『ティンパーリーの謎』を嗤う その1                   2003/10/05 初回上網  2003/10/21 最新改訂                                           

この章は北村本の中核をなしている。ティンパリーが国民政府の国際宣伝処の意を受けて"WHAT WAR MEANS"を著した、その著書が南京事件の認識の骨格を作った、すべては"WHAT WAR MEANS"に始まる、というのは研究開始前から北村が決定していた予定原稿であった。

1.Timperleyは謎の人物か

彼はティンパリーの経歴を調べてThe Dictinary of National Biographyに見あたらないとなるとすぐさま正直に告白する。

#ティンパーリーの背景が解明できなければ、筆者の「南京事件」研究は出端を挫かれたも同然である。pp30

(Timperleyは i に accent があるので、実際の発音はティンパリーと短く読む方が原音に近く、私の原稿はティンパリーとの表記にしています。しかし、引用する場合は原文のティンパーリーのママとしています。)

■どういうことですかね、この意味は?

北村は「南京事件」の認識はティンパリーによって作られた、と言うんだ。しかも、それはこの北村本を書く前から思っていたということだね。どうやら、鈴木明なんかのネタ本が頭にあるらしいのだけど、彼はそれは伏せている。ページは前後するが、彼が疑問を抱いたのは"WHAT WAR MEANS"の出版元に対する疑問だそうだ。

#筆者はWHAT WAR MEANSの内容分析よりも、レフト・ブック・クラブの解明に勢力を注いだ。pp28

この後に続く北村の主張をまとめると、

WHAT WAR MEANSは左翼の読書サークルであるレフト・ブック・クラブの叢書として出版されている(レフト・ブック・クラブで興味のある本をゴランツ出版に作ってもらって作って会員に配布していたという形になる)。また、出版元のゴランツはレフト・ブック・クラブの叢書として出版する他、一般書として出版していた。出版元のゴランツ書店はラスキなどの左翼知識人がやっていた。レフト・ブック・クラブの影にはイギリス共産党やコミンテルンが居た。

ということだね。

■ティンパリーは左翼組織に関係していたように読めますが。

いやいや、北村は「左翼組織に関係していた」などという表現は一切使っていない。そういう証明もしていない。ただほのめかしているだけです。

■しかし、レフト・ブック・クラブは左翼組織ではないのですか。共産主義の息がかかっているのではないですか。

レフト・ブック・クラブはラスキ、ゴランツなどによってイギリス国内のファシズムの台頭に抗するために作られた、読書サークルです。

ラスキは高名な政治学者であり、ハーバード、イェール大学などでも教鞭を取っています。著名な社会主義者であり、後にイギリス労働党の議長に就任しました。イギリス労働党が共産主義とはつながりがないのは常識です。以下のサイトでラスキ、レフト・ブック・クラブのことが読めます。
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/TUlaski.htm

■確かに、これを読むとイギリス共産党やコミンテルンとの結びつきがどうこうとはとても読めませんね。

北村は「左翼の出版社から本を出した」ということだけをもって「共産主義の国際戦略に関係していた」ということをほのめかしたのです。

#筆者はティンパーリーの著作の背後に当時の国際政治が存在したことを確信し、「ティンパーリーは一介のマンチェスター・ガーディアン特派員ではなく、何らかの背景を持つ人物である」という思いを強くした。pp28

「著作の背後に当時の国際政治が存在した」、「一介のマンチェスター・ガーディアン特派員ではなく、何らかの背景を持つ」−非常に曖昧なほのめかしだけの言い方です。どういう具体的な「背景」、「背後」があったかというと、それは言っていないのです。これから先も出てこないのです。

彼の論述内容の第一弾はこんなとこです。この部分で重要なことは論述内容そのものではなく、研究方法であって、本の中身の分析はそっちのけと正直に書いていることです。ティンパリーが国民党宣伝部の意図を呈したとするならば何をおいても、本の中身を分析して、南京事件の実態の乖離を検証するのが当然でしょう。ところが出版元の方が重要だと言う。この先も本の中身については一切検討していないのです。

■本の中身より、出した出版社が重要というのは驚きますね。

ついでに、洞富雄氏が出版元を「解題」で隠した、という非難までしていますが、これはに到っては常識を疑います。


2.誤読の始まり−ティンパリーと国民党国際宣伝部

■しかし、ティンパリーと国際宣伝部の結びつきは明確になりましたよ。

そうですか? それは何によって明確になりましたか?

