・モデル1:単純に、現在の自分の利益を最大化するように振る舞うプレイヤー
まず、最も単純な“利己主義”として、その場その場の自分の利益なり願望なり
(適応的意義)を最大化するような振る舞いを紹介してみる。
モデル1は、その時点における自分自身の願望や要望と照らし合わせて最も望ましいと思う選択肢をひたすら選び続ける、極めて単純で融通の利かない適応形式である。世の中には、完全にモデル1に合致する人間はさすがにあまりいないものの、かなりの水準までモデル1に近い人間というのはやはり存在する。世間で言われるところの狭義の利己主義者は、おおむねこのモデル1に該当する。
モデル1の利点は、まず何と言っても実行に際しての敷居が低いことであろう。我慢せず、自分が今欲するままに行動するにあたって、知性・悟性・節制は必要ない。心的スペック・知的スペック・他者に関する情報収集能力が最低クラスの人間であっても、モデル1に準じた振る舞いを実行することは十分に可能である。また、
(暴力や威嚇などを通して)願望や要望を押しつけられる限りにおいては、その場の利益なり適応なりを最大化しやすいという点でも優れている。後々のことを度外視出来るなら、その場で最高の搾取と最高の適応をモノにすることが出来るかもしれない。極短期の個人の適応だけに注目するなら、搾取的な対人戦略は決して捨てたものではない。ゲーム理論で言うところの
繰り返し囚人のジレンマに該当しない場面においては(
つまり、完全なる一期一会が確定している状況においては)後顧の憂いも無く、従ってこの適応形式を選択するプレイヤーこそが個人の適応を最大化する可能性が高い。
しかし、会社や家庭といった繰り返し同じ人間と接するコミュニティにおいては、モデル1はあまり有効な適応戦略ではない。短期的には適応を最大化することこそあれ、殆どの場合、中期〜長期的には没落を余儀なくされてしまう。なぜなら、
この単純な戦略を採用するプレイヤーは、周囲の人間の反発を買ってつまはじきにされてしまったり、搾取の対象を搾取し尽くしてダメにしてしまう可能性が高いからである。人間関係が交換可能なコミュニティでは相手に逃げられやすく、人間関係が交換不可能なコミュニティでは社会的に封殺されてしまう可能性の高いモデル1は、社会的状況のなかで孤立を余儀なくされるリスクを負うことになるし、事実そのようなプレイヤーは社会において孤立し、情緒的にも経済的にもたいていは惨めな生活を送っている。社会的集団を形成するホモ・サピエンスという生物種において、他のプレイヤーの協力が得られなくなっていくという事は、社会上/繁殖上/生存上相当に不利なことであり、そのリスクを引き受けつつも数十年にわたる安定した適応を維持する事は困難であろう。
このように、モデル1に準じたプレイヤーは、短期的には個人の適応をきわめて有利なものにする可能性を秘めている一方で、
中期的〜長期的に安定した適応を維持するには向いていない。ただし、一期一会の状況においてはモデル1は個人の適応を少ないリスクで最大化させる可能性が高い
※1し、
知的・心的スペックや他者に関する情報収集能力の低い個人でも採用可能な点には十分注目すべきである。確率論的には、おそらく、そうした知的・心的スペックに恵まれない個人で、なおかつ示威行為や腕力の素養に恵まれた個人は、望むと望まざるとに関わらず、モデル1に近い適応へと自動的に落ち着くと推定される。
・モデル2:相手の(言語・非言語による)要求を察知して譲歩・協力を呈示するプレイヤー。
次に、もう少し複雑な“利己主義”を採用するモデルを呈示してみる。
モデル2の“利己主義”なプレイヤーは、我が侭をごり押しするほど単純ではない。彼/彼女は、あからさまな搾取的関係のリスクを十分に心得ている。我利我利亡者である事を対象や第三者に認知されてしまった場合のリスクを避けるべく、モデル2のプレイヤーは
(とりわけ繰り返し出会う事の多い他人に対しては)相手の要求をある程度考慮して行動する。
言語・非言語コミュニケーションを通して対象人物の感情や意図を読み取り、自分の行動や判断にフィードバックさせる事によって、モデル1の人間が被るリスクを最小化するというわけである。ただし、対象からのネガティブな反応がない限りにおいては、彼/彼女はその時点における自分自身の利得なり適応なりを最大化させようと努める。これによって、遠慮のしすぎに伴う機会の損失をも防ぐことが出来る。
モデル2の“利己主義者”の利点は、何といっても
