☆情緒制御(2)失敗や破綻への耐性(2004 Nov.)

  恋愛をはじめとする男女交際は、しばしば失敗したり破綻したりする。
 一生に一度きりの恋愛/男女交際で終わる人がきわめて稀であること、
 恋愛技術が経験によって育まれるものであることを考慮すると、恋愛に
 おいて失敗したり傷つき倒れることも(特に、単なる交際ではなく恋愛を
 志向する限りは)滅多に避けられないプロセスと考えられる。これ以上恋愛や
 男女交際を行う必要がない場合はともかく、そうでない人達、特に思春期の
 比較的前半でこれから恋愛技術を育成していきたいと願っている人の場合、
 失敗からの学習は絶対に必要である。稀にいる失敗の無い恋愛強者でさえ、
 “失敗ではないけど破綻した”“仕方なかったが苦かった”ような経験から
 多くを常に学んでいるではないか。

  恋愛や男女交際で、最初から破局を望む人は少ないし、失敗したいと考える
 人はもっと少ない。そうは言っても、好きになった対象異性にNoを宣告される
 可能性は常に存在する。また逆に、自分自身の何らかの都合や失策によって
 大切な異性を失ってしまう事も起こり得る。対象異性や自分の問題・或いは
 双方の関係性の問題などからその恋愛や男女交際が望まない終わりを迎える
 ことは常にあり得ることだ。しかし、

 ・恋は甘い花である。しかしそれをつむには、恐ろしい断崖の
  はしまで行く勇気がなければならない。 (スタンダール)

 という格言は殆ど真実だ――それも、その異性への思い入れが強いほど。
 崖から足を滑らせて、甘い花を摘み取れないばかりか怪我をするリスクは
 常に存在する。そこまでいかなくても、嫌われてしまって関係の建て直しに
 苦慮するぐらいは日常茶飯事である。ついでに言えば、その対象異性を
 かけがえないと思えば思うほど、一般にこの断崖絶壁の高さは高くなり、恋
 敗れて落下した時の心理的ダメージは大きくなる。しかしこのような危うさや
 リスクも含めての恋愛なわけで、このリスクを許容できるか出来ないかは
 あなたの恋愛への参加決定に際だった影響を与える。失敗や破綻をある程度
 許容できる人(特に、自分自身の精神が十分に痛めつけられるような失敗や
 破綻を許容できる人。対象異性の精神が十分に痛めつけられるような失敗や
 破綻を許容できる人ではない)は、自分自身の精神的苦痛や、“もしかして
 嫌われる可能性”といったものを掛け金にして、対象異性に対してアプローチを
 行うことが可能だ。崖に落ちるリスクを賭けなければ、恋愛は遂行できない。
 しかし、このような許容の度合いが低い人の場合、言い換えれば自分自身が
 失敗したり嫌われて嫌な思いをする事を許容できない人の場合、対象異性の
 Noをはじめとする自分自身の精神的苦痛を受け入れることが出来ない
 こうなると、“守り一点張りの将棋”“敵のリーチがかかると降りる麻雀”を打つ
 ことになってしまう。もちろん、これでは単位時間あたりの失敗や破綻の
 ダメージは小さくなるかもしれないが、それらの将棋や麻雀が絶対に勝てない
 のと同様、結局はその対象異性との望んだ交際に持ち込めない※1
 仮にあなたの交際戦略が一人あたりからの拒絶ダメージが比較的少ない、
 不特定多数に対するアプローチを選択する場合でも、最低限、どうでもいい
 相手からのNoに耐えるぐらいの能力は要求される。それもこの場合、多数の
 どうでもいい異性からのNoや無視を、である。結局のところ、対象異性に
 ぞっこんの恋であっても、ナンパや合コンのトロール漁船戦略であっても、
 ホントのホントに最低限の耐性は必要と思われるのだ。

