1. 民間人の釈放はあったか |
非戦闘員の大量釈放を証言する唯一の資料が両角回想ノートである。両角回想ノートを紹介した阿部輝郎氏が行った、聞き取りにおいて自衛発砲説、殺害少数説を支持する歩兵六五連隊の元将兵の中にも非戦闘員の釈放を証言するものはない。
★☆両角回想ノート☆★ 「幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった」 |
捕虜の中に民間人がどれくらいいたのか。捕虜の構成について述べる資料を通覧する。
★1★朝日新聞 1937年12月17日 朝刊 両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて <中略> それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。 |
「それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ」−福島民友新聞には「第十八師第三十七師、第三十四師、第八十八師及軍官学校、教導総隊等、総数一萬四千七百七十七名」となっており、内訳は、福島民友新聞の方が正確なようだ。当時の新聞では、戦果を強調するために兵士ばかりであったと言った可能性がある。また、非戦闘員、民間人が入っているなどと書けば検閲にかかる。しかし、半数もの非戦闘員がいれば、すべてが兵士であるとまでは書けないであろう。
★2★遠藤重太郎 十二月二十二日(この日に記述したが、記述内容は十四日のものと見られる。) 馬龍[幕府]山に付[着]く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に降伏して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五列[裂]でこれでも皇軍にていこうしたのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆 |
「服装は四分五裂」であったが、「皆支那兵」との認識であった。
★3★近藤栄四郎 十二月十四日 <略>南京も目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下すのも気持ちが悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。 |
女性は民間人の可能性が非常に高い。しかし、問題はその数である。
★4★目黒福治 十二月十三日<>途中敵捕虜各所に集結、その数一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の[と]投降す、各隊にて捕い[え]たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。 |
少年、老人について触れているが、それは雑兵と認識されていた。女性については兵士との認識は示されておらず、数が一目でわかるほどの数であった。この三人の日記では民間人の数はわずかであった、あるいはほとんどが兵士と見なされたことを示している。
当時の中国軍は南京防衛のために兵員を急募・徴兵した。輸送や塹壕堀りに当たる軍の要員は通常の兵員とは別の制服を与えられていた。このことが服装が四分五裂であるとの印象をもたらしたのである。戦闘員ではなかったが、純然たる民間人でもないという軍要員が多数混じっていたのである。
★5★ I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長 南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年輩の捕虜もおり、十四−十五歳の若者もいた。敗残兵は少なかったのではないのか。 |
I氏の属する隊は南京附近を掃討した。ここでは「年輩」、「若者」と書き、「敗残兵は少なかったのではないか」と書く。南京附近から落ち延びた集団には兵が少なかった可能性もある。この捕虜は上元門付近の収容所Bに収容されたと思われる。
★6★唐広晋 『この事実を』P19-20 中国語の話せる日本人が「だれか幕府山の前を道案内できるのはいないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じこめました。そこに収監されたおよそ二万人は、ほとんどが捕虜となった兵士達で、一部が警官とラオパーイシン(老百姓−市民、農民のこと)でした。三日三晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子供が飢え渇いて相継いで 死にました。婦女子は総べて輪姦されました。 |
唐氏は兵士が多く、ラオパーイシンは一部であったとする。このあと、揚子江河岸での虐殺へと話は進むのだが、ラオパーイシンの釈放などの話は登場しない。唐氏は収容所Bに入れられた可能性が高い。
つまり、幕府山攻略経路にあった兵士は兵士主体の捕虜を収容し、東部上元門の収容所Aに入れた。揚子江沿いに南京城に向かった兵士が捕らえた捕虜の中には一部民間人が混じっていた。
したがって、両角が非戦闘員がいたと記すことウソではない。また、連隊長、支隊長を含む本隊は十二月十四日の午前十時には上元門に達し、早くも捕虜の収容を始めたと見られる。
しかしながら、当時の日本軍に詳細不明な軍要員らしきもの(輸送兵や塹壕堀の要員)について解放するというような考えはなかったであろう。また、少数の民間人が混じっていたとして、それわわざわざより分けたかどうかはかなり疑問である。とにかく、捕虜の釈放については両角以外の誰もいっさい触れていない 。すなわち当時の記録である 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』所載の日記群にも、旧六十五連隊戦友会に属する元将兵たちも触れていない、ということだけが事実である。 また仮に解放があったとしても、それが両角が主張するような半数もの釈放であったか、どうかだけが争点となる。
虚偽の山田証言−欺瞞に満ちた鈴木聞き取り
