幕府山事件―グース板での討論 2007年頃に行なわれたグース氏との討論を魚拓を紹介します。 グース氏のいわゆる、数字いじりが私の追及で暴露された顛末です。 2013.6.1 upload |
幕府山事件ですよね?
投稿者:グース 投稿日: 3月30日(木)20時30分21秒
幕府山事件について「なかった」と言ってる人はいないと思います。(1)
規模の面で考えれば、一万人とか二万人というのはありえないでしょう。そもそも幕府山の「捕虜を数え
た」という史料はありません。(2)
収容所の状況をや連行状況を考えると、規模的には1000人〜3000人程度でしょう。(3)
殺害が最終的な目的であれば収容所ごと燃やすのが早いわけで、手間隙かけて連行して機関銃で銃撃とい
うのはちょっと考え難いと思います。(4)
末端の兵士というのは指揮官の考え方を理解しているとは限りませんので、現場にいた末端の兵士が処刑目的と考えていても、実際には解放目的の連行という
こともありえます。何が真実なのかを考察する為には多角的な検証が必要ということが言えると思います。 (5)
省略されたり、曖昧な表現もありますので、グース主張を解説します。 「幕府山事件について「なかった」と言ってる人はいない(1)」というのは、−幕府山事件は捕虜解放の際に起きた偶発事件である−という意味です。 殺されたものの規模は、一万人とか二万人ではなく、1000人から3000人くらいである。 「解放目的の連行」と「殺害少数」、この二点が否定派の主張の核心です。 >そもそも幕府山の「捕虜を数えた」という史料はありません。(2) グース氏は「だれそれがいついつどうして数えた」という史料はない、というベタな反論をしてくると予想されます。 >収容所の状況をや連行状況を考えると、規模的には1000人〜3000人程度でしょう。(3) 「収容所の状況をや連行状況を考えると、」と言いますが、この後の討論ではついに史料によってその具体的な状況を示す、ということはできませんでした。 >末端の兵士というのは指揮官の考え方を理解しているとは限りませんので、現場にいた末端の兵士が処刑目的と考えていても、実際には解放目的の連行という こともありえます。何が真実なのかを考察する為には多角的な検証が必要ということが言えると思います。 (5) 今日、事件の決定的証拠となった、兵士の日記史料には解放目的と記したものはなく、殺害目的と書かれているものばかりです。日記史料を否定するためにこう いう理屈を持ち出すのは否定派に共通しています。 |
>幕府山事件ですよね?
投稿者:スグル 投稿日: 4月 7日(金)21時43分51秒
私の HNはスグルにしています。これは以前タラリ名で書き込みをしたところ、警戒されて議論を逃げられたことがあるからです。 |
>幕府山事件について「なかった」と言ってる人はいないと思います。
幕府山事件の本質は大量捕虜虐殺事件です。これを否定しているのは一部の右翼です。
>規模の面で考えれば、一万人とか二万人というのはありえないでしょう。そもそも幕府山の「捕虜を数えた」という史料はありません。
核心さんのお父上が証言しているように1万人以上の規模だったことは間違いがありません。
捕虜の数については経時的に多数の資料があります。数えたという資料がないとはむちゃくちゃです。
>収容所の状況をや連行状況を考えると、規模的には1000人〜3000人程度でしょう。
虐殺否定論者の意図した聞き取りによる平林証言でさえ捕虜数を1万人といい、ほとんどが
逃亡したといいつつ、死者は1000人なんてものではなかった、3000人と言っている。(1)
>殺害が最終的な目的であれば収容所ごと燃やすのが早いわけで、手間隙かけて連行して機関銃で銃撃というのはちょっと考え難いと思います。(2)
収容所を燃やしたからといって全部焼き殺されるわけはない。ちょっと考えてもわかる。
>末端の兵士というのは指揮官の考え方を理解しているとは限りませんので、現場にいた末端の兵士が処刑目的と考えていても、実際には解放目的の連行という
こともありえます。何が真実なのかを考察する為には多角的な検証が必要ということが言えると思います。
解放目的ならわざわざ揚子江岸に護送せず、その場で少しずつ解放すればすむ。
(1)平林証言の鈴木明聞き取り
版、阿
部輝郎聞き取り版を参照のこと。 (2)グース氏はこのあとこの説を持ちだ しませんでした。再度持ち出さないのは、到底主張が持たないと感じたことを示します。 |
幕府山事件の規模
投稿者:グース 投稿日: 4月 9日(日)07時58分45秒
>核心さんのお父上が証言しているように1万人以上の
>規模だったことは間違いがありません。
史料を見る限り数えた人はいないんですよ。
戦果報告は恐らく、各部隊からの集計が1万数千人ということで、こういった集計は大雑把で重複するので実数よりもかなり多めになります。日露戦争の時は
三倍以上の誤差がありました。三倍誤差説の初出箇所です
また、一万人を座らせるとなるとかなりの面積が必要になりますが、幕府山は山岳地帯です。一万人+日本兵を収容可能な広場みたいなものがあったとは考え
難い。資料から判明しているのは以下の二点です。三点ですが(笑)。
(1)幕府山の捕虜は全員屋内に収容されていた。
(2)収容所は大小二箇所あった。
(3)収容比率は概ね1:2である。
(1)「屋内収容」はまったくの「こじつけ」主張。収容可能数を低く見積もる ための道具立てのひとつ。 (2)と(3)は結論的には正しいのだが、収容所の所在については間違った意見を持っている。 |
仮に総数一万人とすれば、収容所(小)が3300人、(大)6600人ということになりますが、これだけの人数を収容可能な施設が幕
府山にあったという根拠はどこにもありません。そもそもそんな施設は必要ありませんから。
また、収容所の捕虜の集合写真が残っていますが、これを見る限り概ね700〜1000人程度です。これが収容所(小)の集合写真だとすれば、捕虜の総数
は3000人程度となります。
正確を期しますと「収容所が幕府山にあった」という資料はありません。収容所があったのは幕府山の山麓です。「そんな施設は必要ありません」には何の根拠
もありません。 写真に写っている捕虜の数ですが、収容所の長さ(後述)から判断するとグース氏の目算は少な目で、3000名くらいはいるようです。また、写真にすべての 捕虜が写っているという根拠はまったくありませんから、これで捕虜総数というのはまったく大ウソ吐きです。 |
また、中島中将の日記にはこうありますね。
-----------------------------
大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く
戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので〜(略)
----------------------------
数壱千規模になれば、武装解除も容易ではないんです。
捕虜を収容した山田支隊の人数は大体2000人前後です。
一万人規模が事実であれば、ほとんど総出で武装解除や監視に当たると思いますが、実際に武装解除にあたった人数はごく一部に過ぎません。
また、数千人を一気に集めて銃殺という例はあまりないと思います。
銃殺するなら小数に分けたほうが効率的で事故もないでしょう。まとめて連行したという事実を考えると「処刑目的」というのは考え難いと思います。
栗原利一さんのスケッチには集めた武器を燃やす絵があります。戦意がまったくない集団ですから、言われるままに武器を一箇所に放り投げたことが明らかで す。 |
>幕府山事件の規模
投稿者:スグル 投稿日: 4月10日(月)22時08分26秒
グースさんによると「各部隊からの集計が1万数千人」という報告が残っているそうです。数えた人がいないのに各部隊の集計ができあがるということはありえ
ません(笑)。
日露戦争と南京攻略戦ではいろんな事情が違います。日露戦争で三倍以上誤差があるからといって、幕府山事件で三倍以上誤差がある証明にはなりません。一桁
の位の経時的捕虜数の経時的増加が記録されているのでかなり信頼性の高い数字です。
> また、一万人を座らせるとなるとかなりの面積が必要になりますが、幕府山は山岳地帯です。一万人+日本兵を収容可能な広場みたいなものがあったとは考
え難い。資料から判明しているのは以下の二点です。
広場に収容したという記録がありますか?
広場でないと収容できないということが証明できますか?
否定根拠には到底なりえない。
>(1)幕府山の捕虜は全員屋内に収容されていた。
>(2)収容所は大小二箇所あった。
>(3)収容比率は概ね1:2である。
おやおや、ここでは屋内に収容されていたと断定してあるではないですか。
広場ではなかったの?
では、「全員が屋内に収容された」という資料をご提示下さい。
(2)、(3)は現時点では論点にとして扱っておりませんが、グースさんの論旨の展開上、必要があるようなので資料をご提示下さい。
> 仮に総数一万人とすれば、収容所(小)が3300人、(大)6600人ということになりますが、これだけの人数を収容可能な施設が幕府山にあったとい
う根拠はどこにもありません。そもそもそんな施設は必要ありませんから。
収容所の大きさ、広さを具体的に提示しなければ、3300人、6600人を収容できないと断定することはできません。
> また、収容所の捕虜の集合写真が残っていますが、これを見る限り概ね700〜1000人程度です。これが収容所(小)の集合写真だとすれば、捕虜の総
数は3000人程度となります。
捕虜の集合写真で人数を特定することは不可能です。
「これを見る限り概ね700〜1000人程度です」といいながら、「捕虜の総数は3000人程度となります」とする根拠が不明です。
> また、中島中将の日記にはこうありますね。
>-----------------------------
大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く
戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので〜(略)------------------------
----
>
> 数壱千規模になれば、武装解除も容易ではないんです。
> 捕虜を収容した山田支隊の人数は大体2000人前後です。
> 一万人規模が事実であれば、ほとんど総出で武装解除や監視に当たると思いますが、実際に武装解除にあたった人数はごく一部に過ぎません。
考えていただきたいのですが、それでは第十六師団は「武装解除は出来」ないとして「千五千一万の群集」を拘束しなかったのでしょうか?解放したのでしょう
か?
