最近の秋葉原は、脱オタクファッションガイドなどの影響によってか、見た目を気にした恰好のオタクや、小綺麗な姿のオタクが増えてきている。とはいえ、まだまだ多くのオタク達の服装は「機能性重視」で「他人に対する主張の乏しいもの」で占められている。
こちらでも紹介したが、オタク達の服装には寒色系のものをはじめ無難な配色、あまり人目につかない配色のものが多く、「自己主張するファッション」
※1としてのニュアンスは少ないという印象は否めない。ついでに言えば、ファッションだけでなく自分達のオタク趣味をおおっぴらにすることもあまり良いことではないと思っている者が殆どのようだ。この現象もまた、第三世代オタク達の能動過小傾向とも関係があるかもしれない。
もともと、1980年以前と異なり、昨今の若年者が自分の属する文化集団を声高に主張する余地はあまり無いのかもしれない
(また、おそらくは出来ない)。そうは言っても、B系であれ、Gainer読んでるような男性であれ、ライフスタイルや文化ニッチを明示するようなファッションを用いた個人の主張は、幾らかなりとも存在する。特に女性の場合、このような個人的主張は今なお多くみられ、多岐にわたるスタイルが自分のものとして提示されている。ポストモダン的文化細切れの最中にあっても、
彼ら彼女らは自らのアイデンティティを主張・補強する道具として、あるいは帰属を明確にするためのフラッグとして、ファッションを導入する。何者かになる為のファッション、何者である事を示す為のファッション。現在、若年者のファッションはカウンターカルチャーとしてのニュアンスを失いかけているし、アパレル業界と広告戦略の発達によって「つくることはできずに選ぶ・選ばされるだけ」という部分も多いが、彼ら個人個人の服飾選択には、「この服着てる私はこんな感じ」という意識や主張は依然として残されている。
ところが、オタクファッション
(アキバ系)と一括りにされる
一連のオタク服にはこのような「○○系」とでも言うべき主張が存在しない。アキバ系という服装を能動的積極的に選択し、「オタクファッションを着る俺はこんなオタクだぜ!」と考えているオタクは殆ど存在しないし、それに乗っかるビジネスも現れていない。オタク界隈は、例えばエロゲー界隈や同人界隈にしても相当ユニークで大所帯な文化ニッチなわけだが、にも関わらず、「視る人に対して、オタクであるという情報を発信する」ためのファッション需要は発生していないようである
※2。例えば「アキバ系ファッション」にフォーカスを絞ったとした雑誌とかファッションスタイルなんてものは存在しない。
国道沿いのお店でおかあさんが買ってきた服を着るか、無難な服装を購入するか、ともかくも彼らは無色透明な服装に身を包んでいる。少なくとも、自分の所属する文化圏を提示したり自分自身のオタクアイデンティティを主張・補強する道具として成立しているオタク服はあまり無い
(かつて、格闘ゲームの服を真似るようなスタイルや長髪が出てきたこともあったにせよ)。
こうした主張無きプレーンな服装の選択は、彼らの対人行動の傾向とも合致する。即ち、他者に対する能動性の無さであり、他者からの目線に対する無頓着な姿勢である。
オタクファッション、アキバ系ファッションには、自分の服装をまなざす他人に対して「俺ってこういうタイプの人間なんだよ」と主張するような、コミュニケーション上の意図が希薄である。最も顕著な場合、自分を視ている他人がそこに存在しているという認識すら欠落していて、服装に対する意識は「機能性only」となり、ファッションとしてのメッセージは服飾上に残らない。脱オタクファッションガイドほか1990年代後半以降の脱オタサイト群の影響もあって、これらの群のなかでも「暑さ寒さを防ぎ陰部を隠すだけの服」はさすがに減ってきた。が、「脱オタクファッション」「脱オタ」という修辞からも伺われるとおり、脱オタク系ファッションあるいは
