さわやか日記
(2004.9.210.13)

目次

初転法輪と三宝

東空、黎明の閃き   菩提樹の下で  仏陀 29歳の出家  釈尊の本名は「ゴーダマ・シッダールタ」

 釈尊とインドにおける仏教消滅の背景  真実の神のため  東京は今日も雨だった  雨が降っても良い天気

病まず、死なず、弱らず   極悪非情    月下美人全開   スーパー・プルーンPart 2   9月の紫陽花


2004年9月7日〜10月13日



10月13日(木)  初転法輪と三宝 

ガヤーから西へ200キロほど離れたところにミガダーヤがあります。釈尊がそこに向かったのは、5人に会って説法するためであった。それが5人の当初の願望だったからであり、そのことを強く釈尊に訴え続け、約束事のようにしていたからである、と推察いたします。

 この5人についてはいろいろな記述がありますが、どれがほんとなのか選択に困ります。子供の頃からの遊び仲間、苦行中に知り合った仲間、王である父、淨飯王(シュッドウダナ)が出家する釈尊の身を案じ、護衛役、世話役として送った家来、生まれながらの釈尊の人徳に惹かれ、ついてきた1人の家来と他の家来の息子たち、その他いろいろですが、ここではとりあえず、最後のほうを選択いたします。

私としては、父が送った護衛役としたいのですが、中立的立場をとらざるを得ません。

 途中、釈尊はウパカという商人と出会います。彼は釈尊を一目見て只者ではないと直感し、教えを乞ったのであります。しかし、釈尊は説法を控えた。一説によりますと、「天上天下唯我独尊」と言ったので、ウパカは呆れて去っていった。

また、他説によりますと、このウパカは他教の沙門で、「師は誰か?」と質問した。そこで、「師はいません」と答えますと、皮肉を並べ立てたあと去っていった、ということです。

いずれにいたしましてもこのウパカ、あとで釈尊に弟子入りいたします。釈尊が教えを彼に説かなかったのは、最初の説法は5人に対してでなければならない、と強く心に決めていたからだと思います。

 それからにミガダーヤに着きまして5人に会うのですが、彼らは釈尊を快楽に堕落し、苦行に負けたものとして軽蔑、悟りの伝授を硬く拒んだのであります。しかし、釈尊の熱意に打たれ、その教えに耳を傾けるようになった。そして5人は真から納得し、釈尊の最初の弟子たちとなるのであります。

 しかし、この話はどこか不自然であります。5人は釈尊に最後まで追従したのであり、去ったのは釈尊の悟りが近いことを知り、その苦行の邪魔にならないためであったからではないのか? あるいはまた、釈尊本人の希望だったかもしれないのであります。・・・それとも、全く異質の原因があったのであろうか?

 その頃のカピラ王国(釈尊の国)は、コーサラ国の支配下にあって、独立は認められていなかった。淨飯王はお隣のマガタ国と同盟を結び、力を合わせてコーサラ国を攻め落とそうと計略したのであります。

ところがそのマガタ国はベンガル湾に進出する目的で、インダス川下流のアンガ国と戦争真っ最中でしたので、それどころの騒ぎではなかったのであります。

その上、その戦争を有利に進めるために、なんとコーサラ国(ハシノク王)と和平条約を結び、政略結婚までしていたのであります。

 この計略が知られたためかどうかは知りませんが、あとでカピラ王国はコーサラ国に滅ぼされてしまいます。そういう不安材料の大きい状況において、淨飯王が先見の目を持って、釈尊を血族存続のために守ろうとしたのは同然であります。

したがって護衛役として送られた5人は、苦行がどうのこうのというよりも、いかなることがあっても釈尊を守る任務を持っていたといえます。異端的な発想としては、釈尊の出家はそのための計らいだったかもしれないのであります。

後になりますと、釈尊は故郷に帰り、妻ヤショウダラ、息子ラーフラも出家させております。出家いたしますと、バラモンとなりますので、たとえ戦勝国の王といえども殺すことは出来なくなります。

女性の入門を好まなかった釈尊が、あえて妻ヤショウダラを出家させたのは、カピラ王国が上述の危機的情勢に直面していたからかもしれません。

 と、申し上げますと、仏教研究のプロたちから、土方のぶんざいで何を偉そうに、とお叱りを受けると思いますが、乞食や犯罪者、ゴキブリが唱えても真理は真理、事実は事実であって、絶対に守り通さなければなりません。

プロの責任において真相解明をしていただきたい。それが中道精神に則った仏教徒の姿勢ではないでしょうか? また、釈尊自身もそんな見栄体裁、権威など非常に忌み嫌っていたわけですし、出家の理由など、悟りを開いた仏陀にはどうでもいいことなのであります。

我々は権威と威圧、暴力に平伏すのではなくて、真理と正義に平伏さねばなりません。

言いたいことを言いましたので次へ進ませていただきます。

・・・この5人に説かれた釈尊初の説法を仏典では「初転法輪(しょてんぼうりん)」と呼びます。ちなみに5人の者とは、コンダンニャ(喬陳如)、ヴァースパ(婆敷)、バドリカ(抜提迦)、マハーナーマ(摩訶那摩)、アッサジ(馬勝)の方々でございます。

内容は人間の歩むべき正しい道「中道」、煩悩発生のメカニズム「四諦」、そして、煩悩僕別実践法「八正道」であります。

これによって仏 法 僧の三宝が成立するのであります。仏とは仏陀に目覚めた者(つまり釈尊)、法とは仏陀の教え、僧とは仏陀の教えを実践する者、ということになります。ここに仏教としての輪郭が初めて出来たのでございます。

勉強のし過ぎは体に悪いので、今日はここで終わります。英語のことわざにもございます。「All work and no play makes Jack a dull boy 」  よく勉強し、よく働いて、大いに遊びましょう! では、皆さん明日のこの時間にまたお会いいたしましょう!

トップへ戻る

 



10月12日(火) 東空、黎明の閃き

49日間、ガヤーの菩提樹の下で座禅を組み、中道の境地において釈尊は悟りに挑み続けます。中道とは何か? それは極端で頑迷で、激しい一途な思い込みを払拭し、寛大に正しく、そしてバランスよく世界を見つめようとする心構えであります。

 何故、それがいいのかと申しますと、調和と制御がありませんと、物事はうまくいかないからであります。たとえば琴の弦、・・・緩めますと、年老いたアヒルの嗄れ声がいたします。逆に極端に締め付けますと、超高音波の、ヒステリックな金きり声となりまして切れてしまう場合があります。うまく調弦されますと、ヘンデルの「ハレルヤ」となって、宇宙の隅々まで響き渡るのであります。

 人間にはご承知の通り、心という得体の知れないものがありまして、無意識という大海に意識というさざ波が操られて騒いでおるのでございます。中道と申しますのは、そのさざ波を静め、大海と同一化させるのに重要な役割を果たす調和剤、ということになります。

そうなりますと、意識は無意識に眠るあらゆる情報、遺伝子レベル的情報から宇宙創造の根源まで浸透することになります。悟りとは大海と合体し、その情報にコンタクトすることなのであります。

 そして、悟りは閃きとなって次々と押し寄せてまいります。それはどういうことかと申しますと、ブッシュ大統領が「今宵の孤鉄は素晴らしい、ローラ、何処にいるか・・・」と英語でしゃべっているのを、初級英語学習者が日本語から英語へと、頭でもたもたと翻訳しているうちにわけが分からなくなってしまいますが、熟練すると、英語が直に頭に入ってくるように、悟りが直接,閃いてくるのであります。両者ともそれは、ある日、突然やってくるものであります。

 そういう釈尊の尊い時空に、後世の愚かな連中は一人よがりの勝手なストーリーをくっつけたりいたします。たとえば、瞑想に集中している釈尊の前に、欲妃、快楽妃、悦妃という3人の妖艶な魔女たちが現れ、生まれたままの姿となって腰や豊満な胸を振って誘惑したが、釈尊は無反応、EDではありませんが全く相手にしなかった、というのであります。

彼女らの父である悪魔・マーラは焦りまして、次に化け物や怪獣、テイラノサウルスなどを差し向けて釈尊の悟りを妨害しょうとするのですが、びくともしなかった、・・・というようなことであります。その他、もっともらしい逸話や、論理などがウイルスのように進入しておりますので、皆様、ウイルス撃退ソフトをインストールいたしましょう!