ここに、両角以外の関係者でただひとり、釈放について明確に述べた人物がいる。それがかっての支隊長山田栴二氏である。しかし、この証言内容は以下に見るように明らかなウソを含んでいた。
★☆鈴木明による山田聞き取り 『南京大虐殺のまぼろし』より (捕虜の大量獲得のあとを受けて)−山田旅団長は「抵抗しないものは保護する」といった。道路端には、彼等の投げた鉄砲だけで、五千挺を数えることができたという。 |
ところで、聞き取りは普通、引用文で書かれ、地の文は少ないのだが、この聞き取りにはさっぱり引用文が登場しない。全文の紹介は長くなるので出来ないが、山田氏がさんざん証言を渋ったあげく「イチかバチお話しよう」といって聞き取りが始まった。しかし、その直後から鈴木氏の揣摩憶測と山田氏の生返事だけが続く。結果として、出てくるステートメントが山田氏が言ったものなのか、鈴木の解釈や意見であるのか、区別ができないような書きかたで一貫しているという困った代物である。
どちらの収容所も「学校」とはほど遠いものであったはずであり、山田は実際に見ていない疑いがあるが、それは置く。「横田記者の記事では、一万四千七百七十七とあるが、それは少し多すぎるのではないかとも思われる」−これは山田氏が言ったと見てよかろう。山田氏は重い口ながら捕虜数を少な目に言いたいようである。
「一万五千人といえば、確認に一人二秒を要したとしても、八時間もかかる」−さて、この言葉は誰が言ったのであろうか。山田氏は記憶にあるままを言えばよいのであるから、 細かい計算をして横田記者の記事を否定する必要はない。どうやら、一万五千人もいなかったという発言を引き出そうとして鈴木明が言った言葉のようである。この計算は瞬時に暗算可能なものではないから、 あるいは、鈴木氏が著書を書く際に捏造して付け加えたものかもしれない。
「一万五千人といえば、確認に一人二秒を要したとしても、八時間もかかる」、八時間もかけたはずはない。
だから、そんなには多くなかったはずだ、という結論に鈴木は持って行こうとした。しかし、両角は当初一万五千三百人いた、と
言ったのである。山田氏が言ったように両角と二人で兵士かどうか確認したのなら、八時間かかったはずなのだ。八時間もかけたはずはない、と主張すれば、両角が一万五千三百人いた、と言ったのもウソということになる。鈴木の目論見は破綻した。
「両角部隊長は八千人と言っていたそうだ」−
この発言の主体もわかりにくい。「両角部隊長が八千人と言っていた」そうだ。(「」内の発言は山田で、・・・そうだ、の判断主体は鈴木)、なのか、それとも「両角部隊長が八千人と言っていたそうだ」(・・・そうだの判断主体は山田)なのか、不明である。
いずれにしても、両角の主張は一万五千三百から非戦闘員を釈放して八千になったということだから、「両角部隊長は八千人と言っていた」からといって、当初の一万四千七百七十七
が否定される、ということにはならないのだ。
支隊長の山田が捕虜の数を知らなかったとか忘れるということはあり得ない。
新聞記事の数字と同じであろうが違っていようが、あるいは、両角の言った数字と同じであろうが、違っていようが、必ず記憶にある数字を口にするはずである。自らは捕虜の数を主張しなかったということは隠したということである。
何よりも、山田は自分の書いた日記において
十二月十四日 |
と明記していたのである。ところで鈴木氏が引用する山田日記ではこの部分が改竄・削除されているのだからあきれる。
山田が「両角部隊長と二人で、たしかに軍人かどうか、一人一人確認した」と言ったのは人数が少なかったという記憶を強調するためのはウソの説明だったことを物語ることになる。
そもそも、一万五千人もの捕虜を数えるのに隊長二人だけ確認するというバカな話はないだろう。二人で数えれば八時間かかるなら、四人で数えれば四時間ですむし、二十人で数えれば48分で済む。ずいぶん、要領の悪い否定理由を持ち出したものである。
かくして、鈴木がせっかくお膳立てして山田氏に語らせた捕虜の釈放説・捕虜数のunderestimateは破綻した。
朝日記事は八千人釈放を否定
もうひとつある。横田記者の記事をもう一度見てみよう。
★1★朝日新聞 1937年12月17日 朝刊 それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。 |
第一夜、すなわち12月14日の夜から捕虜に飯を食わそうと兵士たちは茶碗の用意にかかっていたのだ。両角手記は捕虜の収容前に民間人を釈放した、と称するのだが、1937年当時において横田記者の取材に対して兵士は12月14日の夜は捕虜が1万5000人いた、と語っていたのだ。
捕虜数八千人を絶対的に否定する根拠
当時の記録である 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』所載の日記群にも、旧六十五連隊戦友会に属する元将兵たちも触れていない。しかし、一人の証言者だけが証言した
としてもその一人の証言者だけが見ることができた事実であった、という場合もないとはいえない。また、複数のものが見た事実であったが、たまたま、その他のものは証言・記録を残すことなく死んでしまったということもありえる
。
したがって、阿部氏の聞き取り当時ではすでに両角しか知るものがなかったが、少数の捕虜の釈放があったということまでを否定することはできない。しかしながら、両角の「非戦闘員の捕虜が解放されて捕虜数が八千人になった 」という部分だけは以下の理由によって絶対的に否定できる。
収容所Aの捕虜はほとんどが兵士ないし、軍要員であった。この収容所に対して非戦闘員の釈放を指示したとしても、人数はほとんど変わらない。収容所Bでは民間人が比較的多かったが非戦闘員全体でも半数もいなかった。
何らかの制服を着用した非戦闘軍要員をみきわめるには昼でないと出来ない。また、釈放は収容前になされたとしている。ところが、収容所Bには、夜半に至り、宮本中尉が数千名の捕虜を引き連れて、「万余」に達したと報告しているのである。したがって、非戦闘員の釈放があり、最終的に捕虜が八千人になったということは完全に否定される。もとより、両角回想ノート中にある明らかな虚偽の記述から民間人の釈放がなかったとする方がはるかに妥当性が高いのは言うまでもない。