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湾子への連行が処刑目的であったことの証明 2008.1.6 first upload 2008.1.18 reviced 2008.8.6 reviced |
幕府山事件の論点は第一が捕虜の人数問題であり、第二が処刑目的の連行か、解放目的の連行で自衛発砲になったかということである。
すでに人数の問題は決着した。そして第二の問題が最大の論点である。
解放説にはいろいろ不審点がある。
(1)軍命令に反して捕虜の解放などできない。
(2)解放するつもりなら、昼間に北東に向けて護送したのち解放すればよい。
(3)解放に使うのに十分な大きさの舟、数を集めたという証言がない。
(4)徹底的な殺戮を行っており、自衛発砲ではありえない。
(5)どこに解放するか、定まった意見がない。解放先として不適当なものもある。
(6)一次資料に解放目的と書いたものはない。
(7)武器もなく後ろ手に縛られて反抗はできない。
普通に考えればこれだけでも解放目的説は成り立たないと思うであろう。しかし、否定派は戦友会に集う旧軍人証言だけが信憑性があるとするばかりか、否定派
側証言の間の矛盾があっ てもまったく気にせず、想像の羽を広げてを解放説にしがみつく。そのため(1)−(4)の点は反論の余地がないはずであるが、
あたかも表面上は水掛け論の様相となることがある。ただし、(5)、(6)、(7)などについては否定派が反論する余地はある。それらを確認する。
(5)12月17日の処刑については否定派の第65師団関係者は解放先を草鞋州と説明した。草鞋州に戦闘力のある中国兵が果たしていたのかどうか、また、
日本軍ないし山田支隊がいたと認識していたのか、いなかったとしていたのか、
決定的な情報はない。否定派の中には幕府山事件を過小評価するという目的のみによって中国兵の戦闘力や日本軍の認識を小さく評価する向きもいる。また、草
鞋州は船で出入りしなくてはならないから、解放先として安全であると力説するものもある。
草鞋州にいた中国軍は12月13日の追撃戦を逃れてかろうじて草鞋州に逃げ込んだものたちであり、銃などは所持しておらず、日本海軍によってすでに掃討さ
れていたのが事実であると思われるが、山田支隊がどう認識していたのかについては資料がなく、ここは詰めきれない。したがって、草鞋州が解放先として適当
であったという主張を決定的に否定する材料はない。ただし、解放先として適当だったと断定することもできない。解放先を草鞋州
と主張することに対しては決定的な否定材料はない。
(6)小野発掘日誌群では「処分するもののごとし」などの記述があるが、これは「下級兵士の認識にすぎず、山田、両角の意志はそうではなかった」という否
定論の説得には不足である。兵士たちが捕虜に対して「解放する、船で『対岸』に渡す」と説明したことは事実であり、反論に一定の根拠
を与えている。大状況からして、処分以外はありえないのだが、初心者、素人にはあたかも、どちらの説もありえると見えていることだろう。
(7)処刑目的説の最大の根拠は栗原証言にある、「後ろ手にされて反抗するわけはない」というコメントである。しかし、この部分は本多氏が、追加質問して
聞きだしたもので、栗原氏の自発発言では
ない。その後に否定派が独自に聞き取りを行い、ある種の誘導を加えて、その結果、栗原氏もある程度板倉などの否定派の歪曲工作に流されて証言を訂正してい
る部分がある。
否定派の工作後の栗原氏の発言を加えて見ても、全体としては毎日新聞聞き取り、本多聞き取りが正しいことは間違いないのだが、否定派が
反発する余地はある。
これらの事情から、小論では、否定派に今までに反論されたことがない、あるいは今までだれも示さなかった論拠で処刑目的の連行だったことを証明する。
(1)魚雷営での虐殺に対して処刑目的の連行だったという説は通らない。
12月16日の魚雷営での処刑に対しては否定派の第65師団関係者は揚子江北岸(左岸)への解放と説明し
た。この説明は(a)対岸の日本軍部隊に気づかれれば、無断の解放がばれてしまい、山田支隊は窮地に陥る。(b)気づかれなかったとしたら、対岸の残存中
国兵部隊に合流して、再び敵対する恐れがある。これに対する、
否定派による再反論はかなり苦しいと思われる(まだこれに対する反論を読んだことはない)。