 余計な雑談はそれぐらいにしておきまして、釈尊はこの菩提樹の下でついに悟りの極地に達するのであります。時に、BC52?年、12月8日、黎明の東空にプシャの星座(水瓶座)が輝いておりました。釈尊、35歳と8ヶ月でありました。

12月8日といえば歴史的に大きなイベントが多いですね?592年12月8日、第33代天皇・ 推古天皇即位、1943年12月8日、真珠湾攻撃。 1946年12月8日、シベリアからの引揚げ船第一号が舞鶴港に入港、約5千人が帰還 。 1991年12月8日、 ソビエト連邦解体宣言。その他いろいろ・・・。 あれ?またまた、横道に逸れてしまいました。ごめんなさい!

 今度は真面目にいきます。・・・この世、宇宙間の一切は生滅変化して止まない無常である。それは因縁によって存在し、変化、推移していく。この世に、不変にして永久不滅という主人公などはなく(諸法無我)、生まれたものは必ず死に、生じたものは必ず消滅する。「因縁生起」、略して「縁起」、この世の真理はその縁起である・・・、釈尊の悟りは次々と閃いてまいります。

 ・・・今まで、悟りという単語を頻繁に使っておりますが、それは何かと申しますと、知識、知ることではなくて、それを実感的に認識することであり、その対象実体と完全癒着することでありますので、念のためにしたためて置きます。

・・・人は、無明のままに不変なる愛と権力と富、絶対的不滅なるものを求め続ける。それが人間を悩まし、あらゆる苦の元凶となって蓄積されていく。では、その元凶を取り除く術とは何か? それは真理を知ることであり、元凶を取り除く方法を学び、修行と実践によって人間性を高めることである。

 では、何を学び、何を修行し、実践すればよいのか? 学ぶべきことは、苦しみを滅していく道順・四諦(したい)であり、修行し、実践すべきは煩悩を克服するための八正道(はっしょうどう)である。四諦とは苦諦、集諦、滅諦、道諦・・・、八正道とは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

 ここでも難しい単語が使われておりますが、これも後世の気位の高い偉い坊さんたちが、勝手に付け加えたものであります。第一、釈尊は古代インドのマガタ国の言葉、ハーリ語を話していましたから、一般庶民に分かりやすく説いたはずであります。沖縄の「ハーリー」という祭りも、もしかするとここに語源があるのでは、とおもったりしますが、これこそウイルス的要素ですね?

 「この世は苦しみがいっぱいの世界でーす。それに形あるものは必ず壊れるし、生まれたら必ずみんな死にまーす。それにこの世は打てば響く理法の世界、原因があって結果があり、行いによってそれ相応の報いが現れるのですよー。苦しみは苦しみの原因から起こります。その原因は執着、愛着、特に渇愛でーす。ですから、滅私無念無想、ではなくて滅私有念有想で賢く、清く正しく生きていきましょう!」

 以上が一般語への翻訳であります。・・・釈尊は悟りを開きますと、その感動と快感にしばらく陶酔いたします。その期間は7日間と言われております。悟ったことの根本は、あらゆる執着から離脱することでありましたから、生への執着もなくなり、有余得涅槃(うよえねはん)から無余得涅槃へ入ろうといたします。

 前者は生きているときに得られる涅槃、後者は死んだときに得られる涅槃であります。つまり、悟りを開いた釈尊は完全に満たされて死への扉を開きかけた、ということであります。

 そこでまたウイルス進入であります。釈尊が死んだら一大事、と慌てたのが梵天であります。その梵天とはバラモン教の最高神でありまして、その時の釈尊とはなんら関係はありません。

 仏教と習合したのは後世になってからです。その梵天様が、「今、おまえが死んでしまったら大変困る。せっかくの悟りを独り占めして逃げるつもりか。食い逃げと同じだー」と喚きたてましたので、釈尊は納得し、人類救済のお役に立てればと思いまして、伝道活動に粉骨砕身、身を捧げる決意をした、ということであります。

 その菩提樹のあったところは現在、ブッダガヤーと呼ばれ、日本からの観光客が絶えません。釈尊が悟りを開いた菩提樹の跡には何代目かの菩提樹の大木が生えておりまして、釈尊が座ったとされる位置に石の仏座が設置されています。

 それをボーディーマンダラ(金剛法座)と言います。十数年前、自分を釈尊の生まれ変わりだと豪語していたあの麻原彰晃が、こともあろうに柵を乗り越えて中に侵入し、その金剛法座に座って瞑想いたしましたので、警備の方に引きずり出されて、叩き出されました。・・・全く、世の中には変な方々が多いですね?

 この悟りをまず最初、誰に説くか? 当然、それは自分を慕って、ついて来てくれたあの5人である。あの者たちは自分が悟りを開いたとき、それを真っ先に聞くために出家し、ついて来てくれたではないか。

 勘違いから自分のもとを去ったとはいえ、あの誠真実に報いねばならない。釈尊はその5人に会うためにバナーラスの鹿野苑(ミガダーヤ)へ向かいます。悟りを開いてから35日目のことでありました。

 きょうもまた長くなってしまいました。こういう歴史的大河ドラマを書くということは、稚拙な私なりの日記でも疲れます。しかし、資料はいずれも正確と思われるものを採用いたしましたので、卒論の参考にはなると思います。

 ・・・では、また、この続きは明日、勉強することにいたします。宿題は・・・、体にいいのは、泡盛、ワイン、ウイスキーのうちのどれか? 悟りを開いてレポートを提出してください。しかし、これには梵天の権力は一切絡んでおりませんので無視してもいいのです。では、皆さん明日のこの時間にお会いいたしましょう!

トップへ戻る



10月10日(日) 菩提樹の下で

苦行の道は果てしなく続く、どこまでも・・・。何を探して、何を求めて、君は行くのか、そんなにしてまで? 仏陀の目標はただ一つ、生老病死の苦しみから解脱するための悟りを得ることであり、真理とは何か? に対する解答を得るためであった。

カピラ国から東南450キロ行った所でガンジス川を渡り、7日目でマガタ国の首都ラージュグリハ(現在のパトナ)というところへ到着いたします。苦行のスタートであります。

ところが、その仏陀をづっと尾行していた5人の男たちがいたのであります。1人は家来のコンダンニャ、4人は他の家来たちの息子たちでありました。彼らは仏陀が必ず悟りを開き、真理を説くようになる。その時に真っ先に弟子入りをする、という目的で、出家してついてきたのであります。6人は霊鷲山の洞窟で寝起きし、修行生活を始めます。

しかし、そこでは得られるものは何もなかった。仏陀は5人を引き連れて、、仙人アーラーラー・カーラーマという方を師と仰ぎ、その教えを乞った。彼は300人の弟子を持つ名高い行者でありました。

、「禅を組んで精神統一し、動かず、何も考えず、1年も2年もじっとしているのだ。何も考えない、ということは、いびきをかいて寝てしまうことではなく、ただ、ぼやーっ、としていることでもない。宇宙の無限性と同化することだ・・・」

これが「止めの禅定」だった。仏陀はその通りにした。そして、あっという間にそれを修得した。しかし、仏陀の求めるもの、生老病死の苦しみから逃れる悟りは得られなかった。

師アーラーラーも、

「アララー、私には分かりましぇーん・・・」

と言うだけで、自分と組んで弟子をもっと増やし、名を上げようではないか、と本気で商談を持ちかける始末であった。

失望した仏陀は、次にウッダカ・ラーマプッタという偉い行者を師と仰ぎ、その教えを乞います。彼はアララ様より弟子の数は多く、700人を抱えておりました。彼の修行の目的は「空」を修得することでありました。

「たとえ血に飢えた野獣の群れの中におろうとも、精神統一し、己を完全に無にせよ。それは、思いながら思わず、見ながら見ず、考えを消さずして考えないことだ。それが空であるが、君にそれが分かるか?」