  では、どうすれば失敗や破綻と背中合わせでもアプローチする能力orスキル
 が身に付くのか?幾つか、可能性を考えてみると、


 A.恋愛/交際における勝利経験や、自分自身に関するそのほかの成功体験

  自分自身に成功体験があるならば、『自分はいつも失敗ばかりしている→
 今度も失敗するだろう』というスキーマは生じにくいか、軽減すると考えられる。
 成功体験、と書いてみたが、これは客観的な意味での成功体験ではなく、
 主観的体験としての成功体験でなければ意味が無い(例えば客観的にはかなり
 成功したとしても、本人が不満で周囲の人々も褒めてくれなければ、成功体験と
 して実感されない)点には注意されたい。客観的にどうだかはともかく、自分に
 とって本当に嬉しい体験をここでは成功体験の必要条件と考えている。

  特に期待できるのは、自分の力で恋愛・交際を過去に成立させていた場合
 である。一度も勝利経験が無い兵士や敗北経験しかない兵士と、勝利に輝いた
 ことのある兵士では、戦場に立った時のビビりかたや大胆さも相当違う
 まあだからこそ、交際上手はより交際上手になりやすく、交際下手はいっそう
 交際への自信を失って弱くなりやすいのだろうけれど。

  また、同性とのコミュニケーションにおける成功体験も少なからぬ影響を
 与えるだろう。同性/異性どちらのコミュニケーションにも様々な共通点が
 存在する※2し、だからこそ、同性とのコミュニケーションで有用なノウハウ
 獲得や成功体験は異性とのコミュニケーションにも幾らか通用し得ると
 考えられる。同性とのコミュニケーションで成功体験を積む行動は、異性
 相手のコミュニケーションへの怖じ気づきを少なからず軽減すると私は
 推測する※3。恋愛以外の同性相手のコミュニケーションも含め、良い体験を
 重ねたいものである。もちろん、自分自身にとっての良い体験を。


 B.失敗や破綻に対する慣れ、という捉え方

  むしろ失敗や破綻は必然であるという捉え方のもと、物量作戦を旨とする
 アプローチは、失敗や破綻による精神的打撃を最小限にする可能性がある。
 特に、対象異性を限定しない不特定多数をターゲットとしている場合、一人に
 嫌われたり振られたりした所で次の異性にアプローチをかければ構わない
 わけで、百本の釣り竿のうち一本や二本本に魚がかからなかったからといって
 落胆することは無い。どこか一本の竿で魚が釣れればノープロブレムである。
 対象異性が取りかえっこ可能な不特定多数として認識されていなければ
 こういった戦略は採用出来ないが、トロール漁船のように対象を特定しない
 総ざらいな男女交際を志向する限りは、一度あたりの失敗のダメージが軽減
 するため、より低い不安耐性で何とかなる可能性が浮上する。

  このような戦略を背景にした物量作戦は、十の断りがあろうが百の罵倒が
 あろうが、一度の勝利をおさめれば良しとするものであり、失敗や破綻は
 単なるプロセスとして組み込まれる。そして、単なるプロセスであるという認識が
 明確であればあるほど、不特定多数の異性からの無視や断りは失敗だと
 感じなくなっていく。“有意味な失敗が無い”というのは考えようによっては
 デメリットにもなり得るが、そのデメリットを許容できるorデメリットに気づかない
 ならば、問題とはならないだろう。狙いを限定せず、下手な鉄砲を大量に
 乱射するという恋愛ドクトリンは、激しい思い入れの恋愛とそれに伴う断崖
 絶壁の恐怖を軽減するには良い方法だとは思われる。

 …断っておくが、断崖絶壁と背中合わせの、対象への激しい情熱こそが
 恋愛だという考えの人には、この対処法は全く不向きなので注意。情熱的な
 恋愛を体験・成功させたい人は、男女交際にまつわる不安を軽減させるの
 ではなく、不安耐性そのものと何らかの形で直面しなければならない。


