私も小さなとき犬に噛まれ、狂犬病で死ぬと思って、恐怖のどん底に陥ったことがあります。
晩年の子供の主人公程奇怪な行動にはでませんでしたが、やはり、妙にわがままになったり、
逆に皆に親切になったりしていました。
4、5年前も、病気をして「死ぬかも知れない」と思ったときがあったのですが。
やはり、同じように妙にいらだったり、逆に、「皆にありがとうと言わなくては」と、焦ったりしていました。
「死ぬかも知れない」と思ったことって、大人なら必ず1回くらいはあると思うけど、
子供は無い事が多いんですよね。私が始めて「蝉」を呼んだとき、主人公の行動とか、気持ちとかを自分と重ね合わせて考えて、非常に
共感を持ちましたが、生徒の中には、逆に反感を持っている子がいたのが、とても興味深く感じました。
国語って、私は学生時代あまりすきではありませんでしたが、面白いものですね。
山田詠美さんの文章は、描写がきれいで、私は大好きです。
また、機会が合ったら、ぜひとりあげてください。
★ たまぶり ★
ゆきこさん、はじめまして。わざわざ感想をご送信いただき、有り難うございました。私が子供の頃、犬は放し飼いが普通でしたが、近所の犬に噛まれた記憶はたった1件だけだったような気がします。無論、私が忘れ去ってしまっている可能性が大なのですが。ちなみに、お向かいの食堂にはマミ(小型犬・メス)、2軒先の家にはコロ(大型犬・オス)、さらにその隣りにピピ(中型犬・オス)というのが飼われていました。
小さい頃には、その家のカズ坊という子と一緒にコロの小屋で眠り込んでしまったこともあったようです。
私はピピに自分のおやつのパンをあげようとして、彼が見向きもしなかったので持ち去ろうとした時に、腕を噛まれました。しかしまあ、腕についた歯形に驚いたのと、そこに残った唾液が妙に臭かったのを覚えている程度ですねえ。
詠美とほぼ同世代の私ですが、「晩年の子供」に描かれた、件〔くだん〕の少年忍者のアニメは残念ながら思いあたりません。まあ、ゆきこさんも言われるごとく、幼児期・児童期には死というものが理解できませんでしたしね。車に轢〔ひ〕かれたら死ぬというのも、私にはどうも納得がいきませんでした。
病気の経験は確かに自分を見つめる契機になると思います。私は大学を卒業後、初めて入院を経験をしましたが、それまでは自分の身体的・精神的強さに妙な自負と過剰な自信とを持っていたものでした。(武道系の体育会でしたし……。)
読書の楽しさの延長だと考えると、国語の授業も楽しいものになります。一人で或る作品を読んで、自分はこう理解したという事柄を複数のメンバーで突き合わせてみると、意外な≪読み≫が出てきたりもしますからねえ。文学作品を共有し、語り合う楽しさはもちろん教室だけのものではありませんが、それを40人ほどの集団でやってみるところに、国語の授業の醍醐味〔だいごみ〕があると私は思っています。それに、私自身の『読み』がガキんちょども=生徒たちに覆〔くつがえ〕されてしまうことが往々にしてあるのも、新たな発見として楽しいものでした。
なお、4月に『ぼくは勉強ができない』の中の「賢者の皮むき」に高3の生徒たちと取り組んだ授業の実践記録をアップロードする予定です。現在試験運用中のメールマガジンでも配信しますが、ゆきこさんが大学にご在籍(在職?)でしたら、おそらく掲載誌をご覧になることも出来るかと思いますので、記しておきます。この3月下旬に刊行の予定です。
>『同志社国文学』第50号掲載
>拙稿「小さくなった洋服、動態としての自我−山田詠美『賢者の皮むき』の授業−」
◆ 【No.070-2】 RE: Tamaburiburi!!(toYukiko) - ゆきこ1999/03/04/15:51
たまぶりさん、こんにちは。先日感想を書いた、ゆきこです。
わざわざ、返信下さって、ありがとうございます。
昔は、イヌも放し飼いだったのですね。驚きました。
4月になったらまた読みに行きます。がんばってください。