仏陀は数日の座禅の後、その空の境地に達してしまった。そして、第2の師も悩みに解答を出すことは出来なかった。その時点で人の教えを乞うことを断念したのであります。

「悟りは自らの努力で得られるものだ」

仏陀はそう自分に言い聞かし、5人とともにウルベーラの苦行林へ入っていきます。その苦行林には大勢の沙門・苦行者がおりまして、あまりに激しい苦行のため連日、死人が出るところであった。そして5人と1人は彼らに歓迎され、仲間入りいたします。

まず、トゲトゲの茨を敷き詰めてその上に座禅を組み、一晩中、無我の境地を彷徨います。薮蚊が黒雲のように群がり、容赦なく針を突き立てて血を吸います。おかげで仏陀の顔はでこぼこに腫れ上がったのであります。ときには血に飢えた豹や、狼、大蛇、ハブ、そして、キングコングやゴジラ、ティラノサウルス などがやって来て襲いかかろうといたしますが、仏陀の崇高さに圧倒されて去っていった、・・・というのは後世の聖人たちが勝手にでっち上げたものです。

第一、仏陀は、そういう非科学的で、現実に反するようなことは絶対に説いておりません。つまり、形而上的なことは一切取り上げなかったのであります。取り上げたのは全て、後世の高僧と名のつく愚かな連中たちであります。

つまり、座禅は獣の来ないところで行われたのであり、やぶ蚊やムカデ、糞ころがしなどは近寄ってきたりしましたが、狼などの肉食獣よけは万全の対策が取られていたと思います。もちろん中には運悪く、ゴブラなどの毒蛇やサソリなどで死んでしまう者も少なくなかったのであります。しかし、苦行中に死ぬということは、永遠の栄誉を受けることでもありましたので、彼らはそれを恐れなかった。

・・・そして、朝は4時に立ち上がりまして、近くのネージャンラナーという川で体を洗います。したがって汚い身なりではありますが、東京の公園などを彷徨うホームレスさんたちのように、凄まじい悪臭を放つ、ということはなかったのでございます。


それから、セナーニという近くの村に赴いて托鉢をし、その日の食事にありつくのであります。・・・しかし、それは普通の苦行でありまして、より高度な宇宙創造パワーを得るためには、想像を絶する苦行に徹しなければならなかった。

 砂地獄に埋まって断食をする、沼の水底に横たわって息を止める、木の枝に縄を掛け、首を入れてぶら下がる、熱湯に浸かる、火で体をあぶる、巨岩の下敷きとなって耐え続ける、片足を上げたままトイレ以外はじっとしている、・・・その他いろいろであります。

しかし、それでも仏陀は真理の解答を得ることは出来なかった。彼はまだ苦行の度合いが軽いからだ、と判断した。そこで食事を2日に一食とし、さらに一週間に一食、一ヶ月に一度、・・・しかし、それでも生老病死の苦から解脱する悟りは開けなかった。

「一日三食であろうが、一ヶ月一食であろうが、食べるという欲に支配されていることには変わりはない。それが悟りを修得できない原因だ」 仏陀はそう判断し、完全絶食に入った。胃に入るのは水と、一舐めの塩だけとなった。たちまち仏陀は骨と皮だけになり、ミイラよりもひどい干乾びた体となった。

そして、何の解答も得られないまま、仏陀の心に疑問がわいてまいります。この苦行は無意味ではないのか・・・? そこで、1人の苦行僧に尋ねます。

「何のために苦行をするのですか?」

「それはカルマ、輪廻の苦しみから解脱し、天上の世界に生まれ変わるためだ」

「つまり、天上界の安楽を求めて苦行をするというわけか? しかし、楽は苦しみのカルマ・因縁となるから、天上界での満たされた、楽な暮らしは苦しみのカルマとなって、輪廻することになる。それとも天上界では悪事を働いてもその報いはない、というのか?」

苦行僧は返答につまり、立ち去ってしまった。仏陀は考えた。肉体はいつか死に、腐敗し、消えていく。つまり、それは真の意味での自分ではない。ならば、それをいかに痛めつけて苦行しても、ほんとの自分ではないから無意味である。したがって痛めつける必要もないし、贅沢させる必要もない。

 ほんとの自分とは、今、現実において、己自身を認識している心ではないのか? 言い換えれば苦行とは、快楽の一種であり、自己満足の何ものでもなく、根底には自己アピールしかないのだ・・・!

 問題は本体である心、ハート、精神である。ならば何ものにも左右されず、適度の食事を取り、決まり事や人のいうことをそのまま信じず、自分で考えて判断し、必要で正しい言葉を話す。

 ・・・ 「中道」 それこそが人間としてのあるべき心の姿勢ではないのか? その中道を採用することによって、真の悟りが得られる。

・・・ふと周囲を見渡すと、林立する樹木群が微風に微かにざわめき、流れる川面に葉を落とすのが見えた。そして、どこからかともなく、美しい女性の歌声が聞こえてきた。仏陀はそのとき解放された。

仏陀は骸骨に皮だけを被せたような体を這わせながら移動し、、バニヤン(ベンガル菩提樹)の大樹の下までたどり着いた。そこで幹に背を持たせて座っておりますと、スジャータという名の娘が、乳粥を持って通りかかりました。

 彼女はスルメイカのように干乾びた仏陀を見てびっくり、持っていた乳粥を捧げた。先ほど聞いた美しい歌声は、彼女の乳絞りの歌だったのであります。

 仏陀はそれを遠慮なく頂いた。するとお供の5人は愕然といたします。仏陀は苦行を放棄、己自身に負けたのだ、5人はそのように解釈して落胆、仏陀の元を離れて、サルナートのムリガダーヴァへ去った。

 彼らには仏陀がそのとき、悟りの受け入れ態勢が出来ていたということを、見抜くことが出来なかったのであります。その時、苦行に入ってから6年という歳月が過ぎ去っていた。

 仏陀は中道の精神のままに振る舞い、体力を取り戻し、、ガヤー(現在のビハール州ガヤー市の南約8km)にたどり着きます。そして、一本の大木、ピッパラ樹(菩提樹)の下で座禅を組み、瞑想に入ったのでございます。

きょうの勉強はタイムオーバー、あまりにも長すぎますので、この辺で終わりといたします。明日はこの続きを勉強いたします。宿題はもちろん、高級ワインを赤いグラスいっぱい飲んで熟睡し、明日への活力を培うことであります。では、Good Night ,Have a nice dream !

トップへ戻る

 





10月9日(土) 仏陀 29歳の出家


釈尊が城外の悲惨な賎民の姿を目撃し、人間の根本的な苦しみ、「生老病死」の問題に心を痛めていた頃のインドの宗教は「バラモン教」でありました。その聖典を「ヴェーダ」というそうであります。これは知識という意味ですが、長い年限をかけて、いろいろな聖者たちが議論して決定付けて編集して付け加え、口述によって伝えられていたものであります。文字になったのは2世紀頃だそうです。

そのヴェーダは4種類ありまして、神々を讃歌する「リグ・ヴェーダ」 詩歌集「サーマ・ヴェーダ」 祭祀に関する実務書「ヤジュル・ヴェーダ」 呪文集「アタルバ・ヴェーダ」であります。その他にも聖典はありまして、古代の聖人(リシ)たちによって作られた「スムリティ」(古伝書)なるものがあるそうです。それには、マハーバーラタ、ラーマーヤナ、マヌ法典などがあります。

この宗教の根本理念はと申しますと、宇宙は、その根本原理と輪廻を続ける我の癒着体でありまして、厳密に言えば真我の本質と全く同じである、ということでございます。・・・一体なんのことやらさっぱり分かりませんが、ようするにコップの水に溶かした白砂糖は見えないが、飲めば甘い、だから見えなくても存在する。だからこの水は砂糖の本質でもあり、水でもあり、水と砂糖の癒着体でもある、ということであります。???ますます、分からなくなりました。

とにかく、釈尊が悩んでいた頃のインドの宗教背景は以上のようなものでありました。そして、その頃から、それらの聖典の権威を認めず、バラモン優位のカースト制に反対し、それぞれの思想を説きまわる自由思想家たちが、次々と現れてくるのであります。そういう彼らを「沙門」と呼ぶそうです。宇宙創造の神秘的なパワー、それを得れば超人的な能力が備わる。それを得るためには、苦行(タパス)を継続し、究極の苦しみに己の身を晒さねばならない。という信念の元に彼らはいたる所で苦行していたのでございます。

