・脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係
  ――拒絶の無い世界における、あられもない営み――


 さて、一つ前のテキストで、消費者たるオタクに常に従順で拒否を示さない属性を持ったキャラクター達がさかんに消費されている事を述べた。こういったキャラクター達が持つ属性は、前述の通り、オタクがキャラに願望を投射し、萌えな脳内補完(脳内萌えシミュラークル)を形成するのに適した、ある種のフォーマットとして機能している。だが、こういった従順なキャラとオタクとの関係は脳内補完(かそれに近い描写のなされた同人等)という閉じた場においてのみ形成されるため、キャラクターとオタクの関係は、現実の男女関係とはかなり異なっている

 コミケの三日目、成人向きの日に東館で同人誌漁りをすると、メイド・幼女・幼なじみなどの属性をひっさげた萌えキャラ達がどういった形でオタクに消費されているのか、その最も激しい部分を観察する事が出来る。一度行ってみて販売される同人誌を観察した方は誰でも、一方的な性的・嗜虐的要求の対象として、または逆らう事を忘れた家畜のようなパートナーとしてキャラが描写されることが多いと気づくだろう。抵抗する萌えキャラの自尊心を徹底的に屈服させていたぶるも良し、幼稚園プレイに興じるも良し、父親的存在と無垢な娘とのごっこ遊び※1を演じてみるも良し、何でもアリというのが二次元エロ同人界である。

 確かに、同人・ゲーム・脳内補完の中には、ほのぼのとした非18禁モノや、普通の男女関係を描いた同人誌・脳内補完も確かに存在する。オタクの脳内補完のレパートリーにはプラトニックラブやギャグを含めた様々な需要があるので、嗜虐的なものやドエロ直球のものばかりでは無い事は断っておく。しかし、セクシャルな作品が中核である事・コミケの三日目が色んな意味で脂ぎっている事は否定のしようがない。そしてライトなものであれヘビーなものであれ、いずれのセクシャルなキャラクター⇔オタク(消費者)関係においても、オタクが全面的に欲求してキャラが全面的に応えるという構図は全く変わらない。キャラクター達はオタク達に不満を述べるでもなく、オタクが造りたいままに造った脳内補完の命ずるとおり、祀り上げられたり犯されたり殺されたり愛玩されたり保護されたりされている。プラトニックな作品も含めて、全てはオタクの欲求するがままであって、キャラクターの欲求がオタクの脳内補完の内容に強制をかける事は決して無い。もし、オタクの欲求に合わない作品やキャラクターだというなら、その作品は選択されないだけである。あくまでオタクの欲求に合う作品だけが、彼のリュックに吸い込まれるのだ。

  このように、男性オタク達がキャラに萌える時、エロだろうがなかろうが、キャラは常に(オタク側からの)一方向的な関係希求を満たすよう要請され、実際に応えている。『萌え』のなかでもセクシャルな願望を秘めたものは、現実の異性との関係では成立しえないものを多分に含んでおり、そういう願望がオタクから一方向的にキャラに投射され、しかもキャラがそれを全く拒まないような(脳内)関係にある。萌えは脳内現象なので浮気も全く問題ない。何人侍らせても構わないし、心変わりしてもノープロブレムだ。双方向的ではないからこそ、飽きたり要らなくなったキャラを捨てても大して良心は痛まなくて済むし、捨てた事に伴う具体的なペナルティも無い。脳内補完のレベルでは、いかなる我が侭もハーレムも許されるのである。脳内補完においては、男女平等という概念も成立しない。キャラクター⇔オタク関係は、要求する側と受け入れる側・所有と隷属の関係に近く、双方向的なリアル恋愛の理想・現実のいずれともかけ離れている。