そうではありませんね。
「始末に困るので〜」のあとは、
「部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ」という文章が続きます。「千五千一万の群集」を監視、誘導したのです。誘導したというのはいずれかの場所
において収容・監視をしたということです。
戦意があり、弾丸を実装している多数の敵兵を武装解除なしに収容することはありえません。実態として誘導・監視しえたということは、戦意もまったくなく、
弾丸も打ち尽くしていたために用心深く武装解除をしなくても収容が可能だった、あるいは武装解除が異例に容易であったことを示しています。この事情は山田
支隊においても同様でした。
「武装解除が困難なので、捕虜にはできなかったはず」に対して中島日記の内容にそった反論をしましたが、このあと、幕府山事件の状況そのものからの反論も します。 |
> また、数千人を一気に集めて銃殺という例はあまりないと思います。
> 銃殺するなら小数に分けたほうが効率的で事故もないでしょう。まとめて連行したという事実を考えると「処刑目的」というのは考え難いと思います。
「あまりない」という曖昧な理由だけで幕府山事件では数千人(以上)の銃殺がなかったということは言えません。
少数に分けて殺害することにしますと小規模の処刑場を多数用意しなくてはなりません。一回使った処刑場から死体や血の跡を完全に消すことは不可能です。使
用済みの処刑場に別の捕虜を連行すれば気が付いて騒ぎます。小規模の処刑場を多数つくれば余計な手間暇になります。
また、次々に捕虜が連行され、その後に機関銃の射撃音が聞こえて来れば残りの捕虜が騒ぎます。
少数に分けて殺害したとしますと時間がかかります。山田部隊は渡航を急いでおり、悠長に捕虜殺害をする余裕はありませんでした。
「少数に分けたほうが効率的」に反論したところその後、再反論はありませんで した。 |
ところで、前resでは
>殺害が最終的な目的であれば収容所ごと燃やすのが早いわけで、手間隙かけて連行して機関銃で銃撃というのはちょっと考え難いと思います。
と主張されていましたが、「収容所ごと燃やすのが早い」説は早くも撤回されたのでしょうか(笑)。
このラウンドはグース氏の主張内容を子細に検討できておらず、早書きでレスしたのでやや上滑り、すれ違いの反論になってしまいました。 |
幕府山の捕虜
投稿者:グース 投稿日: 4月11日(火)07時10分49秒
スグルさんへ
>おやおや、ここでは屋内に収容されていたと断定してあるではないですか。
>広場ではなかったの?
>では、「全員が屋内に収容された」という資料をご提示下さい。
捕虜の屋内収容については、当時の報道によります。
朝日新聞と福島民報が二十二棟の兵舎に収容(すし詰め)としていますね。その他の証言などを見ても、野外収容の目撃例はありません。栗原証言でも「収容
所からの連行」となっていますので、幕府山の捕虜は「屋内収容」とみてまず問題ないでしょう。スグルさんが野外収容の史料をお持ちならまた別ですが。
問題となる二十二棟ですが、収容所(大)収容所(小)の二箇所あわせて二十二棟なのか、一箇所(大きい収容所)が二十二棟なのかははっきりしません。し
かしながら栗原スケッチを見ると、収容所(大)でも二十二棟あるようには見えないので、恐らく二箇所で二十二棟という可能性が高いでしょう。
建物については栗原スケッチや写真を見る限り平屋です。
ひと棟あたり100人収容なら2200人です。
200人収容なら4400人となります。
イメージ的には、大型観光バスがイスで効率よく収容して40〜50人程度です。駐車スペースを考えるとイメージし易いと思いますが、兵舎ひと棟あたり観
光バス3〜4台分あたりがいいところでしょう。ということで、建物の「収容能力」から考えると「万単位の捕虜」ということは考え難いと言えます。
>
ひと棟あたり100人収容なら2200人です。 > 200人収容なら4400人となります。 「なら」つきの説明はグース氏のお得意です。このように述べることによってさも少ないような印象操作はするが、断定はしないでおいて、追求されれば、仮定 の話をしただけだ、と逃げをうつ準備をしているわけです。 しかし、大型観光バス の例では「あたりがいいところでしょう」と書いていますので、兵舎の収容人数(の上限)としてはほぼ、4400人ということを認めています。 大型観光バスは幅2.5m幅、長さ11.5mくらいです。定員50人としますと、グース氏のイメージ通り、ひと棟当たり200人、22棟で4400人とな ります。 ここは重要マークです。 |
広場の件ですが、屋内に収容する前に、捕虜を一箇所に集めて(目算でも)数えたという根拠は今のところありません。(1)ということは、「誰も捕虜の総数を見てい
ない」可能性が高いことになります。各部隊が捕まえた捕虜は、散発的に収容所に連れて行った可能性が高いわけで、こうなると戦果報告の1万4777人は信
頼性が低いことになります。
戦果報告が各部隊の報告を集計した場合、例えばA中隊が200人捕獲し、途中でB中隊に引き渡した場合は、A中隊とB中隊が共に戦果として報告する可能
性があります。そうすると2倍の誤差が出ますね。数が多くなれば数える暇もなく目算での報告になります。日露戦争の時は、これで戦果が3倍に膨らんでいま
す。幕府山の戦果も確認されていない以上は、かなり膨らんでいると見るのが妥当でしょう。
1万5000の三分の一なら、約5000人です。(2)
両角手記を信用するならば当初15300余り。(3)兵
士を選別して8000人。その後火事で逃亡されたので残り4000人ということになります。
解放目的にせよ処刑目的にせよ、連行する捕虜の数を大まかにでも確認しなければ、警備の兵士数を決められませんので、(4)4000人という数字はまずまずいい線だと思います。
>1万5000の三分の一なら、約
5000人です。(2) >両角手記を信用するならば当初15300余り。(3) また、「なら」付き文章です。このように言うことで、「三分の一」や「両角手記」に議論を誘導はするが、反論には逃げをうつ積もりです。 しかし、断定しないということは、逆に14777人と明白に書いてある史料の反論にもならないのが苦しいところです。 ところで、グース氏は「両角手記では捕虜数を数えた」と読むのでしょうか、それとも「数えてはいない」と読むのでしょうか。 もし「数えた」と読むと、「数えた史料はない」というグース主張を否定することになります。「数えて いない」とすると、選別後の8000人も逃亡後の4000人も根拠を失います。 >解放目的にせよ処刑目的にせよ、連行する捕虜の数を大まかにでも確認しなければ、警備の兵士数を決められません・・・(4) おおまかに確認するということは「おおまかに数えた」ということになります。また、警備の兵士数を決めるという「捕虜数算定の必要」を自ら認めたことにな ります。(目算でも)数えたという根 拠は今のところありません。(1)を 否定したことになります。 |
学術的に通用する解釈
投稿者:グース 投稿日: 4月12日(水)16時41分45秒
スグルさんへ
幕府山の捕虜は「22棟の兵舎に収容された」という報道があり、その他の証言などをみても、野外に収容したという記録がありませんので、現在の所は「屋
内に収容」という解釈が妥当となります。
これは私独自の解釈ではなく、虐殺肯定派で幕府山事件の史料を編纂した小野賢ニ氏も「調査結果の要旨」としてこのように語っています。
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「南京大虐殺否定論13のウソ」より
「この膨大な捕虜は幕府山の南側にあった国民党軍の兵舎二十二棟に収容した」
-----------------------
その他の研究をみても「野外収容」というものはありませんので、常識的には、「屋内に収容」ということになるでしょう。スグルさんの理論というか解釈
は、学術的にはかなり無理があると思いますが。(グース論理)
その他の論点でも同様です。スグルさんには「スグルさん流の解釈」があるのかも知れませんが、私は一般に通用する「学術的に耐えうる解釈」を基本におい
ていますので、スグルさん流の解釈を根拠に反論されても困っちゃいます。
私の意見については大体お分かりだと思いますが、もちろん私の意見を信じろと強要するものではありません。最終的にはスグルさんが何を信じるのもスグル
の自由ですので、ご自分の意見があるならブログなりサイトなりでがんばって下さい。
「屋内に全員収容」でも構いませんよ。
投稿者:スグル 投稿日: 4月13日(木)12時53分46秒
グースさんへ
>その他の研究をみても「野外収容」というものはありませんので、
はいはい、そんなの見たことないですね。
>常識的には、「屋内に収容」ということになるでしょう。
「屋内に収容」というのは「兵舎に収容」と同義ということでよろしいですね。
>スグルさんの理論というか解釈は、学術的にはかなり無理があると思いますが。
えーと、私が「兵舎に収容」についてなにか特定の解釈をしましたか。
「兵舎に収容」が「屋内に全員収容」である、という特定の解釈をしたのはグースさんのほうでしょう?