さて、そういう宗教的背景の中で釈尊は真剣に出家することを考えておりました。出家ということは当時は、神に帰依し、苦行者になるということでありまして、肉親や親族としては「死んだもの」と諦めざるを得なかったのであります。

愛と思いやり、正義感に燃え盛る年頃であります。王様に就任いたしますと、国を守るために戦争することもあろう。そうなれば大勢の人々を殺すことになり、殺戮者となる。しかし、出家すれば逆に人の魂を救い、生かして栄えさせる真理の手助けが出来る。釈尊はついに出家することを決意いたします。

しかし、美しい妻、ヤショーダラ、かわいい息子、ラーフラ、・・・そして、父・浄飯王、継母・マハープラシャパティ、・・・最も大切なものを裏切り、捨てて出て行かねばならない。躊躇うこと十数分、そのとき、釈尊は天の声を聞いた。

「妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やその他のあらゆるもの全てを捨てて、犀の角のようにただ独り歩め」

「子や妻に対する愛着は、たしかに枝が広く茂った竹が、互いにあい絡むようなものである。筍が他のものにまつわり付く事のないように、犀の角のようにただ独り歩め」

釈尊は意を決して城外に出た。待っていたのは闇に白く輝く愛馬・カンタカであった。時に釈尊、29歳、求道の険しい道への扉を開いたのであります。

以上で、きょうの勉強は終わります。 こちらは台風22号の接近で、ただいま雨が降っております。風速80メートルを経験したものですので、なんとも思いませんが、それだけ台風の怖さを思い知らされております。皆さん、くれぐれも台風対策を万全にしてください。

明日は、釈尊の苦行、成道から入滅までを勉強いたします。宿題は、何もしないで明日のために熟睡してください、です。・・・では、きょうはこれにて失礼いたしまーす。

トップへ戻る



10月8日(金) 釈尊の本名は「ゴーダマ・シッダールタ」

人間は喧しい存在であります。脳ミソだけがでかくなりまして、よせばいいのに偽りの神とか正義だのというのを作って、己自身をそれと照合し、自己嫌悪と自虐心,罪の意識に苛みながら生きているのであります。

さらに厄介なことに現実逃避、という術を身につけてしまいましたので、幻想の中に己の理想像を作り上げ、己の醜さを美しく、悪を正義に、苦しみと絶望を希望と歓喜に転換して自己陶酔し、偽りの人生を歩み続けたりする。

その幻想の中の己を守るために、争いと裏切り殺意、憎悪が激しくぶっつかりあい、苦悩の汚濁が怒涛となって人の世の一切を巻き込み、それぞれを地獄の底へと引きずり込んで行くのであります。

つまり、でかくなりすぎた脳ミソ機能がもたらす心の動き、感情なるものの制御がうまくいかず、ブレーキの壊れたスポーツカーが暴走するように、人間は自己破壊道を飛んだり跳ねたり、転んだりしながら疾走しているのであります。それというのも、巨大な脳ミソを支え、安定させる精神や人格構造の欠陥があまりにも大きいいからでございます。

その盲目で頑迷で欠陥精神の人間が救われる道は? それを人間は無意識の次元で古代から追及してきたのでありますが、その黎明は現れそうで現れないのであります。微かに夜明けを告げる僥倖は幾度となく現れたのですが、人はそれを煩悩と頑迷によって、醜いアヒルの子、に変えてしまうのでございます。

釈尊の出現もその僥倖の一つでありますが、その根本の教えは大きく湾曲され、全く異質なものとなって現代に伝わっております。発祥地のインドでは仏教は消滅してしまいました。何故そうなったか? このテーマをこれから一緒に勉強していきましょう。

釈尊の生没年はいろいろな説があって定かではありませんが、BC564年〜BC486年が一応有力であります。お誕生日は4月8日(降誕会)、ネパール南部のシャカ族の小国、カピラ王国のカピラヴァストゥ城でお生まれになっております。父君はその国の執政官・シュッドーダナ(浄飯王)で、母様はお隣の国・コーリヤの執政アヌシャーキャーの娘・マーヤであります。

伝説によりますと、釈迦は生まれた途端、7歩歩き、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したということであります。

そして、こともあろうに、母様の右腋下から生まれたということです。ということはマーヤの右腋の内部には子宮があったということになります。

・・・お産のため実家へ帰る途中、マーヤは付き添いと共にルンビニの花園で一休みし、綺麗な花に心を引かれて、それを折ろうとした。その時に右腋から釈迦が生まれたということであります。ということは臨月の右腋の腕を軽々と持ち上げて花をつまもうとしたわけで、マーヤは凄い怪力の持ち主であったといえます。

そういうことを本気で信じる方々が大勢おられるのですから、真理と真実の追究は難しく、偏見と迷信、頑迷さが公然とこの世を支配し続けるのであります。

ついでですが土着信仰と癒着し、次第にヒンドゥー教へ変貌しつつあった当時のバラモン教によりますと、人間はみなバラモンの神から生まれるということになっておりました。カースト制の最高位、僧侶階級(ブラーフマナ)はバラモンの頭から生まれ、貴族武士階級のクシャトリはその腋の下から、奴隷の上流階級、ヴァイシャは股から、下級奴隷、シュードラは足首から生まれる、ということになっておりました。

マーヤはクシャトリでしたので、バラモンの神ではありませんが、腋の下からお釈迦様を産んだ、ということになりますか・・・?  もし、彼女が僧侶階級のトップクラスであったなら、頭からお釈迦様を産んだことになり、脳内出血の重体となったかもしれません。

 話が大きく横道に逸れましたが、お釈迦様はたいせつに育てられ、何不自由なく健やかに成長していきます。ただ、不幸なことに母・マーヤはお釈迦様を産んで一週間後にお亡くなりになったのですが、彼女の妹・マハープラジャパティがすぐに第2の母となって大切に育てるのであります。

ここでお釈迦様の名前でございますが、実はこの釈迦という名前、姓でも名でもなく、シャカ族という種族の名前でありまして、あまり妥当ではありません。仏陀も目覚めた者、真理を悟った者、という意味でありまして、姓名ではありません。正式な名前は、姓は、ゴーダマ、名は、シッダールタであります。ゴーダマは豪玉ではありませんので勘違いしないでください。

・・・そして、豪玉、ではなくてゴーダマ様はクシャトリとしての教養をしっかりと身につけ、武芸にも通じ、立派な逞しい青年となります。父・浄飯王の期待は大きく、豪勢な宮殿を二つ与え、末は博士か大臣か、ではなくて、自分の跡継ぎとしての王様の椅子をちゃんと準備していたのであります。そして16歳で従妹のヤショーダラとご成婚、長男・ラーフラを儲けたのでございます。

ここまで恵まれますと言うことなし、私のような馬鹿な男なら、大勢の部下を従えてネオン街や銀座の高級クラブへ出向き、両手両足、両前後、両上下に花、となって豪遊、歴史最大の放蕩息子として学校教科書に載っていたと思います。

(・・・ほんとは、私、ネオン街恐怖症の真面目な男でありますので、誤解しないでください! それは、ばー様が証明いたしますので確かであります)

ところがであります、ゴーダマ様は私と違っていたのであります。もちろん、これほどの美貌と権力、富、地位を持っておりましたから、絶世の美女たちがいつも彼を取り巻いておりました。

それで側室も複数おったわけでございまして、お床の中の男として突貫工事が連続する毎日であった一時期があったのであります。

しかし、彼の心はいつもぽっかりと空洞化していた。ある日、彼は得体の知れない苦悩にいたたまれず、白馬カンタカに跨って城外に出た。そこで目にしたのは、人間界の悲惨な現実であった。

飢餓と餓死、病気、老衰、貧困、道端に転がる餓死者や病死者の夥しい羅列、死体を囲むその配偶者や子供たちの泣き叫び、悲しむ姿、釈尊は雷に打たれたように立ちすくんだ。

人は、なぜ、意図せずしてこの世に生まれ、望まずして老い、予期せずして病気をし、恐れて死んでいくのか? これらの災いを取り除き、人間すべてが救われる道はないのか・・・? 釈尊はその難問に深く悩み、真剣に出家することを考えるようになっていた。 

・・・夜も更けてまいりました。良い子の帰る時間はとっくに過ぎております。明日は東京は台風22号の直撃を受けそうです。しかし、雨にも風にも負けず、明日は釈尊の悟りについて勉強することにいたします。では、みなさんお休みなさい。いい夢を見ますように!