 上記のようなキャラクター⇔オタク関係を考えた時、リアル恋愛未経験で、なおかつ萌えキャラとの関係を純愛と称している一部オタク達の主張がいかにも胡散臭いものに聞こえても仕方あるまい。彼らの言う『キャラとの純愛』が所有と隷属の関係に近い「萌え」である以上、男女平等や「女性の立場・気持ちにフレキシブルに対応しようとするレディファースト」等の理想は達成されることがない。所有・隷属に近い純愛は、せいぜいストーカー的で独りよがりな、押しつけ愛とならざるを得ないのではないか。必要な時に必要な期間だけ、平等な恋愛を脳内補完するオタクなら確かにいくらでもいるが、あくまでこれもオタクが望んでいる間だけの話で、それに飽きたり都合が悪くなればすぐにキャラは捨てられるのが萌えの世界である。例えば電波男の本田氏も、あんなに愛した筈の惣流アスカに操をたてるどころか、うまいこと言ってアスカから離れてしまい、みさき先輩を正室にして、そのうえ側室まで用意してしまっている※2。純愛を口にする彼が、美人ばかり集めた脳内ハーレムの主である事を再確認しておきたい。

 話が逸れかけた。キャラクター⇔オタク関係に話を戻そう。読者のなかには、「そんな一方向的関係は、従順属性のキャラが相手の時だけなんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。だが、そんな事は絶対ない。この一方向的・全願望投射的関係は、なにも従順系キャラ達に限定されたものではないと私は断言する。この一方向的関係は、従順属性をあまりを持たないキャラ達でも該当し、キャラ萌え全体に蔓延した「構造」だと言えそうなのだ。

 例えばおねいさん系キャラ達(例:柏木千鶴川名みさき小笠原祥子等)の場合でも、オタク達の萌えの対象になる場合には、彼女達はオタクの様々な願望(特にエロゲーにおいては、セクシャルで濃厚な関係も含む)を叶えてくれるキャラとして様々な振る舞いをみせる(か、足りない時はオタクが脳内で振る舞わせる)。上記の三人よりも進んだおねい系・ママン系キャラ達になると、メイド・幼女系キャラ達がオタク達の願望を(大抵は)パッシブな形式で充足させる※4のとは対照的に、オタク達の願望をキャラクターがアクティブな形式で充足させることになる。例えば心をくすぐりそうな事をやってあげたり、オタク達がやって欲しがるような性的願望(少し年上の美女がそれこそ坊やをかわいがるように)を、キャラの側からやってくれるような描写が展開されるわけである。オタクが受け身な関係を一方向的に望んでいる場合には、こういった属性のキャラこそが脳内補完に好都合な存在であり、従順キャラよりも引き合いも多いというものである。どちらにせよ、オタクが望んだ通りに願望を完全にかなえてくれるキャラが良い萌えキャラということには違いない。なお、作品本編で完全な描写がされている必要は必ずしも無い。“こんな事やあんな事もしてくれそうな”曖昧なキャラの輪郭が描写され、残りを脳内補完できそうならばそれでOKだし、オタク個人個人のニーズや脳内補完を満たすには、多少輪郭の曖昧なアニメ絵キャラ達はむしろ好都合ですらあるだろう。

 結局おねいさま系キャラであっても願望要求のベクトルは一方向的で、パッシブかアクティブかの違いこそあれ、オタクが望んだ願望をキャラが一方的に叶えるという構造は全く揺るがない。流行のツンデレキャラ(例:涼宮茜遠野秋葉坂上智代)も同様で、オタクがツンデレを望んでいるからこそのツンデレであって、ツンデレキャラはオタクの脳内補完に適したツンデレキャラでなければならない。オタクがツンツンしてて欲しいと思った時にツンツンして、オタクがデレデレして欲しい時にデレデレするのが、ちゃんと売れる良いツンデレキャラ、というわけである。オタクの許可なくツンツンしたりデレデレしたりするような娘はゴミ箱直行であり、ツンデレキャラといえど、オタクにツンデレ的振る舞いが一方向的に要請された場合にのみ、萌えに供される。彼女達も、要求されたら拒否権なんて無いし、捨てられたとてむせび泣く権利も無いという点では、御主人様に奉仕を強いられているメイドキャラ達と立場はそう変わらない。

 


 ・身も蓋もない結論と、そこから導き出されるオタクとキャラの“距離”