■彼はたまたま、『近代来華外国人名辞典』から国民党との結びつきを発見しています。

すると意外や意外、
「Timperley,Harold John 1898-田伯烈、オーストリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。一九三七年 廬溝橋事件後国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」
とある。これは要するに、ティンパーリーの著作の背景には国民党の宣伝戦略が存在したということではないのか 。pp31

注)北村訳は「欧米に派遣」となっているが、これは誤りで中国語原文では英美(イギリスとアメリカ)である。以下では「英米に派遣」に改める。

#ティンパーリーが日中戦争開始直後から国民党の対外宣伝戦略に従事したと明言し、その著作であるWHAT WAR MEANSと国民党の戦時国際宣伝との連携を示唆するのは、『近代来華外国人人名辞典』のみである。pp33

■これはどうです。大いに疑いが濃くなったとは思いませんか。

そうは思いません。この部分は多くの問題を含むところです。『近代来華外国人名辞典』の記載を、下のように読みて替えているわけです。

.「廬溝橋事件、」 → 「日中戦争開始直後
.「国民党政府により英米に派遣され宣伝工作に従事」 → 「国民党の対外宣伝戦略に従事」
.「その著作であるWHAT WAR MEANSと国民党の戦時国際宣伝との連携を示唆する」 の一文が付け加わる。

■ほとんど同じじゃないですか?

大きな違いがあります。

1.「廬溝橋事件、」 → 「日中戦争開始直後
中国語の「〜後」という言葉はその後何年まで含むか、予断を許さないのです。この辺は日本語の感覚と違います。

たとえばこの文章の冒頭に「オーストリア人、第一次大戦後来華、」とありますが、第一次大戦後といえば1918年とか1919年というのが日本語の感覚ですが、ティンパリーが中国を中心に報道活動を始めたのは1921年、北京に駐在し始めたのは1928年なのです。
私が読んだ本の例を挙げますと、『南京人口志』という本を読むと、辛亥革命後、・・・した、と書いてあるときに、革命後十年も二十年も後のことも平気で「〜後」に含まれるのです。

■ほー。中国語の習慣ですか。つまり、英米で「宣伝活動」を始めたのは1937年7月の廬溝橋事件後のずっとあとかもしれないということですね。

私はそう思っています。

■しかし、〜後というのは、直後も含むことがあるわけですよね。もしかして、1937年の7月に突然、国民党中央宣伝部に秘密裏に勤めることが決まったのかもしれませんよ。

資料にはないのでそのことを直接には否定も肯定もできません。今ある資料でもっともあり得ることを想定するしかありません。

記事の内容は「国民党政府により英米に派遣され宣伝工作に従事」ですが、当時英米を廻るとすれば数ヶ月かかります。彼はマンチェスター・ガーディアンの記者であって、しかも、新聞社と新聞記者にとってもっとも重大な事件である日中間の戦争が始まっているわけです。この時期何ヶ月も中国を離れて本業以外のことをすることを新聞社が許すはずはありません。

彼が「廬溝橋事件【直】後、国民党政府により米英に派遣され宣伝工作に従事、」したとするには彼自身の私生活から見てかなり無理があります。すなわち、廬溝橋事件直後に結婚し、上海に住みはじめました。また、10月には同盟通信社の松本重治氏、ジャキノ神父とともに南市安全区の設立に奔走しています。
10月以後に米英に派遣されたというのも、1月初旬にはチャイナ・デイリー・ニュースの検閲の件で上海にいたことが明らかですから、これも無理な話です。

■なるほど、少なくとも英米に派遣されたのは戦争勃発直後ではないですね。新聞社が理解して便宜を図らないと無理ですね。これはちょっと考えられない。

2.「国民党政府により英米に派遣され宣伝工作に従事」 → 「国民党の対外宣伝戦略に従事」

まず、注意しておいて欲しいのですが、日本語で「工作」というと、相手には知られず、こちらの思うようにし向けることをいいますね。しかし、中国語の「工作」という言葉は英語のactivity、actionに近い言葉です。また、日本語では「宣伝」というのも事実とは異なること、事実より誇大に物事を広く伝えるというニュアンスがつきまといますが、中国語ではもっとニュートラルな感じで、anounceに近いニュアンスです。

したがって宣伝工作に従事」とは広報活動と宣伝戦略活動のふたつの可能性があります。原文は「国民党が派遣した」ということは書いてありますが、宣伝の内容について国民党が決定していたとは書いてありません。これに対して北村解釈の「国民党の対外宣伝戦略に従事」とは宣伝活動の内容を国民党が規定したということを意味します。それまでの北村の論述にはそのことを証明する記載は一切ありません。何回か同じ推定を書いたあとは断定し、ページが進むとさらに新しい内容が付け加わるという展開です。

■記述内容は微妙にエスカレートしていますね。

.「その著作であるWHAT WAR MEANSと国民党の戦時国際宣伝との連携を示唆する」
−p31で自分で「著作の背景には国民党の宣伝戦略が存在したということではないのか」 と振っておいてあとで断りもなく肯定しています。これも行が進めば勝手に内容が増えているという例です。