トップへ戻る

 


10月7日(水) 釈尊とインドにおける仏教消滅の背景 Part 1

百科事典によりますと、今から5500年前頃、インド西北部へ色黒の地中海人種が移住してきた、ということであります。彼らはイラン東部の高原からやって来た連中で、ドラヴィダ人のご先祖であります。

インドの先住民ということになっておりますが、その時までは土着民が居たわけでありまして、その者たちを蹴散らしまして住み着き、インダス文明を築き上げたのであります。

その中からいろいろな信仰が出てまいりましたが、代表的なものが「シヴァ神信仰」 「ソーマ信仰」 「リンガ崇拝」 「水、牝牛、菩提樹を神聖視する信仰」 などであります。

「ソーマ」とは、神聖なお酒のことで、飲めば飲むほど肝臓腎臓が強くなって、アルチュウが直るお酒だったかもしれません。度数はおそらく45度ほどであったと勝手に推察いたします。 そして「シヴァ神」信仰、これは獣神として崇められておりました。

 しかし、12世紀になりますとヒンドゥー教の一派、シバ派はそれを何故か男根に象徴いたしまして、長い紐で己のシンボルを結び、他の先っぽを自分の首に巻きつけて拝んだのであります。信仰が熱狂してまいりますと、脳波が狂ってしまうものなのでしょうか?

 最近は不可解なことばかりに出くわしまして、こちらのノイロン・シナプスもアルゼンチンタンゴを踊り始めております。

インダス文明が起こり、繁栄を極めたのはBC2600年からBC1900年で、都市国家「モヘンジョ・ダロ」,「トラッパー」などの遺跡で代表されております。排水設備の整った都市計画は見事でありまして、レンガ造りの家が立ち並び、市場や倉庫、銭湯、水洗公衆便所までもあった。

 大麦、小麦を中心とする農耕、牛、水牛、羊などの牧畜などが栄え、土器はもちろんのこと、銅、青銅器なども作るようになっていた。

驚くべきことに、石製の印章が見つかっておりまして、見事に描かれた動物の文様やインダス文字なども発見されております。 しかし、残念ながらその解読は未だ出来ておりません。

・・・だが、私にはその内容は見なくても大体の想像はつく。「愛とは、外見や名誉名声、権力、富じゃない。真実誠のハートである・・・」 とか、あるいはまた、「美しい君よ、今宵インダス川の辺で一夜を過ごし、二人だけの黄色い太陽を、かすむ眼で拝もうではないか」 ・・・ということはありえないと思いますが、100%否定も出来ないと思います。

この都市国家の特徴はオリエント諸文明都市国家とは一つだけ違うところがありまして、宗教的権威を持つ王権がなかったのであります。つまり、市民生活が自由に展開されていた、という点であります。

そして、BC2000年頃、複数の都市国家はインダス川の大氾濫によって埋没してしまいます。しかし、それによって土壌が肥沃になり、豊年満作が続き、氾濫農耕がさらに都市国家繁栄を勢い付けていきます。

だが、しかし、BC1300年ごろ、アーリア人が侵入、繁栄を極めたインダス文明は、BC1900年頃に崩壊いたしました。一部のドラヴィダ人は3派に分かれて、ベンガル地方、デカン高原、マディア・プラテーシュ地方などの南へ逃れていきます。

 残った方々はアーリア人の支配下に置かれたのであります。アーリア人とは、ヨーロッパ大陸から、長年のさすらいの果てにやって来た方々でございまして、白人であります。

遠くて近きは男女の仲、と申しますが、この白い支配階級アーリア人と色黒の被支配者階級ドラヴィダ人も例外ではなく、両方の血はミックスされていきます。

 封建時代の日本のように、結婚相手の家系とか身分、貧富の差など全く無視したご結婚が、自然に行われていた、ということになります。そして、長い時は流れて、ここに「アーリア・ドラヴィダ族」の出現となります。

古代インドに侵入したアーリア人は支配者としての当然の権利を発揮、自分らに優位な身分制度、カースト制を確立させた。

僧侶や宗教関係のボスたちをバラモンとして最高位に就け、貴族、軍人、王様などを「クシャトリ」、商人や労務者たちを「ヴァイシャ」、バラモンやクシャトリの奴隷を「シュードラ」、それ以外の奴隷を「アウトカースト」と定めたのであります。

このカースト制は現代まで続き、人間でありながら、人間扱いされない「アンタッチャブル」 、と呼ばれる悲惨な、十字架を背負わされた人々が、インド地方には何千万人も居るのであります。

先進国に輸出されている骸骨標本、あるいは臓器、それらがどこから出ているのか、想像にお任せいたします。人間はみな平等である。お互いに助け合い、守りあわねばならない、という人類の最終目標、それに真っ向から逆らう現実であります。儲かりさえすれば人の命はどうでもいい、という現代人の根性、まさに悪魔そのものであります。

話が脱線いたしましたが、白人優位は古代インドから続いていたわけでありまして、カーストの頂点に立ったバラモンはさっそく「バラモン教」なるものを創設し、「ヴェーダ・聖典」というのを作り、ダルマ、という法律を制定したのでございます。すべてトップクラスに優位な仕掛けを施した、ということになります。

このヴェーダの神様は、地震、雷、火事、親父、つまり、火、水、風、風林火山、などの天地大自然の現象を神様としたものであります。

・・・人間が最も恐れるもの、それは天変地異であります。それを見事に突いたバラモン教ですね? やはり、白人はそれなりに頭が良かったというわけですね? 尊敬と軽蔑がごっちゃ混ぜになって困ったものであります。

そして、このバラモン教は決め事の厳しい宗教へと変身していくのであります。バラモンたちは毎日ヴェーダを唱え、火を焚き、苦行の道を次第に深めていった。

 しかし、時の流れとともにマンネリ化し、祭式と形式だけの宗教へと変わっていった。今の日本のお寺といっしょであります。当然、そのふやけた宗教に反発する修行僧たちが現れてまいります。そして、彼らが新たな宗教を作り始めるのであります。

以上が、仏陀が現れるまでの古代インドの宗教形態と、大まかなインダス文明の背景であります。明日は、釈尊とインドにおける仏教消滅の背景について勉強いたします。

トップへ戻る

 




 10月2日(土) 真実の神のため 

仏子の現場は8月29日までに完了させねばならなかった。全長100メートル余の5段積み万年塀、それを解体撤去し、その跡に新たに150ミリの重量ブロックを3段まで積み、それから造成地内のごみの山やガラを撤去して整地する、までであった。

これを変人監督の下で、金ちゃんと二人でやり遂げねばならない。どう見積もっても2週間は絶対にかかる仕事であった。しかし、工事開始は大幅に遅れて8月22日(水曜日)からでありました。日曜、祝祭日を入れても8日しかない。境界問題でいざこざがあって作業が出来なかったのであります。

連日ハード・スケジュールが続いた。しかし、天は我に味方せず、雨、風、台風、高温多湿、浅間山噴火(これは関係なし)、その他いろいろな手段で、試練の嵐をわれわれに次々と連発させた。しかし、休むわけには行かない。雨風に打たれながらの悪戦苦闘の作業が連日、遅くまで続いた。

ブロック積みは金ちゃんの仕事。ブロックを2個づづ両手にぶら下げて配置して回り、モルタルを練り、目地を切って、テンバ仕上げまで私一人でやり遂げねばならない。

つまり、餅米を炊いて、突いて、餅を作り上げ、お膳に並べて差し出すのはこちらの仕事。金ちゃんはそれを食えばいいだけの仕事である。これを土方界では「おんぶに抱っこ」 といいます。しかし、私の場合は、おんぶに抱っこに、肩車であった。

その上、金ちゃんは短気でわがまま、機嫌を損ねると仕事を置き去りにして帰ってしまう。そこで、煽てながら、あやしながら、褒め称えながら作業を続けねばならないのであった。

おかげで何とか先が見えるようになって来た。ところがであります、27日は台風接近で大雨であります。モルタルは雨に溶けて流される。したがってブロック積みは絶対に出来ない。

