症例12ことLさんからの補足:「文化多様性を生かしたカードゲームのようなコミュニケーションと、文化ニッチを越えたコミュニケーション」
今回の投稿にあたってのやりとりのなかで、Lさんから気になるコメントを頂きました。Lさんのコミュニケーション形態に関して、私は、「よくあるオタクコミュニケーションと同じく、媒体となる話題を基点として会話を楽しんでいる度合いが高い」「女性にありがちなコミュニケーションそれ自体が目的化しているようなコミュニケーションの楽しみ方が少ない」と評したわけですが、この辺りについてLさん自身から直接コメントを頂きました。
どうやらLさんは、ご自身の趣味の文化的多様性を“コミュニケーション上のカード”として有効に使うポジションと、文化ニッチの隔たりがあってもコミュニケーションしていくポジションの両方を使い分けているようなのです。この手法は、1.過剰適応に至りかねないエネルギー損耗性が高くなるリスクと、2.各文化圏ニッチを十分に相対化して無闇に絶対視せずに取り扱えるだけの視野なり懐なりが求められる という問題点はあるにせよ、それらを克服出来る限りにおいては、色々な人とのコミュニケーションを架橋する強力な武器になるのではないかと私は考えています。また、オタク趣味を保持しながら社会適応を維持・向上させるうえでの一方便としても重要なのではないかと思います。
以下の文章はLさんの原文を編集したものです(編集に際しては、Lさんのご認可を頂きました→Lさん読んでみてください)。読者の方の参考になれば、幸いです。
・多文化を保有したうえでカードゲーム的にコミュニケーションをとること
友人・知人とのコミュニケーションが疎遠ではなかったか?という事ですが、普段オタク趣味や音楽などの コンテンツを介さずに会話を楽しんでいる事も多い気がします。 ただし、それは自身の上澄みの部分を見せていて、オタク趣味や音楽などの 濃い部分は、見せれる相手かどうかを気遣っているつもりです。 だから秘密主義だとか言われた事もありますが・・・。
例えば、カードゲームみたいに考えて見ると、自分の持ってる 全てのカードを見せてコミュニケーションするには難しい場合が有ると思うのです。 どのカードならオープンに出来るかは相手によって変わって来ます。 例えば音楽でも、対同僚(非オタク)においては、「宇多田ヒカルが好き」 というカードはオープンにしやすいですが、「あるビジュアル系バンドが好き」というカードは難しい。なぜなら、社会ではビジュアル系バンドは嫌いというか偏見をもっている人がいるという事を知っているからです。
また、同じように相手の持ち札に「オタク趣味」が含まれる場合は、自分もオープンに出来ます。オタク趣味というカードは、他のカードに比べて厄介で相手を選ぶものだと思います。私は、「オタク趣味」カード以外の持ち札も多く、また多様性があった。それを有効に働かせる事が出来たのもあり、文化的ニッチを超えてコミュニケーションを持つことができたのかもしれません。 ただし、同時に自己防衛的になってしまったと思います。
・文化ニッチの枠を越えて
しかし、私が友人になる人間には、同じ趣味であるよりも人としての価値観が合うとか、そういった点に重きを置いて来たと思います。(たとえ音楽の話が全く出来なくても・・・)
例えば高校2年の頃、クラスの友人グループの内の2人(非オタクだけど恐らく下位グループ)がクラスで一人で居た大人しい女子に対しイジメ的な行動を取ったのですが、私は考えた末その2人に対し価値観が合わないと決別を宣言し、しばらく一人で行動していた時期がありました。もちろん、その後私に対しても軽くコソコソといじめ的行為はありましたが、耐えられました。その後、別のクラスの友人(オタク趣味のある子)を通じて、同じクラスで他に仲のいい子ができたので一緒に過ごしていました。しかも、いじめられていた女の子とも話すようになりました。その後、学年が変わって元のグループに居た非オタクでイジメに参加していない子が、私が決別した理由もよくわかるという事を言ってくれ、また一緒に行動するようになりました。こういう行動が取れたのは、家族による有効な助言(雑草魂とか)と別の友人による理解がプラスに働いたのだと思います。