■なるほど。飛躍がありすぎるということですね。

したがって北村は
1.ティンパリーがいつから「宣伝工作に従事」したのか、確認しなければなりません。
2.宣伝工作の内容について、事実と違うことや事実を誇張したことを国民党宣伝部の意を受けて宣伝したという証明をしなければなりません。

1、2をはっきりと証明しない限り、以後の考察はどこまで行っても砂上の楼閣なのです。

■確かにティンパリーが宣伝工作に従事し始めたタイミングが重要です。これがWHAT WAR MEANSを書くより早ければ、国民党政府のために書いた可能性も出てくる。

いいえ、タイミングだけで決まる問題ではありません。「国民党政府のために書いた」というためには、国民党政府の宣伝戦略が何であり、著作の内容がどうであるかという検証が必要です

■彼が国際宣伝処の顧問にまでなるほど関係が深い以上、著作と国民党の宣伝戦略の関係は考えられてしかるべきではないですか。

彼が宣伝部顧問に就任したのは1939年のことです。WHAT WAR MEANSを書き上げたのは1938年4月のことです。したがって、顧問に就任したことはWHAT WAR MEANSを書いたことには何の影響も及ぼしていません。

■新聞記者は情報工作に関与しやすい、とありますが、これはどうですか。

#日本人の場合は例外であるが、「世界の常識」に従えば、新聞記者はその性質上、情報工作(諜報といってもよい)と容易に関係してしまうものである。pp34

「新聞記者だから情報工作員を疑う根拠にする」というのはかなり無理があります。第一に新聞記者の中で情報工作員であるものの数というのは非常に限られているからです。

北村が挙げるロイター通信の例はイギリスの記者が自国が有利にな傾向の記事を書くことです。これはどこの国でも意識的あるいは無意識的にしていることで本来の情報工作ではありません。

記者が自国への愛国心が背景にあって情報工作に関わることは最も多いケースでしょう。新聞記者が国に限らず、ある特定の企業、勢力に金をもらってそれらに都合のいいねつ造記事を書くということは報道が未熟な段階のうちはしばしば起こったことです。

しかし、資本主義、民主主義の発展とともに報道機関が国家からも相対的に独立するようになり、いわゆる報道の自由が確立されるようになると、極端なねつ造記事は他の報道と比較されて批判を受け、信頼を失うようになりました。

日中戦争初期のこの時期、報道が情報機関と密接な関係を保っていたのは日本を含む全体主義国家でした。日中戦争中、日本の報道関係者の中に「宣撫」のため、あるいは海外向けに、ニセの情報を流していました。

この時期において、ロイター通信などの記者が自国の情報機関ではなくして、特派先の国に金で雇われて情報工作をする、ということは「新聞記者だから情報工作員を疑う根拠にする」という薄弱な推定の中でももっとも可能性の低い事例に属します。

北村が情報工作者だという、他の論拠は

1.The Dictionaty of National Biographyに記載されなかったこと。
2.情報工作者は身元を隠すこと。
3.南京や東京の法廷には出席せず、姿をくらましていたこと。

ですね。

1.のThe Dictionaty of National Biographyに記載されなかったこと。これは編集部の方針もあるでしょうから、記載されないだけでスパイだったなどと言えません。
2.情報工作者は身元を隠すこと。これはタイムズに死亡広告に彼の主な経歴が出ています。これでどこが身元を隠したと言えるでしょう。北村が「身元を隠した」というのは情報工作者であることがどこにも載っていない、ということを指すようですが、どこにも載っていないから情報工作者に違いないというのは「同義語反復」です。
3.南京や東京の法廷には出席せず、姿をくらましていた。−もともと、ティンパリーは南京事件の目撃者ではなく、目撃者たちの書いたドキュメントの編著者にすぎません。裁判は目撃証人を呼ぶものです。南京、東京の裁判のときは国連職員として働いてたことが分かっています。姿をくらましていたなどはお笑い草です。

■うーん、これは思いこみが強すぎますね。北村の「中国スパイ説」は根拠薄弱にすぎます。
しかし、孫瑞芹は独自情報を持っていたという説を述べていますが。

その「独自情報」というのが【ティンパーリーが日中戦争開始直後から国民党の対外宣伝戦略に従事した】、【"WHAT WAR MEANS"と国民党の戦時国際宣伝との連携】のことのようですが、孫はもともとそんなことを言っていないのです。