私自身は屋内に収容されていようが、野外に収容されていようが、まったくこだわっていないのです。ただ、絶対に「屋内に全員収容」されたと主張されます
と、へー、じゃあ資料をお持ちなんですね、ということになりますよね。
日本軍兵士としたら、適当な廠舎が見つかったので、捕虜を収容したと書いた。しかし、全員が屋内にきちんと収容されるかどうか、そこまで中国軍捕虜の気遣
いをするはず はありません。「鮨詰め」(新聞記事の表現)からすると、少々はみ出したとしてもおかしくはない。 夜中になって兵舎の中にすべて入ったかどうか、監視の兵士が確認したり書き残すはずもない。したがって、「兵舎に収容」=「全員屋内収容」ということまで は言えないはずです。ただこんなこじつけでゴリゴリ押してくるのが 「グース論理」ですから、あまり関わらずに進行させます。 |
グースさんは是が非でも「屋内に全員収容」でなくてはならないようですが、私は特にこだわっていませんので、「屋内に全員収容」で試算
してみましょう。
兵舎は横5m縦50mとします。
真ん中に1m幅の通路があり、両側に上下2段の簡易ベッドがあります。
一人分の幅を畳1枚分と考えて正規の収容員数は50人×2段×左右で200人となります。
さらに、ベッド下のスペースにもう100人、通路部分に50人。これで350人。
床に寝るひとは気の毒でありますが、なにしろ兵隊さんですからこれくらいしょうがないでしょう。これでもゆったりスペースです。
しかし、新聞記事にありますように「鮨詰め」の状態を再現するためには、詰めていただきます。日本でも山小屋の繁忙期に泊まりますと二人が足と頭方向を逆
方向にして寝るように指示されます。これで約1.5倍。
さらにお盆に人気の白馬岳などに行きますと、横向きで寝ることを余儀なくされてこれで2倍となります。つまり、700人。
二十二棟で一万五千四百人となり、これは両角業作大佐主張の当初一万五千三百人とほとんど同じです。なかなかいい線だと思われます。
兵舎の大きさはこのあと念入りに写真と資料を見た結果訂正しました。 |
軍事的・地理的条件 投
稿者:グース 投稿日: 4月14日(金)00時13分58秒
仮定の話として
(1)建物がすべて居住用だった。
(2)両側に二段ベットが装備されていた。
(3)通路までびっちり人が詰め込まれていた。
(4)建物は5M×50M(約75坪)で計算
スグルさんの提示したこの条件ならば、22棟で1万5000人が収容可能という「仮説」は成り立つと思いますよ。
私が指摘しているのはこういうことです。
(1)洞氏によれば、幕府山の砲台兵は300名です。(砲台兵300名説初出)
(2)山の上の砲台に、何千人も収容可能な施設を造る必要はない。
つまり、幕府山に建物があったとしても、数百人の収容を目的としたものなはずなんですね。山の上に何千人もの兵を配置しても遊兵となるので無駄ですか
ら。
「私が指摘しているのは」といいますが、(1)(2)ともまったくの初出の主 張です。 |
スグルさんの主張されるように二段ベッド装備で、定員が4000人を超えるような収容施設があったとは考え難い。もっとも、スグルさ
んが「あったと思う」のはご自由です。
ちなみに75坪の建物が22棟あるとすれば、建物だけで1650坪。敷地面積は最低でも3000坪くらい必要なりますね。そういう広いスペースが幕府山
にあったとは考え難いし、そもそも必要がないということです。22棟の建物があったとしても、大きさが異なる場合もあるでしょう。大半は倉庫などとして使
用されていて、居住用ではなかった可能性もありますね。
「二段ベッド」の証言もありませんし、幕府山砲台という軍事的・地理的条件・敷地面積などを考慮すると、1万5000人の収容というのはちょっと無理が
あると思いますよ。
「幕
府山の捕虜 投稿者:グース 投稿日: 4月11日(火)07時10分49秒
」ではグース氏はこう書いています。 > 建物については栗原スケッチや写真を見る限り平屋です。 > ひと棟あたり100人収容なら2200人です。 >200人収容なら4400人となります。 「なら」という 逃げ道は用意されていますが、「定員が4000人を超えるような収容施設があったとは考え難い」というグース氏はなぜ、2200−4400人と書いたので しょうか。 ところで「二段ベッド」の証言がない→二段ベッドの存在は否定される、という命題は虚偽です。 証言がないとしても、二段ベッドの存在は肯定も否定もされない、というのが正しい。 |
>軍事的・地理的条件
投稿者:スグル 投稿日: 4月14日(金)01時17分22秒
グースさんへ
>(1)洞氏によれば、幕府山の砲台兵は300名です。
>(2)山の上の砲台に、何千人も収容可能な施設を造る必要はない。
> つまり、幕府山に建物があったとしても、数百人の収容を目的としたものなはずなんですね。山の上に何千人もの兵を配置しても遊兵となる
ので無駄ですから。
グースさんの反論、今日は低調ですね。フッ。
先のRESで収容所は山岳地帯などということを言ってましたけど、これはグースさんがものを知らない。収容所はほとんど平地に近い丘陵地帯で農地が多い。
それから、砲台防御のための施設ではない。おそらくは野戦訓練のための施設でしょう。
グース氏の主張はまだ全面的に展開されておらず、この時点では意味不明でし た。 |
南京はなんといっても首都ですし、当時は日本との関係も緊張し、軍閥間の抗争、共産軍との敵対もあった。南京は軍事関係の施設も多く、幕府山の頂上と西麓
は陸軍の施設、北側揚子江沿いには海軍の施設も多い。この辺りは軍の訓練に盛んに使われた地域だったのでしょう。
> スグルさんの主張されるように二段ベッド装備で、定員が4000人を超えるような収容施設があったとは考え難い。もっとも、スグルさんが「あったと思
う」のはご自由です。
グースさんに言われるまでもなく自由なので。
そんな人数いらないと思うのはグースさんの勝手です。
二段ベッドと考える根拠を言ってみましょう。軍隊とは最小限の努力で最大限の効果を上げることを常に考える組織です。もし、一段だけのベッドだと二倍の長
さの建築物がいる。それよりは二段ベッドにして半分の長さの建物にしほうが費用はずっと安い。それから、ベッドの方向を兵舎の長手方向にするとこれも費用
が高くつく。また、ベッドは左右両側に置いた方がやすくつく。だからベッドの長さを2mの左右、通路を1mと考えた。兵隊の訓練ようだから、ぱっと起きて
ぱっと出なければならない。だから通路はやや広め。
> ちなみに75坪の建物が22棟あるとすれば、建物だけで1650坪。敷地面積は最低でも3000坪くらい必要なりますね。そういう広いスペースが幕府
山にあったとは考え難いし、そもそも必要がないということです。22棟の建物があったとしても、大きさが異なる場合もあるでしょう。大半は倉庫などとして
使用されていて、居住用ではなかった可能性もありますね。
周囲は農地、原野なのでスペースはあります。国民党独裁ですから必要なら土地収容するのも簡単です。施設は必要があったから作ったのでしょう。疑問に思っ
たら調べれば?
> 「二段ベッド」の証言もありませんし、幕府山砲台という軍事的・地理的条件・敷地面積などを考慮すると、1万5000人の収容というのはちょっと無理
があると思いますよ。
1万5000人の定員ではありませんよ。4400人くらいの定員ですが、捕虜を入れるときに定員を気にするほど日本軍は馬鹿でしたか?
武装解除は容易だった
投稿者:スグル 投稿日: 4月14日(金)01時19分31秒
実にアッケラカンと大ウソをついてくるグースさんに対して、きちんと反論をすると非常におおがかりなことになります。
グース掲示
>数壱千規模になれば、武装解除も容易ではないんです。
> 捕虜を収容した山田支隊の人数は大体2000人前後です。
> 一万人規模が事実であれば、ほとんど総出で武装解除や監視に当たると思いますが、
>実際に武装解除にあたった人数はごく一部に過ぎません。
これは一度反論しましたが、山田支隊の実例を示して述べたわけではないので、改めて示します。
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12月13日
未明に若松連隊(両角部隊)は田山芳雄少佐の第一大隊を烏竜山砲台占領に向かわせ、主力部隊は後藤常冶少佐の第二大隊を先頭隊として幕府山東方地区を目指
します。
13日夕刻、幕府山東方、陽梅宅に進出した連隊主力は中国兵の大軍に遭遇した。完全武装の、しかし、統率を失った大軍であった。しかし、正面からぶつかっ
たなら、わずか2000余の小部隊など、ひともみに押しつぶされそうな、ものすごい数である。ところが、彼には攻撃してこない。「武器を捨てろ」というと
彼らは指示に従った。
12月14日未明
中国兵を最初のうちはひとりずつ捕らえてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。
そのころ角田栄一中尉の第五中隊は百二十人の兵力で砲台の入り口にある鳩三鎮付近から中国兵の大軍の中にはまり込んでいた。最初は武装解除して次々に捕ま
えて連行したが、一人で五人も六人も捕まえてしまい、とても手に負えなくなった。そのうち彼らに武器を道や川に投げさせたのちは彼らを放置して進んだ。幕
府山頂上の砲台に残っていた中国兵はさすがに抵抗をしめしたが、銃撃戦ののちに占領した。結局第五中隊だけで約三千人は武装解除しただろう。
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「ふくしま 戦争と人間」pp11-114からの要約です。
まず、武装解除が容易だったこと、及び、両角部隊を遙かに越える人数だったことを示しています。
今度は、山田支隊の実状に照らして武装解除が容易だったことを論証しました。 この件についてグース氏からの反論はありませんでした。 |
12月14日午前までの状況
投稿者:スグル 投稿日: 4月14日(金)01時21分44秒
グースさんへ
> 史料を見る限り数えた人はいないんですよ。
> 戦果報告は恐らく、各部隊からの集計が1万数千人ということで、こういった集計は大雑把で重複するので実数よりもかなり多めになりま
す。日露戦争の時は三倍以上の誤差がありました。
ちょっと資料を読めばわかることなのですが、資料が読めないグースさんのためにながながと書いてやります。
12月14日午前までの状況
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遠藤重太郎 陣中日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・大行李・編成 輜重特務兵
幕府山に着く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍
にていこうしたのかとびっくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆
[このあと二頁分破られて欠]
『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P88〜89
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#五時過ぎには第一大隊が千八百名とあります。元の文章、切れているところは第二大隊、第三大隊も捕虜を得ていると続いたと思われます。
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荒海清衛 日記 歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
『南京戦史資料集2』P345
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#出発の時刻の記載はやや違いますが、十時までに三千名になりました。計一万五千名位というのは第二、第三大隊と併せてという意味でしょう。
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堀越文男 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成 伍長
十二月十四日
午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。
敵の銃をひろひて撃てるものなり。
第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。
『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P78〜79
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#結局14日午前には主力が捕獲した捕虜を路上でまとめて監視しています。その数はすでに一万四千余人を数えます。
#一万四千余人と、一万五千名との異動はほとんどないといっていいでしょう。
千人から三千人くらいずつを加算されたようですが、この程度の数だと目算も容易です。また戦闘を伴わない行進だったので余裕をもって目算できたと思われま
す。
史料解釈 投
稿者:グース 投稿日: 4月14日(金)15時40分50秒
スグルさんが提示された史料の中に「数を数えた」ものはありませんが。
研究者の中で、スグルさんの提示史料を「数を確認した史料」として扱っている方はいないと思います。そういう分析をした研究があるなら提示して下さい。
スグルさんの想像であれば、それを根拠にする意味はないと思います。
そもそも数を確認したという史料があれば数の論争は決着しているわけですが。
例えばこの史料です。
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荒海清衛 日記 歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵
◇十二月十四日
朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
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この史料が象徴的ですが、朝の四時半に千名という報告があって、最終的には一万五千名となったというものです。荒海氏が数えたというわけではありません
が、集計の情報は下級兵士まで伝えられていたわけです。当然ながら、監視に当たった兵士も数えたわけではなく、一万五千人という情報が記しただけですよ。
>収容所はほとんど平地に近い丘陵地帯で農地が多い。それから、
>砲台防御のための施設ではない。おそらくは野戦訓練のための施設でしょう。
これはどなたの研究でしょうか?
(1)私の知る限り収容所の位置は確定されていません。
(2)野戦訓練施設が幕府山にあったという史料はありません。
もしかすると私の知らない資料があるかもしれませんので、(1)収容所の位置を確定した史料、(2)野戦訓練施設が存在したという史料、以上ニ点の史料
を提示して下さい。以上。ソースがあれば大発見ですが、スグルさんの想像ならば、想像をもとにした議論に意味はないと思います。
以前も伝えたと思いますが、私は「学術的に通用する解釈」を基本にしていますので、スグルさんの「想像」についてあれこれ議論する意味を感じません。ス
グルさんが「そう思う」のはご自由ですから、ご自分のサイトなりブログなりで発表されてはいかがでしょう?
