牲者は三十余万人」の記事。

 「殺したのには殺した。それは事実だけど、中国側が言う三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるには、日本の側も、やったことははっきりと認めなきゃいけない。いつまでも”殺していない”とか”自衛のためだ”なんて言っているのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」 (以下略)
(『毎日新聞』1984年9月27日朝刊第5面)

本多と福永の聞き取りと較べると阿羅の聞き取った動機は30万人虐殺の否定だけで、虐殺の事実をはっきりさせるという部分が抜け落ちています。 また毎日新聞に対する”抗議”ですが、核心さんは次のように証言しています。
 
父は「抗議」でなくて自分は詳しく知っているので教えたいといったニュアンスだったと思うのです。
何度も言ってることですが父は自分から積極的に話したかったのだと思います。
「正義感に燃え」と言うよりは「自分は詳しく知っているので聞きに来てくれ」と言ったことだったと思います。

(14)毎日の取材の方が先ですから、言い方が変です。栗原証言の白眉である、捕虜を縛った話も人柱についても書かないのに「同じ話を聞いた」は通らないでしょう。

(15)スケッチブックに、はっきりと13500人と書いてある。これは動かしようのない事実である。後半は毎日、本多聞き取りを否定する具体的な反対証言を聞きだしていない

段落8
新聞に栗原さんの証言が出ると、「嘘つき」「馬鹿野郎」という抗議の手紙が十通ほどきた。昔の戦友からも一通きた。後輩なのでこれは事実をいってわかってもらった。逆に同じくらいよく告白してくれたという激励の手紙も来た。変な気持ちになったそうだ。
手紙のほかに人が尋ねてきた。防衛庁の戦史の方も二人が来た。5分だけと言って朝の9時ごろ来たが結局午前中いた。
「防衛庁の人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話に納得したはずです」という。
世界日報の記者が来た。朝日新聞の本多記者も来た。何年か前、南京大虐殺とよくいわれるようになった。その時から栗原さんは南京大虐殺に関する本を読んで自分なりにしらべはじめた。自分の個人的体験から大虐殺はなかったと思っているし、大虐殺を主張する本を読んでもあったとも思わないと確信している。
「本多記者は中国人の言う嘘ばかり書いている。(16)ジャーナリストは気が狂っているのではないかと思う。それでも私の家に来た時は毎日新聞の記者に話したような自分の体験を話した。しかし、ここでも裏切られた。( 17)朝日ジャーナルを読むと自分の言ったことは書いてあるが、全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている。のせられた。a.自分では捕虜が4千から6千と思うと言ったが1万3千にすりかわっている。
b.捕虜にはラーメンなどを食べる大きい茶碗で食べさせたが、それが中華料理などで使われる小さな支那茶碗にかわっている。
c.私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。

(16)”『気が狂っている』という言葉は長兄のことを考えれば父の口からは出ない言葉でしょう。”
”『ジャーナリスト』なんて言葉も不釣合いです。父が横文字言葉を使うのは聞いたことがありません。”(核心さん)

(17) 「自分の言ったことは書いてある」としながら、「全体として・・・別のことになっている」という意味がわかりません。
あえて探すと次の項目しかありません。
a.すでに説明済みです。捕虜は13500人で本人が数えたと言っています。
b.ラーメン茶碗が小さな支那茶碗がにかわっている?
c.小銃で撃ってはいない。

a. 「自分では捕虜が4千から6千と思うと言ったが1万3千にすりかわっている」 と言ったとするならば、「全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている」などと言わず、 もっと個別的に”数字が違っている”と指摘したはずです。
b.実は後年に著述した『南京大虐殺研究札記 』(1986年12月13日発行)でも栗原さんは支那茶碗と書いています。
c.私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。は非常に重要な意味を持ちます。

 

