初出 とほほ板 「両角業作手記の検証」 2003/04/01 23:38:49 (修正1回)
2003/09/07 改訂、初回上網
山田支隊の幕府山の捕虜虐殺の真相について書く両角手記の骨格は『南京戦史』に取りあげられたいわゆる「正史」であり、自衛発砲説、被殺数僅少の根本資料である。この資料はこれに先だって出現した、虐殺を証明する日記資料、証言を否定するために書かれたという経緯がある。虐殺を示す他の資料とは異なる事実関係を主張するほか、自衛発砲説を主張する他の説とも矛盾がある。
また、この資料がノートを書写された阿部輝郎氏の偽造であるとの推測がないでもない。実は両角回想ノートには「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」版と『南京戦史』版の二つが存在するのである。両角業作氏は死んでしまっていて本人に確認できるすじのものでもないし、素人に原典資料の調査が出来るわけでもない。
すでに、この証言を否定し去るに十分な日記、証言が集められている。しかし、本稿ではあえて、他の資料との比較によって本証言の信憑性を検証する途をとらない。幕府山捕虜に関する他の証言で判明している事実から本証言の矛盾をつくことは容易であるが、それもここでは行わない。なぜなら、他の資料によってこの証言を否定するには厳密に言えば他の資料の信憑性をすべて証明するという別の難問を背負うことになるからである
この資料が偽造資料であるか、どうかの検証はこの資料の内在批判によった。内在批判とはこの資料内部の矛盾、資料の記述のおかしさを検証する作業である。すなわち、
a.常識や通念と明らかに異なる、あり得ないことを書いてはいないか。 |
この手記の通読は下記サイトで行われたい。
http://members.tripod.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/66i.html#morozumi
以下段落に分けて検討する。
(1)幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。 |
■事実関係は諸説あるのだが、この段落内では特におかしいところはない。
(2)当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、[もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、]この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、[暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、]少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。 |
■「もとよりこの出火は彼らの計画的なもので」−このように断定的に書く根拠はなんであろうか。「周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている」程度の册でかつ「四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させ」ていたとしたら、出火によらなくても共謀さえあれば、逃亡可能であろう。放火が計画的との具体的な根拠はない。
■出火を単なる逃亡の合図として逃亡を実行することはありえる。しかし、それならば、出火後に一斉に逃亡が始まるから、文章はただちに逃亡の記述を始めるはずだ。この段落を[ ]のところを抜いてもう一度読んでみてほしい。
炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。 |
「一中隊を派遣して沈静にあたらせた」まで逃亡の記述は出てこない。一中隊が来てから逃亡したとすれば困難になるばかりである。
■「暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので」−収容所から逃げ去って行く捕虜を射撃する必要はない。いま、まさに脱出しようとしている、あるいは脱出したばかりの捕虜だけを射撃するのが普通であろう。ここでも[ ]を抜いてもう一度読んでみよう。捕虜の逃亡を防ぐために発砲して四千人に逃げられるというのが恐ろしく間が抜けているのがわかるだろう。もし、四千人もの捕虜が逃げ出したとすれば発砲による死者も相当数にのぼったはずであるが、なにも書かれていない。このことは、「逃亡自体がなかった」か、あるいは逃亡があったとしても「逃亡時に発砲による死者はなかった、あるいは死者は非常にわずかだった」ことを示している。
(3)私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果 を含めたのである。 しかし私にはどうしてもできない。 |
■冒頭の一文はだれが読んでも唖然とする。両角の上司は山田少将である。山田の下には両角連隊と山砲大隊しかいない。いわば、支店長と副支店長、営業課長の三人だけがいる支店のようなもので、互いに何をしているかはすべてわかっているはずである。報告もせずに平気でいられるというのは不思議な話である。来るべき捕虜の開放ないし、処置のさいに捕虜数は必ず明らかになる。もし、山田少将に知られたらどう答えるというのでろう。
