【汎用性の高さがコミュニケーションを制する時代――昨今注目の高まる“コミュニ
 ケーションスキル”と、ポストモダン的状況の関係についての一考察(2)】2006.01/23


  このテキストは、こちらの続きです。先にこちらをお読みになったほうが良いかと
 思います。


 【いま脚光を浴びるコミュニケーションスキル、とは】

  前のテキスト冒頭でも触れたが、昨今はコミュニケーション能力・コミュニケーション
 スキル/スペックという言葉にやたらと注目が集まっており、学校教育・ビジネス・
 恋愛・脱オタクなど様々の分野において重要性が強調されている。曰く、コミュニ
 ケーションスキルがあれば恋愛が上手くいくだとか、ビジネスシーンで成功するのは
 コミュニケーションスキルの高い人間だとか、もう褒められ放題である。では、今推奨
 されているこのコミュニケーションスキルとは具体的にはどういったスキルや素養
 (スペック)をさしているだろうか?また、どうして今になって脚光を浴び始めたの
 だろうか?このテキストでは、そこを改めて考えてみる。

  まず、コミュニケーションスキルについて、グーグル上位から幾つかピックアップして
 みよう…と思ったら、案外これを定義づけて解説している場所がない。仕方ないので、
 はてなダイアリーに登録された定義をまず抜粋してみよう。

 はてなダイアリー:コミュニケーションスキルとは?

 対人関係を円滑に進める技術を指す。「相手の信頼を得る技術」ともいえる。
ビジネス書で使われることが多い。

 コミュニケーションには「読む」「書く」「話す」「聞く」があるが、「コミュニケーション
スキル」においては、「話す」「聞く」といった電話や対面で行われるリアルタイムでの
コミュニケーション技術を指していることが多い。

 「聞く」では、相手が言っていることを理解するのは前提条件だが、相手が口に
出してない感情や思考をうまく推測できることが求められる
「空気を読む」と言われたりもする。

 また「話す」では、一方的に自分の話したいことだけを話すのではなく、相手の
要求を的確に把握し、提供することが求められる。相手が直接言った要求に応える
のは誰にでもできることで、「聞く」で触れたように、相手が言語化してない要求を
把握することが特に重要である


補足:以上の解説筆者:kanoseさんによれば、実際、ネット上でコミュニケーション
スキルをきちんと定義づけているサイトは少ないらしい。ここここが該当記事で、
関連テキストはこちらで一覧出来る。


 ビジネス書が宣伝しているものは、だいたい以上の定義に収まるのではないだろうか。
 また、行動学におけるコミュニケーションの定義(ジャレド・ダイアモンド博士)を引用すると、

 “行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて
 自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである”

 なんだだそうなので、人間同士のコミュニケーションとは、

 “対人コミュニケーションとは、他人の行動の確率を変化させて、自分または
 自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである”

 と定義づけることが出来る。となると、コミュニケーションスキルとは、このプロセスを
 成功させたり、大失敗に至らないようにする為のスキル全般を指すわけだ。なるほど
 ビジネスや恋愛など、他人の行動に介入して結果を得る営みには須く影響しそうで
 ある。コミュニケーションスキルが不十分な場合は、他人の行動の確率を十分に
 (そして望んだ方向に)変化させることが出来ないというわけだ。

  なお、“コミュニケーションスキル”という語彙を聞くと、“スキル”というニュアンスから
 学習によって後天的にマスター出来そうな印象を受けがちだが、コミュニケーション
 スキルという単語の一般的意味合いのなかには、先天的素養や幼児期の発達に
 よって強く規定された要素が多分に含まれている点に注意。うちのサイトでは、
 “スキル”“技術”と呼ぶのに相応しくない要素を含めた上位概念として、極力コミュニ
 ケーションスペックと呼称している。以下、ここから表を抜粋すると、

コミュニケーションスキル
の一例
姿勢制御
ファッション
言葉の選び方・語彙力
語学力
相手の立場を想像する癖
場に合う表情
コミュニケーションスペック
の一例
(青字は後天的訓練で
覆されにくそうなもの)

