題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてま
た山頭火風景である。
風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがす
がたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は
雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろ
しいのである。
或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私である
が、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であるこ
とに間違ひはない。
此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年し
か老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの
多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧
困を恥ぢ入るばかりである。
(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ、山頭火)