孫とティンパリーの接点は北京にいたとき、同じロイター通信に勤めていたということだけです。北村によれば、ティンパリーが中国の情報工作員になったのは上海に移ってからのことになるわけですが、そのように接点が小さくなって、しかもティンパリーひた隠しにするはずのことが孫にだけわかってしまうというのもおかしな話です。

■説得力0!(笑い)

ついでに【セオドア・ホワイトの証言】の錯誤を指摘しておきましょう。

#宣伝目的で作られた写真や誤記された数字が一人歩きして「事実」となる部分は、戦時宣伝が「歴史事実」を形成する実例として甚だ興味深い。pp60

ホワイトは中国人女性ゲリラが日本軍のいる劇場に爆弾を投げたという誇張された記事を提供したところ、彼女の写真を要求されその写真を提供せざるをえなくなった、という例を挙げる。

これは読者や記者に期待される話を作ってしまうという例であって、戦争目的を達成するために記事を創作するというのとはまったく異なる話である。また、この例では実際にあとで記事の訂正を行っており、決して女性ゲリラの伝説が「歴史」になったわけでもない。そもそもそのような些細な伝説はもともと「歴史」を構成するような話とは言えなかった。

■とすると、「ティンパリーの謎」というのは何だったんでしょうか

北村はティンパリーの人物像を様々に描きだしました。出版元からは共産主義の影をほのめかした。新聞記者は容易に情報機関と関係してしまうと印象づけた。『近代来華外国人名辞典』の記述からは国民党政府の宣伝戦略に奉仕するものという人物像を組み立てた。

しかし、これらはお互いに両立することではない。例えばこのころのコミンテルンの国際的政策は人民戦線戦術であり、中国でいえば、その具体化は国共合作である。帝国主義国であるアメリカをファシスト国家である日本との戦いに参加させるという発想はまだ存在しなかった。

新聞記者が情報機関の誘いを受けて働くとすればイギリスの利益を計ることを意味するが、イギリス政府は1938年になってもまだ、日中の調停を真剣に働きかけていた。イギリスの関心は対ドイツ政策にあり、国民の関心が無法な日本に向けられるとすればむしろ迷惑なことであった。

中国から雇われたとすれば、その立場は共産主義者像や、自国の情報工作員像とは絶対に両立しない。北村はいったい、どの像を主張するのであろうか。最終的には中国の情報工作員像を提示するのだが、それならば共産主義の影をほのめかしたり、新聞記者=工作員説を流した目的はなんだったのだろう。
■どういう意味があるんですか。

つまり、読者にこいつはなんか怪しいぞ、という印象を盛り上げることができればそれでよい。そういう手法です。きっかり証明しようとすると壁にぶつかる、矛盾する。だから、何度も影がある、ただものではない、とほのめかすだけの方が都合がいいのです。

3.曽虚白自伝の読み方−国民党国際宣伝処の成立

p36-44は主として資料の紹介が続く。興味ある事実が述べられている。

    『抗戦時期重慶的対外交往』
「一九三七年十一月、国民党中央党部と国民政府軍事委員会が改組されて[国民党]宣伝部が成立し、その下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処が設けられた。中央宣伝部副部長の董顕光が対外宣伝工作をとりしきり、曽虚白が宣伝処長となった」

■これからどういうことが読みとれますか。

1937年11月というと日本軍の抗州湾上陸によって中国軍の防衛戦が崩れ、一挙に劣勢に立たされた時期です。国民党は南京から武漢を経て重慶に遷都し、日本軍を内陸部に引き込んでも戦争継続を決意しました。陸戦での劣勢を挽回するためにアメリカ、イギリス、ソ連に中国に対する援助ないし、日本への制裁ないし、対日戦への参加を呼びかけるべく、対外宣伝に力を入れることを真剣に検討しはじめました。

その結果が宣伝部と国際宣伝処の設立です。とすれば、廬溝橋事件が局所的な衝突事件か、日本の全般的な侵略戦争かもわからない時期に宣伝活動を強化したと考えるよりは、劣勢にたって初めて国際宣伝に力を入れ始めたと考える方がはるかに合理的ですね。大状況から考えると国民党政府とティンパリーとの接触はどう考えても宣伝部、国際宣伝処の成立の後でしょう。これはあとで証明します。

     曽虚白自伝の引用
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。そういうわけで彼が[南京から]上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口[南京陥落直後の国民政府所在地]に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリーとティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい印刷して発行することを決定した。[中略]このあとティンパーリーはそのとおりにやり、[中略]二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的をたっした。    []は北村による

北村は書く。

#以上に明らかなとおり、「南京事件」をいち早く同時代の世界に知らしめたとして最重要視されている二つの英文資料の背後には国民党国際宣伝処が控えていたことが確実となった。p44

