幕 府山事件資料の改竄者たち
         
        2003/11/05 上網

両角回想ノート(両角ノート)、両角日記、山田日記は幕府山事件の中心テーマである、捕虜殺害の軍命令に関する根本資料である。ところ が、これらの資料は一般に公開されているわけではなく、阿部輝郎氏が「書き写したもの」が著作の中で引用されているに過ぎず、研究者が自由に閲覧できる状 況にはなかった。これらの資料は阿部輝郎と鈴木明そして『南京戦史』の編集委員会が著作の中で資料として使用した。ところが、引用者によって内容が異な り、いずれのバージョンが原本であるのか、常に目を光らせていないといけない。すなわち、幕府山事件論争は資料改竄者たちとの戦いでもある。

1.両角日記

この日記は阿部氏が両角氏を訪ねたさい、「日記の重要部分、回想ノートの重要部分を筆写することを快諾された。筆写したものは今も私は 持っている」(『南京の氷雨』pp65)ということになっている。
しかし、秦郁彦氏が両角家を訪ずれて聞いたところによると阿部氏が『郷土部隊戦記』執筆のための取材に両角家を訪れた際、両角氏が別室 で原本から書き写して阿部氏に与えたものだという。なのに、両角未亡人宅にもご子息宅にも、日記の原本は残っていないという。いった い、両角日記とは何なのか。

昭和十二年 十二月
十二日 午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
十三日(晴)午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多し。 南京に各師団
    入城。T大隊烏龍山砲台占領。
十四日 午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山に先遣。本隊は午前五時、
    露営地出発。午前八時頃、第五中隊は幕府山占領。本隊は午前十時、上元門
    附近に集結を了る。午前十一時頃、幕府山上に万歳起る。山下より本隊之に答
    へて万歳を送る。
    (以下原文は横書き)
十五日 俘虜整理及附近掃蕩。
十六日 同上。南京入城準備。
十七日 南京入城参加。1は俘虜の開放準備、同夜開放。
十八日 俘虜脱逸の現場視察、竝に遺体埋葬。
十九日 次期宿営地への出発準備。
二十日 晴 九時半出発下関を経て浦口に渡河。

両角日記の不審な点は、
  1. 十二日が山田支隊の結成、南京攻略への参加という重 大な節目に立った日であるのになんらそれを記していない。
  2. 莫大な捕虜を獲得したことは連隊にとっても特記すべきことであるはずなのに、一切記載がない。
  3. 十六日の捕虜(開放)殺害を書いていない。
  4. 十七日は開放に失敗したはずなのに、同夜開放としか書いていない。
  5. 十九日にも捕虜の死体処理を行ったのにそれを書いていないことである。
  6. 南京戦前後の部分しか現存しない。

(3)、(5)は『兵士たちの日記』などによって明らかになったことであり、山田日記との矛盾にとどめれば(1)、(2)、(4)がおかしい。

偕行社による南京戦史の編纂事業の過程でこの日記は厳しい評価を受けることになった。

山田支隊の基幹であった会津若松歩兵第六十五連隊の連隊長『両角業作大佐の日 記』はメモと言った方がよいかもしれぬ簡単なもので、問題の幕府山で収容した捕虜の処置については、その全体像を明らかにすることはできない。
『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。(「南京戦史資料集U」 P12)

両角日記は事件当時において書かれたとは考えられず、戦後において幕府山捕虜事件が問題化するに及んで、両角が新たに書き上げたものと見られる。当然、一 次資料としての重要性はなく、両角が事件の責任をどのようにごまかそうとしたか、あるいは否定派がどのように事件を矮小化させようとしたか、という面での 資料的価値のみである。

2.両角回想ノート

まず、両角回想ノート(両角ノート)、両角日記の成り立ちについて見ると両角が書いていた「日記/メモ」を元に戦後になって両角回想ノート(両角ノート) を書いたということになっている。阿部は「歩兵六十五連隊の両角業作大佐は、戦後は東京の杉並に住み、既に故人となっているが、昭和三十六年から三十七年 にかけ、取材のため何回か訪問した私に、詳細に当時の事情を説明し、また分厚いノートを貸してくれた。『日記は簡単な記述なので、これを基礎にしながら戦 後になって激戦の思いでをかきとめたものですよ。人に見せるつもりで書いたものではないが・・・・』と紹介している。