収容所の位置関係については決定打となるので、あえて議論を先送りしていました。グース氏の逃亡によってこの議論はできなくなったので別ページでふれるこ
ととし、簡単に解説します。 「南京大虐殺の研究」洞富雄、藤原彰、本多勝一著において、現地調査がおこなわれ、 写真にある山容、12月15日頃の太陽光線の角度、殺害現場からの距離の三点から収容所の位置は幕府山南麓の五百村であると確定されています。 この辺りは平坦な農地で、幕府山裾野を回り込む道路が、北へ折れて上元門に至るところです。 |
>史料解釈 投
稿者:スグル 投稿日: 4月14日(金)23時22分47秒
グースさんへ
> スグルさんが提示された史料の中に「数を数えた」ものはありませんが。
> 研究者の中で、スグルさんの提示史料を「数を確認した史料」として扱っている方はいないと思います。そういう分析をした研究があるなら提示して下さ
い。
提示した資料はすべて数の経時的に増加を報告しています。
数を数えずに数の報告はできません。
私の提示した資料のみならず、多くの文献資料が捕虜数の推定に使われています。
これはグースさんもご承知かと思います。
捕虜は道幅に応じて四列縦隊とか、五列縦隊とかで行進させるのが一般的です。千−三千くらいの兵数はこのやり方で十分算定可能です。上級兵士、下士官に
とっては彼我の兵数の把握は非常に重要ですから、目算には熟達していたと思われます。
資料からは中隊単位の捕虜が大隊単位にまとめられ、大隊単位の捕虜も最終的に一つにまとめられた過程が読みとれます。大量の捕虜を中隊ごとに保持しておく
と隊の自由が利かず、掃討作戦行動が制約されるからです。このため道に集められたことが記載されています。ただし、道といっても、道の中で広くなっている
部分を利用したか、少しははみ出して監視したとは考えています。
このときに全体数をもう一度数えたのではないか、と想像します。たとえば五列縦隊百人の行列を何回、道ばたの収容所に導き入れるかという数え方です。
グースさんは新聞所載の収容所の写真を見て、あの不鮮明な画像において、雑然と座り込む捕虜の数を700名から1000名と断定されました。ある程度並ば
せたり、しっかり直視できる環境ではグースさん以上の精度で目算できたと思われます。
> この史料が象徴的ですが、朝の四時半に千名という報告があって、最終的には一万五千名となったというものです。荒海氏が数えたというわけではありませ
んが、集計の情報は下級兵士まで伝えられていたわけです。
集計の情報があったということは数えられたということを示します。
そして最終的に収容所に入れる前には一名単位の正確さて数えられたわけです。一四七七七名は旅団調査として報告されおり、通信兵に伝えられているというこ
とは、支隊長または連隊長が捕虜数が参謀本部にも連絡することも念頭において数えさせたのだと考えられます。
>>収容所はほとんど平地に近い丘陵地帯で農地が多い。それから、
>>砲台防御のための施設ではない。おそらくは野戦訓練のための施設でしょう。
> これはどなたの研究でしょうか?
>(1)私の知る限り収容所の位置は確定されていません。
>(2)野戦訓練施設が幕府山にあったという史料はありません。
収容所の位置には諸説ありますが、幕府山の山の中や山頂にあったというグース説に合致する説はないようです。細かい異動はあっても山麓ということで一致し
ています。
収容所として使用した施設は恒久的な居住施設のような作りではありません。また、日本兵自身が兵舎とか兵舎のようなものという認識をもっていますから、一
種の野戦訓練用宿泊施設であろうと推定しました。もっといい考え方があれば教えて下さい。
> 以前も伝えたと思いますが、私は「学術的に通用する解釈」を基本にしていますので、スグルさんの「想像」についてあれこれ議論する意味を感じません。
スグルさんが「そう思う」のはご自由ですから、ご自分のサイトなりブログなりで発表されてはいかがでしょう?
私は「学術的にも通用する」し、「一般的にもわかりやすい」議論をしたいと考えています。その基本は資料であり、資料を合理的に解釈することです。今のと
ころサイトやブログで発表するほどたいした発見はありません。グースさんの掲示内容には今までの否定派も書いていらっしゃらないような新しい説があるよう
に思いますので、掲示板での議論が不都合であれば、サイトやブログでやってもらって結構です。
まとめ
投稿者:グース 投稿日: 4月15日(土)17時27分45秒 編集済
スグルさん、まとめますね
(1)幕府山捕虜の総数を数えて確認したという史料はない。
(2)あった派も含めて、総数を確認したと主張する研究者もいない。
(3)総数を確認したと主張しているのはスグルさんだけである。
こういう場合ですね、「史料によれば数を確認した」というスグルさんの主張は学術的には「成り立たない」という風に見られるわけです。つまり数の正確性
について客観的に証明する史料はありません。数えてないけれども正確であるという「スグルさんの意見」はそれで結構ですが、私の見解とは異なります。
私の見解は、
(1)収容時の状況
(2)収容所の収容能力
(3)幕府山の軍事的・地理的条件
(4)連行時の状況
(5)日露戦争時の捕虜収容を例にした「戦果重複の可能性」
こういった「客観的な史料」を中心にして、一万数千とか二万というのは過大であろうと主張しているわけですね。もちろん人それぞれ物の見方考え方は異な
りますから、スグルさんにはスグルさんの意見があっていいと思いますよ。
捕虜の収容所についてです。
明確な史料としては天野三郎少尉の「三郎出征便り」があります。
12月17日付けの手紙にはこうあります。
---------------------------------------------
南京城外東北方約一里の地点なる幕府山砲台を、去る十四日払暁占領、其の付近にて敗残兵約二万を得、之を砲台下支那軍兵廠舎に収容。目下これを監視中な
り
---------------------------------------------
幕府山砲台下の兵舎に収容とありますね。そこで監視していると。
言うまでもなく幕府山には砲台があり、300人程度の部隊が駐屯していたようです。となれば幕府山には、兵舎や司令部の建物。食料・武器弾薬・衣料品な
どの倉庫はあったでしょう。車庫や食堂もあったかもしれませんね。規模はともかくとして、建物がいくつかあったのは確実となります。そういった設備が捕虜
の収容施設になったことも、まず間違いないでしょう。
収容定員が300名程度として、倉庫や車庫、司令部など居住用ではない建物まで捕虜を詰め込んだとしても、一万人を収容するのはまず無理でしょうね。
天野三郎少尉の手紙には「之を砲台下支那軍兵廠舎」とあります。
----------------------- 「南京大虐殺否定論13のウソ」より 「この膨大な捕虜は幕府山の南側にあった国民党軍の兵舎二十二棟に収容した」 ----------------------- その他の研究をみても「倉庫収容」というものはありませんので、常識的には、「兵舎に収容」ということになるでしょう。グースさんの理論というか解釈は、 学術的にはかなり無理があると思いますが。(グース論理の応用) <幕府山の捕虜 投稿者:グース 投稿日: 4月11日(火)07時10分49秒 >においてグース氏は兵舎の収容人数(の上限)としてはほぼ、4400人であると主張しています。 >建物については栗原スケッチや写真を見る限り平屋です。 > ひと棟あたり100人収容なら2200人です。 > 200人収容なら4400人となります。 「栗原スケッチや写真を見」た結果、少なくとも2200人収容と認めていたわけです。 とすると、収容定員が300名程度の施設というのは写真のものとは別物ということになります。 とすれば、「収容定員が300名程度の施設」の史料が必要になります。 |
幕府山の山頂までは一本道です。
砲台があったのは山頂付近と考えられますが、こういった付属施設は攻撃を避ける為に砲台よりも下の方に設置されるのが普通ですね。ということで、幕府山
の麓から山頂までのどこかに捕虜を収容した場所があったのは、客観的にみてまず間違いないと思います。これが収容所(大)。
規模が小さい収容所(小)は、捕虜の三分の一程度を収容していましたが、幕府山の収容所よりもさらに下(揚子江に近い場所)にあったわけです。地理的・
軍事的に考えれば、幕府山砲台を守る為の警備施設という可能性が高いでしょう。関所みたいなものですね。
ということで「規模」という点で、「一万数千人を収容可能な状態ではなかった」ということは、客観的に言えると思います。これが私の見解です。もちろん
私の見解を採用するように「強制」しているわけではありませんので、スグルさんにはスグルさんの意見があっていいと思いますよ。
それではまとめになりません。
投稿者:スグル 投稿日: 4月15日(土)21時30分26秒
グースさんへ
> スグルさん、まとめますね
>(1)幕府山捕虜の総数を数えて確認したという史料はない。
>(2)あった派も含めて、総数を確認したと主張する研究者もいない。
>(3)総数を確認したと主張しているのはスグルさんだけである。
私が「総数を確認したと主張」した事実はありません。
いったい、何のまとめをされたのか、わけがわかりません。
もう一度過去ログをよーーく読み直されるようお勧めします。
>つまり数の正確性について客観的に証明する史料はありません。
私の主張は「数は数えられた」であり、グースさんの主張は「数は数えられていない」でした。「数が数えられたかどうか」ということと、「数が正確かどう
か」ということはまた別問題です。
上の記述はグースさんが始めて提出した論点です。想像で語った数であるとわかっていれば「数の正確性」について議論するのは無意味です。目算であれ、まず
数えられたことを前提としなければ「数の正確性」を議論する意味はありません。グースさんが「数は数えられた」という主張をお認めになるのなら、議論に応
じます。
>数えてないけれども正確であるという「スグルさんの意見」はそれで結構ですが、私の見解とは異なります。
私は「数えていないけれど正確である」という主張をしたことがありません。
過去ログをよーーーく読んでお確かめいただきたい。
> 私の見解は、
>(1)収容時の状況
>(2)収容所の収容能力
>(3)幕府山の軍事的・地理的条件
>(4)連行時の状況
>(5)日露戦争時の捕虜収容を例にした「戦果重複の可能性」
> こういった「客観的な史料」を中心にして、一万数千とか二万というのは過大であろうと主張しているわけですね。
グースさんはこの間(1)から(5)まで具体的な史料をほとんど提出していません。
これもまた過去ログを読んで自分の発言をお確かめください。
一例をあげますと、収容所の位置についてグースさんは幕府山山中とか山頂であるという主張のもとに議論を行いました。グースさんの主張はこれをひとつの論
拠としております。しかし、幕府山山中とか山頂である、という史料はまだ提出されておりません。
また、収容所には1万人の収容能力はないと断定されましたが、建物の大きさを示す史料はいまだお示しになっていません。大きさがわからないのに収容能力が
ないとは言えません。
> 収容定員が300名程度として、倉庫や車庫、司令部など居住用ではない建物まで捕虜を詰め込んだとしても、一万人を収容するのはまず無理でしょうね。
(笑)収容定員の4倍詰め込んだと仮定しますと、そういう建物が十あると一万二千人収用可能となり、二十あると二万四千人収容可能となります。定員の五倍