姿勢制御、体格、身長
ファッション、顔面の形態、バストのサイズ
言葉の選び方・語彙力
語学力、現在いる場所に対する出身地
相手の立場を想像する癖
場に合う表情、場の流れや話の流れを把握する能力
パーソナリティ、経済力、文化的ニッチ、年齢etc


  といった具合に、コミュニケーションの可否を決定づける要素のなかには“スキル”
 “技能”と呼び得ないものが沢山含まれている。このうちhow to 本がターゲットにして
 いるのは、なかでも後天的学習によって変化しやすい“スキル”に該当する諸要素
 だが、コミュニケーションが“他人の行動を望んだ方向に変化させやすくする”営み
 である以上、技能以外の素養・手持ち資源によってもコミュニケーションの結果が
 変化しやすく、例えば金持ちか否か・年齢が幾つかなどによっても結果が変化する
 ことは忘れてはならない。“コミュニケーションスキル”は学習によって人を選ばず
 ある程度身につけられるかもしれないが、“コミュニケーションスペック”総体としては
 (一定の年齢を超えると)大きな素養・背景の差が出てくることは覚えておいて欲しい。

  また、上の表をみて分かるとおり、コミュニケーションスキル/スペックは、どんな
 対象かに関係なく、対象に影響を与えたり、意識させたりするスキル/スペックである
 点にも注目して欲しい。コミュニケーションスキル/スペックと呼ばれる一群は、働き
 かける対象の性別、世代、職業、趣味、文化圏などに関係なく役立つものが多い
 場の空気を掴む力・場に合う表情・姿勢制御などのように、時代にすら関係なく有効
 そうなものも含まれている。コミュニケーションスキル/スペックのなかには、確かに
 ファッションや文化ニッチそのもののように文化依存的にも評価される要素もあるが、
 通文化的な要素や生物学的に規定されていそうな要素を主成分としていることに
 私は注目している。


 【コミュニケーションスキル/スペックが、なぜ現代都市空間で特に要請されるのか。】

  ここまでお読みになった方は、“今も昔も、誰でもそういう能力が必要だ”と突っ込み
 を入れたくなるかもしれない。事実その通りだろう。上述のコミュニケーションスキル/
 スペックは、その定義から言っても、首長社会から現代の大都会までおよそ人間関係
 の存在するあらゆる状況において個人に要請されるに違いない。時代や文化によって
 求められる能力の質的量的相違はあるだろうが、遺伝形質すら関与してそうな幾つか
 のコミュニケーションスキル/スペックには、通文化的・時代普遍的な傾向があるもの
 と私は考えている※1。例えば“場に合う表情の形成”“場の流れや話題の流れを把握
 する能力”は、現代日本だけではなくビクトリア朝イギリスでもニューギニア首長社会
 でも重宝するに違いない。

  だが、なぜ今になってコミュニケーションスキル/スペックなのか?インターネット・
 携帯電話・マスメディア等のテクノロジーが発達した現代において、会話という原始的
 なコミュニケーション形態に適合するためのスキルや素養が脚光を浴びるというのも
 奇妙にうつるかもしれない。だがよくよく考えてみると、コミュニケーションに供される
 新テクノロジーは、その多くが物理的距離や量的問題の解決に寄与するものの、
 コミュニケーションの質的問題解決にはあまり寄与してくれない事に気づく。例えば
 インターネットや携帯電話は、数百キロ離れた距離の人間とのコミュニケーションを
 可能にし、一度に沢山の顧客(あるいは愛人)とやりとりする事を容易にはしたが、
 「自分が付き合うに足る事」や「取引の相手として満足出来る事」は強調してくれる
 わけではない。新テクノロジーは、「付き合うに足る人物」「取引先として満足出来る
 人物」を奪い合うビジネスや恋愛の一度一度の場において、ライバルに勝つための
 アドバンテージを提供するものではない※2