さて、日記を元に書いたと言われる回想ノートは分厚いものとされているが、発表されているのはやはり一部に過ぎない。もっとも早い日付の記事は十二月十二 日から紹介されている。

十二月十二日=若松連隊は鎮江の金山寺西方地区に達した。この地方は寺院や名 勝が多く、通常のたびなら、何日もかけて回りたいところだ。だが、いまは進撃に次ぐ進撃−。とある学校に 野営していると命令がくだった。『第百三旅団長山田少将は、若松連隊並びに配属部隊を合わせ指揮し、烏龍山砲台並びに幕府山砲台を占領し、軍主力の南京後 略を容易ならしむべし』と。師団主力は揚子江北岸へ進出することになっており、若松連隊には渡河援護が命ぜられると思っていたのに、思いがけないめいれい だった。しかし、若松連隊はこれまで裏街道の進撃だっただけに、こんど初めて表部隊の片隅に出してもらえるのだな、という思いをいなめなかった。

日記を見て書いたはずなのに、蚕糸学校と ある学校になってしまう。日記には山田支隊発足という重大事件であるのにその記載が一言半句もなかったのが、回 想ノートでは命令とそれに対する感慨が書かれているというのも不思議である。

阿部輝郎氏の著作である「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」にある両角ノートと『南京戦史』のものを較べると微妙な差がある。掲載は「ふくしま」版が早 い。「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」が発刊されたときにはすでに両角氏は故人となっており、偕行社には阿部氏が書写本から提供したとされる。

★両角手記『ふくしま 戦争と人間』白虎編版
八千人の捕虜は、【幕 府山のふもと】に十数むねの細長い建造物(思うに【幕府山砲台】の 使用建物らしい)があったので収容した。周囲には不完全な鉄線が二本か三本張られているだけであった。食物はとりあえず【砲台の地下倉庫】に格納してあったものを運 び、彼ら自身で給養するよう指導した。
  当時、若松連帯は進撃に次ぐ進撃で兵力消耗が激しく、幕府山のこの場所にいたのは千数十人でしかなかった。この兵力で多数の捕虜の処置をするのだか ら、とても行き届いたことはできない。四周の隅に警戒兵を配置して監視をするのみだった。夜の炊事で火事が起こった。火はそれからそれへと延焼し、その混 乱はたいへんだった。直ちに第一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、火事は彼らの計画的なものであり、この混乱を 利用し、申し訳ないことだが、半数の捕虜に逃亡されてしまった。もちろん射撃して逃亡を防いだのが、暗闇に鉄砲で は当たるものではない。報告によると”逃亡四千名”とあった。

★両角手記『南京戦史』版
残りは八千人程度であった。これを運よく【幕府山南側】に あった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに【幕府山要塞】の 使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は【要塞地下倉庫】に格納して あったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
  当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き 届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
  炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を 派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡し た。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

同一の書写本から引用したはずなのに、両者の相違点は多い。主なところは下線を付し、大きな違いは太文字で示した。南京戦史版の方が内容豊富であり、文章 がきびきびと調子がいい。南京戦史版の方を両角自身の筆になるものと見て間違いなかろう。問題は「ふくしま」版でなぜ、このような多数の改竄を阿部がおこ なったのかということである。

大きな違いは
1. 【幕府山の南側】→【幕府山のふもと】に 変わっている。
2. 【幕府山要塞】、【要塞地下倉庫】→【幕 府山砲台】、【砲台の地下倉庫】に変わっている。

つまり、【幕府山のふもと】は幕府山西端のことであり、上元門集落(日本側呼称では北部上元門ということもある)のことである(二つの 収容所 図1参照)。【幕府山砲台】もこの場合は幕府山西端の小さな砲台のことである(同 図2参照)。【幕府山の南側】とは幕府山の南麓にある原野であ り、【幕府山要塞】とは頂上尾根に展開する砲台・陣地群のことである(同 図3参照)。

南京戦史版を原本とすれば、これによって収容所Aにかかる記述を収容所Bに読み替えたのである。この書き換えがいかなる意図に基づくも のか、不明である。この書き換えは捕虜殺害数を低く見せるための高度な戦略的判断が入っているとしか思えない。そして、世間が収容所Bの存在にどれほど気 が付いているかを注意深くみつめながらしたことであろうと思う。