仕方なく、その日は休まざるを得なかった。翌28日、現場は赤土の泥濘であります。その上、小雨が降っていた。 ブロック積みは出来ない。その日は、午前中待機しただけで作業中止となった。

その日、元請けの責任者が背広姿でやってきた。

「何じゃこれは、何も出来ていないじゃないか。明日までに終われるのか? 明後日から建築屋が入る。奴らが仕事出来ないで帰るようなことがあったら、責任を取ってもらうぞ・・・」

そこで、事情を話し、何とか30日まで待ってほしい、と何度も頭を下げて懇願した。責任者は渋い顔をさらに渋めながら、「よし、30日までだ。それ以上は絶対に待たない」 と叫んで帰った。

29日も小雨、その中を強引にブロックを積んで行った。ブルーシートが上に掛けられ、雨で目地が流されないようにした。金ちゃんがとうとう怒りを爆発させた。浅間山よりも凄い噴火であります。

「足も、腰も痛いよ。何で、こんなに仕事するの、私、止める・・・! 体、壊したら誰も面倒見ない。働けなくなったらみんな馬鹿にする・・・」

「・・・貴様、それでも4000年の歴史を持つ中国人男子か! あの儒教の創始者・孔子を知っているか? どんなに辛くても、やる気でやれば痛み悩みは吹き飛ぶ。1に勢い、2にやる気、3・4に特攻隊だー、分かったかー」

金ちゃんは私の狂気にびっくり、大きくうなずいて作業再開となった。・・・しかし、作業は完了せず、その日は星も見えない空を見上げて帰途に着いた。

翌日30日、いよいよ最終日であります。残すところ、3段目ブロック積み100メートル、残ガラ撤去、整地のみとなった。それだけでも2日はかかる仕事であります。

変人監督にも手伝わさせて作業猛突進となった。モルタルを練るのに、スコップでこねていたのでは間に合わない。バックフォーで長方形の穴を掘り、そこに砂とセメントをダンプアップして、バックフォ-のバケットでかき混ぜる。一挙に大量生産であります。変人と金ちゃんが目を丸くした。

もちろん休憩なし、昼飯休み抜きの作業であります。歩きながらおにぎりを口に入れ、缶入りお茶で胃に流し込む。セメントや赤土が付着して変な味がした。ブロック積みが完了したのは夜の7時であった。それから2トン車に残ガラを積み込み、整地に取り掛かる。8時半、難工事は完全に終了した。

3人は思わず、万歳三唱であります。そして、帰途に着いた。・・・ところが、1時間半の運転の後、会社の駐車場へ着き、運転台から降りようとしたとき、膝に凄まじい激痛が走った。あの痛めていた膝が完全に破壊されていたのだ。金ちゃんはそのことに気がつかず、事務所へと急いで行ってしまった。

片足で体を支えてようやく車を降り、ショルダーバックを荷台から下ろして担ぎ、歩こうとするが歩けない。仕方がないので棒切れを拾い上げてそれを杖にして前進しようとするのですが、激痛膝の足は言うことを聞かない。

何とかいい方法はないものかといろいろやっているうちに、しゃがみこむと棒切れを突いて何とか歩けることが分かった。人生をいろいろと生きてきましたが、こんな無様な格好で歩いたのは初めてであります。

幸い夜10時を過ぎておりましたので、人通りと車は少なかったのですが、それでも衆目の目は闇の中の私を捕らえ、異様な歩行に釘付けとなった。お尻を後ろへ突き出せば出すほど痛みが軽くなる。しゃがんでお尻を後方へ思いっきり突き出し、棒切れを突いて進む・・・。犬が吼え、夜烏が悲鳴を上げ、トカゲが蹄声あげ、猫が飛び跳ねて逃げる。

しばらくして金ちゃんが事務所からやってきた。なかなかもどらないので、心配したのであります。彼は私の異様な姿を見て立ちすくんだ。それからショルダーバックをとって自分が持ち、私の激痛膝の方側の腕を肩にかけさせて歩いてくれた。これで何とか前進できた。しかし、右足がちょっとでも地面に触れると痛みが爆裂、気絶しそうになったりした。

車の運転は何とかできた。心配する金ちゃんと別れ、私は軽のマイカーを走らせた。・・・これで、2・3ヶ月は仕事を休むことになるだろう。・・・もしかすると、仕事を変えねばならないかもしれない。

しかし、与えられた仕事を全うした、という満足感が私の全身を駆け巡っていた。・・・家にたどり着いたのが11時過ぎであった。車を片足で降りるとばーさんが待ち構えていた。

「だから言ったでしょう。 ・・・こんなに体をぼろぼろにして、会社は何の保障もしないのよ。身を犠牲に会社に尽くして、いったい何の利得があるのよ!」

「俺は、会社のため、人間のために身を犠牲にするのではない」

「では、何のため?」

「真実の神のためだ・・・。この宇宙の真理と奇跡の無限性の為に働くのだ」

「そんなの、どんなに働いても給料を上げないでしょう、誰が生活を守ってくれるのよー」

「それは、神様が絶対に守る。それが俺の信念だ。もし、それが間違っているのなら、それでもいい。死ぬまで、信念を貫くだけだ・・・」

ばーさんは私のショルダーバックを奪い取り、肩を突き出した。それに縋るようにして私は歩いた。・・・考えてみれば、いいばーさんであります。それにくれば、私はなんと、悪いじーさんなのであろうか。 中空のお月様が、何故か微笑んでいるように思えた。

トップへ戻る

 





9月27日(月) 東京は今日も雨だった


今朝は膝の激痛で目覚めました。手を伸ばしてカーテンを開けますと、外は土砂降りの大雨であります。6時ちょっと過ぎ、変人監督から電話が来て、

「あはははー、今日は大雨で天気が良いですので、作業を中止します。あはははー・・・」

ということでありました。おかげで ”ほっと”いたしました。この激痛を抱えて現場に出たのでは途中、目眩を起こして失神すること間違いないからだ。

痛む足を椅子にもたせて寝ておりますとばーさんが怒鳴った。

「あーた、病院へ行ってきなさい。1ヵ月は休む必要がある、という診断書を貰ってくるのだ。分かったかー」

ということで、大雨の中、傘を差し、近くにある東京病院へびっこを引きながら歩いていきました。

道路は小川のように雨水が流れております。病院へ着きますと大勢の人々ががやがやわいわい騒いでありました。

「あれ、B子ばーさん、今日は見えないわね?」

「きっと、風引いて寝ているのよ・・・」

というわけの分からない会話が聞こえたりした。

受付をすまし、整形外科の待合室で呼び出しを待つこと1時間半、ようやくお呼びがかかって診察室へ入った。

手入れの行き届いた口髭の先生が眼光鋭く言った。

「どうしたのでありますか?」

「はい、2ヶ月ほど前、ブロック塀の上から飛び降りて膝を痛めたのであります。最初は痛くなかったのですが、だんだんと痛くなり、最近では歩行困難となっております」

先生はうなずき、私の痛む足を引っ張って膝関節を眺めた。

「ん、逞しい足だ。・・・それにハンサムだ。もしかして、女優の仲間由紀恵の兄さんか?」

「え? ち、ちがいます。同じ浦添市ですが、親戚関係ではありません」

「ん、それは残念。・・・まあ、要するに、レントゲンを撮らん事には何も打つ手無しだ。放射線課へ行ってレントゲンを撮ってきなさい」

ということでレントゲン課へ行った。するとそこの女性レントゲン技師が何故かうろたえてミスばかり・・・。感光版を置かないで放射線発射、・・・それから、あわててやり直し。椅子につまづいて転んだり、白衣の袖を器具のパイプに引っ掛けて破り、ブラジャーの一端を覗かせたり、なんとまあ、有難くて慌しいこと、雨の日は人間の脳波が狂いやすいのですね・・・?

