第2回あっちべたこっちべたフェスタ協賛
世間遺産連携イベント
お年寄りに聞く やきもの散歩道の想い出
 〜都市の記憶を求めて〜
            主催:(社)日本建築学会東海支部 都市の記憶委員会
            共催:やきもの散歩道の会、タウンキーピングの会
            協力:京都橘大学 井口研究室
常滑やきもの散歩道に古くから暮らし、この町の変化を見てきた地域に住むお年寄りに、やきもの散歩道の思い出を語ってもらいます。
やきもの散歩道での暮らしの記憶は、今、この町にどう残され、伝えられているでしょうか。私たちはこの都市の記憶を次代へどう伝えればよいのでしょうか。

●日時 2005年10月30日(日) 午後2時〜3時30分
●会場 廻船問屋「瀧田家」 はなれ (入場無料)
●内容 ○お話を伺ったお年寄り: 水野高子さん(92才)、森下尚子さん(80才)、伊藤 実さん(82才)
     ○コーディネーター: 海道清信 先生(名城大学)
     ○コメンテーター:  井口 貢 先生(京都橘大学)他
実施状況
 当日は好天に恵まれ、はなれの和室だけでなく、庭に置いた椅子にも多くの人が座っていただき、盛況の中、お話を伺うことができた。
 司会及び海道先生から、日本建築学会東海支部都市の記憶委員会の活動内容及び今回の趣旨が説明された。
・都市が開発発展していく中で、地域の特徴を伝える建築物や工作物が失われていく現象が各地で見られる。
・日本建築学会東海支部では「都市内に所在する工作物等まちの記憶をとどめ伝えるモノを、地域の人々とともに調査して、新たなまちづくり素材として活かすこと」を目的に、今年度、都市の記憶特別委員会を設置して調査活動を行っている。
・活動内容は、東海地域に残る都市の記憶を伝える工作物の調査を行うとともに、実際に地域の方々とともに、地域に残る記憶を伝える工作物に関する現地調査を行うこととしており、その一つとしてこのイベントを企画した。また、11月23日には名古屋港築地地区で同様の現地調査を予定している。
・今回は、この地域で昔から生活をしてきたお年寄りから、この地域の想い出を聞く中で、都市の記憶を伝える工作物の重要性を考えるきっかけとしたい。
 続いて、海道先生のコーディネートで、それぞれのお年寄りから様々なお話を伺った。
(文中<山本>とあるのは、タウンキーピングの会の山本です。)
●生産と都市の成り立ち
(伊藤さん)
・炎を直接当てる酸化手法による土管づくりが江戸末期に開発され、非常な隆盛を誇った。常滑には周辺の知多半島各地から人が働きに集まり、子供のバイトにも事欠かなかった。
・抹茶文化は急須を必要としない。急須は、庶民の文化である煎茶を飲むための道具であり、生活用品である。
・朱泥は、良い材料で上手に焼くことが求められる。
・登り窯の時代から大正の始め頃、平地窯が開発され、次第に広まっていった。
(水野さん)
・昭和初期頃から、主人が名古屋の貿易商の方と知り合いになり、ノベルティ小物をアメリカへ輸出していた。大仏型の香炉やノッキンガム土瓶などを製造した。
  

●生活と都市の記憶
(伊藤さん)
・製陶業は多くの専門職で成り立っていた。窯を所有する窯屋、ろくろ成形を専門に行う者、土管などの大物をつくるひもづくり、窯へ成型品を運び入れる窯入れ、搬出する窯出し、火入れなどに加え、製品の荷造りや車引きまで、多くの専門職に分かれ、それぞれが各窯を巡って仕事をしていた。
・製品は大八車で港や駅まで運ばれた。大きな街道は牛や馬が引いたが、散歩道内の狭い道は、大八車の中に人が入り、その先を数頭の犬が引っ張った。
(森下さん)
・土管の運搬や窯の内部を洗う作業などは女性の仕事だった。その合間に家事や百姓もやらねばならず、常滑の女性は本当に働き者だった。
(水野さん)
・散歩道内は丘陵地で水に苦労した。低地に何ヶ所か良い水の出る井戸があり、そこまで水を汲みに行った。もちろん女性の仕事だった。こうした井戸は共同井戸となっていて、組合を作って共同管理していた。
(森下さん)
・この瀧田家横の坂(でんでん坂)は暗くて急な坂だが、そこで私の祖母が恋文をもらったという話を聞いた。
(水野さん)
・でんでん山には、昔、狸がいた。
(伊藤さん)
・でんでん坂上の家が嫁をもらう際に、坂が急ですべりやすいため、万一お祝いの日にお嫁さんがすべって転んではいけないと、その家のおばあさんが、土管を焼くときの捨て輪を並べて滑り止めにした。それが、散歩道の坂を陶器の残材を敷き並べた始まりだ。
<海道先生>
・このあたりの民家では、板壁にコールタールを塗った家が多いようだが、どうしてだろうか。この地域特有だと思う。
<山本>
・経済的で自分でできる。腐らないし潮風にも強い。民家の中には舟板を住宅の壁板に使った例もあるので、それが始まりかもしれない。
(森下さん)
・この瀧田家も廻船問屋だが、このあたりの廻船問屋は丘の上にあって、海に向かって窓が開けられ、船の出入りを見張っていた。昔は下の県道沿いまで海が来ており、泳いで大浜まで行ったりした。
(伊藤さん)
・土管は海に投げ入れるとウナギの寝床になり、よく取れた。
●散歩道内に残る景観画像を見ながら
  