■軍が「俘虜のものども」という価値判断をつけた形で処置を命ずるということがあるであろうか。これは軍の非人道性を強調するための虚構であろうか。
■また、上官の命令は絶対のはずであり、「頻繁に督促がくる」というのは納得いかない。督促が来るというのは命令に反対、不服従ではなく、上官が「命令の実行が困難」という山田支隊の側の状況を理解していることを物語る。
■「山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。」−不思議な光景である。「軍は強引にも命令をもって」−初めから命令であるはずなのに不思議なことをいう。「涙を飲んで私の隊に因果を含めた」−くよく上級が下級に対して弱気な軍隊である。
(4)いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」−田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。 |
■「私の胸三寸」−ここでもまた、両角が山田の意向を無視して独走する。これは「軍命令」に反しての捕虜の「開放」であり、重大な軍紀違反である。この行動に対して両角氏の心の中の葛藤が何ら示されていないということは、この独走が虚構であったことを示している。
(5)「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。 |
■揚子江北岸はすでに日本軍の支配地域であった。とすれば、対岸の部隊の了解なしには解放はできない。
■「発砲事件」とは誰が誰に発砲する事態なのであろうか。捕虜はむろん武装解除してある。対岸の日本兵の発砲や前岸の中国兵の発砲は予想されていない。個々の捕虜の威嚇として行う発砲のことであろうか。とすればそのためにさらに多数の機関銃が要るとはいかなる予測であろう。あたかも捕虜が暴動を起こすこともすべて予期しているかのような謎の発言である。
■捕虜兵の護送、警備としては二個大隊分の機関銃は過剰である。軽機関銃は護送の際に必要であり、捕虜に怪しまれる節もない。しかし、分解して四人で搬送し現場で組み立てる重機を開放を前提とした警備のために前もって配置したとすれば、捕虜の暴動を予期していたとしか考えられない。この配属は思わず本当の数字をいったものであろう。
(6)十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。 |
■入場式の場面の描写はウソが一切ないので、やや、自己陶酔的であるが文章はきわめて流れがよい。事実経過は時間通りに書かれ、感情や判断の描写は事実経過を乱すことがない。事象は開始と終了が明瞭である。
(7)もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。 そのいきさつは次の通りである。 |
■もどったのは夕刻であるから、収容所前での集結のことのようである。それだけで「半数以上が減っていたので大助かり」と喜べるのもおかしい。
■「さては・・・・」−両角大佐は「発砲事件」が起こることも考慮して機関銃を配備していた。とすれば驚くべき時点は銃声が聞こえた場面でなく、銃声がなかなか鳴りやまなくなったところであろう。「さては」は実は「うん、今始まったか」であろう。「なかなか鳴りやまない」の後に何も驚き・不安の感情の表出がないということは事実、なんとも思わなかったということを示している。
(8)軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。 |
■「前岸に警備しておった支那兵が」−北岸、前岸との使い分けがある。北岸は揚子江本流を隔てた浦口側のことであり、前岸とは八卦洲のことになる。ということは捕虜の集結地点は八卦洲の先端に近い位置となり、日本軍の他の部隊がいる和気公司などからも遠くない。秘密の解放には不向きである。解放するのに八卦洲の偵察もせずにしたであろうか。ところで、実際には八卦洲はすでに海軍の手によって掃討されていた。
■村落で集めた舟が、「二、三百人」も乗れる舟であったろうか。そのような大きな舟は南京進攻前に中国軍によって破却されていたはずであり、さらに十二月十三日における掃討のときにも残余の小舟艇もすべて沈められたはずである。
■「舟の舵をあずかる」以下の叙述はいかにも作り話っぽい。この時期揚子江の流れが非常に緩慢で舟が流されるようなことはない。
■暴動は十二時ごろであるのに、なぜ「猛り立った」のが二千人ほどとわかるのであろうか。また、収容所の火災時の逃亡で四千人に減っていたはずであるから、連行したのもおそらく、四千人であろう。なぜ、二千人だけが「猛り立った」のであろうか。陸地方面に逃げたとは何と漠然とした言い方であろうか。
■「僅少の数」−現場を見ていながら数が言えないのはなぜだろう。
■「処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、」−部下の独断を告げられ、あまつさえ失敗しているのにこの情景はなんであろう。両者の間に共謀があった情景なら理解できるが。