それから再び口髭先生のもとへ・・・。

「ん、これは、半月盤と上部軟骨が痛んでおる。・・・クッション役をする軟骨をすべすべにしなければならない。そのためには鶏の鶏冠から抽出したエキスを注入しなければならない。これは軟骨と同じ成分だから効果てき面だ。いまのところ、これしか打つ手はない。どうするか? 痛み止めだけを飲んで薬物中毒となるか、思い切って注入して楽になるか、2つに1つだ」

そこで、鶏冠エキスの注入をお願いした。口髭先生は満面に笑みを浮かべて太くて長い注射器を取り上げた。

「ぎゃー、せ、先生、そんな危険なものを持ってどうするんですか?」

「ぎゃー、ぎゃー騒ぐな! 貴様、それでも日本男児かー! いざ、覚悟ー・・・」

そして、その凶器は私の膝関節の奥深くへと突き立てられた。凄まじい激痛、私は目眩を起こし、失神した。

気がつくと待合室のソファーに寝かされていた。私は起き上がりまして口髭先生にお礼を申し上げ、会計課の窓口へ向かった。そして、突然、コーナーから現れた女性レントゲン技師とぶっつかって倒れた。

そして、なんと彼女も私に乗りかかって倒れたのです。折り重なった男と女、彼女の唇が私の頬に柔らかく接触された。これは最高であります。

私は起き上がり、彼女の手を優しく握って引き起こした。

「ごめんなさい、怪我はありませんでしたか?」

彼女はボーっとしたまま、私を見つめ続けた。そして、はっと我に返り、何度も頭を下げてレントゲン室へ消えていった。

傘を差して外に出ますと雨はさらに一段と激しくなっておりました。膝の痛みは半減している。あの口髭先生、なかなかの名医、とみました。

それにしてもこの雨、明日は止むのであろうか、東京は今日も雨、明日は天気になーれ!

トップへ戻る

 



9月26日(日) 雨が降っても良い天気   



今日は朝から雨が降って良いお天気であります。そして、日曜日ですけど仕事であります。何しろハード・スケジュールが、霧雨に閉ざされた視界の果てまで続いておりますので、休む訳にはいかないのであります。

おかげで膝の怪我はなかなか治らず、痛みが時々激痛となって耳鳴りがしたりする。 ばーさんは ”一ヶ月間は休め ” と喚くのですが、男の世界は厳しいのだ。たかが膝の怪我ぐらいで休むようではお床の中の男ではない。

・・・そういえば学生の頃、若さと馬鹿さを発揮、柔道の試合で下からの腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)をまともに喰らい、右腕を骨折したが、その激痛をこらえて相手を引き起こし、巴投げで投げ飛ばして一本を取り、そのまま気絶したことがあった。

あの時に比べればこの膝の怪我、たいしたことはないわ、ぐわっはっはっはっはっはー???、 ・・・しかし、第2の青春、真っ盛りですが、膝の怪我、やっぱり痛いですね!皆さんも怪我にはよく注意いたしましょう! 注意一秒、怪我一生といいますから・・・。

現場は入間市の仏子、霧雨に近い雨がしとしと、と降り続けておりました。 すぐお隣は仏子小学校でありまして、グランドのあっちこっちに水溜りが出来ておりました。現場は赤土の泥濘となっておりまして、長靴が吸引されて歩行困難でありました。痛い膝がますます痛くなるのは当然であります。

しかし、モルタル仕事ですので、雨の中での作業は不可能であります。仕方がありませんので、境界線を越境している箇所を削り取ったり、草木の根っこを切り取ったりの作業となりました。しかし、それも10時には終了と相成りました。

 変人監督のHはうろたえております。昨日 「雨は絶対に降らない。だから、日曜出勤で仕事をする」 と威勢のいい啖呵を切ったからであります。

「おい! 今日は雨が降っていい天気ですね?」 

と申し上げますと、彼は青ざめて、

「あははははははー、雨が降ったらいい天気ですか? あはははははー」

「地球の天気はいつもいいのだ。おまえ、お月様の温度を知っているか? ・・・明るいところが107℃、暗いところが−153℃なんだ。それを思えば、地球はいつもいい天気だ。分かったか!」

「わ、分かりました。 今日は10時終了ですけど、一日分の日当といたします・・・!」

「ばか者! それでは会社が損をする。 俺はゼロで、金ちゃんと秀さんは半日としなさい! 分かったか!」

「は、ははははーい・・・!」

ということで10時ちょっと過ぎに現場を離れたのであります。

トップへ戻る

 



9月21日(火) 病まず、死なず、弱らず


現代科学で人間の寿命は「125歳」となっております。事実、ウイスキーのラベルに描かれているあの有名なトーマス・パーさんは、125歳の寿命を全うしております。そして、何と、102歳のときに強姦罪で逮捕されて刑務所行きとなっているのであります。ただ、ただ、恐れ入り奉り、尊敬の眼を隠し切れませんですね? 告訴した相手はどこの誰だったのか、まだ、情報はつかんでおりません。

・・・しかし、真実は小説よりも奇なり、でございまして、その125歳で驚いていてはなりません。なんと旧ソ連の農夫・シライ・ムスリモフさんは168歳まで生きたのであります。お亡くなりになったのは1974年の9月であります(NHKラジオ第一放送・今日は何の日より)。 そして、これもまた驚くべきことに彼は130歳のときに56歳の奥さんを懐妊させ、女の子を産まさせているのであります。・・・ということは男の機能は130歳以上になっても華々しく発揮できる、ということになりますか・・・? なんとなく明日への希望がわいてまいります。

だが、さらにしかし、日本にはそれ以上の長生きがおられたのであります。江戸中期、因幡の国(鳥取県)に儀左衛門という百姓がおりましたが、彼はなんと209歳まで生きております。これはちゃんとした記録にありますので、信憑性は高いといえます。

伝説での長生きはノアの末裔で、アブラハムの父であるテラが205歳、アブラハムが175歳ですので、儀左衛門さんはその記録を破った記録保持者、ということになります。

ある宗教の女教祖は「人間の常命を115歳と定めておく。その後は心次第、生きたければ、好きなだけいつまでも生きていなさい」と断言しておられます。さらに、「病まず、死なず、弱らず、心次第にいつまでも居よ」ということですので、不老不死の活気に満ち溢れた永遠の人生ドラマが可能である、というわけになります。

しかし、世の中には死にたい、と本気で思っている人が少なくありません。何故、そう思うのか? それは心の奥にあるはずの「愛」なるものが破壊されているからだと思います。 救われる道は正しい信仰を持つことだと思います。間違ってもテロや戦争をする宗教に入ってはなりません。

ようするに何が言いたいのか、と申しますと、働くことに関しては気力充実、やる気満々が大切。そこから永遠の若さと不老不死が現れてくるのは間違いない、ということであります。

トップへ戻る




9月15日(水) 極悪非情 

ほんとに恐ろしい話でございますが、徹底的に虐められ、半殺しの目に合わされ、愛する人々を殺され、ありとあらゆる屈辱を与えられたとき、私は悪魔になるのを止めることが出来ないだろう。その人を滅多刺しにし、殺してやりたい、と本気で思うに違いない。日常生活においても、人格を著しく卑下され、罵倒されたとき、こみ上げてくる激怒を抑えることは出来ないからだ。

しかし、私は信仰のおかげでそれを懺悔と悟りの無の中に、なんとか葬り去ることが出来る。虐める、陵辱する、侮辱する、それが弱い相手を恐ろしい悪魔に作り変えていくということ、虐待する本人は知らない。・・・しかし、その本人自身も、実は虐待され、侮辱されて人格を破壊された存在であるのです。

9月14日火曜日、あの「宅間守」が死刑執行された。8人の児童を刺殺し、他の13人の子供と2人の教師に重軽傷を負わせた彼は、取り押さえられて現行犯逮捕された。遺族への謝罪や、罪責の念はまったく見られず、早く殺してくれ、と喚くのみであったという。

確かに、彼は良心が破壊された精神欠如者であり、心神喪失の状態においての犯行ではあるが、刑罰の矛先を死刑という一点だけに固定して、あとは「無視」でいいのであろうか・・・?

 私に言わせれば、彼こそ最大の被害者であり、人格と人間性を惨殺されて、冷徹な刃物に作り変えられた哀れな男だと思う。刃物が人の心臓に刺さったとき、刃物自体を死刑にしたところで意味はないのであります。その刃物を作り、その刃物を操る存在こそ真の殺人者ではないのか?