阿部が「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」を書いたときには、既に両角業作氏は故人となっていた。ということは南京戦史編集部にこの原稿を持ち込む前に阿 部がこの資料を書き換えたことになるのであろうか。もしそうだとすれば、重大な内容の書き換えであり、研究者、資料紹介者としての阿部のモラルは問われ る。

あるいは、阿部は何回か両角氏宅を訪れており、もしかして、何回めかの訪問に際して書き換えを行ったのは阿部ではなく、両角自身かもしれない。私の目から 見ると阿部氏が二つの収容所の意義をきちんとわきまえていたかどうか、疑問なのである。しかし、例えそうであっても、阿部氏が異なるバージョンを何の断り もなく、あちらを出したり、こちらを出したりしていいというものではない。

偕行社によれば、

『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意 識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。(「南京戦史資料集U」P12)


3.山田日記

山田日記にも三つの違ったバージョンがある。偕行社による『南京戦史資料集2』版、鈴木明の『南京虐殺のまぼろし』版、阿部輝郎による『南京の氷雨』版で ある。

山田栴二 日記 やまだせんじ=歩兵第103旅団・陸軍少将18期
◇十二月十日

   『南京戦史資料集2』
連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少なからず
師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る
鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず

 『南京虐殺のまぼろし』

連日の行軍にて、疲労大なり。負傷患者も少なからず、鎮江に至りて初めて電燈を見たり、此地は阿倍仲麻呂、弘法大師の渡来 せる由緒の地にて、仙台など足元にも及ばぬなり。

(資)では足許にも寄れないわけが明瞭であるが、(ま)では曖昧。
足傷患者が具体的でイメージ豊富。師団命令云々の行は創作不能。

◇十二月十一日

『南京戦史資料集2』
沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高 資鎮に移動す
山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ

『南京虐殺のまぼろし』
沼田旅団が来るため、押し出されて宿営地を西方三里の方資鎮に移す。人気なき 寒村で、支那兵に荒され糧秣もなく、悲鳴をあげる。

 ◇十二月十二日

 『南京戦史資料集2』
総出にて物資徴発なり、然るに午後 一・〇〇頃突然歩兵第65連隊と山砲兵第三大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣し あり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず
 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり

   『南京虐殺のまぼろし』
午後一時、六五連隊山砲一大隊を連れて南京戦に参加せよとの命を受く。誠に有 難き事ながら、行李は鎮江に派遣、兵は徴発に出かけ、情勢面白からず、五時出発、四蜀街に泊る。南 京虫ひどし。

   『南京の氷雨』
午後一時、六十五連隊・山砲一大隊を連れて南京戦に参加せよ、との命を受く。 誠に有難きことながら、行李は鎮江に派遣、兵は徴発に出かけ、情勢面白からず。五時出発、四蜀街に泊る。南 京虫ひどし。

(資)「総出にて物資徴発なり」は具体的でイメージがわく。(資)「態勢甚 だ面白からず」と苦り切るのが(氷)(ま)「情勢面白からず」ではわかりにくい。「南 京虫がひど」かったのではなく、家が「ひど」かった。(氷)はほぼ(ま)に同じ。


◇十二月十三日 晴

『南京戦史資料集2』
例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算 なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との 報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す

   『南京虐殺のまぼろし』
至るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて何とも仕様がな し。前進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報が入る。南京は既に各師団が城内掃討中とのことなり。距離をのばし、■家塘に宿泊。

   『南京の氷雨』
到るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて仕様がなし。前 進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報入る。南京は既に各師団が城内掃討中とのことなり。距離をのばし■家塘宿泊。

◇十二月十四日 晴

『南京戦史資料集2』
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四 時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、 上元門外の三軒屋に泊す

   『南京虐殺のまぼろし』
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。 午前四時半出発、幕府山に向う。砲台附近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。附近の文化住宅、村落、皆敵の為に焼かれたり。

   『南京の氷雨』
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。 午前四時半出発、幕府山に向かう。砲台付近に至れば、投降兵莫大にして始末に困る。付近の文化住宅、村落、みな敵のため焼かれたり。

