山村暮鳥
思潮社 「山村暮鳥詩集」(1993年9月15日 初版第二刷)より 『聖三稜玻璃』 QTView版 ※QTViewのダウンロード 彌生書房 「山村暮鳥全詩集」(1973年7月10日 第五版)より 『風は草木にささやいた』 QTView版 筑摩書房 「現代日本文學大系41」(1973年12月20日 第一刷)より 『雲』 QTView版 *注:一部ルビがふってありますが、ブラウザのフォント設定によっては、ルビがずれて表示されることがあります。ルビがずれている場合は、お使いのブラウザの「表示」→「フォント」から、フォント設定を調節してご覧下さい。
ひとりごと 山村暮鳥の詩をはじめて読んだのは、実はマンガの中でのことでした。多分、小学校の高学年か中学の1年生ぐらいだったと思うのですが、作家もストーリーも忘れてしまいましたが、一番最後のコマに「いちめんのなのはな」の繰り返しがあって、島村暮鳥《風景》というのが小さく書いてありました。とにかく、その繰り返しにもの凄くインパクトを感じて、曖昧な記憶の中で、次の日には紀ノ国屋書店に《風景》の詩を確認しに行った、ということだけは鮮明に覚えています。
その後、暮鳥の詩で代表的のものは高校まででほぼ読み終えましたが、《風景》の収められた『聖三稜玻璃』の3年後に出版された『風は草木にささやいた』は、とても同じ人が書いているとは思えないぐらい穏やかな詩が並んでいて、かなり戸惑ったものでした。『聖三稜玻璃』が世に認められず悪評の中で一度壊れた暮鳥が、苦しみの中から自分を組み立て直して作り出したのだろう、力強いながらも平明な詩や、『雲』の中の穏やかな詩を読んでいると、時々泣きたくなるような気がしてくることがあります。
山村暮鳥について
- 1884年(明治17年)〜1924年(大正3年)。詩人。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう)
- 群馬県生れ。貧しい家庭に育つ。1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中は文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。神学校卒業後、キリスト教日本聖公会伝道師として各地で布教活動を行いつつ、1913年(30歳)に詩集『三人の処女』を出して世に認められる。同年、萩原朔太郎、室生犀星らと人魚詩社を興す。このころから鋭角的で斬新な詩風の作品を書き、それらは『聖三稜玻璃』(1915)に結晶して朔太郎らに大きな影響を与えた。しかし自身は人道主義的作風に転じ、『風は草木にささやいた』(1918)『雲』(1925:死後一年後に出版)をまとめた。1924年、茨城県大洗町で結核により永眠。享年41歳。
- 明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている
『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』について
- 1915(大正4)年、人魚詩社刊。
- 大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に発表された詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集。2年後に出版された萩原朔太郎の《月に吠える》が好評のうちに迎えられたのとは対照的に、当時の詩壇からは悪評を買うのみで、広く世に認められることがありませんでした。けれど、言葉をその意味から離して、詩人の鋭い感覚のみで自由に結合させた幻想的な詩法は、極めて実験的で独創的な世界を作り出しています。これらの詩は、萩原朔太郎や室生犀星などに大きな影響を与えましたが、暮鳥自身はこの形式を放棄し、以後は平明な詩法へと転換して行くことになります。
『風は草木にささやいた』について
- 1918(大正7)年、白日社刊。
- 大正6年1月から大正7年12月までに制作、発表された作品を集めた第3詩集。大正5年11月に雑誌『感情』第5号に、暮鳥が「無韻小詩」という題で発表した14篇の散文詩の翻訳は、山崎晴治の「不遜の言−暮鳥氏訳『無韻小詩』に就て−3」と題した文章によって、誤訳であると批判されます。『風は草木にささやいた』は、山崎晴治の批判文を読んで《卒倒》した暮鳥が、結核に冒されつつも旺盛な創作活動を続けた結果の、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な作風の詩が納められています。
『雲』について
- 1925(大正14)年、イデア書院刊。
- 暮鳥の死の翌年に刊行された第6詩集。暮鳥自らが病床で編集したもので、大正13年7月に入稿し、11月に校了となったが、翌月の8日に暮鳥は永眠しました。その序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。」と書かれた『雲』に納められた詩には、平淡な自在さを持った宗教的、あるいは東洋的な哲学めいたおもむきを感じさせるものが多いような気がします。
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