阿羅聞き取りではほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。となっています。これは毎日、本多聞き取りも共通ですから確定で す。しかし、栗原さんの列の最後尾という立ち位置からすると、連行中の捕虜をどうやって射殺できたのか、不思議です。連行は兵士一人が100人を監視している。捕虜全員が逃走を図ったり、一斉に「反抗、襲撃」したとすれば兵士 が担当した捕虜を全員射殺することは不可能である。また、全員を射殺したのだとすれば、栗原さんも連行中の捕虜の射殺に加わらなければ おかしい。護送だけで撃ったことはないというのは到底信じることができない。

幕府山事件を否定するためには、(1)捕虜総数、連行捕虜数を少な目に変更する (2)開放中に暴動が起こったので鎮圧するために発砲して犠牲が出たという二点が基本です。この二点に関わりのない、栗原さんの立ち位置変更という捏造をあえてする理由がない。むしろ立ち位置の変更を行うことによって矛盾が出てくる。なぜ、捏造をしたのか。

ところが、核心さんの”この筆者はなにか脅しみたいことを言ってきた人だと思います。「お前は人を殺していないことにしてやるから、こっちが書きたいように書くから黙ってろ」みたいな話だったと思います。”という証言 を参考にするとこの捏造の理由がよく理解される。

否定派は共通して「捕虜虐殺に関わった将兵は捕虜の殺害を不名誉と考えて、隠すはずだ」と考えます。栗原さんは何らそういうことを望んでない、真実を明らかにすること だけを希望していたのにもかかわらず、「お前は人を殺していないことにしてやるから、こっちが書きたいように書くから黙ってろ」という取り引きが成り立つと信じた。立ち位置の捏造と小銃で撃ってはいない、という捏造がそのためのものであったとすればきわめて納得が行くわけです。

すなわち、立ち位置の捏造は、栗原さんの殺害関与を否定するのと引き替えに、阿羅が勝手に捏造をしたという傍証を構成しているのです。

ただし、栗原さんが阿羅や彼に続く否定派インタビュアーに対して、それ以後いい加減な対応をして捏造証言をあえて否定しなかったのは、取り引き成立のためではなく、彼を非難する郵便物がドサドサと届いたことによるようです。

なお、この立ち位置の捏造は田中正明氏との否定証言捏造のコラボレーション疑惑につながります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 

段落8の帰結
阿羅が言うように、毎日新聞の記事に「正義感」に燃えて抗議したために、福永記者が取材に来るようになった、と仮定して見ましょう。栗原さんは「私が言おうとしたこととは別のことになっている」と感じたのなら、毎日新聞と本多氏の 記事に対して再度、抗議をしたはずです。

しかし、抗議を受けたとは毎日も本多氏も書いたことがありません。
それとも、毎日、本多氏は栗原さんからの抗議を握りつぶしていたのでしょうか。

もし、そうだとすれば、栗原さんはそのことを阿羅に告げたはずです。阿羅は大喜びで栗原さんが抗議をしたことをこの文章に書いたはずです。しかし、それは書かれなかった。ということは栗原さんの毎日、本多氏への抗議はなかったことを認めたことになります。 このことは
栗原さんが、毎日、本多聞き取りが「言おうとしていることとは別のこと」を書いたとは思っていなかったことを示す何よりの証拠 です。











 







段落9
(18)江岸での出来事は戦争の流れの一つで、みせたり書いたりすることではないと思っている。
(19) 謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた。基本的な間違いが多いといってやったんだがね」
本多氏と会った時のことをこう述べているが、この間、何度も「のせられた」と語った。
時間は既に11時を過ぎていた。「防衛庁の時と同じで十分間といってもやっぱり午前中かかるな」といいながらも「満州事変記念写真帳」や「夕陽千万峰」といって栗原さんの所属していた65連隊2中隊の記録などをとりだして説明してくれた。
(20)南京大虐殺についてもスクラップをはじめ十冊ほどの関係書をとりだしてきて説明する
(21) 洞富雄氏の著作を「一部だけとりだして虐殺があったといっている。殺すか、殺されるか、その流れの中の行動であって虐殺ではない。中国兵をこの野郎と思い、にくらしいと思っていた兵隊の気持ちは分からないでしょう。何故こんなことを書くのだろう」 と手きびしい。