  一方、物理的距離に替わって文化ニッチの細切れ化は進行しており、個人個人の
 交流を妨げる一大要素になってきている(詳細は前テキストを参照)。地縁による結び
 つき※3は失われ、誰が相手でも共通して話せるような話題も、共有出来る価値観も
 後退してしまった。文化の断絶という壁を克服しなければ機能的なコミュニケーション
 が成立しにくく、しかし文化断絶の壁をもしも克服出来るなら、物理的距離を克服して
 従来人間がなしえなかった広いコミュニケーションにアクセス出来るというのが、現代
 のコミュニケーションシーンの大きな特徴ではないだろうか。故にこそ、文化の断絶を
 克服して文化ニッチの異なる人間とのコミュニケーションをも可能にするための“どの
 文化ニッチでも通用する基軸通貨”が求められ、その“基軸通貨”こそがコミュニ
 ケーションスキルなのではないか?と私は考えているのである。『文化断絶の壁に
 閉じこめられてコミュニケーションの機会を限定されてしまう』のか、それとも『文化
 爛熟とテクノロジーの恩恵に預かって幅広いコミュニケーションを達成するのか』。
 どちらに転ぶのかは、ひとえに“基軸通貨たるコミュニケーションスキル/スペック”
 の有無や優劣によって左右されるのではないだろうかと思うのだ。ビジネス書で
 コミュニケーション能力が強調されるのも、個々の人間の質が落ちていることを示す
 現象というよりは、むしろ文化ニッチ断絶の進行に伴い“基軸通貨としてのコミュニ
 ケーションスキル/スペック”が要請される度合い&有効性が高くなってきたことの
 証左なのではないかと私は疑うのだ。


  繰り返すが、ポストモダン的文化細切れ状態におけるコミュニケーションは、異なる
 文化ニッチを持った者同士で行われる可能性が高く、話題や価値観をたっぷり共有
 したうえでやりとりを始めることは困難になっている。コミュニケーションを行う二者間
 の共通基盤や共通理解が少ないということは、そのコミュニケーションを成功させる
 難易度が高くなることを意味するし、二者の間の僅かな共通基盤や共通理解は、
 コミュニケーションを進めるうえの触媒として極めて重要なものになってくるだろう。
 ことに不特定多数とのコミュニケーションを志向したほうがよい場合や、これから
 新しい人と付き合っていかなければならない場合には、文化ニッチ断絶による共通
 基盤や共通理解の欠乏は大きな問題として立ちはだかるし、克服すべき課題となる
 だろう。具体的には、


 1.対象と興味・利害・目的を一致させにくくなってしまう
  ビジネスのように目的や利害が明確になっている関係ならともかく、同性や異性との
 個人的交友を拡張したい場合には、興味・利害・目的を一致させることが難しくなって
 しまっている。ビジネスにおいても、情緒的・価値観的共通基盤を持たずに進める
 事は、共通基盤を持って進めるよりは誤解や失敗を生じやすいだろう。同じ趣味や
 世代の文化ニッチに属している者同士であればコミュニケーションの螺旋を形成する
 のは幾らかラクだろうが、それらの乏しい者同士ではコミュニケーションを形成する
 ことはおろか、コミュニケーションを行うインセンティブを掴む事すら容易ではない。

 2.対象と価値観・趣味・文化が異なる度合いが大きいほど、彼我の異なる部分を
 簡単に交換できなくなる→共通理解・共通基盤も形成されにくくなる。
  対象と共通する部分を軸にコミュニケーションを行うことによって、異なる部分を少し
 づつ認め合うか、それが無理なら相違をひとまず置いておいてコミュニケーションの
 主目的を達成する必要があるが、現代都市空間のコミュニケーションシーンでは、
 それはなかなかに困難である。ビジネスやオフ会においてはしばしば即時性が求め
 られるため、悠長に共通基盤・共通理解を育む余裕が少なく、このため文化ニッチ
 の相違を埋めることなくコミュニケーションを遂行(&成功)しなければならない場面
 が少なくない。恋愛においても、スクリーニングの段階において文化ニッチの相違を
 共通理解によって埋めることは容易ではなく、スクリーニングのレベルでダメ出しを
 されるリスクがつきまとう。

 …などの障壁を克服しなければ、なかなか上質のコミュニケーションは達成できまい。


  上記のような問題は、例えば美少女ゲームオタク同士がゲームの話題だけを交換
 する時には全く問題にならないし、互いが互いを知り尽くしていて、且つ人の出入りが
 少ない(旧来の)地域共同体におけるコミュニケーションにおいても比較的問題に
 なりにくかろう。だが、現代都市空間において様々な人間を相手にコミュニケーション
 を行いたいと思う人間は、須くこうした問題に直面せざるを得ず、何らかの解決案を
 持たなければニッチの障壁を乗り越えることが出来ないだろう。