詰め込んだと仮定しますとそれぞれ一万五千人、三万人収容可能となります。よろしいでしょうか(笑)。
日本軍が収容定員を気にして、捕虜を収容したということは一切考えられません。
> 砲台があったのは山頂付近と考えられますが、こういった付属施設は攻撃を避ける為に砲台よりも下の方に設置されるのが普通ですね。ということで、幕府
山の麓から山頂までのどこかに捕虜を収容した場所があったのは、客観的にみてまず間違いないと思います。これが収容所(大)。
> 規模が小さい収容所(小)は、捕虜の三分の一程度を収容していましたが、幕府山の収容所よりもさらに下(揚子江に近い場所)にあったわけです。地理
的・軍事的に考えれば、幕府山砲台を守る為の警備施設という可能性が高いでしょう。関所みたいなものですね。
これはグース新説と思われますので詳しくご紹介願います。
1.収容所(大)は砲台の付属施設である。
2.収容所(大)は幕府山の山頂や山中にあった可能性もある。
2.収容所(小)は捕虜の三分の一程度を収容していた
3.収容所(小)は幕府山砲台を守る為の警備施設である。(という可能性が高い)
> ということで「規模」という点で、「一万数千人を収容可能な状態ではなかった」ということは、客観的に言えると思います。
収容に使われた建物の「規模」を具体的に示さないと収容できないと断定できません。
議論の余地のないテーゼです。
「感じ方」人それぞれ
投稿者:グース 投稿日: 4月16日(日)00時01分40秒
スグルさんへ
これまでのレスで、幕府山事件の規模についてはかなり分かりやすく説明してあると思います。何か勘違いされているのかもしれませんが、私の意見は一般の
方に向けたものですから、最終的にスグルさんが納得するかどうかは関係ないんですよ。
例えばこの部分ですね。
>収容に使われた建物の「規模」を具体的に示さないと収容できないと断定できません。
>議論の余地のないテーゼです。
以上はスグルさんの見解ですね。
私は「定員300人程度の砲台関連施設」ならば、一万人を収容することは難しいだろうなと考えます。そしてこの考え方は、(スグルさん以外の)一般的な
人ならば納得して頂けるだろうな、と思うわけです。これは感じ方の問題ですから、議論して溝が埋まるものではないでしょう。
スグルさんが私の見解に納得する必要もないし、私の見解を採用する義務もありません。同様に私がスグルさんお意見に同意しなければならない理由もないん
ですよ。分かりやすく言えば、スグルさんが納得できないことでも、(この問題に興味をもっている)一般の方の大半が納得すると思われるならば、私にとって
は何の問題もないということです。
単純な論理 投
稿者:スグル 投稿日: 4月16日(日)10時27分46秒
グースさんへ
私の主張は簡単、明瞭なものです。
> 例えばこの部分ですね。
>>収容に使われた建物の「規模」を具体的に示さないと収容できないと断定できません。
>>議論の余地のないテーゼです。
> 以上はスグルさんの見解ですね。
これを、「1.5リットルの酒をあるビンに入れられるか、どうか」という問題に置き換えます。
(酒を実際に入れることを別にすると)ビンのサイズを示さない限り「入らない」とは言えないわけです。
これは「感じ方」の問題ではありません。論理の問題です。
グースさんが「ビンのサイズはわかっていなくても入れられないと言える」と主張されるのだとしたら、これ以上議論する必要はなくなります。
さて、グースさんの見解ですが
>私は「定員300人程度の砲台関連施設」ならば、一万人を収容することは難しいだろうなと考えます。
−「定員300人程度の砲台関連施設」ならば、一万人を収容することは難しい。
問題は【捕虜は全員「定員300人程度の砲台関連施設」に収容されたという証明】がないことです。
グースさんがこの単純な論理を理解できないとすると、議論を続けることは不能となります。
そもそも「定員300人程度の砲台関連施設」という史料がないのです。 |
大小の位置関係
投稿者:グース 投稿日: 4月17日(月)00時13分1秒
>グースさんが「ビンのサイズはわかっていなくても入れられないと言える」と
>主張されるのだとしたら、これ以上議論する必要はなくなります。
定員300名というのがビンのサイズに該当するわけですね。
正確な大きさはわからないが約300人が定員の施設ならば、どう詰め込んでも10000人は入らないだろうと。そういうイメージは共有可能だと思いま
す。
例えば、日本人の場合「6畳」という広さは容易に想像可能だと思います。兵舎で大人を収容するわけですから、ベッドなり布団をならべて、6畳なら定員3
名くらいでしょうか。300名なら600畳相当の居住スペースになりますね。
600畳のスペースですから、畳一枚に二人詰め込んでも1200名しか収容できません。居住施設の他に、司令部の建物やら、食堂やら、倉庫があったとし
ても10000人の収容は難しいだろうと。こういうイメージは広く伝わると思います。
これは「イメージの問題」ですから、議論して決着がつく問題ではないと思います。
「イメージの問題」でも何でもありません。 グース氏は約300人が定員の施設ならば、と仮定の話をしています。しか し、そもそも300人の定員の施設があったという史料がないのです。 仮定の上にたっていくら計算をしようが、推定を重ねようが証明にはならないのです。 |
>問題は【捕虜は全員「定員300人程度の砲台関連施設」に
>収容されたという証明】がないことです。
ヒントとなるのは、中国人による清野作戦(焼き払い)です。
細かい民家まで焼いたということではないようですが、幕府山近辺でも焼き払いが行われたという中国側の証言があります。作戦の目的を考えれば、日本軍が
利用可能な大きな建物は優先的に焼かれたことでしょう。
大規模な建物が残っていたとすれば、それは南京防衛に必要な施設であろうと。砲台基地の施設や、幕府山の下で砲台へ続く道を警備する施設などは当然残さ
れただろうと考えられます。逆に言えば、それ以外の(何千人も収容できるような)大規模な建物が幕府山に残っていたとは考え難い。
幕府山頂に続く道は一本道で、こういう順序になります。
揚子江――収容所(小)――収容所(大)――山頂(砲台)
収容所(小)は捕虜の三分の一を収容しており、16日に火事がありました。
16日夜に揚子江岸に連行され(事故かどうかは別として)処分されたわけです。
上の図をみればわかるように収容所(小)は揚子江に近い位置にありますから、そこで火事があっても連行があっても、収容所(大)にはその情報が伝わり難
い。ということで、収容所(大)の警備に関わった兵士は16日の火事や連行について記録していないということです(板倉説)。
大小の位置関係を考えると、捕虜の大半を収容したのは「幕府山砲台の施設」以外には考え難い。これが私の見解となります。
定員300名説について 投稿者:スグル 投稿日: 4月17日(月)20時45分16秒
グースさんへ
> 定員300名というのがビンのサイズに該当するわけですね。
定員300名説についてグースさんの主張をまとめますと、
清野作戦で南京防衛に必要な施設以外は焼かれた
砲台関係施設は焼かれなかった
それ以外の(何千人も収容できるような)大規模な建物が幕府山に残っていなかった
砲台には300人程度の部隊が駐屯していた
故に残された建物は定員300名程度である
相当飛躍が多い感じがします。
そもそも清野作戦は日本軍が攻撃して来る場合、主要幹線沿いにあって遮蔽に使われる可能性のある建物を焼却して攻撃をしやすくするという目的で行われたわ
けですから、防衛に必要な施設以外といえども相当数は残っているという事実があります。
先にも述べたようにこの辺りは軍事関係の施設が多く、海軍関係の施設も江岸に多く、また地図で見ると、老虎山に向かい合う幕府山西麓にだけ大きな建物があ
り、これは軍事施設の可能性が高い。近くには爆薬庫もあり、これは大きさからして砲台の砲弾だけを扱っているとは考えられません。砲台関係施設以外にも軍
事施設があり、防衛に役立つ建物・施設があることは否定できません。
したがって、焼かれていないのは砲台関係施設だけであるとは言えません。
収容所のひとつは幕府山の丘陵地帯の南にあり、烏龍山に至る道路と上元崗を経て上元門鎮に至る道路のそばにあります。このことは栗原証言他の史料で明らか
です。もうひとつは幕府山西麓の軍事施設地帯にあると考えて差し支えないでしょう。
また、「砲台には300人程度の部隊が駐屯していた」という史料の出典は何でしょうか。砲台制圧時の守備兵=常時駐屯兵でしょうか。砲台には300人しか
いなかったから(陥落時)、300人収容の施設しかないというのであればこじつけにすぎません。
証言・記録によりますと、兵舎(廠舎)は22棟(最多)、24棟、10棟、11棟、10数棟などの説があり、収容所(大)を22棟、収容所(小)を11棟
と考えていいでしょう。証言
および栗原スケッチでは細長い、同じような長さの廠舎が並んでいた、としています。
300人が定員の施設が仮に11棟のほうであるとしても、1棟あたり28人となり、これは2段ベッドで計算すると、5m×7mですむことになります。これ
では細長いという証言に合致しません。22棟とするともっとおかしなことになります。また1棟に28人しか入らない兵舎を多数造るというのは軍隊組織の常
識に反します。
>逆に言えば、それ以外の(何千人も収容できるような)大規模な建物が幕府山に残っていたとは考え難い。
>幕府山頂に続く道は一本道で、こういう順序になります。
> 揚子江――収容所(小)――収容所(大)――山頂(砲台)
収容所の位置については阿部説、洞説、板倉説があり、いずれも幕府山南麓から西麓にかけての位置です。幕府山山中にあったという説はありません。幕府山山
中にあったというのは新説ですので、根拠をご紹介下さい。
>収容所(小)は捕虜の三分の一を収容しており、16日に火事がありました。
「収容所(小)は捕虜の三分の一を収容しており」につていは、どういう根拠があるのかすでにお聞きしましたが解答がありませんでした。再度お伺いしたい。
「戦果重複の可能性」説についてお聞きし
たい 投稿者:スグル 投稿日: 4月17日(月)20時46分21秒
グースさんへ
これまで、私が反論したあと再反論がなかった論点は多数あります。
これらはすでに再反論を放棄して私の主張を認めて下さったのでしょうか?
また、何回かお聞きしても返答のない質問もあります。
これらははじめから、主張を通すことが無理と判断されたのでしょうか。
いずれにしろ、大変消化不良の感があります。
さて、戦果3倍説に対しても何回か、捕虜獲得の実状を史料として提出したのですが、依然として戦果3倍説にこだわっておいでなのでしょうか。そこでひとつ
だけ的を絞ってお聞きします。
(5)日露戦争時の捕虜収容を例にした「戦果重複の可能性」について
過去のある戦闘において戦果の把握が3倍となったとして、別の戦闘において同じく3倍になるためには戦況や両軍の戦意、捕虜獲得の状況などについて細かい
一致が見られなくてはなりません。
日露戦争時と幕府山捕虜獲得時とで具体的にどのような一致がありましたか、お答えいただきたい。
捕虜獲得の状況についての具体的な説明はこのあと最後までありませんでした。 |
学術的にお願いしますね
投稿者:グース 投稿日: 4月18日(火)14時41分9秒
>これまで、私が反論したあと再反論がなかった論点は多数あります。
>これらはすでに再反論を放棄して私の主張を認めて下さったのでしょうか?