彼を刃物に作り変え、操ったのは誰か? それは人間界の悪ではないのか? もし、彼が豊かな愛の中で育てられ、安定した環境で幼年期を過ごしていたら、これほどまでに狂わなかったと思う。

彼は世間のありとあらゆる非難攻撃、罵倒、侮蔑、憎悪、恨みの中で消えていった。・・・しかし、ここでわれわれは悟らねばならないと思う。彼に対するこの激烈な憎しみ、憎悪、恨み、復讐的殺意、それこそ彼を支配した以上の極悪非情な悪魔ではないのか?

己自身の損得のみを勘定する独善的な人間、そういう人間が愛と思いやり、正義の味方とならぬ限り、第2、第3の宅間守が次々と現れてくると思う。

同じ日に福岡でも1人が死刑執行されている。1億円の保険金目当てで1人を殺し、口封じのためにさらに他の2人も殺した暴力団組長である。

・・・そして、栃木での4歳と3歳児の誘拐殺人事件、人間の狂気は日一日と濃度を高めている。日本を動かす偉い方々は、金集めだけではなく、切羽詰った心の問題に、そろそろ重点を置き始めてもいいのではないのか?

トップへ戻る

 



9月12日(日) 月下美人全開  

9月10日、夜8時、月下美人が開花いたしました。全部で6個であります。ほんとは7個咲くはずでしたが、ばー様が移動中に一個を窓枠に引っ掛けて落としてしまったのであります。 しかし、それはそうなる定めだったのだ。人間思案は無用、咲いてくださった月下美人に感謝をしつつ、その美しさを楽しまさせていただきました。

現場から戻った私は、着替えもせずにデジカメとビデオカメラで徹底的に撮影し続けた。

見れば見るほど、不思議さが湧き上がってくる。しかも、この世のものとは思えない芳香を部屋中に漂わせている。

その神秘的な美しさ、闇の妖美、一体、これは何なのだ? この植物のどこに、この奇跡と超芸術を生み出す仕組みがあるのだ? 

私は感動に痺れ、陶酔しながら眺め続けました。

トップへ戻る

9月7日(火) スーパー・プルーンPart2

2億5000万年前、スーパー・プルーンは史上最大の火山噴火を誘発し、地球は焦熱地獄となりました。さらに海底のメタン・ハイドレードが膨大な量のメタンガスを発生させ、酸素と結合して相殺し、極端な酸素不足をもたらしたのであります。そして、生物の95%が絶滅した。

焦熱地獄が治まった後も、酸素不足は回復せず、その状態が1億年も続きました。わずかに生き残った生物はこの過酷な状況になんとか適応し、存続しようと、のたうちまわったのであります。われわれの祖先、つまり、脊椎動物の祖先でありますキノドン(単弓類)もその生き残り組みに入っておりまして、断末魔の悲鳴を上げながら体を酸素不足に適応できるように進化させていきました。

その酸素不足をいかにして克服するか、それには呼吸効率を良くしなければならない。そこで現れたのが、われわれの次の祖先でありますトリナクソドンであります。彼らは肋骨を胸部だけにし、横隔膜を持つようになった。これによって呼吸をしやすくし、酸素を多く取り入れられるようにしたのであります。

一方、恐竜や鳥類の祖先であります双弓類は特殊な呼吸器官、機能システムを持つようになった。これは酸素を吸って炭酸ガスを出す、という呼吸において、肺の中に絶えず酸素があって、炭酸ガスが絶えず排出される、という仕組みになっております。

したがって、酸素があるときとないとき、炭酸ガスが充満しているときとそうでないとき、に分かれるわれわれの呼吸法の数倍も、酸素取入れ効果が優れているわけであります。

その結果はどうなったか? 酸素濃度が高まるにつれて特殊機能システムを持った恐竜の祖先は巨大化していきます。そして、巨大化しないものは、その分を飛翔エネルギーに振り替えて鳥類へと進化して行ったのであります。

われわれの祖先はネズミのような小動物で、卵を産むことから次第に胎生へと進化していきます。そのほうが酸素を多く母体からもらうことが出来、外敵の被害に遭うのも少なくなるからであります。

最初の胎生動物はエオマイア(黎明期の母)と呼ばれておりまして、その化石が1億2千5百万年前の地層から発見されております。

大量絶滅から一億6000万年後、酸素濃度は回復し、巨大生物の出現となります。30メートルの草食恐竜アパトサウルス、11メートルの肉食恐竜アロサウルス、翼の全長8メートルの翼竜プテラノドン、その他いろいろが続々と現れました。

そして、地上は恐竜の王国時代となり、ネズミのようなわれわれの祖先は彼らの脅威にさらされて逃げ回っていたのであります。

そして、6500万年前、その恐竜たちは巨大隕石の地球直撃によって絶滅いたしました。2億年も繁栄した恐竜、わずか500万年しかたっていない人類が、果たしてそれ以上に存続し、繁栄し、進化していけるだろうか? あまりにも不安材料が多すぎます。

以上で動物進化の勉強を終わらせていただきます。これで賢くなったわけですが、2・3日もすると忘れまして、もとの馬鹿に戻ってしまいます。

しかし、進化は馬鹿になれないと出来るものではありません。一歩賢くなって3歩馬鹿になる。そして3歩馬鹿になって10歩賢くなる、それが進化、人生であります。

今までの進化が地球、宇宙のパワーによってなされてきたものであれば、これからの人類の進化は、人類自らの愛と正義と思いやりのパワーで推し進めていかねばなりません。

そうでなければ恐竜が絶滅して人類にその王座を明け渡したように、われわれ人類も天地大自然のパワーに根絶させられて、別の生命体に王座を明け渡さねばならなくなるのです。

いつまでも憎しみあって殺しあったり、戦争したり、個人主義に走っているときではないと思います。世界一列みな兄弟姉妹、肉親であります。寛大な心でお互いを許しあい、心の完成を目指し、真実誠の慈悲と実践の道を歩んでいきましょう!

トップへ戻る



9月7日(月) 9月の紫陽花

きょうの現場は入間市の仏子という所でありました。作業内容は当初の予定と違いまして単純な草むしりでありました。

当初の予定とは万年塀を叩き壊し、それを片付けてブロック積み、路盤整成、そして、アスファルト舗装、となっていたのであります。ところが、周囲の宅地との境界問題が複雑に出てまいりまして、それが出来なくなったのであります。

仕方がありませんので作業員の一部はお休みとなりまして、私と金ちゃん、そして変人監督、HRさんが残りまして草むしりとなったわけであります。

HR監督が何故、変人かと申しますと、自分の思いついたこと、考えていること、願望などが黙っていても作業員に伝わる、と思っているからであります。たとえば、

「仏子の現場はどこにあるのですか?」 

と金ちゃんがお聞きいたしますと、

「東のほうだ。あとは、黙っていても分かるだろう・・・」

「それだけで分かるわけないでしょう? 具体的にどこどこをどう行って、どこに曲がってまっすぐ行くのか、はっきり説明してください」 

「仏子小学校のすぐ裏だ・・・、地図を調べて行け。俺は忙しい! ばかやろー」

「何、馬鹿? もう一度言うてみろ、いぼ痔野郎の腐れ肛門・・・」

「なんだとう? おめーこそ臭い屁ばかりこきやがって、このスカンク野郎!」

そこで、変人監督と金ちゃんの壮絶な喧嘩が始まる。仕方がないので私が中に入りまして、一人一人を頭上に差し上げて投げ飛ばし、丸く治めるのであります。

これは余計なことでありますが、とにかく草むしりを午前中で終わりまして、午後は何もすることがありませんので金ちゃんは昼ね、そして、変人監督はパチンコへ行ってしまいました。

私は一人、現場裏の林に入りまして植物観察をいたしました。すると、初夏の花であるはずの紫陽花が咲いておりました。9月の紫陽花、・・・狂うのは人間だけかと思いましたが、植物も狂うのですね?

 しかし、変人よりは花の狂い咲きのほうが素晴らしく、高貴だと思いますが、皆様のご判断はいかがでしょうか?

土地問題が決着するのは明日、ということですので、作業は明後日からということになります。それで明日は休み、久しぶりに池袋へ行って、映画でも見てまいります。

では、皆さん、明日の今宵!

トップへ戻る


表紙へ          次の日記へ