 C.失敗を教訓に転化し、吸収すること

  恋愛に限らず、貪欲さと向上心は熟達への道に通ずる重要な鍵であり、
 それ自体が一つのパッシブスキルと捉えることも出来る。一般に、成功より
 失敗からのほうが問題点を学びやすいため、失敗した時にどれだけ教訓を
 導き出せるかは学習効率に大きな影響を与え得る。もちろん、恋愛や男女
 交際についても同様で、失敗・挫折時に思考停止せず、次回への教訓や
 注意点を導き出せるならば恋愛技術は向上しやすいことだろう。あまりに
 打ちのめされた人には難しいのは百も承知で書くが、もしも失敗から学び、
 次回の方法を改善させる事を知っている人は、ひとつひとつの失敗を階梯
 として恋愛技術を高めていくことができるだろうし、そして遅かれ早かれ
 実りのある恋愛や男女交際に至るだろう。十分な経験と物量を投入できる
 ならば、これは時間の問題である。

  もちろん、失敗から教訓を学びとる為には(特に効率的に学び取る為には)
 それ相応の学習能力が要求される為、極端に(この分野の)学習能力が低い
 場合には同じ失敗をひたすら繰り返したり、似たようなレベルで堂々巡りして
 しまう可能性はある。だが、そうでない多くの人の場合、失敗や破綻をむしろ
 積極的に糧にしようとする意欲があれば、失敗から多くの教訓を導きだし、
 次回に生かすことができる。そして導き出した教訓が適切であれば、同じ轍を
 踏む可能性を大幅に減じることができる

  このような性質に気づき、失敗や破綻すら諸々の恋愛技術の向上のチャンス
 と捉える心理的体制が整ってくれば、失敗や破綻に対する許容度は高くなる
 だろう。なぜならこのような人は、失敗すら価値の高いプロセスとなるだろうし、
 失敗すら大切な思い出となり得るだろうからである。もしかしたら、失恋した
 相手にすら深い感謝を示したくなるような事態すら多発するかもしれない。
 どうあれ、最早失敗はゼロではない。失敗は、否定的なコンテキストとしてだけ
 ではなく、肯定的なコンテキストとしてもあなたの中に蓄積し得るようになる
 恋愛や男女交際は強烈な情念が絡む体験なので、失敗を生かそうと思っても
 なかなかキツい。しかしもし可能ならば、このような心理的体制を整え、失敗
 すら(そして失敗となった対象異性からの諸々の産物すら)己の血肉に変えて
 しまうことを勧める。厨やDQNの脳味噌でもない限り、無理ではないと私は
 信じたい(いや、実際はこれが可能な中学生などもいるから、厨などという
 表現は不適切だ。すまん)。そしていつか、数々の失敗を思い出して『あの頃
 必死だったけど、そのお陰で今があるんだな』と回想できる日を迎えよう
 ではないか。



  以上、ちょっと失敗耐性の改善について考えてみた。本来改善方法は
 このテキストではあまり触れないつもりだったが、こうやって触れてみると、
 逆にどういう問題が失敗・破綻耐性の低さと関係しているのかが少し
 見えてくるような気がする。ここまでの考察を考える限り、ごく単純に『勇気』と
 表現しても悪くない失敗・破綻耐性は、重要だが、しかし全くの先天的な
 ものではなく、後天的な活動を通して一定の改善が可能なものと考えられる
 そして改善が可能である限り、私はこれに技術という呼称を割り当てる事を
 躊躇わない。先天的な要素や幼少期の経験なども絡んでいそうなので、
 全ての人にこれが獲得可能とは言わない。だが、多くの人が後天的に獲得
 可能なアビリティだと私は信じている。


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 【※1結局はその対象異性との望んだ交際に持ち込めない。】

  もしもあなたが、対象異性に“いいひとですね☆”って呼んで貰いたい
 だけなら、降りるだけの麻雀も結構だとは思うんですけどね。




 【※2様々な共通点が存在する】

  思春期以降に発展する異性とのコミュニケーションは、思春期以前の
 同性とのコミュニケーションを前提としたうえで発展する説が存在する
 (発達心理学者達の、比較的古典的な見解にはこのようなものがある。
 ハヴィガーストの『人間の発達課題と教育』をググったら、例えばこれ)。

