向井・野田証言vs記者証言 2003.11.06 上網 |
1.向井・野田両少尉と浅海記者の対談はどちらが真実か。
前ページの野田回想メモの不自然きわまる対話シーンと較べてみよう。
■『ペンの陰謀』より浅海一男の証言
(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。<中略>筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。<中略>両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。
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まず、話の導入部、話の出だしがスムースに描かれており、イメージが喚起されるような証言になっている。少なくとも浅海元記者の方が記憶は多く残されているようである。対話の内容が問題であっても、正確な背景を与えると、必ずシーンは生き生きとし、会話は動き出すものである。
事件の発端にも注目したい。「社旗を見て向うから近寄って来た」は十分納得させる内容を持っている。もともと、所属の違う少尉二人に記者がなぜ話かけるようになったのか、野田回想メモでは不明であった。浅海証言によれば、もともと二人が計画しており、むこうから働きかけた、ということになる。この方がなぜ一緒にいたのかわからない二人に唐突に百人斬り競争が持ち込まれたという野田回想メモよりはずっと理解しやすい。記者が「報道されれば花嫁さんが殺到しますよ」と強引に勧誘したというよりは、二人が新聞に伝えられなくて不満に思っているという動機があったとする方がずっと自然である。
具体的な会話のセリフは野田回想メモの方が遙かに多い。しかし、10年以上前のことを野田のように克明に覚えている方が異常である。浅海元記者は覚えてもいない会話の内容は語らなかったということである。
2.向井、野田の無錫以後は遭ったことがないという主張は通るか。
■佐藤振寿証言 『週刊新潮』昭和47年7月29日号
とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”
撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ
”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー
”
と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 |
この証言は新聞に掲載された写真という証拠がある。記者とカメラマンが”常州にて”とその当時キャプションをつけたのだから間違いがない。向井、野田の側にしてみれば、日記をつけてその日の行動を記していたわけではない。また、戦闘が主で記者への報告はあくまでもその余のことであるから、記憶は不確かである。彼らが忘れていたのは確実である。
ここで佐藤証言を検証すると、会話が生き生きとしており、地の文章なしでも会話だけで自然な繋がりがあるのがわかる。太文字で示した太文字部分だけを読んでみてほしい。話の流れもスムースである。
【導入(証言、話の発端)】常州、宿舎、社旗、 【転回点として】浅海さんが・・・飛び込んで来た、”へえー”、 【主題】写真を撮った、 【派生したエピソード】タバコをプレゼントした |
記憶の核、キーが明瞭にあるのがわかるだろう。例え、写真が新聞には載ったという盤石の証拠がなかったとしても、この証言だけで出遭った証明としては申し分ないものである。
ところで、野田メモも浅海記者の回想でも、邂逅した場所を無錫としているが、二人の記憶違いで実際は佐藤振寿の証言のように常州である。
3.「記者が向井たちを見つけたはずはない」は成り立つか
向井は申弁書において無錫以来、記者たちに遭っていないことの論拠として次のことを挙げる。
■向井の申弁書より抜粋
(三)向井がきいたところでは、記者たちは無錫より南京まで自動車で行ったはずで、第一線で取材したはずはないと信じている。 (四)7.記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない。 |
まず、記者と一回しか会っていないはずの向井が、なぜ記者が自動車で行動しているということを知っているのか、そこまで記者の行動に関心を持っていたということ自体が不思議である。もし、自動車で行動しているということを聞き知ったとしても、すべての行程において自動車を利用するという保証がないのに遭っていないことの証明としてそのようなことを持ち出すのか不審に思う。
では、記者が向井とあったときのことはどう書かれているか。
■東京日々新聞
、大阪毎日新聞 (テキスト解析 を参照)
2回目の記事 1937年12月4日付朝刊
記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。 |
記者だって忙しい。戦闘の記事は百人斬りばかりではなく、多数送った記事の一本が百人斬り競争であったに過ぎない。浅海、光本らは富山部隊を求めて歩き回ってばかりいるはずはない。兵士たちもそれなりの速度で歩いているから、記者が「富山部隊を追ひかけ」て歩いても追いつくことは難しい。「富山部隊を追ひかけ」たときはおそらく自動車に同乗してのことであろう。そして道すがら、社旗をなびかせて走る車に向井のほうから声をかけてくる、という方が自然な成り行きである。このときの記事は結構、量がある。これだけの聞き取りをするには車をいったん降りて隊列の中の向井に歩きながらいろいろ取材したはずである。この日の記事は割に長い。この日は「丹陽入場」、「一番乗り」というテーマがあったから、その件でも向井たちからもインタビューをしようとわざわざ車を降りて追ったのであろう。
一方、野田は麒麟門東方の再会について証言している。
■野田回想メモ
野田ハ麒麟門東方ニ於テ、記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ。 記者「ヤアヨク会ヒマシタネ」 野田「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」 記者「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬リ競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明) 野田「ソウデスカ」 記者「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。 |
この邂逅において記者の方は戦車に載ったままである。きっかけのところは書いていないが、このときにおいても、野田が社旗を掲げて走る戦車を見つける方が容易である。このときは長いインタビューにするようなテーマがなかったので車を降りなかったのだろう。
この会話では、記者が野田に対して愛想を振りまき、野田は通常の挨拶だけを交わしたことになっている。しかし、ただの挨拶とお愛想を交換しただけの会話をこれだけ鮮明に覚えているものだろうか。野田の側で自分の「戦果」を報告に及んだのではなかろうか。野田が戦車に乗った記者を認めて近寄って声をかけ、それに応じて記者が戦車の運転手に「ちょっとだけ話しをさせて下さい」という流れを考えると、野田はもちろん、ここでは伏せるしかないが、戦果を言ったと考える方が自然である。
そして、決定的な反論が浅海元記者の無錫における邂逅の最後の部分の証言である。
■『ペンの陰謀』より浅海一男の証言
>両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。 |
実際、二人の少尉の百人斬り競争の経過をどのようにして知ることが出来るかというと、これ以外に考えられない。私は並立し、互いに排除するふたつの証言のうちのどちらかの証言を任意に選ぶということをしているわけではない。なぜ、この証言を真実と見るか、というと、「どうやって、経過を知ることが出来るのだろう」という疑問の明快な謎解きになっているからである。これと対照的に向井の反論は単に説明、言い訳のレベルであって、そこには「発見」「謎解き」というものがない。この「発見」「謎解き」の要素というものは見方を変えれば「真実の告白」に通じるのである。
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