 結論から言えば、オタクの多くが萌えている時、彼らにとっての萌えキャラは脳内娼婦であり、脳内コンパニオンであり、脳内奴隷であり、脳内万能姉さんであって、オタク達に決してNo!を突きつけない、一方的に要求できる異性なのである。双方向的関係でない事からも分かるとおり、願望されているのは恋人や妻ではない。女友達でも妹でもない。彼らが本当に希求してやまないのは、(自分のあらゆる要求に完全に応え得る)イエスマンのような異性キャラであり、実際の恋人や妻や妹のような、意見や価値観の対立・融合・妥協・我慢を含む存在ではない。それ故、キャラクター⇔オタク関係においてはオタクの願望や価値観は何の抵抗やフィルターも通されず、ダイレクトにキャラクターに投射される事となる。仮に抵抗のそぶりをキャラがみせた時も、所詮その抵抗自体がオタク側から要請された“媚態のひとつ”に過ぎないわけで、あくまでオタクの願望そのままの脳内補完が想像力の及ぶ限りにおいて生起され、消費されるのである。仮にオタクの願望とキャラとの間に不一致が見つかった場合も、自前の脳内補完で補うか、(似たような脳内補完をプレゼントする事に成功した)同人で補うか、他のキャラを漁ることが可能なので、コンフリクトに直面する事は無い。ありとあらゆる手段を用い、キャラを介して、オタク達のあらゆるセクシャルな願望は脳内補完されることができる。

 さて、この現象をキャラクターとオタクの心理的距離という観点で捉えた場合、右のような着眼に達する事も出来ないだろうか?――萌えの対象になっている時、異性キャラはオタク自身の願望と零距離に存在している――と。

 萌えの脳内補完において、オタク達の願望・願望希求行動と、キャラ達の願望達成行動の間には、齟齬や対立を含む障害物は全く存在しない(相性の良い萌えキャラなら尚更だし、足りないものがあっても脳内でちゃんと補完できればok)。このため、萌えにおいてはオタク達の願望はダイレクトにキャラのアクションとなってほぼ100%フィードバックされるため、一般的な人間関係にみられがちな、自分と他人という異なる自我・意志を持った存在同士で発生する葛藤や駆け引きに悩まされる事はあり得ない。つまり、自分の願望とキャラクターからのフィードバックが零距離なのである(自分の脳内で起こるんだから当然だ!)。こういった構造が萌えの世界を覆っているため、葛藤や対立といった自他の距離を感じさせるエピソードは萌えの世界では滅多に遭遇出来ない※5。言い換えれば、“萌え”には他者が欠落している、と表現することも出来るかもしれない。

 葛藤に欠け、欲求対象との距離が零という状況…この、萌えの極相林的状況においては、“僕の願望=キャラの願望。僕の要求=キャラの要求”という図式が成立している。欲求対象と自分自身との距離のない空間が脳内補完現象として成立するのだから、それはとてもとても気持ちの良いことに違いなく、葛藤や矛盾に溢れたリアル男女交際に比べると対人ストレスが極端に少ないのが脳内補完現象におけるキャラクター⇔オタク関係の特徴とも言えるだろう。萌えにおいては、コミュニケーションスキルやストレス耐性も含めたコミュニケーションスキル/スペックは、この関係においては零でも構わないという素晴らしい旨味がある。一方、ストレス耐性が要求されないこの環境ではオタク自身のコミュニケーションスキル/スペック向上が期しがたいため、“萌え”にばかり時間を費やしていると、実地の男女交際が一層苦手になっていくかもしれない。胎内のように快適なキャラとの一体関係は、寒風の吹くリアル恋愛世界と比較するとあまりにも安楽すぎる



 ・そして一方向的関係から、自己愛へ

 このように、脳内で繰り広げられるキャラクター⇔オタク関係が一方的なもので、しかもキャラとオタクとの距離が零である以上、萌えにおいては次のような心理的状況が発生するのではないだろうか――オタク達は己の願望をキャラに全部投げかけ、キャラを通して全願望を回収している――と。オタク自身の抱く願望は、キャラ萌えを通して余すところ無くオタクにフィードバックされてしまう。“萌え”という名の脳内補完現象は、キャラをよりしろにして自分の願望をそのまま貪る営み、とも言ってしまえないか?