(9)解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。 [自分の本心は、如何ようにあったにせよ、]俘虜としてその人の自由を奪い、[少数といえども射殺したことは]<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>・・・なんといっても[後味の悪いことで]南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。 |
■ここで両角氏が反省すべきは捕虜開放の手順に不備があり、意図に反して捕虜を射殺してしまったことを悔やむことでなくてはならない。ところが、両角氏は意外な発言をする。わかりやすいように太文字部分をつなげてみよう。
自分の本心は、如何ようにあったにせよ、少数といえども射殺したことは後味の悪いことで
手記の建前では両角の本心は「捕虜の処分はまっぴらごめん」であり、行動は「捕虜の開放をした」であった。
「俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは」を「後味が悪い」ことの原因にあげるのは奇怪としかいいようがない。俘虜の自由を拘束するのは当然のことであり、死者数は「僅少であった」と述べて発砲を自己弁護をしたはずであり、いまさら「後味が悪い」もなかろう。そこまで人道的な姿勢を匂わせて置きながら、< 逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが >のようなエクスキューズを挟んでくる。話者の気持ちは千々に乱れていると言っていい。
◇ ◇ ◇
1.両角手記では大胆にふたつの虚構を創作した。
虚構の第一は出火であり、第二は捕虜の逃亡場面である。両者とも話が不自然、内容が希薄でそのかわりに説明・言い訳が挿入され、時間順がおかしくなっていることで嘘がわかる。入場式に参加した文体などと較べれば一目瞭然であろう。
ところで捕虜の逃亡場面では両角は自分が見てもないのに講談調で語っている。この点、平林氏は描写の内容の乏しさを漢語の多用で補っていたのと共通する部分がある。内容が乏しい供述においては、過剰な形容で補おうという意識が働くのである。
2.捕虜の殺害数を少なく修正するために、出火や逃亡場面を創作したにも関わらず、肝心のところでは嘘をつくときに腰砕けになっている。捕虜の殺害数をみずから口にすることを憚り、僅少と言ってしまうところである。
a.我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた
b.我が銃火により倒れたる者は、翌朝私が数えたところでは千人かであった。
c.我が銃火により倒れたる者は僅少の数に止まっていた。
b.やc.だとそうかな、と思ってしまうが、a.だと「翌朝私も見たのだが」でアクセントが入り、「僅少の数に止まっていた」で思いきり腰砕けになっているのが分かるであろう。
3.山田と両角のやりとり、軍と山田のやりとりの不思議さの中には真実の反映がある。
山田少将とのやりとりの中では、両角が山田に対等以上のものいいをするのが面白い。実際に二人の人間関係では両角の方が上まわっていたのであろう。両角が実際にここまで山田と対等に振る舞っていたとは思わない。両角は山田より場面、場面で優位に立っていたことを誇る気持ちが両角の言動の一層の虚構化を促進するのである。
もっと重要なことは、両角が表面上は山田を欺いていることになっているが、手記の中では両者の間に葛藤というものがまったくないことである。ということは、両者は完全な合意の元に行動しているということを示している。
軍とのやりとりはとりわけ不思議な部分である。最大の不審点は軍が山田支隊に遠慮しているように書かれていることである。これは何らかの事実の反映でなければこうまでも不自然な事実関係をのうのうと書くことはありえない。
ところが、「頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲」するほど、「軍」に対して高飛車だった山田たちが、一転「軍の命令」にひれ伏すのである。創作であれば、このような不審な記載はできない。
4.嘘をつき通そうとしてどうしても噴出しているのが、良心の呵責である。「身の毛のよだつ気がする」はまさしく嘘偽りのない思いであった。しかし、その思いは仮構のものである。開放の予定であったといい、死者僅少であったといいつくろうのであるから、心からの認罪ではない。大量虐殺を認めないために、それ故にこそ良心の呵責におののくのである。これと対照的に虐殺を公言した兵士は非道な虐殺であったと感慨を持って語ったが、このような抑圧された罪の意識を持つことはなかった。
◇ ◇ ◇
人間なかなか嘘というのはつきにくい、つき通しにくいものである。
a.嘘を言おうとしてもつい、真実をつき混ぜた嘘しか言えない。 b.嘘を言おうとしても、直前で腰砕けになる。 c.嘘を言っても、作り話の筋は必ずおかしくなってしまう。 d.ひとつ嘘を言うと、残りの部分もそれに合わせて嘘を言わなければならないが、そちらの方は言い忘れてしまう。 |
したがって、嘘の中には無意識に書いてしまった真実の断片が隠されている。それらを読み読みとるならばこの手記を書いたのが両角氏以外ではありえないことを理解するであろう。このようにして虚偽の証言というものも立派な歴史資料でありえるのである。