          築150年の民家                  舟板を利用した板壁        土台石にコールタール跡
  
         共同井戸                    防火水槽                 廃材を利用した塀

(森下さん)
・窯業は火を使うので、各家に防火水槽が備えられていた。
(伊藤さん)
・製陶の廃材を利用して擁壁などをつくるのは生活の知恵。戦時中、秋水という戦闘機のロケット燃料を入れたろ号容器を使った擁壁だ。
(森下さん)
・昔にぎわっていた頃には遠くからいろいろな人が集まってきたので、常滑の人は概しておおらかだ。
<山本>
・煙突の上部の煉瓦の色が変わっているのは、伊勢湾台風で多くの煙突が倒れたから。
(森下さん)
・伊勢湾台風では常滑で3人が亡くなっている。
<海道先生>
・煙突の保存は難しいのでしょうか。
<山本>
・常滑の窯は釉薬の代わりに塩を使い塩焼きをした。煙突は使っているうちは乾燥していて強度もあるが、使わないと塩を吹いてもろくなる。このため、中程で壊して、煙道の中に落とし込んであるものが多い。
(水野さん)
・植木鉢はよく作っていた。戦時中、男の人がいない間は、女性が土鍋などを作っていた。
事前取材から
 当日は、午前中に、お話を伺う予定のお年寄りの方々を、海道先生ともどもお伺いし、事前に話を伺ってきた。本番では出なかった話などを紹介します。
●水野さん
・大正4年生まれの92才。この地に生まれ、昭和8〜9年頃結婚した。
・ご主人は常滑で貿易事業を始めた創始者。名古屋の貿易商とともに、戦前からアメリカを市場に、ノベルティを輸出した。ノッキンガム土瓶がよく売れた。戦後も引き続き盛況で、一時は常滑に50社近くも下請けがいたが、円の自由化で衰退した。
・このあたりの道は、大八車が通れる広さで、5〜6匹の大きな犬に車を引かせていた。このため野良犬も多かった。
・丘の上には水がなく、女性が水を背負って運んだ。関薬局向かいに良い水の出る井戸があり、水はそこへ汲みに行った。
・散歩道の煙突は、室蘭台風の時に多く折れた。
●森下さん
・大正13年生まれ。ご主人は常滑の陶管を扱い、東京で売りさばいていた。
・家は築150年。このあたりは、窯は乾燥しやすい丘の上にあり、住宅は低地にあった。
・火事の際に、この家の蔵で火が止まったこともあった。火に備え、各家に防火水槽が備えてあった。
・大八車は引き屋さんと呼ばれ、陶器製品を港まで運んだ。港には、薪にする松の木が積み上げられていた。だんべ船に板を渡して、女性が製品を船まで運んだ。
●伊藤さん
・大正12年生まれの82才。火鉢や急須を作るろくろ成形を生業とする伝統工芸士である。
・登り窯は共同所有。土管は平地で倒煙式の単窯で作った。景気の良いときには、土地のある人はみんなが手を出した。職人は様々な専門職に分かれ、各窯を回っていた。土は農家が農閑期に、田んぼの土を使って作っていた。問屋は別にあった。
・周辺各地からみんな自転車に乗って集まってきた。子供の頃は荷車引きのバイトをやった。
・牛・馬車が街道を走り、道の真ん中に糞が点々と落ちていた。
・港には、伊勢から運ばれてきた薪や松葉が山のように積まれていた。
・朱泥は田んぼの下の上質の土。土管用の土は上の方の砂が混ざった質の悪いものを使う。
・土を取った後に家や工場を建て、その上に窯や納屋を造った。
世間遺産から
 第2回あっちべたこっちべたフェスタの協賛イベントとして、常滑の世間遺産の募集が行われ、当日、共栄窯で応募作品の展示が行われました。