 萌えキャラとオタクとの一方向的な関係・願望希求とタイトルに書いたものの、実は【オタクからキャラに願望投射→キャラからの願望達成という形でそれがそっくりそのままオタクに戻ってくる】というナルシスティック極まりない営みが、萌えの正体なのではないだろうか?キャラや萌えメディアはナルシスティックな願望達成の為の単なる反射鏡に過ぎず、それらを通してオタクは自らの願望を自慰的に満たしているのではないか。また、コミュニケーションやリアル男女交際に際して葛藤大きくリソース小さいオタクにとって格好の(心理的)補償の機会を提供しているのではないか。これらの営みを行ううえで、現行のオタクメディア(アニメ・漫画・ゲーム等)と同人システムは、随分と便利な触媒を提供していると私は推定する。脳内シミュラークルの自由度の高さと萌え領域のニッチの細かさ・同人市場の存在・そしてアニメ絵の抽象性などは、個別の願望ニーズに応えるのに好都合のようにみえる。

 真に萌えに必要なのは、自分の願望を投げ出しやすい“触媒”となり得る萌えキャラや萌えゲーであって、他者としての異性ではない、と私はここで断じてしまいたい。オタクがキャラ萌えを通して得ているのは、異性愛からの代用品ではなく、変形した自己愛(或いは自分自身の欲望そのもの)である。自らの願望でそのまま(;´Д`)ハアハアし、葛藤無く性欲を補償する萌えオタ達。他人の心がどこを向いているのかに敏感なリアル女性達は、こういったオタクの心性も鋭く見抜いていると思われ、この事が女性達をして萌えオタを敬遠しむる原因の一つになっているのではないかと私は疑っている。女性の側からすれば、女性を「萌えキャラの如く」願望達成の触媒にしかねない男など許し難い存在に違いない。女性達がキモいと萌えオタを批判する原因は数多くあるだろうが、この自己愛的傾向もまた彼女達に嫌悪感を感じさせる一因になっているのではないかと思えるのだ。



 ・おわりに

 昨今、萌えを巡っては色々な言説が飛び交っているが、中核となるキャラ萌えに関する限りは、ナルシスティックで自慰的な営みという側面をかなりの程度で含んでいるのはほぼ間違いないと思う。斉藤環氏による“ファリック・ガール”という概念を私は完全には採用しなかったものの、自己愛というキーワードと、ファリック・ガールという概念が含む自己愛的ニュアンスには、偶然の一致以上のものを感じずにはいられない。このテキスト群においては、ファリック・ガールという概念を一旦脇に置いておき、東浩紀氏の書く“データベース消費”という視点を重視してテキストを組んできたが、萌えにおけるキャラクター⇔オタク関係を分析しているうちに、ファリック・ガールとも共通する自己愛的傾向に結局辿り着いてしまったのだ。(注:ファリック・ガールとデータベース消費についてはこちら参照。)

 そういえば別冊宝島『おたくの本』において、エロ漫画作家が自分の作画に自分自身の理想を見出しているという話が掲載されていた。脳内シミュラークル(脳内補完)とアマチュア漫画制作が、制作プロセスや構成内容において近い距離にある以上、漫画上で繰り広げられるシミュラークルが、脳内補完現象と同様の構造――オタクの一方向的な願望投射やオタク⇔キャラとの零距離的関係――に終始する可能性は十分あり得ることだと思うし、事実現在の同人界では当たり前のようにそれがみられている。『おたくの本』が出た頃であれ、漫画家さんが同人誌的スタンスで制作している作品で有れば、現在の同人界隈におけるのと同様の、自分が望む願望をぶちまけたようなナルシスティックな色合いの強い作品が生まれてもおかしくはないだろう。このようなナルシスティックな願望回収の形式は、もしかすると非常に歴史のあるものなのかもしれない。


 以上、キャラクター⇔オタク関係が一方向的である事に着眼した、“萌え”の構造について考察を試みた。狭義の萌えという行為はどうやら、双方向的関係を志向した疑似恋愛というよりも、もっと自己愛的で、他者というものに無頓着なシロモノである可能性が高そうである。現在の“萌えブーム”は萌えのこうした自己愛的・排他的側面を捉えないかむしろ黙殺してかかっており、非オタクに向けて萌えコンテンツが発信される時には、こうした“萌え特有の構造”までは受信者に届きにくい。“萌えブーム”において、このような萌えの構造が取り除かれてテレビ等に登場するのは、果たして良いことなのか悪いことなのか?その善悪については私も判断がつかない。が、ただ一つ間違いないのは、こういった自己愛的・自慰的な側面には現場の萌えオタ達も“萌えブーム”のプロデューサー達も目を背けがちだろうという事である。こんなあられもない身も蓋もない構造を指摘されて、喜ぶ奴なんてどこにもいないんだから。