 「他師団に砲台をとらるるを恐れ」は山田氏らしく、「とられては面目なし」はまるで両角の口 振りのようだ。「捕虜の仕末に困り、恰も発見せし」からの全文が削除されている。「一 四、七七七名」が表に出ると両角回想ノートの都合が悪くなると見たのか。山田氏の理解では「上元門」は揚子江に 近い集落のあたりのことで、上元門外とは上元門崗を越えたあたりのことを指しているのであろうか。

◇十二月十五日 晴

『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

   『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受 く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせること は大変なり

   『南京の氷雨』
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣。「始末せよ」の命令。各連 隊糧秣なく困窮せり捕虜に食はせること大変なり

 (ま)、(氷)では始末を尋ねて、「始末せよ」と言うのを聞いてきたというのでは話にならない。じゃまな「皆殺せ」 を削除したが、どう書きなおしていいか、わからなかったのだろう。

困却とは「困り切る」ということ。困窮するは「追いつめられて困った」ということ。(ま)、(氷)の書き方では部隊が食べる食糧に事欠 いて困ったとでもいうような書き方である。

 

◇十二月十六日 晴

『南京戦史資料集2』
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕 虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

   『南京虐殺のまぼろし』
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ、捕 虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。

『南京の氷雨』
相田中佐を軍司令部に派遣、捕虜の件にて打合せをなさしむ。捕 虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。

「捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、」は 一読、裏になにごとか秘めた書き方であるとわかる。収容所Aの捕虜監視は一七日まで第V大隊の役割であった。また、捕虜の監視といった、戦闘と関わりのな い仕事を大役などと持ち上げるのも不自然である。これは、田山大隊が捕虜殺害実行に 当たるということを山田だけがわかるように書いたものである。
ところで
   (資)  捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、
   (ま、氷)捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。

語順が違うだけであるが、意味が少し違ってくるのである。 普通の語順である(ま、氷)は「捕虜の監視」が大役である、と言っているのに対し、(資)は 「田山大隊」 全体が大役を課せられたと嘆じているのである。

◇十二月十七日 晴

『南京戦史資料集2』
 晴の入場式なり
 車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
 仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

『南京虐殺のまぼろし』
入城式なり、中山陵、軍官学校を見学。軍官学校は陸士より堂々たり。五時帰 る。

   『南京の氷雨』
入場式なり。中山陵、軍官学校は、陸士よりも堂々たり。五時帰る。

◇十二月十八日 晴

 『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸 に之を視察す

『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。

『南京の氷雨』
捕虜の件で精一杯、江岸に視察す。


(資)仕末とは死体処理全体を指す。(ま)ではあいまい。
◇十二月十九日 晴

『南京戦史資料集2』
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努 力せしむ
軍、師団より補給つき日本米を食す
(下痢す)

『南京虐殺のまぼろし』
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始 末せしむ、軍から補給あり、日本米を食す。

(資)では努力しても目標に「届かなかった」ニュアンスがある。(ま)では完了したかのようである。仕末と始末も意味は違う。

◇十二月二十日

『南京戦史資料集2』
第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に 渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる
 午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり
 
『南京虐殺のまぼろし』
下関より浦口に向う。途中死体累々たり、十時浦口に至り国東支隊長と会見。

比較すれば全体に南京戦史版が文章の格調が高く、具体性があり、イメージも鮮烈であり、山田氏個人の感慨もよく伝わってくる。まぼろし版や氷雨版から南京 戦史版を作ろうとしても絶対できないが、南京戦史版からまぼろし版や氷雨版を作り上げることは可能である。鈴木、阿部の改竄は明らかである

4.結語

そもそも、鈴木、阿部の引用は粗雑で、一字一句を大切にするという研究者としての最低の資格を欠いている。資料に対する読みも浅く、その上で捕虜の虐殺を 隠そうとする明らかな意図を読みとれる。これまで、幕府山事件を歪曲・矮小化しようとしてきた二人に怒りを禁じえない。そして、否定論者が常に資料の改竄 までしないと南京事件を否定することが出来なかった、という厳然たる事実に思い至るのである。

資料
南京戦史資料集U』偕行社  P330〜333
鈴木明南京虐殺のまぼろし』  P191〜195
阿部輝郎南京の氷雨』  P64〜65、78、94


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