  思春期の発達課題に数えられる変化には様々なものが含まれるが、
 こと異性との関係に限ると、ここで初めて本格的な異性相手の意識と
 コミュニケーションが発生するということになっている。いや、殆どの人は
 実際そうなのだからまあ、それほど間違った意見でもないだろう。そして
 思春期が終わる頃には、異性とのコミュニケーションに関する課題は解決
 していることが望ましいとされている(しかし、この視点に徹する場合、この
 課題を解決していない大人は思春期で発達課題が停止しているとみなす
 ことも可能となる。徹しすぎるとやう゛ぁいかもしれないね)。そして、この
 異性とのコミュニケーションは、児童期の同性相手のコミュニケーションを
 前提として発達すると考えられている。発達課題の理論は、前の段階を
 克服した人が次の段階に進み、そしてまた次の段階に…とグレードアップ
 していくような考え方を原則としてとっており、コミュニケーションに関しても
 同様の原則が適用される。確かに、比較的似たような考えを持っている同性
 児童間のコミュニケーションと、第二次性徴以降の異性間のコミュニケーション
 の難しさを考えると、後者は前者に比べて圧倒的に難しい。比較的似た志向・
 性質の同性とすら交際できない人間が、違った志向・性質を持った異性と
 上手くつき合える筈がない。いや、不味い付き合いなら出来るかもしれない
 かもしれませんがね。

  こういった、連続的・段階的な発達課題というものの考え方で考えると、
 異性とのコミュニケーションは児童期のコミュニケーションによって下支え
 されている、という事になる。古典的ながら、これはこれで説得力のある
 説明だな、とは思うし、この考え方でいけば、児童期の(または児童期に
 本来獲得しておきたい)同性同士のコミュニケーションスキルと異性との
 コミュニケーションには、共通している部分があると表現するよりはむしろ、
 前者が後者の基盤となっていると表現するほうが適切に思えてくる。

  ただし、古典的な発達課題理論によるこのような正当化は、どれほどの
 説得力を今現在持ち合わせているのだろうか?この点には留意が必要だ。
 ハヴィガーストにせよエリクソンにせよ、私達とは異なる時代・文化を生きた
 学者だという事を忘れてはならない。もちろん現在にも通用する滋味豊かな
 考え方なのは間違いないが、当時には通用しても現在には通用しない成分が
 混じっていることも忘れてはならない。紙幅の関係でこれ以上は省略するが、
 発達課題という視点は、注意深く扱わなければならないし、注意深く扱うならば
 現在でも有用な視点なのは間違いない。まあ、全ての学問や書物がそうなん
 でしょうけど。




 【※3軽減すると私は考える。】

  ふと、疑問に思うことがある。

  学童期にどれだけ同性とのコミュニケーションシーンで成功しているかと、
 思春期にどれだけ異性とのコミュニケーションシーンに挑戦できるのか(そして
 素早く技術を獲得できるのか)に、何か面白い相関関係か因果関係がありは
 しないか?という疑問である。もちろん、これを調査した研究を私は知らない。
 もし知っていたら教えて欲しいものである。社会学の好きな人なら、こういう
 のって知ってないかなぁ...誰か、いいレポートあったら教えてください。

  直感的には、これには相関があるんじゃないかと思う。私個人の体験を
 回想する限り、同性間のコミュニケーションにおいて成功体験を重ねている
 人(大抵こういう人は、腕力・かけっこの速度、見た目、等の、同年代同性に
 呈示可能なプレゼンスを保有している)は、比較的早期に異性とのコミュニ
 ケーションを構築し始めていたような気がするのだ。どこまで、同性間
 コミュニケーションによる成功体験に依るのか、どこまで同性間コミュニ
 ケーションの練度に依るのかまではちょっと分からないけれども。