  よって、現代都市空間でポストモダンな生活を営む人達は、自分の所属する狭い
 文化ニッチの世界を少しでも出ようと企てたとたん、自分と異なる文化ニッチの住人
 との共通基盤や共通理解が欠乏している事に唖然とすることになる。共通理解の
 欠乏に伴い、コミュニケーション(特に対象にまだ慣れきっていない状況下では)
 以前の地域社会のそれに比べて難易度が高くなっており、僅かばかりの共通基盤や
 共通理解を松明にして誤解少なく理解多いやりとりを求めるよう迫られるのだ――
 それが出来ない者は自分の所属する文化ニッチの深い井戸に引きこもるしかない、
 多くのオタク達のように――。この難題を解決するには、文化・趣味・世代に関係なく
 コミュニケーションを牽引するような能力が要請されるだろうだし、僅かでも存在する
 共通基盤・共通理解を最大限に活用する術を身につけなければならなそうである。
 また、従来地域社会に比べて人的流動性の高い都市空間においては、初対面の人
 との出会いが多く、しかもファーストインプレッションによって今後交際を続けるか否か
 が決定づけられる事も多いため、なおのこと“共通基盤や共通理解無しの相手と
 短時間にどれだけ実りある(あるいは良い印象の)やりとりが出来るのか”が問われる
 ことになる。

  だからこそ、現代都市空間においてコミュニケーションスキル/スペックと呼ばれる
 ものがコミュニケーションの死活を握る鍵として注目を集めるのではないだろうか。
 上述のとおり、コミュニケーションスキルやコミュニケーションスペックの内訳を見ると、
 いずれのスキル/スペックも、共通基盤や共通理解の無い人達とのコミュニケーション
 において必須の能力であったり、コミュニケーションにおいて悪い印象を避け好印象
 を与えやすくする性質である事に気付く。そのような汎用性を有するが故に、これらの
 スキル/スペックは共通基盤や共通理解の少ない状況においてこそ切に要請され、
 その有無や優劣が大きな影響を与えると推測されるのだ。

  一方、共通基盤や共通理解が十分の相手に対してだけ魅力をプレゼントするような
 幾つかの技能は、コミュニケーションスキル/スペックには含まれていない※4。文化
 ニッチの断絶と人的流動性が進行した現代都市空間においては、対象と十分に知り
 合ってから親睦を深めるうえで役に立つ素養よりも、対象と十分知り合う前段階で
 とっかかりをつくる素養や、十分知り合うべきかを探り合うスクリーニング段階に
 おける素養、対象に不快な印象を与えないようにしながら自分のセールスポイントと
 要求をわかりやすく提示する素養が求められているのではないだろうか。もちろん、
 自分の文化ニッチに埋没するだけで構わない人はこの限りではない。だが、自分の
 文化ニッチに埋没する人は、ビジネスや男女交際などの諸々の局面においてコミュニ
 ケーションの範囲を狭めなければならなくなるし、機会を与えられにくくなるだろう。
 ちょうどコミュニケーションスキル/スペックが拙劣なオタク達の大半が、自分が消費
 するオタク分野の外に殆どコミュニケーションを広められず、異性や非オタク達とろくな
 コミュニケーションを形成出来ないのと同様、交流の幅を大きく制限されるのだ。

  以上から、広範な対象とコミュニケーションを取りたいと目論む現代人は、否応なく
 コミュニケーションスキル/スペックの問題と対峙させられると私は断じてしまいたい
 無論、コミュニケーションスキル/スペックがその人の価値をすべてを決定づけるわけ
 では無いし、深く付き合うに値する相手か否かを見極める唯一の材料になるわけでも
 ない。また、そのようなスキル/スペックだけで人間の優劣を断じるのはあまりにも
 非倫理的&非効率的と言わざるを得ない。だが、倫理という視点でどうであるかに
 かかわらず、文化ニッチによって断絶された未知の相手とのコミュニケーションが
 激増した現代都市空間においては、コミュニケーションの帰趨はコミュニケーション
 スキル/スペックとして定義づけられる一群のスキル/スペックによって大きな影響
 を受けざるを得まい。自分の所属する文化ニッチ内を飛び出し、広範なフィールドで
 実りあるコミュニケーションを遂行したいと願う人は、2006年現在、この事をしっかりと
 肝に銘じておいたほうが良いと思えるのだ。