実際には対岸の中国軍は国崎支隊にほとんど駆逐されていた
[南京戦史資料集 国崎支隊「戦闘詳報」pp701−705]。もしも、その事実を山田支隊が知らなかったとすれば、対岸の残存中国兵部隊に合流して、再
び敵対する恐れを持ったはずであった。実際には山田支隊は対岸の第十三師団と連絡をとっていたから[
注]、対岸への解放の可能性はまったくなかった。
両角手記は魚雷営での殺害に一言も触れていなかった。角田元中尉が証言するように解放目的とすれば「解放を胸先三寸で決定した」はずの両角氏が知らないは
ずはなく、それを伏せる理由がない。翌日の連行を解放目的と書き綴る両角手記の信憑性はいっそう乏しくなった。
一方、東中野の著作『再現 南京戦』は魚雷営の殺害は放火に対する処分(処刑)と説明した。この説明では角田中尉の証言がウソだということになってしま
う。また、両角氏が
あえて隠す理由がなくなる。そもそも、
捕虜総数の1/3とか3000名とが放火に加わることは不可能である。どう取り繕おうが、放火に対する処分など最初から破綻していると言っていい。結
局、魚雷営での殺害は
処刑目的以外に説明がつかない。魚雷営の殺害が処刑目的とすれば大湾子だけが解放目的というのはほぼ、ありえない。
注『本当はこうだった南京事件』には 『・・・・昭和五十八年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では「崇明島」に送り込んで 自活させるよう命じたという。』とある。 |
(2)解放説では解放後にどのような復命を予定していたか説
明ができない。
解放説の立場をとる否定派は、「だれが命令を出したか不明ではあるが、支那派遣軍、あるいはそれに連なるものが処刑命令を出し、両角連隊長はそれに反して
解放方針を取った」と主張する。しかし、命令があればそれに対する復命が必要である。復命問題 にはふたつある。
第一は両角大佐が山田支隊長に宛てた報告である。両角手記では、両角大佐が山田支隊長に無断で捕虜の解放を企てた、と記している。
これ自体ありえない話であり、捏造であることは明白であるが、山田氏が戦後の証言で捕虜開放に同調したように言っているので、否定派は「両角ノートの
記載のその部分はウソまたは記憶違い」ということで済ますつもりかも知れない。
第二は山田支隊長が支那派遣軍にどのような復命をすると考えていたのか、否定派から、これについての説明を聞いたことがない。
否定派の主張は「処刑命令が出された」であるから、死体がないといけない。解放すれば死体はないからすべて揚子江に投棄しました、とでも繕わなければなら
ない。 死体は流しました、ですませたとしても、解放を隠すことは困難である。否定派は「解放先は草鞋州
だった」と主張しているが、逃げ場のない草鞋州では解放された兵士がいずれ見つかってしまう。この時点で山田支隊の命令違反は明白となり、抗命罪を免れな
い。
では、処刑しようとしたが、逃げられてしまったというのはどうだろうか。逃げられたときに阻止しようと銃撃した死体が必要だが、少数なので投棄したので現
場には残っていないとすれば辻褄は合う。しかし、命令を実行しようとしたが、失敗したというのであれば、それなりの復命(報告)があってしかるべきだ。と
ころが、正式の復命(報告)は一切なしで噂を撒いて退散したの が事実であるからこの筋書きはありえない。
軍に対して説得力のある復命を予定しない解放作戦はありえない。したがって、否定派の主張、「解放方針を取った」は通らない。
(3)両角部隊は死体投棄のために大量のカギ型の枝を用意し
ていた
最後に否定派のエセ解釈に対する決定打となるのは、元機関銃部隊の箭内氏の証言と鈕
先銘の『還俗記』の記述である 。 両者は大量の死体投棄のためにカギ型の枝を用意していたことを示す。
a.箭内准尉の証言
箭内准尉の証言はすぐわかるウソを大まじめに話しており、そこから真実が非常に透けて見える点で面白い。
田山大隊長は私たちの第一機関銃中隊の中隊長宝田長十郎中尉と相談し揚子
江岸に船着き場をつくる話し合いをした。私たちが仕事を命ぜられ、江岸に出てヤナギの木を切り倒し、乗り場になる足場などを設けた。また集合できるぐらい
の広さの面積を刈り払いした。切り倒した木、刈り払いした枝
などはそのまま