そういった経験の結果、オタクでも非オタクでも、また音楽では同じバンドを好きであろうとなかろうと、合う人合わない人が居るという考えに至りました。たまたま、オタク趣味のある子のほうが、色んな線引きをしないで鷹揚に私を見てくれる人が多い気がしました。人をイジメたりとかもしないし。そして、私自身もオタク趣味という厄介なカードをオープンに出来たほうが精神的に楽だったからでしょう。たとえ私が文化的多様性を幅広く確保し、オタク趣味以外の人とのコミュニケーションに問題が無かったとしても逆にオタク趣味というカードを持ち続ける限り、理解の有る友人の方が良いと考えるのは必然ではないかと思います。それでもあえて、厄介なカードを私が所持し続けるのは、オタク趣味が一般的に差別的な扱いを受けやすいとしても魅力的なエンターテイメントであるからです。
正直、全部捨てるなんて出来ない(笑)
・文化的多様性のなかで生きていくこと
確かにシロクマさんのウェブサイトで取り扱う「脱オタ」という意味で、私の投稿は参考にならないとは思います。しかし、「汎用性の高さがコミュニケーションを制する時代」というテキストでシロクマさんがおっしゃっていた様な事と関係があるのかも?と思います。
カードで例えると、社会で通用しやすいカードを少しで良いので確保する事。 そして自分の持っているカードの特性(社会における評価・通用度)をよく把握して用いること。という事になるのでしょうか。私の場合、それぞれ全く共通点の無いジャンルのカードを持っている事をオープンにする事によって多様性・意外性・ギャップを見せて相手の反応を見るとか。そういう事も逆にできます。また、例え酷い評価を受けるカードを大切に価値あるものに思っていても、サバイブしていく上で必要な場面であれば隠すことは必要になってきます。こういう事は恋愛では役に立たないかもしれませんが、例えば仕事などでのコミュニケーションでは役に立つと思われます。
場面や職種によっては、カードの多様性・会話能力以外のスキルが必要であることが判明したのですが・・・一般的には、持ち札&会話能力で大分状況が変わると思います。
正直、世間の人達の様々な価値観の線引きに疲労を感じますが、人は他人をステロタイプに当てはめて安心したがるものなんだと思います。そう考えて、色々とサバイブする技術を得てやっていくことは、多くの男性オタクさん達の場合にも有効ではないかと思われます。そして、私の場合「オタク趣味を消費しながらそこそこ幸せに生きる生き筋」につながるのではないかな?と思っています。私の場合、ここまでやっていながら、同僚からは“研究職向きで営業職には向かないタイプ”、つまり、決してコミュニケーション上手ではないという評価を受けている訳ですから・・・。オタクでコミュニケーション能力が低い者が社会をサバイブするのは本当に大変だ・・・と社会人になってから日々実感しています。
シロクマ注:
Lさんが、ご自身のなかの文化的多様性をいかに適応に適用しているのか、そしてオタク趣味も含めたhobbyを保護・育成しているのかが垣間見える文章でした。コミュニケーションに際して、相手が受け取りやすいカードを切るということ・共通点のあるカードを切ることは、余計な摩擦を避けるうえで有効な手法に違い有りません。共通理解を橋頭堡とすることや、相手が偏見を持っていそうな部分をマスクすることは、円滑な会話、とりわけその初期段階においては欠かせられないものだと思います。コミュニケーションがコンテンツ依存的なオタクに限らずとも、です。しかしそれだけでは駄目で、互いの文化ニッチを越えたところでどうコミュニケートしていくのかについても指摘がなされています。どちらか一方だけでは、難しいところも多いのではないでしょうか(おそらく、通文化的な諸要素が文化越境的なコミュニケーションには要請されることでしょう。が、それについてはここでは詳しくは触れません)。
これだけの技術と文化的多様性を保有していてもなお、Lさんが人の間で生きていくことに大変さを感じてはいるようです。事実、Lさんが多様な人・文化圏とコミュニケート消費するにあたって要する精神エネルギーは決して小さなものではない筈です(適度に手抜きを行えるならば、この問題はかなり解決するのでしょう)。技術と多様性でコミュニケーションスキル/スペックを補うとしても、それは何某かの代償を含むものですし、やはり完全無欠には補いきれないところもあるかもしれません。しかし、こうした様々な代償と技術と多様性が、Lさんのオタク趣味なり適応なり多文化交流なりを実現しているのも事実だと思いますし、実際にコミュニケーションがサポートされていることでしょう。娑婆の様々な文化の蛸壺を渡り歩き、広く世界を闊歩しようと思うならば、やはり多様性の保持と適切な使い分けはあったほうが良いに違いない筈だと私は考えてます。その際に、多様な文化の蛸壺のなかに住む各々バラバラな価値観を持つ人達に対する鷹揚さなり順応性なりが求められることは言うまでもありません。