 なお、一部“萌え推進論者”のなかには、萌えに関して“真実の愛”とか、“リアル女性との関係よりも崇高”などといった装飾過多な表現を用いたがる者もいるが、ここまでの考察を振り返ると、それらの言質には怪しげなものを感じずにはいられない。ひょっとすると、彼らは自らの願望をキャラという鏡に映しだしてうっとりするという行為を“崇高”とか“愛”と呼んでいるのかもしれないが、だとすれば彼らの言説は“自分のオナニーを崇高とか愛と呼ぶのに等しい戯言”との非難を免れまい※6。故に、純粋な心といった文脈から“萌え”を喧伝したい人達には、今少し冷静な発言を私は期待したい。萌えには萌えの良い所があるし、ハマったなりのメリットも確かにある。良さ・面白さを多くの人に広げて欲しいとも思う。だが、萌えがキャラとの一方向的な関係に依った自己愛的営みであるという側面を無視して“純愛”を軽率に叫ぶことが、周囲の人間にどう見えるのかには思いを馳せて欲しいと思う。迂闊な宣伝の結果、『その純愛、対象異性への純愛じゃなくって、自分自身への純愛なんじゃねーの?』と突っ込まれた時、私は彼らを弁護する言葉を持つことができない。







 【※1父親的存在と無垢な娘とのごっこ遊び】

 プラトニックだけどたまにはちょっと手を出したりしてもいいかな?!なんて脳内補完を展開する父親役のオタクがまた多いんですけどね。そして、95%の清廉さの裏に秘められた5%のどす黒さが炸裂する時、彼らは激しく身もだえすることとなる。無垢な娘と良心的な父親的存在を演じるオタク。そして、それが破綻して無垢な幼女を一方向的にわがものとする脳内補完に、一体どれほど多くのロリオタが身を委ねてきたことか!






 【※2側室まで用意してしまっている。】

 余談だが、一部のオタク達が現代女性の移り気やイケメン希求を非難し、自らを純愛とうそぶきながら脳内妄想のレベルで一方向的な関係を構築してキャラをヤリ捨てしている有様には呆れるしかない(2007年現在、それも適応なんじゃないかという気がしてきた)。脳内ハーレム造っている人達が仮にリアル女性と交際可能になったとて、彼らの主張するところの純愛オンリーが出来るのか?自己中になるか、せいぜい君望のヘタレ孝之みたいになるだけなんじゃないか?または、愛の押しつけストーカーみたいな。後述するように、萌えには自己愛的・他人の都合はそっちのけ的な要素が多々ある為、萌えで純愛を語っていても、双方向的な恋愛にうつった時に果たしてどこまで“純愛”出来るのか、私には甚だ疑わしく感じられるの。

 こういった事を類推したくなるケースが、“自称純愛オタ”にはあまりに多いような気がする。現実の恋愛における男女の醜さを指摘して鬼の首をとったような気分になっている一部のオタ達は、自分の脳内補完や脳内願望がどうなのかをもうちょっと内省したうえで純愛を主張しては如何だろうか。

 砂漠のインド人は、一生魚を食べない事を神に誓う事が出来る(ゲーテ)。それもたやすく出来てしまう。現実の女性とは一方向的関係を築かないと主張し、ヤリ捨てなんかないよ(don't)と威張っているオタク達は、実際は一方向的関係を築けないし、ヤリ捨てが出来ないだけ(cannot)に過ぎない。ここを、わざと勘違いするかボカしている人がかなり多いように見受けられる。さて、仮にいつものエロゲーのような事が可能な状況がリアル世界で現出した時、あなたは一方向的関係のハーレムを構築せず、敢えて双方向的な純愛関係を構築できますか?また、どこかの国の皇帝になった時、本当に鬼畜な振る舞いをしないと言えるますか?魚が食い放題の環境で魚を食わないと誓ってこそ意味のある誓いなわけで、出来もしない癖にdon'tとcannotを上手くごまかして純愛ぶっている一部エロゲオタの欺瞞を、私は嘲笑する(非難はしない。だが嘲笑する)。故にこそ、彼らが仮にモテてモテて仕方が無くなった時、彼らもまた(いつも彼らが非難するところの)“無慈悲で自己中心的なイケメン達”と同じ振る舞いをするに違いないと私は推測せざるを得ないのだ。大体、彼らのイケメン批判は、彼らのほの暗い感情の外在化であり投影ではないかとさえ疑えるのだが。