これまでのところ、スグルさんの意見は私の見解を左右しておりません。
何回か説明していますが、私は学術的に通用する方法で、一般の方向けに説明しておりますので、スグルさん個人が納得するかどうかは全く関係がないという
ことです。
例えばですね
(1)そもそも幕府山に、砲台関連施設以外の、何千人も収容可能な建物が存在したという史料がない。
(2)仮に大規模な建物があったとしても、日本軍が利用可能な施設を焼き払う「清野作戦」が行われていたので、南京防衛に必要な施設以外は焼かれた可能性
が高い。
(3)南京防衛に必要な砲台施設は焼かれなかった。
(4)幕府山砲台の施設は、定員約300名であり、一万人の収容は難しい。
以上の見解についてスグルさんは「飛躍が多いと感じる」ようですが、スグルさん以外の方は概ね理解して頂けると私は思います。
スグルさんの論に欠けているのは、
(A)一万人を収容可能な施設とはどういうものだったのか?
(B)なぜそういう大規模な施設が焼かれなかったのか?
という史料です。史料が出てくれば別ですが、なんら史料がない「スグルさん個人の意見」(野戦訓練施設説でしたっけ?)については議論する意味もないで
しょう。
>
(1)そもそも幕府山に、砲台関連施設以外の、何千人も収容可能な建物が存在したという史料がない。 たとえて言えば、何の障害もなく存続している学校であれば学籍簿が完備していますから、学籍簿に名前がなければその学校の生徒でないと断定できます。しか し戦災で焼失した後再開した学校において学籍簿に名前がないから生徒でなかったとは断定できません。 そもそも、南京戦以前の平和時において幕府山近辺にどのような建物があったかを記した資料は現存しません。清野作戦によってどの建物が焼かれたかという資 料はなおのこと存在し ません。ですから、「何千人も収容可能な建物が存在したという史料」がないということは、そういう建物が存在しなかったという証明にはならないのです。 > (4)幕府山砲台の施設は、定員約300名であり、一万人の収容は難しい。 収容所の写真をよく観察して1棟が数百人を容れる施設であると論証しました。「22棟の兵舎」という記録がありますから、1万5000人でも収容可能で す。 収容所は砲台とはかなりの距離がありますから、砲台施設ではありません。 |
また収容所の定員についてですが
幕府山頂に続く道は一本道で、こういう順序になります。
揚子江――収容所(小)――収容所(大)――山頂(砲台)
収容所(小)には約33%を収容。残りは収容所(大)に収容されていた。
この位置関係で考えると、収容所(大)は幕府山砲台の施設以外に該当するものがないだろうと。これもスグルさん以外の方には概ね理解いただけると思いま
す。
収容所(大)は300名が定員の砲台施設です。倉庫や司令部の建物など居住施設以外の建物に詰め込んだとしても一万人は無理でしょうね。収容所(大)に
2000人とすれば、収容所(小)は約1000人となり、合計で3000人くらいになります。
この数字は概算になりますから正確な数字ではありませんが、大体の規模としては3000人とか4000人とかそんなものだろうと。
砲台兵の数については洞氏の記述になります。揚子江を望む砲台ですから300人というのは大体こんなものでしょう。幕府山に大部隊が配備されていたとい
う史料もないので、大体こんなものだと思います。
捕虜数は数えられた
投稿者:スグル 投稿日: 4月18日(火)19時39分27秒
グ> 史料を見る限り数えた人はいないんですよ。
旅団調査として14777人という数字が挙げられています(斎藤次郎 陣中日記、12月14日欄外)。旅団長の命令で数えたということをしめします。この
数字は山田旅団長の日記に記載があります。■これが数えた史料となります。
グ>広場の件ですが、屋内に収容する前に、捕虜を一箇所に集めて(目算でも)数えたという根拠は今のところありません。
捕虜を一カ所にまとめて監視したという報告があります。そのとき数えたということまでは書いてありませんが、中隊ごとに捕虜を一カ所に連れて来るとき、大
隊幹部に対して○○人ですと報告するのがスジです。
また、捕虜はおとなしく連行されました。騒いだという報告は一切ありません。連行の際は捕虜を4列縦隊で行進させ、5mおきとか10mおきにに両側に監視
の兵を並行して護送したようです。監視兵の数で捕虜の概数を把握するのは容易だったと思われます。訂
正:5−10mでは護送兵員が足りません。200mおきという証言がありました。
グースさんはあの不鮮明な画像を一目見て700人から1000人と断定されました。将兵にとって彼我の兵数の把握は重要てすし、習熟していたと思われま
す。不鮮明な写真ではなく直視した将兵にとって目算は容易だったと思われます。「目算でも数えなかった」というグース説には無理があります。
グース説によると戦果3倍誇大説というのが適用されるということですが、ひとまとめにした捕虜が5000人か15000人かくらいは一目見れば誰でもわか
りますので、3倍誇大説は適用されないと思います。
グ>各部隊が捕まえた捕虜は、散発的に収容所に連れて行った可能性が高いわけで、こうなると戦果報告の1万4777人は信頼性が低いことになります。
中隊単位で追加された捕虜はいったん路上でひとまとめにして大隊が管理し、その後たまたまみつかった廠舎に連行されました。旅団長命で数えられ、
14777名と報告されました。それまでに14000人余とか、15000人と概算されていたが、かなり正確だったということがわかります。
その後も増加した捕虜については散発的に連れていったという表現でよろしいのですが、最初に収容した14777人についてはまとめて収容したというのが事
実です。
グ> この史料が象徴的ですが、朝の四時半に千名という報告があって、最終的には一万五千名となったというものです。荒海氏が数えたというわけではありま
せんが、集計の情報は下級兵士まで伝えられていたわけです。
荒海氏自身が数えていれば日記に書くでしょうから、本人が数えたわけではありません。多数の兵士の日記に同様の記載がありますから、情報を兵士たちが共有
できる環境にあったということでしょう。
■グースさんも集計があったということを認めておられます。集計というのは数えられて始めてできることです。よろしいでしょうか。
グ>つまり数の正確性について客観的に証明する史料はありません。
数の正確性というのは数えられた数があって始めて議論可能なことです。想像した数とわかっていれば議論をする必要はありません。
■したがって、グースさんが数の正確性について議論を挑んだということは数が数えられたことを認めていることを示すと思われます。数
の正確性について議論の用意があると私が発言した後もグースさんからは応答がありません。
とてつもない勘違いがあるようで
投稿者:グース 投稿日: 4月18日(火)23時39分59秒
>■これが数えた史料となります。
幕府山事件についてはそこそこ史料がありますが、虐殺あった派の研究者も含めて、「捕虜の総数を数えて確認」したと主張している研究者はいませんよね?
そもそも総数が確認されていれば「数の論争」にはならないでしょう。
ちなみに栗原氏も「数を数えたわけではない」と言っています。学術的にみれば「捕虜の総数は確認されたものではない」ということになりますね。恐らくは
各部隊からの報告を集計したものでしょう。
私とグースさんの間で問題となっているのは捕虜が数えられたか、どうかでし
た。 直接、数の問題を争点としているのではありません。これはグース流の論点ずらしです。 ちなみに、否定派と肯定派では、捕虜の総数が単独で論争になったことはありません。 歴史学者の間でも総数を追い込んだ研究はなく、争点は連行時の捕虜数、虐殺総数になっています。いうのは両角手記が記す「民間人の解放」、「火災時の逃 亡」の によって否定派は連行時4000人、虐殺数100〜1000〜3000人と主張しているからです。 栗原氏 は「捕虜の数を数えた」と息子さんの核心さんに強い口調で語っています。第一大隊135名が捕虜を4列にならべ、200人毎に左右に兵二人を護送につけて 連行したと証言しています。つまり、日本兵一人につき100人の捕虜ですから、135名の100倍で13500人という算定です。 |
>グースさんはあの不鮮明な画像を一目見て700人から1000人と断定されました。
>将兵にとって彼我の兵数の把握は重要てすし、習熟していたと思われます。
>不鮮明な写真ではなく直視した将兵にとって目算は容易だったと思われます。
>「目算でも数えなかった」というグース説には無理があります。
写真の捕虜については、縦横の人数を数えて計算したものです。
誤差はあるでしょうが写真の現場にいるのは700−1000くらいだと思います。
これは収容所(小)の捕虜ではないかと思います。
二ヶ所に分けて収容された捕虜の総数を目算する為には、広場みたいな場所に集めて、捕虜集団よりも高い位置から見なければなりません。1万5000人を
座らせて見渡せるような広い場所が幕府山にあったとは考え難いし、そういう証言もありません。また、研究者の中でこのような方法で確認したと主張している
方もいません。
状況的に考えて一箇所に集めて目算をしたという可能性は低いと思います、
>グースさんには異なる意見をお持ちの場合、きっちりと再反論を尽くした上で
>次の論点に入っていただくようお願いします。
>いたずらに論点を拡散しないよう心がけて下さい。
史料でもあれば別ですが、「スグルさん個人の解釈」は学術的に問題になりませんので、そもそも議論する必要がないのですが。何か勘違いされているので
しょうか?
反論はおしまいですか
投稿者:スグル 投稿日: 4月19日(水)21時15分42秒
グースさんへ
> 幕府山事件についてはそこそこ史料がありますが、虐殺あった派の研究者も含めて、「捕虜の総数を数えて確認」したと主張している研究者はいませんよ
ね?