■北村が極めつけの資料とする曽虚白自伝ですね。ティンパリーが国際宣伝処から金をもらって本を書いたのは明らかになったのではないでしょうか。

ふーん、表面的にはそんなことが書いてありますが、文章の意味するところはキチンと把握する必要がありますね。では、自伝の文章を解析してみましょう。

(1)曽とティンパリーがどのような会見をしたのか、この記載からは見えて来ない。

【直接に会って全てを相談した】会うと言えば普通、直接会うことをいいます。ここで【直接】と強調するということは、それまで会ったことはなかったということです。

【全てを相談した】−何について【全て 】を相談したのでしょう。その【全て】の内容はこの後の文章で出てくるのかなと思って先を読むと・・・・。
【我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網を決定した】−一読すると、主語の【我々】は曽とティンパリーのことかと思ってしまう。しかし、ティンパリーが仮に国民党の何らかの宣伝戦略に荷担するものであったとしても、国際宣伝処の職員ではありません(職員録にはティンパリーの名前はありません)。【初期の海外宣伝網を決定】するのは当然、国際宣伝処のスタッフです。とすると【我々】の中にはティンパリーは入っていません。

【我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した】【ティンパリーは理想的な人選であった】ここまで読み進んではっきりしました。これは中国人同士の話合いの内容を示します。つまり【我々】とは国際宣伝処のスタッフのことでした。

ティンパリーとの会見の話だと思って読んでいると、いつのまにか、宣伝処の設立当初の話にすり変わっているのです。つまり、 【直接に会って全てを相談した】まででティンパリーとの会見の話は終わっているのです。

ウソ、大げさを書くときに、肝心なところで言うべき内容がないときは、違う時期、別の事例をスライドして挿入するということがよく行われます。この文章がその例です。全てを相談したなどと言いますが、その実質的な話し合いの内容はなかったということを示します。

■なるほど、曽がティンパリーと話したようには思えないですね。

(2)ティンパリーとスマイスに依頼した経過が不明である。

【かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリーとティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい印刷して発行することを決定した】 −この文章は時間を故意に曖昧にして書いてある。いったい 【決定した】のはいつでしょうか。

(1)前の文章から読んでいくと 【かくして我々は手始めに】 は宣伝処設立当初の決定(1937年11月)のように読める。
(2)しかし 、【南京大虐殺の目撃記録】 を書いてもらう決定をするためには曽らが、南京虐殺のアウトラインを知らなければならない。アウトラインが南京から漢口に伝わるのは1月下旬以降のことです。
(3)また 、【二冊の本を書いてもら】 うと決定するにはティンパリーやスマイスの意欲、準備状態を知らなければならない。本人たちが書こうと表明した時期はそれぞれ1月、2月です(ただし、北村がそれをいつと主張しているかは不明ですが)。
(4) 【印刷して発行する】 決定するには出来上がりを読んでみて、宣伝目的にふさわしい本であると納得しないとできない。出来上がりはどちらもほぼ4月

宣伝処で決定すれば何でもその通りにことが運ぶわけではない。ある方針を立てても、情勢が思うようになるか、人が思うように動いてくれるかによって実際の決定は何段階にもわけてなされるはずです。ところがこれらの【決定】が一回でされたように書かれている。曽はティンパリーやスマイスに対して超越的な力を行使できたのでしょうか。

■文章の解析から、(1)ティンパリーとの会見の内容が書かれていない。(2)ティンパリーらに本を書いてもらうに至った経過も書かれていない、ということがわかりました。しかし、なぜ曽虚白がティンパリーとすべて話したというようなウソを言うのですか。なぜ、曽が本を書いてもらう経過をあいまいにする必要があるんですか。

これは曽虚白の『自伝』です。だれしも引退に際し、自分の業績をなるべく大きく描こうとするじゃないですか。そのため自分の関与は本当はわずかしかなかったけれど、ティンパリーに本を書かせたのはこの私、曽虚白でしたよ、と言おうとしたのです。

(3)自慢に終始する自伝の語り口

■曽虚白がウソ、大げさを言ったという証拠がありますか。証拠があればあなたの解析を信用しましょう。

その前に、もう少しだけ我慢をして、文章の書かれた調子がどういうものか見てください。その後で証拠を提示しましょう。まず、この文章を読んであなたはどう感じますか。

【ティンパーリーは理想的人選であった】 −自賛の言葉ですね。
【かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリーとティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい印刷して発行することを決定した

【金を使って】 −曽が「自分の力でさせた」ということを強調する意味があります。また、 書いてもらい印刷して発行することを決定した−決定権がすべて自分にあるような書き方です。曽が決定しようと、あるいは金を積もうと、人々を感動させたり、なんらかの行動に駆り立てる力のある本とを書くという仕事は、本人がその気にならないと書けないわけです。