社会的関係の破綻を免れるという点であろう。モデル1のような利己主義プレイヤーは、コミュニティのなかで互恵的な関係を長期間維持することが出来ずに没落しがちだが、モデル2のプレイヤーは対象人物の利害や意図を想像したり、コミュニティの空気を読んだりするため、社会的に封殺される可能性が低い。このため、コミュニティ成員としての一個人は、幾らかなりともモデル2に準じた行動選択を採る。極短期的にはモデル1の人物に搾取されるリスクは負うにせよ、より安定した適応を長い期間にわたって確保できると期待される。
しかし、このモデル2の“利己主義者”の適応戦略にも課題は残る。第一に、モデル1に比べると要求スペックが幾らか高くなる点に留意しなければならない。コミュニケーション対象の言語・非言語シグナルを的確に把握・分析するには、ある種のコミュニケーションスキル/スペックや知的判断力が要請されるし、対象の要求を呑むにあたって一定の我慢強さストレス耐性を求められることもあるだろう。これら要求スペックの高さゆえに、モデル2すら選択しきれない人物というのはやはり存在するだろう。
第二に、モデル2は相手からの情報入力を察知したうえで
(またはコミュニティの空気を読んだうえで)その場の行動を決定するわけだが、そのことを熟知した他プレイヤーの意図的かつ継続的な情報出力によって関係を規定されてしまうリスクを負っている、という事である。もうちょっと具体的に表現するなら、
空気を読んだり顔色をうかがったりして行動決定しているモデル2プレイヤーに対し、十分に賢い他プレイヤーは“生かさず殺さず”のぎりぎりのラインを突いてみたり、少しづつ搾取のレートをあげていったり出来るかもしれない、となるだろうか。特に、相手からの情報入力に対してpassiveに判断するようなモデル2利己主義者は、“このひとはこういう人なんだ”という理解やら関係規定やら巧妙に押しつけるプレイヤーに対して脆く、個人の適応を維持・向上させることが困難になりやすい。
第三に、モデル2のプレイヤーは、慎み深く他者配慮に富んだ人間に遭遇した際には、モデル1プレイヤーと同様に相手を食い尽くしてしまうであろう点にも着目しておく。モデル2プレイヤーは、
(前述の通り)対象の要求を察知し、それに応えて譲歩するような適応形式なわけだが、世の中には自分自身が破綻するぎりぎりまでSOSを出さず、当人もそれが我慢だと気付かないでいるような人も存在する
※2。この手の人物のなかには、長期にわたって安定した関係を構築するのにおあつらえ向きの、長期適応戦略にぴったりの人物も紛れ込んでいるが、モデル2のプレイヤーは相手のリアクションが無ければぎりぎりの所まで利己主義を貫き通すため、このような好適な人物と遭遇した場合にはいつの間にか搾取的な関係を形成してしまい、相手を食べ尽くしてしまう可能性が多い。これは、短期〜中期的な適応戦略としては間違っていないにしても、長期的には有益なパートナーを失ってしまう危険性は高い。
この、気付かぬうちの搾取に限らず、
相手のリアクションに対してパッシブな探知→反応を行うだけのモデル2プレイヤーでは、長期的な適応を期待するには心許ない部分があるといえるだろう。
【※1個人の適応を少ないリスクで最大化させる可能性が高い】
この事を端的にあらわしているのが、近年その傾向が著しい、public spaceにおけるDQN的適応の蔓延現象だと私は考えている。知人縁者に対してはある程度の譲歩を行いつつも、現代都市空間のpublic spaceにおいては徹底した搾取者として振る舞う戦略は、殆どリスクを負わずにその場におけるコストを最小化(またはメリットを最大化)することが可能である、少なくとも警察のご厄介にならない範囲においては。現代都市空間のpublic spaceにおけるコミュニケーションは一期一会に限りなく近いので、このようなDQN的メソッドが有効性を持ち得るようになってしまったのだろう
(旧来の農村社会のpublic spaceではこうはいかない)。
知人縁者に対しては一定の譲歩カードを呈示しつつも、一期一会の状況では可能な限り威圧的に搾取的に振る舞うDQN達の“卑劣な戦略”を、私達は嫌悪感の故にしばしばバカにしてしまいがちだが、実は現代社会に適合した合理的な戦略として十分注目すべきではないかと、私は考えている。
→[参考]:
DQNという個人の適応形態の再評価――public spaceにおける暴力の復権