捕虜の総数についていろいろな研究はありますが、一四七七七人以上だったというのが、通説です。グースさんの主張は「一万人はありえない」でしたから、一
万人以下なのか、一四七七七人以上かでひとつの論点が形成されます。その論点において討論を重ねてきたはずです。
>そもそも総数が確認されていれば「数の論争」にはならないでしょう。
グースさんの主張は「捕虜は数えられていない」ですから、グースさんの側としてはそもそも捕虜の総数を問題にする意味がないと思います。
> 二ヶ所に分けて収容された捕虜の総数を目算する為には、広場みたいな場所に集めて、捕虜集団よりも高い位置から見なければなりません。1万5000人
を座らせて見渡せるような広い場所が幕府山にあったとは考え難いし、そういう証言もありません。
山中に捕虜を集めたという証言・史料はありません。史料によれば、大量の捕虜を獲得した部隊主力の進路は幕府山山麓の道路であり、ひとまとめにされたのは
路上と記されています。
山麓の道路は標高20m内外て゜小さな峠である上元崗のところだけ30mを越えているにすぎない平坦な道路です。収容所もこの道路からあまり遠くないとこ
ろで発見されたもののようです。
栗原氏のスケッチでも収容所は幕府山の上には描かれていません。平地の丁字道 路の付近に書かれています。 |
ひとつの場所に集めた後で目算すると誤差がでやすく、たとえば四列縦隊五〇人の隊伍を監視場所に何回入れたかで数えるのが通常だと思われます。訂正:四列縦隊二〇〇人
■今回のresはもしかして、「捕虜数は数えられた」投稿日: 4月18日(火)19時39分27秒 に対する反論のおつもりでしょうか?
としますとあまりに反論が薄弱なのですが、指摘された反論にはすべて再反論をして下さい。でないと答えられずに逃亡を図ったものと見なされても仕方ないと
思います。
> 史料でもあれば別ですが、「スグルさん個人の解釈」は学術的に問題になりません
>ので、そもそも議論する必要がないのですが。何か勘違いされているのでしょうか?
史料を提示して自説を述べております。解釈については合理的な解釈を心がけております。史料、解釈について疑問があれば質問をお願いします。それから、こ
ちらの質問に対してもご回答よろしくお願いします。
まとめ
投稿者:グース 投稿日: 4月20日(木)04時07分16秒
>グースさんの主張は「捕虜は数えられていない」ですから、
>グースさんの側としてはそもそも捕虜の総数を問題にする意味がないと思います。
捕虜の総数が、「数えて確認したものではない」からこそ、数の問題が争点となっているのですが。何か勘違いされているのでは?
グース氏 のループ形成宣言です。反論されてもループを作ってしまったということは、議論が理解できないか、あるいは理解していて作ったとすれば議論で負けを認めて いることになります。 |
>史料を提示して自説を述べております。
>解釈については合理的な解釈を心がけております。
>史料、解釈について疑問があれば質問をお願いします。
>それから、こちらの質問に対してもご回答よろしくお願いします。
特別に新しい史料をお持ちでもないようですし、これまでのところ「スグルさんの史料解釈」にも魅力を感じる部分はありませんでした。ということで、これ
以上の議論(解釈の論争)は無駄だと思います。
わかり易く言うと、「スグル説」と「グース説」を併記すれば勝敗は明らかだと思うので、これ以上議論する必要を感じないということです。逆にスグルさん
が「スグル説」有利と思うならば、やはりこれ以上の議論する必要はないでしょう。
史料の「解釈」にあたっては、誰かの(例えば私やスグルさん)の合意は必要ありませんので、人それぞれいろいろな意見があっていいんですよ。スグル説、
グース説その他いろいろあっていい。歴史の問題ですから、最終的にどの説がより広く支持を集められるのか? という問題に過ぎないのです。
確認します。
投稿者:スグル 投稿日: 4月20日(木)18時46分56秒
> 捕虜の総数が、「数えて確認したものではない」からこそ、数の問題が争点となっているのですが。何か勘違いされているのでは?
勘違いはグースさんのほうでは?捕虜総数に関してはまだ議論が始まっていません。
現段階において、私は12月14日午前までの状況を史料をもって説明し、12月14日の午後2時以後に収容所に入れた捕虜数は14777人だったことを論
証しました。
議論のまとめである「捕虜数は数えられた」投稿日: 4月18日(火)19時39分27秒 に対してグースさんからは有効な反論はありませんでした。
したがって「捕虜は1万人もいない」、「捕虜を数えたという史料はない」というグース主張は論破されました。
12月14日以後増加した部分およびもうひとつの収容所に入れた部分についてはまだ、私は解説していません。つまり幕府山の捕虜総数についての議論は始
まっていないのです。
歴史的事実の確定はよくわかっている事柄からまだ確定していない事柄へ、部分的事象から全体像へと進めるべきものです。よくわかっていない事柄や全体像を
一気に議論することは学問的な方法とは言えません。
幕府山事件については史料がより多く残っている収容所の事実から検討し、数が正確に数えられている時点までの捕虜から検討すべきです。これを一足飛びに捕
虜総数を問題にするとわけがわからなくなります。
グースさんが改めて幕府山の捕虜総数についての議論を挑まれるのなら、ひとまず現段階までの論証を受け入れて始めるべきでしょう。もちろん、これ以上の議
論を避けたい事情もわかりますので回避されるのは自由です。強制はしません。
スグルさんお疲れ様でした。
投稿者:グース 投稿日: 4月21日(金)00時58分20秒 編集済
>グースさんが改めて幕府山の捕虜総数についての議論を挑まれるのなら、
>ひとまず現段階までの論証を受け入れて始めるべきでしょう。
>もちろん、これ以上の議論を避けたい事情もわかりますので回避されるのは
>自由です。強制はしません。
議論を挑んできたのはスグルさんのほうですよね。
私はスグルさんの存在そのものを知りませんから(笑
これまでの史料や研究から
(1)幕府山砲台の規模は300名程度
(2)収容所は二ヶ所あった。
(3)定員300名程度の砲台施設に三分の二が収容された。
と、ここまではまず問題ないと思います。
天野三郎少尉の「三郎出征便り」12月17日付けの手紙にはこうあります。
---------------------------------------------
南京城外東北方約一里の地点なる幕府山砲台を、去る十四日払暁占領、其の付近にて敗残兵約二万を得、之を砲台下支那軍兵廠舎に収容。目下これを監視中な
り
---------------------------------------------
砲台下の兵舎に収容とありますからまず問題ないでしょう。
これを否定するならば、何がしかの「史料」を提示していただく必要があるのですが、これまでそういう史料は提示されていませんね。スグルさんの「個人的
な解釈」は根拠になりませんので、学術的には、捕虜は幕府山砲台の施設に収容されたと考えることになります。
定員300名程度の施設にどれくらいの人数を収容できるのかは分かりませんが、10000人を収容するのは難しいでしょう。居住施設以外の建物があった
としても、収容できるのは2000人とか3000人だろう、というのが私の「解釈」になります。
収容所(大)で2000〜3000人ならば、総数は3000〜5000くらいとなります。すると公式戦果である14777人という数字は誇大である可能
性が高い。史料としては、日露戦争の例では捕虜10万という報告が、実際に収容したら3万に満たなかったという例があります。この比率で計算すると実数は
5000人くらいになりますね。両角手記では連行したのは4000人程度となっています。(グー
ス氏の自爆コメントです)
スグルさんが新しい史料を提示されるなら別ですが、そういった史料がないならば、これ以上の議論は確かに無駄だと思います。
おつかれ様でした。
そもそも定員300名程度の施設という証明をグースさんはがまだされてないの
です。 両角手記では初期の捕虜数は4000人ではなく、15300人としています。 |
お疲れさまでした。 投
稿者:スグル 投稿日: 4月22日(土)00時07分28秒
グースさんへ
>史料としては、日露戦争の例では捕虜10万という報告が、実際に収容したら3万に満たなかったという例があります。(自爆コメント)
各部隊の報告を集計したら、10万人いた、
しかし、実際には重複があったので
捕虜を一カ所に集めて収容したら、実数がわかった、3万人に満たなかった、
というわけです。
つまり、初期報告の誤差が収容時に訂正された、ということですね。
幕府山事件の捕虜は12月14日午前中に14000人余とか、15000人と言われ、実際に収容してみたら、14777人だったので
す。誤差は300−500人くらいだったわけです。
お疲れさまでした。
そもそもグースさんは「捕虜数を数えたという史料がない」という主張だったのですが、「捕虜数は数えられた」に対して何の有効もないままなのですが。
私は捕虜数が数えられた過程を具体的に史料から説明していますので、14777名が収容所に収容されたのは間違いないのです。
史料をもって説明しているのですから、捕虜は1万人いなかったんじゃないのかなーという非学術的感覚で議論されても困るのです。
−ここから、写真を観察しなおして大きさを確認したところ−
1万人を収容する建物はなかったということですが、『アサヒグラフ=支那戦線写真』第24報所載の写真をご覧になって下さい。
(写真)
手前から大きめの黒い柱が規則的に並んでおり、その一区画の中に小さな柱で区切られた窓があり、手前が開けられており、画面奥の方が閉じられています。こ
の大きな柱で区切られる間隔が中国で言う「間(チェン)」に相当し、南京付近ではだいたい4.5mから5.5mあります。写真には明瞭に見られるのは6間
ですが、一番奥は3−4間重なっているようです。また、雑誌の折り目に当たって何間かが隠れています。手前は1−2間あるようです。どうやら、全部で12
−14間くらいあるようで、1間を5mとすると、60mくらいの長さがあります。
草屋根(草営房と呼ばれた)、土壁のバラックのような細長い建物ということで、私も最初は日本のバラックか土木現場のプレハブくらいの建物という先入観が
あったのですが、よくよく見ると相当に大きな建物です。
建物の高さは建物に接した捕虜の身長と比べますと倍以上、おそらく2.5倍くらいあります。中国人は身長が高く当時、日本兵と並んだ写真を見ますと頭半分
くらい背が高く、平均身長は165−170cmあったようです。したがって軒下までの高さは4m以上あるように見えます。また、建物の屋根もそれに見合っ
た大きさで高さと幅があります。
これらの様子からすると、建物の幅は5mどころではなく、倍近くありそうです。
以前の私がした試算では建物の長さを50mとしましたが、実際は30mくらいのものが2棟並んでいるのが写真に写っていると考えてよさそうです。
建物の幅が約2倍になり長さが約半分になったということで、以前の試算はほぼそのまま使うことができ、15000人収容に十分耐えるということがわかりま
した。
建物の幅10m、長さ30m、22棟。これから建物の敷地を試算しますと8150畳くらいになり、畳一枚二人と勘定して16300人収容可能となります。
グースさんは300人定員の施設であるから、600畳とすれば、畳1枚に二人収容としても1200人しか収容できないと言ったあとで、その施設に3000