【 このあとティンパーリーはそのとおりにやり、】−  自分がすべて支配しているような感じです。【二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的をたっした。】−大成功という自賛です。どうですか。

■なるほど、自己宣伝くさい文章です。

(4)ウソ、大げさの証拠

では、曽虚白がウソ、大げさを言ったという証拠を提示しましょう。

まず第一にティンパリーと「すべてを話した」はずの曽が、《 ティンパリーは南京事件の間、南京にはいなかった》ということを知らなかったという事実です。

北村の引用部分の前には次のような文章があります。

      『曽虚白自伝』より
「剛巧有両個外国人、留在南京目睹這惨劇的進展;一位是英国曼徹斯特導報記者田伯烈,一位是美国教授史邁士。」[『曾虚白自伝(上集)』p.200] (巧まずして二人の外国人が、南京に滞在しこの惨劇の進展を目撃した、一人はイギリスのマンチェスター・ガーディアン紙の記者ティンパーリーであり、もう一人はアメリカのスマイス教授である)

南京事件の間、南京に滞在していた外国人の名前はすべて記録にありますが、ティンパリーの名前はありません。ティンパリーは1937年12月末から1月初めにかけて、漢口で取材をしています。(渡辺さんによる大サービス:『曽虚白自傳』アップ )
ですから、【日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい】のうち目撃記録という部分はウソなのです。これを知らないのは曽みずから、ティンパリーと交渉したことがない証拠です。

ところで、なぜ曽がティンパリーが南京に滞在して事件を目撃したと書いたかについて渡辺さんは次の推論をしています。

なお、南京にティンパーリーがいたという誤った情報が、中国側文献に往々にして現れるのには理由がある。ティンパーリーの原著と中国語訳『外人目賭中之日軍暴行』には、いくつかの異同(違い)があるが、南京事件について冒頭の序文がこのようになっている。
 去年十二月間、日軍攻陥南京后、対干中国的無辜平民、槍殺姦淫虜掠、無所不為。我以為身為新聞記者、職責有関、曽将所見所聞的日軍暴行、擬成電稿、拍発<<孟却斯徳道報>>(MANCHESTER GUARDIAN)。
(昨年一二月、日本軍は南京攻略に際し、中国の無辜の良民に対して、虐殺、強姦、掠奪等あらゆる暴行を加えた。余は一新聞記者としての職責から見聞した日本軍の暴行記事をマンチェスター・ガーディアン紙に打電しようと思ったが・・・)

これを読めば著者であるティンパリーが南京で事件を見聞したと読者は誤解するであろう。しかし、英文原書にはこのように書かれていない。

楊明の訳は原意を正確に把握しないままの意訳が多いようです(早く言うと誤訳)。原文との相違点は序文に止まらず、本文中にも多数あります。つまり、曽を含む中国人たちは既に翻訳されたティンパリーの著作を読み、その後にティンパリーと接触したと考えられます。


第二に、もっと問題なのは、ティンパリーを介して、スマイスにまで本を書かせたというところです。

      「中央宣伝部国際宣伝処工作概要(二十七年迄三十年四月)」
対敵宣伝本の編集製作(対敵宣伝品之編製)の「1単行本」
「本処が編集印刷した対敵宣伝書籍は以下の二種類である。

A『外人目睹中之日軍暴行』
 この本は英国の名記者田伯烈が著した。内容は敵軍が一九三七年十二月十三日に・・・[以下略]
B『神明的子孫在中国』
・・・・」

曽虚白が「ティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい印刷して発行することを決定した」と書いたスマイスの本は国際宣伝処が印刷・発行した本のリストにない。つまり、曽虚白自伝は自分を大物に見せたいがためのウソ、ハッタリで書いているわけです。

■いやあ、参りました。それにしてもこの証拠はいったいどうやって見つけたのですか。

これは東中野修道が「正論」平成15年4月号に書いた、「特報 南京『大虐殺』を覆す決定的証拠を発掘した」によります。彼は実によく調べてくれました。

■それは皮肉ですね。曽が書いたのはウソ、はったりで、曽がティンパリーに書かせたのではなかった。

3.事実はどうだったのか−国民党政府とティンパリーとの接触



初めに言いました、国民党政府とティンパリーとの接触の時期を推測する文献が出てきます。

      「曽虚白自伝」より
「我々はティンパリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの陰の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシフィック・ニュースサービス(Trans Pacific News Service)の名のもとにアメリカでニュースを流す事を決定した。同時に、アール・リーフ(Earl Leaf)がニューヨークの事務を、ヘンリー・エヴァンス(Henry Evans)がシカゴの事務を、マルコム・ロショルト(Malcolm Rosholt)がサンフランシスコの事務を取り仕切ることになった。これらの人々はみな経験を有するアメリカの記者であった。[中略]我々の宣伝はアメリカに重点をおいたが、英国と香港の持つ、宣伝上の通路としての役割にも留意した。上海の持っている、敵後方との連携工作の場所という役割にも留意しなければならなかった。[中略]夏晋麟に要請してロンドンではトランスパシフィック・ニュースサービス(Trans Pacific News Service)駐在事務所の名前で宣伝組織を設けさせた」