にしておいた。実をいうと、私たちはそのとき、あの木や枝が彼らの武器となり、私たちを攻撃してくる元凶となるなどとは、神ならぬ身の知る由もなかったの
です。船を集めるため江岸を歩き回って探し歩き、十隻前後は集めてきたことを記憶しています。 (『ふくしま 戦争と人間』pp125-126より) |
『ふくしま 戦争と人間』は阿部輝郎の筆になるものであるが、後年の『南京の氷雨』によれば、さらにdetailがふくらんでおり、こちらも見物だ。
「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山で
した。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連
隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノ
コギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」 ノコギリやナタとは、また異様なものである。 いったい、なんのために? 「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だとい われていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです」 解放のための準備だったという。 「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、雑木のさまざま を倒したまま放ったらかしにして置いたんです。河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。ところが、後でこれが 大変なことになるのです」 <中略> 「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まっ たのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し――巻脚絆などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです」 縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握ら れたからだ。近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。 『南京の氷雨』阿部輝郎著 |
ここまでのdetailを持った「メモ」を持っていながら、『ふくしま 戦争と人間』では要約がでてきたというのも不審な話で、どこからどこまでが、本当
に箭内氏の証言だったか疑問が起こる。それはともかく、箭内氏は機関銃中隊であるから機関銃の銃座の設定や偽装をしたのは当然だ。また、ナタやノコ多数
で、河原の柳を切り倒したという。ここまでは理解できる。ところが「解放」の場面では捕虜が柳の枝を手に手に、監視兵に襲いかかったというのだ。
なんともあきれ果てたウソである。柳を伐った理由として多数の捕虜が座れる場所を作った、船着き場の足場を作ったという。しかし、切り倒した柳は人手で引
きずることができる大きさまで
分割して持ち去るというのが当たり前であろう。箭内氏はなんとご丁寧に武器として使用可能な形の棒を現場に置き去りにしたというのである。仮にも捕虜の反
抗を警戒して重機を備えたはずなのに、武器として使用可能な棒を置くことなどありえない。捕虜の反抗・逃亡を証言する
戦友会に集う元軍人中にひとりとして
捕虜が枝を持って襲いかかったというものはいないのである。これは捕虜の反抗を印象付けるための真っ赤なウソであることは明白である。
しかし、この証言は機関銃中隊が柳の木を切ったこと、棒にまで切り取ったことを確実に証明している。人間、ウソをつくときは相手に伝えたいウソの他に、本
人が知る真実を必ず挿入するものである。すべてのdetailがウソばかりであると、ウソをつく人間は不安に駆られるからである。箭内氏は捕虜の反抗を真
実らしく描くために、つい自らが行った柳の枝切りを証言した。それも人の手に持つことが容易な形になるまで、余分な枝をおとしたものを作った。だからこ
そ、捕虜が枝を手に
反抗したというウソが口をついてでたのである。では棒の形に切り取られた柳は何のために製作されたのか。それを明らかにするカギは『還俗記』にあった。