脱オタとは、あくまで「オタクとしての自らのアイデンティティを隠蔽する服装」でありオタクとしての所属感をごまかすことはあっても明示するものではない。依然としてオタク達は、自らの文化ニッチを主張するようなファッションを手に入れていない。あるいはオタクとして非オタク文化圏に対する
(つまり比較的メジャーなファッション文化圏に対する)カウンターカルチャーとしてのファッションの呈示や挑発を行っていない。21世紀において「おたく族ファッション」などといった運動が勃興するとはさすがに私も思わないが、それにしたって
あれだけオタク文化が内外に喧伝されているにもかかわらず、男性オタクに固有のファッションスタイルが顕れてこないのは不思議である。これは何故か。
ここで私が再度着目するのは、彼ら
(第三世代以降のオタク達)の心的傾向として広く認められる能動過小傾向である。また、自らの文化ニッチを劣等とみなしつつも選択せざるを得ないという消極的な立場でもってオタクコンテンツを消費しているという彼らの
「自分がオタクであることへの誇りの無さ」なり
「オタクであることをアイデンティティに出来ない感じ」である。少なくとも「おたく」たる1960年〜1970年代中盤に生まれた世代に比べ、1970年代中盤以降に生まれた「オタク」達においてはこの傾向は強いと言えるだろうし、現在のオタク市場やオタク文化は、そういった消費者達のニーズと向き合いながら移行している。
先にも述べたとおり、彼らには非オタク文化ニッチの成員
(や異性)に対する能動性が乏しいため、もともとオタク以外に対して何某かを主張しようとすることはあまり無い。そのうえ、彼らの多くは自分自身がオタクであることに後ろめたさすら隠し持っているので、「アニメやゲームがこんなに好き」と
非オタク達に自己主張することが、彼らにとっては「自分が劣等趣味人間だと明かす」後ろめたい行為として捉えられる可能性も高い。こうしたオタクが、
フィギュア萌え族その他のオタクコンテンツバッシングな状況下において胸を張って「俺はオタクだ!それが悪いか!」とカウンターカルチャー出来るとはちょっと思えない。第一世代の所謂おたく達はいざ知らず、第三世代オタクの過半数は、あれほどオタク趣味にリソースを投入しながらも自らの文化ニッチに誇りを持っていない
※3ので、宮崎勤事件以降いまだに改善されないオタクのbad imageを克服して自己主張するのはかなり難しそうだ。
よって、
1.もともとオタク仲間以外に対する能動性が乏しく
2.オタク文化ニッチを消極的にしか選べず、
3.オタクであることにさしたるに喜びやプライドを持っているわけでもない
といった現代オタク達によって構成されているが故に、第三者に対してカウンターカルチャーとしての「オタク文化特有のファッション」が挑発的に呈示する可能性は今後も閉ざされることだろう。かつて、第一世代おたくは
(ジャングルのように未開拓だったオタクコンテンツを)発掘開拓しているだけあって、少数ではあっても自らの趣味に能動性と矜持を持っていたし、持っていなければオタク趣味がそう簡単には続かなかった。このような人達においては、むしろ自発的なnerdstyleが現れてきてもおかしくなかったかもしれない。だが、現在オタク趣味に軸足を置く人達の大半はもっと消極的で、もっと簡単にオタクコンテンツを楽しめ、何より
オタク文化の担い手たる自分自身に矜持や誇りを持つことが少ない。
他者に対する能動性が少なく、オタク趣味に後ろめたさを持つ者達で構成される限り、オタク達は自らをファッションで表現することないだろう。そして、現状のオタク界隈はそういった人達によって多くが占められているのである。そんな彼ら
(私達)だからこそ、自らのオタク文化ニッチの臭いを消すために他のファッションを間借りする
(脱オタファッション)か、テキストとしての性質を度外視した服飾を選択し続ける
(アキバ系ファッション)のだろう。
彼らはこれから先も、自らがオタクたる事を能動的に他者に開示することなく、脱オタファッションでオタクっぽさを脱臭するか、透明人間的なアキバ系ファッションを選択するものと私は予想している。