この部分は宣伝工作の最後にでてくる、すなわち"WHAT WAR MEANS"の出版のあとに海外での報道網をティンパリーが作った。 『近代来華外国人名辞典』にいう【国民党政府により英米に派遣され宣伝工作に従事】というのはおそらく、このことを指します。

北村説では「孫は廬溝橋事件後の早い時期に国民党の宣伝戦略のためにティンパリーが海外に派遣されたことを知っていた」としています。外部のものまでが知っていたはずのティンパリーの重要な前歴について、曽は一言も触れていません。そのかわりにその後に起きたトランスパシフィック・ニュースサービス設立の話は詳細を究めます。とすれば、海外派遣というのはこれしかありえない。

つまり、著作の問題以前には国民党政府から派遣された事実はなかった。著作の発行に関する交渉のあとに国民党政府から依頼され、香港、アメリカ、イギリスと伸びる海外の通信網を立ち上げた。これはジャーナリストであるティンパリーが上海からは失われた中国報道の発信手段を確保する道だった。

■海外宣伝網の話とは別に国民党との結びつきが出来た可能性はありませんか。

ある時期に対して資料がない限りは、どのような推測も可能性はあります。しかし、歴史学というのはあらゆる可能性の内で現在ある資料からもっとも可能性の高い推定、合理性の高い解釈をして歴史像を作ることをするのです。

(1)国民党政府が上海−南京戦において敗勢がはっきりしたときから他国の仲介・支援を求め、対外宣伝活動をはじめた事実。

(2)南京における日本軍の暴行を知る以前にはティンパリーが中国を支援しようという動機があると推測するのが困難なこと。

この事実を元に考えるとき、ティンパリーが著作以前に国民党政府と結びついていたと考えるのには非常に無理があります。

■では、ティンパリーと著作の発行について実質的な交渉をしたのは誰だったのでしょうか。

一九三七年十一月にあわただしく宣伝処の組織が発足したとき曽は国際宣伝処のトップでした。しかし、十二月には董顕光が中央宣伝部副部長として彼の上にきます。さらに上には中央宣伝部部長の郭沫若がいました。曽とティンバリーの接触というのが否定されたわけですから、ティンパリーと交渉したのは、董顕光か郭沫若のいずれかでしょう。この時期、国民党員のスタッフと共産党員のスタッフは激しい主導権争いをしています。そして、著作に序文を寄せたのが郭沫若だったということは、彼が最終的に国民党員の部員を押しのけ、ティンパリーとの交渉に当たった可能性が大です。

■著作は依頼したから書いたのですか。書き上げてから出版を援助したのですか。

ティンパリーが書こうと決意したのは電文検閲事件のあとで、一九三八年四月までに書き上げます。上海在住の楊明というひとがティンパリーの著作のことを知り、原稿の副本からこれを翻訳し、この原稿が漢口にもたらされます。

■先ほど渡辺さんの推論を示したとおり、多くの中国人がティンパリーが南京で事件を目撃したと誤解したということは原稿を読んで依頼したということになりますね。

この本を評価し、出版を決定したのは郭沫若でしょう。そして中国語訳本である『外人目睹中之日軍暴行』、とそのカルカッタ版を出版しました。もちろん、ロンドン版である(What war means: the Japanese  terror  inChina;  a documentary  record, London, 1938, 228p.)やニューヨーク版である(The Japanese terror in China, New York, 1938,280 p.),はこの著作の価値を理解したゴランツ書店などの出版社が出版したのは明らかです。宣伝処からティンパリーに金は渡ったでしょうが、著作権に対してお金が払われるのは当然です。

ところで曽が自伝を書いたときには、彼の上に立っていた董顕光、郭沫若はすでにこの世にいません。まして、郭沫若は共産党員であり、敵側の人間であるから、彼の業績は書き残すいわれはまったくない。むしろ抹殺するのは国民党員としての義務でさえあります。すべて曽が自分のことのように書いて置こうと思うのも無理からぬことです。


■北村がティンパリーを国民党の情報工作者だと決めつけたのは誤まりだというのはよくわかりました。私もすっかりだまされていました。それで気になるのは、なぜ北村は誤ったかということです。