b.鈕先銘の『還俗記』の記述
『還
俗記』の要約 永清寺は寺の庭に石榴が多数生えているので名高い寺であり、別名石榴寺と呼ばれた。中国軍の将校であった 鈕先銘氏は日本軍を逃れて永真寺に潜伏した。十二月十七日の夕刻に日本兵が来て石榴の木をすべて切り払い、枝を持って行った。 鈕先銘氏は日本軍が枝を「大叉子」の形に切り取って持っていったと考えた。その後に大湾子で中国兵捕虜の夥しい死体が山となっているのを見て、あの枝は 「大叉子」として死体を積み上げるためのものであったと理解した。 |
河原を刈り払う作業はおそらく午前中から取りかかったはずであるが、なぜか日本兵はそれでも足らず、新たに木の枝を作りに石
榴寺にやってきたのである。棒は一直線ではなく奇妙な又を持っていた。鈕先銘氏はY字型の「大叉子」と見た。兵士が枝を多数を束にして運んでいったのを見
たときはそうとでも見えたかも知れない。後日、大湾子に死体の山ができたのを見たとき、日本兵はY字型の「大叉子」で死体を積み上げたと理解した。
しかし、枝はY字形の「大叉子」ではなく、「レ」の字形のカギ棒であった。前日に魚雷営で桟橋からの死体投棄に難渋した末、農作業・林業でものを運ぶと
き、福島県地方で使われているやり方を思いついて応用したものらしい。死体の脇の下に「レ」の字の屈曲部を引っかけて死体を岸壁まで引きずって行くために
使われた。
このことは史実派が確保した証言者の証言にある。
解放目的での連行であれば、捕虜の逃走・反抗に備えて機関銃を用意して置くことまでは考えても、死体処理のためのカギ棒の準備までは考えつかない。捕虜が
騒がないように努力を傾けるはずで、失敗したときの準備に精
を出すことはない。しかも、カギ棒の本数は大量であった。このことはまぎれもなく捕虜の大量虐殺の準備であったことを示す。
中国側の証言ということでウヨクの中には『還俗記』の記述がウソである、といった批判が必ずでることであろう。ここで、『還俗記』の記述が真である根拠
を念押しして書いて置こう。
a.日本兵がY字形の枝を持ち帰った 永清寺の多数の石榴は当時の南京市民の誰もが知っており、また伐られてなくなったという物証がある以上、ウソではありえない。また、日本兵以外のものが伐 ることもありえない。 b.大量の死体を見た 栗原証言は捕虜が銃弾を逃れるために人柱を作ったと証言している。栗原証言に対しては否定派が歪曲圧力を加えたが、人柱ができたという部分についてはかつ て否定されたことがない。黒須上等兵が死体の山に上がって銃剣殺をしたとも証言している。また、埋葬団体の報告でもこの当たりで大量の死体が あったことを示しているので、大湾子近くの寺にいた鈕先銘氏が大量の死体を見たことに疑念を挟む余地はない。 c.「死体処理のために大叉子を用いたと鈕先銘氏が想像した」と本人が述べることにウソはない。 連行当日に日本兵が急いで「大叉子」を調達し、その後に大量の死体をが山をなしていたのであるから、死体処理に使われたと想像したことは自然であり、疑い を差し挟む余地はない。 d.記憶は強く保持されており、戦後の証言であっても信用できる。 奇妙な形の枝をなぜ切り取ったのか、非常に不思議に思っていたところ、死体の山を発見して枝の使用方法に納得がいった。この「謎解き」の経験が記憶が強く 残った理由である。20数年を経たのちの証言であっても、記憶内容の信憑性は高い。 e.時期的に見てウソを言う動機が見いだされない。 この回想記は1968年に書かれた。当時、日本ではまだ、幕府山事件のことはまったく論争になっていなかった 。もし、これが解放か処刑かの論争の後に書かれたものであれば、解放説に反駁する目的で石榴の枝を切った日時を江岸への連行の前にずらすという捏造がなさ れた、などの妄想的反論が出てくるであろうが、書かれた時期からしてそのような反論は不可能である。 |
連行・殺害には山田支隊のほぼ半数が参加した。おそらく、人数分だけのカギ棒を用意しようと考えたのではないか。しかし、河原の柳ではそれだけの本数をま
かなえなかった。そのため、夕刻になって急遽永清寺のざくろが狙われたのである。箭内準尉が柳の棒を持って反抗する捕虜を創作した背景はこう考える以外に
ない。
大量の捕虜の殺害とその死体処理を予想した準備が夕刻までにすでに為されていた。
したがって、12月17日の捕虜連行は虐殺目的であった。