  次テキストでは、コミュニケーションスキル/スペックが“基軸通貨たりえる所以”を
 解説し、そのうえでいったん総括を行いたいと思っています。


 →つづき(3・総括と補足)を読む

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 【※1通文化的・時代普遍的な傾向があるものと私は考えている】

  より正確に表現すると、「進化生物学や心理学の人達の本を読む限り、どうやら
 そういう傾向があるっぽい」と私が思っているということだろうか。マーガレット・ミード
 による『サモアの楽園』が幻想に過ぎなかったことが暴露されて既に久しい。




 【※2アドバンテージを提供するものではない】

  物理的距離の解消や遭遇確率上昇そのものもまたアドバンテージである事を私は
 否定するわけではない。だが、それはあくまで他者とのコミュニケーション・遭遇回数
 を増加させるものであって、一回あたりの成功確率にプラス修正をもたらすものでは
 ない事に注意。

  個々の成功確率を上昇させる要素としては、やはり、コミュニケーションスキルや
 コミュニケーションスペックが重要だろう。また、より深いレベルの交際に至る時には、
 狭義のコミュニケーションスキル/スペックに加えて、自分が手持ちとして持っている
 各次元の文化ニッチの種類・それに対する理解・美学などが問われ得ることも付け
 加えておく。もちろん徳性や人となりの細かい部分については言うまでもない。



 【※3地縁による結びつき】

  このなかには、日常的なご近所付き合いだけではなく、地域住民に共通の話題・
 利害・興味を提供する地域行事(祭り・集会など)を含む。地域社会の崩壊や都会化
 が進行する以前は、近所付き合いや地域行事が濃密に存在したため、隣りの住人と
 コミュニケーションを行うインセンティブは色々とあっただろうが、現代都市空間に
 おいてはそういうものは希薄である。形骸化し市町村が主催するようになった祭りに
 出たところで、泥臭いしがらみからは自由な反面、確固たる地域の結びつきを経験
 することはない。せいぜい、無菌化したひとつのエンターテイメントとして消費される
 のがオチである。

  念のため断っておくが、だからといって時計の針を逆戻しすべきだと主張したいわけ
 ではない。地域社会なるものがあればあったで、様々なしがらみが足枷となって色々
 なことが出来なくなってしまうし、交流に伴う時間的・精神的コストも増大してしまう。
 地域社会の残存する田舎は田舎で、地域社会の壊滅した都会は都会で、便利な事と
 不便な事があるのは仕方のない事である。どちらが好みかは人それぞれだろう、だが
 どちらが優れてどちらが劣っているかは私には分からないし、白黒はっきりつける気も
 無い。
 (ちなみに、同じ大都会でも18世紀の江戸や紀元1世紀頃のローマではどうなったのか
  是非これから調べてみたいと思う。ポストモダン的様相はおそらく示しておらず、都会
  とはいえ地域社会があったのではないかと推定しているが、まだわからない)




 【※4コミュニケーションスキル/スペックには含まれていない】

  なお、コミュニケーションスキル/スペックが長期的な交際やお互いをよく知った者
 どうしの交際に役立たないわけではない事は忘れないように。短期〜長期の交際の
 両方に対してコミュニケーションスキル/スペックは役に立つだろうし、ことに幾つかの
 スキル/スペック(例:語彙力、相手の立場を想像する癖、経済力、パーソナリティ等)
 は長期交際でも強く求められるものである。見た目のように、長期になるとあまり重要
 ではなくなってくるものも勿論あるけれど。

  対して、コミュニケーションスキル/スペックに該当せず、長期交際に要請されやすい
 素養の幾つか(気持ちのなかのあなたの純真さ、見せかけではない内面の倫理観、
 コンピュータプログラミングの技量、オタク趣味への造詣など)は、殆どの場合、短期
 交際には全く不向きで相手に伝えたくても伝えることが出来ない事に注目。