(18)阿羅によれば、栗原さんは「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではな い」ということを言うために毎日新聞の記者を呼んだはずでした。そのためには江岸での出来事を話して、新聞に書いてもらわなければならなかったはずです。 暴動がきっかけで銃殺したのだとすれば見せたり書いたりすることなしに真意は伝わりません。上記のように思っているはずはありません。
(19)「謝家橋鎮では何もなかった」 などとは本多のどの著書にも書かれていません。そもそも『南京への道』の初版は1987年で本多、阿羅の聞き取りは1984年ですから、 南京事件に関する本多記者の本は出ていません。また、栗原さんはその後も本多記者の本を買ってい ないそうです。(核心さんによる)
(20)スクラップは別として、南京大虐殺の関連書なるものも一切所有していないそうです。(核心さんによる)
(21)洞富雄の著作も持っていません。栗原さんだけでなく核心さんも持っていないそうです。(核心さんによる)
 

段落9の帰結
ここは単に栗原さんが南京大虐殺を認めていないという印象操作の部分で本質的なことではありません。
毎日、本多聞き取りを阿羅聞き取り否定できればこんなことをする必要はなかったのです。一方、核心さんの証言は単に参考にとどめたため、真相についてはコメントしません。







段落10
栗原さんの話は八割ほどが戦争・戦闘の話で、残り二割が南京での話である。
戦争のつらさ、生死が背中合わせの状況、敵へのにくしみ、死んでいく戦友、そして戦争が終わった時たまたま栗原さんが生きていた。それが栗原さんの実体験であり実感である。
南京での出来事はその中の一部であり、(22)戦争・戦闘の延長上に捕虜の殺戮があったので、虐殺ではなかった。これも栗原さんの実感である。(23)南京全体のことは一兵士の栗原さんは知る由もないが。

(22)戦闘がおわったからこそ捕虜がいるのであり、戦闘の延長とはいえません。捕虜はすでに武装解除されているのですから、戦闘状態が発生するということはありえません。 素手の捕虜、それも縛られているものが重機関銃8挺、軽機関銃も配備し、武装した兵士約200名と自ら戦闘することはありえません。

(23)これはその通りであるが、その一兵士に南京大虐殺を否定させようと狂奔しているのが阿羅そのひとではないか。


結語

  1. スケッチブックに13500人の捕虜数、殺害数を書いている。毎日、本多聞き取りはこの資料に合致しており、阿羅 聞き取りは食い違う。
     

  2. 阿羅聞き取りは不自然さがある。
      a.栗原さんの立ち位置の不自然さ
      b.栗原さんが射撃していないという不自然さ
      c.「ゲートルで縛った」、「人柱」については栗原氏が暴動を否定するならば、当然反対証言をとるべきだし、とれるはず
    ※ 毎日、本多聞き取りにはこのような不審点、矛盾はない。

     

  3. 阿羅聞き取りでは毎日、本多聞き取りの否定の言葉だけあって内実が示されていない
      a.栗原さんは毎日、本多に抗議をしなかった
      b.「のせられた」、「自分の言いたいことと逆になった」と言いながら、その実例がない。
        

     

  4. 一方で阿羅は栗原氏に圧力をかけて両角手記、平林証言に近づけるように証言の改変を迫ったが、栗原氏が一定の抵抗を示したため修正しきれず、相当部分がこれまで否定派の証言の枠を越えた証言となって残った。

    a.両角手記では連行捕虜数4000人だったものが、阿羅聞き取りでは4000−6000人となり、殺害数は3000人くらい(平林証言)とか僅少(両角手記)と言っていたのが、ほぼ全員殺害となってしまった。
    b.捕虜解放の目的で連行とされていたものが、「上の方は(解放か殺害かは)どうだったのかわからない」と後退した。

ひとはウソを書こうとしても、100%のウソというのはなかなか書けるものではない。栗原さんの証言の都合が悪い部分を出来るだけ歪曲、捏造したが、それでもこれまでの否定証言よりから少しだけはみ出すところまでしか歪曲 できなかった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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