それは北村が最初にティンパリーの著作の中身の検討をしなかったからです。情報工作に関わるということは1.あえて事実を曲げて報道し、2.それによって国民党政府に資するということです。ティンパリーの著作内容は日本軍の暴行を告発する内容で当然、国民党政府に有利なものになっていました。したがって、著作内容が事実を曲げたものかどうかが、情報工作に関わったかどうかの判断材料になります。しかし、北村は中国政府に有利だから、という一点で疑ったことになります。これでは正しい判断はできません。

もし、著作内容が真実の場合は情報工作に関与している疑いを持つ正当性はありません。新聞記者として正確な報道をするのは義務であり、金をもらわなくてもそうするので特に国民党政府が工作をする必要がないからです。

著作内容が虚偽の場合は情報工作に関与しているという嫌疑を持たれて当然です。誤報の場合は別として、継続的・系統的に虚偽の報道を行い、その報道が常に国民党を利するものであれば工作の可能性が高いということになります。

著作内容が真実かどうか検証することは一般には非常に困難な作業です。しかし、ティンパリーの著作は、南京の国際安全委員会のメンバーだったベーツ、フィッチらの報告の編著であるのですから、ティンパリーが虚偽を書く余地はありません。ティンパリーが書いたのは序文、彼らの原稿の前に付け加えられた解説と最後の結論であって、主要部分である暴行の事実について手を加えたのではないのです。したがって、彼らの原稿と照らし合わせればティンパリーの恣意性についてはただちに否定できるのです。

■なんだ、簡単なことだったのですね。

しかも、北村本の早い段階でこういうことが出てきます。

        『曽虚白自伝
我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたずさわる将士たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事蹟であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じ難いほど都合よくいくもので我々が宣伝工作上の重要事項として敵の暴行[の事例]を捜し集めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた。

つまり、虚偽の報道をしてもらう必要さえなく、敵が勝手に宣伝材料を与えてくれたということを言っているわけです。ということはティンパリーに求めるのは真実の報道でいい。ほんの少しの援助をするだけで国民党政府としては十分な対外宣伝の目的を達成できる、ということです。

以上に明らかなとおり、「南京事件」をいち早く同時代の世界に知らしめたとして最重要視されている二つの英文資料の背後には、国民党国際宣伝処が控えていたことが確実になった。ティンパリーもスマイスも、単なる「正義感に燃えた第三者」ではない。その記述には、国民党の外交戦略に「奉仕する部分」が存在している筈である。pp44

北村が【単なる「正義感に燃えた第三者」ではない】と言うところを見ると「正義感に燃えた第三者」という部分は認めるのであろうか。しかし、ティンパリーの記述に「国民党の外交戦略に「奉仕する部分」についてはこの本を隅々まで読んでもついぞ見いだせなかった。

それどころか、ティンパリーの記述がそろそろ終わりかける頃においてこう述べるのである。

当初、筆者は日中戦争中の英文資料には、国民党の戦時対外宣伝政策に由来する偏向が存在するはずだと考えた。しかし、ティンパリーのWHAT WAR MEANS、『英文中国年鑑』など代表的な国民党の戦時対外刊行物には、予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった。残虐行為の暗示や個人的正義感に基づく非難は見られるが、概ねフェアーな記述であると考えてよいのではないか。少なくとも、一読して「嘘だろう」という感慨をいだかせる記述は存在しない。これは、欧米人インテリゲンチアとしての自負や、中国人外交担当者としての矜持に由来するものなのであろうか。あるいはすでに述べたロイター社主の言葉である、「戦時宣伝は半分は本当でなければならない」を実践しているのであろうか。さしずめ宣伝効果とは、全くの嘘でも全くの真実でもない「虚実皮膜の間」に存在するのであろう。pp124

当初・・・偏向が存在するはずだと考えた】−北村は思いこみから研究を始めたことをここで再度告白する。
予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった】−北村は最後になって自分の思いこみが無残に否定された驚きを隠せない。【概ね、フェアーな記述であると考えてよいのではないか】−結局、「国民党の外交戦略に『奉仕する部分』」を示すことは最後まで出来なかったのである。

動揺した北村は最後に取りすがるロイター社主の「半分は真実の戦時宣伝」や「虚実皮膜の間」というレトリックに逃げ込むがその証明もないままに終わる。

北村稔の『「南京事件」の探求』はついにティンパリーの著作に「偏向」、「脚色」を見いだすことが出来なかった。というよりも、著作をまともな研究の対照として読んだのかさえ疑わしい。本の内容よりも、出版社の調査に全力を傾けたという倒錯した探求は、ついにひとつの新事実も歴史に寄与することなくページを閉じるのである。

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