人くらい収容したとも主張しています。グースさんの感覚ではあと3倍くらい詰め込んでも問題ないようです。
論理の立て方と朝日グラフの写真 投
稿者:グース 投稿日: 4月22日(土)01時29分12秒
あら、まだがんばるんですか(笑
>幕府山事件の捕虜は12月14日午前中に14000人余とか、15000人と言われ、
>実際に収容してみたら、14777人だったのです。
>誤差は300−500人くらいだったわけです。
>お疲れさまでした。
これはスグルさんの解釈ですねが、簡単に論破するとこうなります。
(1)あった派も含めて、捕虜の数が確認されたものだと主張している方はおりません。
(2)捕虜の数が確認されたという史料がないからこそ、「数の論争」があるわけです。
これは客観的な事実となります。
日露戦争捕虜3倍説の自爆コメントに対して反論不能に陥いったグース氏が問題をはぐらかすための懸命のコメントです。 「1万人はいない」との主張を行ったのは、実は肯定派、否定派を含めてグース氏が始めてです。 田中正明、板倉由明、東中野修道を含めても初期の捕虜数は15000人を越していたという認識です。彼らも捕虜の数が数えられていたということを前提とし てい ます。 |
わかりやすく言うと、「14777人という数字の根拠」について考察しているのに、「14777人という史料があるから、それが正し
いんだ!」という反論は学術的には成り立たないということなんですよ。
例えばですね。心霊写真かどうかを鑑定しているのに、「心霊写真だから心霊写真だ!」と言うようなものです。ご理解いただけたでしょうか。
「北部上元門」の廠舎に入れる前に山田旅団長命で一人ずつ数えて収容された、と
いう事実があります。 >「14777人という史料があるから、それが正しいんだ!」という反論は学術的には成り立たないということなんですよ。 歴史事実は史料によって書かれるものです。史料を集めて上述の結論に達しました。グース氏が上記結論を否定したければ、その否定もまた、史料によって行わ なければなりません (その史料自身の再検討かまたは他の史料によって)。 しかしながら、グース氏が1万人以下だと主張する論拠は (1)日露戦争捕虜三倍説 (2)300人定員砲台施設収容説 の二つです。 (1)「日露戦争のときの捕虜が過大であったこと」、これは幕府山事件の史料ではありません。幕府山事件と日露戦 争での 捕虜獲得経過、収容経過に共通点がない以上、参考にもなりません。 (2)まず、捕虜人数を直接数えた史料ではないので、数えた史料とは確実性、精度において劣ります。「300人の砲台兵がいた」というのは洞氏の研究結果 であ って史料そのものではありません。砲台兵は300人という史料は中国側にしか作れないのですが、その史料がないのです。 洞氏の論文をグース氏は提示しないのでなんともいえませんが、そのような史料があれば、洞氏の他にも紹介する人がいるでしょうが、そのようなものを見たこ とはありません。洞氏の論文は幕府山砲台占拠のときにいた守備兵が300名ということで「砲台に勤務する兵が300名」というのとは違うと思います。 そしてなによりも「300人定員砲台施設」の史料がないのです。「300人定員 砲台施設収容説」は基礎史料がないまま、いくつもの仮説をつないだグース氏の 想像にすぎません。個人の想像では歴史史料が示す事実を覆すことはできないのです。 |
朝日グラフの写真の件ですが、写っている建物が60M×5Mとすると90坪ですね。この建物なんですが私が見た印象だと、兵舎というよりは車庫か倉庫な
んですよね。というのは、窓がガラスではなく、つっかえ棒で板が縦開きになるような窓だからです。これだと居住性はかなり悪いでしょう。
かやぶき屋根ですから、臨時施設とも考え難い。かやぶき屋根を葺くのは大変ですから。
この建物が倉庫だとすれば、その基地で一番大きい建物という可能性が高い。また、収容所は二ヶ所ありましたから、写真に写っている規模の建物が22棟も
存在した考えるのは不合理でしょう。
いずれ、史料からわかることは、幕府山砲台の施設(定員300名程度)の収容所に、全体の三分の二を収容したということです。常識的には1万5000人
という規模は難しいと思う方が多いと思いますよ。
「この建物が倉庫だとすれば」−「なら」「すれば」ですから、論証ではありません。 証言・史料は「22棟の兵舎に収容」で一致しており、収容施設の中に倉庫があったという証言もありません。 |
直接数えるのが一番正確です。
投稿者:スグル 投稿日: 4月23日(日)00時04分40秒
グースさんへ
> わかりやすく言うと、「14777人という数字の根拠」について考察しているのに、「14777人という史料があるから、それが正しいんだ!」という
反論は学術的には成り立たないということなんですよ。
捕虜数の決定にとって最も重要なのは捕虜の獲得経過、収容経過の史料です。
その中に
(1)山田支隊が数を数える余裕、能力があるか
(2)山田支隊に数を数える動機づけがあるか
(3)数の報告は1件だけなのか、数件あるのか
(4)数の報告は一致しているのか、相反しているのか
(5)数の増加はどのようになつているのか
(6)集計や、ひとまとめで数えられたことはあるのか
などが出てきます。
ですから、史料をよく読むことでこれらを読みとれば結論は自ずと出ます。
「捕虜は数えられた」によく解説してありますからよく読んで下さい。質問があればまだ受け付けますよ。
人数の根拠は直接数えるのが一番正確です。
建物のようなハコで数えるのは不正確です。
たとえば、野球の入場者数はハコが決まればわかりますか
東京ドームか甲子園かで入場者がわかりますか?
キップも不正確です。買っても見に来ないひとがいますから。
その場で数えるのが一番正確です。
その場で数えたのが山田支隊の兵士です。
その中に「1万人はいなかった」とか、「5000人しかいなかった」という報告がただの1例もないということだけは、グースさん、よくよく胸に手を当てて
考える必要があるでしょう。
そもそも、ハコで数えようとすると誤差が大きいので、直接数えるよりは不正確です。
ハコの大きさを知ろうにも、収容所は現存していないので、実地に測量することはできません。建築時の設計図も残っていないので大きさは不明です。
いくら探しても収容可能人数について、捕虜収容時の史料より正確な信頼のおける史料はないのです。
あてずっぽで、収容所には入らなかったはずだとか想像を言ったり、いくつもの仮定と可能性をつないだ推論をしても余計わからなくなります。
それ以外の他の史料を用いて捕虜数を推定しようとすれば、
「捕虜の獲得経過、収容経過の史料」をくつがえすに足るだけの
確定した、精度の高い資料でなければなりません。
グースさんだけでなく、誰もそういう史料は持っていないのです。
直接の史料もなく仮定や可能性や推測でつないだ考察などは問題にならないのです。
スグルさん、お疲れ様でした 投
稿者:グース 投稿日: 4月23日(日)00時31分59秒
スグルさんのよる以下の二つの投稿ですが、内容的にこれまでのスグルさんの投稿とあまり変わらず、今後も同様の投稿を繰り返しそうなので削除いたしまし
た。ニ三日中にサイトの削除投稿の方に掲載したいと思います。
スグルさんの意見、解釈についてはこれまでの投稿で十分に伝わっているものと思います。
当掲示板はスグルさんの思想を宣伝する場所ではありませんので、スグルさんの「個人の解釈」や「意見」につきましては、ご自分のサイトやブログで披露す
ることをオススメ致します。
削除投稿
倉庫説に反論 投稿者:スグル 投稿日: 4月23日(日)00時15分38秒
直接数えるのが一番正確です。 投稿者:スグル 投稿日: 4月23日(日)00時04分40秒
グースさん、それはないですね。
投稿者:スグル
投稿日: 4月24日(月)18時01分0秒
> スグルさんのよる以下の二つの投稿ですが、内容的にこれまでのスグルさんの投稿とあまり変わらず、今後も同様の投稿を繰り返しそうなので削除いたしま
した。ニ三日中にサイトの削除投稿の方に掲載したいと思います。
削除された投稿は
論理の立て方と朝日グラフの写真 投稿者:グース 投稿日:
4月22日(土)01時29分12秒に対する反論文でした。
グースさんが新しい反論を書かれましたので、それに対して新たに書きおろした内容を書いたもので、これまでの繰り返しではありません。
グースさんによればグースさんと私の投稿を見てもらえば、どちらが正しいか見ているみんなにはわかる、というお話でした。したがって、もし私の方に新しい
論点がないのだとすれば、放置すればよいだけの話です。
とするならば、グースさんがわざわざ反論投稿を続けたのは私の投稿が無視できない論点を含んでいたことを示します。
しかし、自分で反論しておきながら、他者の反論投稿を平然と無断で削除するとはいかなる神経の持ち主なのでありましょうか。
投稿規定の明示もなく、また警告もなく一方的に削除するという掲示板は私はかつて見たことがありません。
掲示板というのは不特定多数が意見を交わし、お互い切磋琢磨して認識を高めるためのものです。自分の意見と違う、ということで得手勝手な削除をするという
のはやめていただきたい。
2つの削除投稿の復活を要求します。
倉庫説に反論 投稿者:スグル 投稿日:
4月23日(日)00時15分38秒
直接数えるのが一番正確です。 投稿者:スグル 投稿日:
4月23日(日)00時04分40秒
削除投稿について 投稿者:グース 投稿日: 4月24日(月)18時57分42秒
スグルさんの削除投稿についてはこちらに収録しました。
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page097.html
幕府山の画像もあります。
問題の建物が、兵舎に見えるのか、倉庫に見えるかについては見る人によるでしょうが
私は、窓が板張りであることから居住施設(兵舎)とは判断できないと思います。
これは議論して決着するような問題ではないでしょう。
スグルさんが「兵舎である」と主張されるのはご自由ですが、それはご自分のサイトや
ブログで主張されたほうがいいと思います。
「兵舎でなく、倉庫」説という珍説に対する反論は、削除撤回要求を優先しために後回しにしています。これも面白いことになります。あとでまとめて書きま す。 |
>削除投稿について 投稿者:スグル 投稿日: 4月24日(月)20時23分22秒
> スグルさんの削除投稿についてはこちらに収録しました。
>http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page097.html
私は削除投稿については復活を求めています。
グースさんのサイトへのupなどは求めておりません。
私は著作権を放棄してはいませんので掲示板以外への無断upは認められません。
> 幕府山の画像もあります。
> 問題の建物が、兵舎に見えるのか、倉庫に見えるかについては見る人によるでしょうが
>私は、窓が板張りであることから居住施設(兵舎)とは判断できないと思います。
> これは議論して決着するような問題ではないでしょう。
> スグルさんが「兵舎である」と主張されるのはご自由ですが、それはご自分のサイトや
ブログで主張されたほうがいいと思います。
議論して決着するものでないというのなら、上記意見はご自分のサイトでだけ書かれればよろしいでしょう。サイトでも、他人の投稿を勝手に使用すべきではな
いでしょう。
ひとの発言を削除した上で掲示板に上記意見を書くべきではないでしょう。
いずれにしても、ただちに投稿の無断削除を撤回して下さい。
撤回しない以上、私といたしましても対向措置をとらざるをえません。