【※3あからさまに性的感情と書いてしまいたくなる】

  太宰治の『チャンス』には以下のような格言が登場する。

 “恋愛。好色の念を文化的に新しくいいつくろいしもの。
  すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。
  具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。
  色慾のWarming-upとでも称すべきか。


 さほど詩的情緒に恵まれない世間の殆どの男女交際には、こういう格言がよく似合う、とは思う。色慾の氾濫に加えて、拝金主義すらはびこっている現代男女交際の嘆かわしさを『電波男』の本田氏が指摘するのも無理はない。しかし、色慾の氾濫とインモラルな功利主義は現実の男女交際だけに言えることだろうか?ディスプレイの中の美少女を眺めて頭をお花畑にしている人達がキャラとの間でやっている事、いわゆる狭い意味での萌えにおいても色慾は氾濫してはいないだろうか。消費し・欲求を押しつけ・最後にキャラを捨ててしまう、そんな一方向的な関係を築き上げるオタク達は、色慾ボケしてないと言えるだろうか。二次元キャラに対する好色の念を文化的にいいつくろいしもの・またはポーズが、“萌え”なのではないだろうか。こういう疑問を、いつになっても私は拭う事が出来ない。別に萌えが純愛である必要性などどこにも無いし、色慾のWarming-upだって構わないが、『萌えは現実の男女交際よりもピュア』などといった発言は、少々大胆に過ぎるのではないだろうかと思う。





 【※4パッシブな形式で充足させる】

 一言でパッシブに・受け身にとはいうものの、受け身のバリエーションが様々なのは言うまでもない。脳内補完のレベルでは、法的な縛りからも心理学的縛りからもキャラクター⇔オタク関係はフリーである。だからこそ、パッシブな関係も、それが極限までエスカレートしたものが描かれることがある。

 オタク達の萌えニッチ(というか願望ニッチか)は多種多様を極めており、徹底的にメイドや幼女を虐待して自我を破壊したうえで暴行を重ねるとか、徹頭徹尾嫌がり抵抗するのを毎回毎回力づくでいたぶるだとか、逆にいたいけな少女が淫乱少女になるまでのプロセスを楽しむだとか、その有り様は様々である。異なるニッチのオタクが思わず目を背けたくなるような、凄惨な脳内シミュラークルを引き受けている同人誌も存在しており、同じキャラを見ても生起される脳内シュミラークルが個人個人でいかに違うのか、コミケ三日目に痛感させられる事もある。例えばあなたが好きなキャラが、レイプされながら腹を割かれて苦しみながら死んでいくという同人誌を見たとき、どう思います?しかし大抵のファンがドン引きしても、一部の人にとってはそれが最上のキャラクター⇔オタク関係であり得るのだ。キャラをいたぶり殺すような脳内補完を至高の悦びとしているオタクは、間違いなく存在する。

 ゆえに、おねいさん系キャラとの関係においても同様に、信じられないような描写がしばしば脳内や同人誌上でなされている事を肝に銘じておいて欲しい。パッシブと一言で言っても、その有り様はオタクの願望やシミュラークルの数だけのバリエーションがある。





 【※5萌えの世界では滅多に遭遇出来ない】

 一方で、このような葛藤や悩みをクローズアップしたストーリー展開を敢えてぶつけてきたゲームも少数存在する。例として『君が望む永遠』をここでは紹介しておこう。このゲームの物語では、主人公は複数の魅力的な女性キャラから好意を受けつつも、唯一ひとりの女性を選択肢し、ほかの女性キャラを退けなければならない。どのヒロインを選択したとしても、主人公は他のキャラを捨てたり泣かせたりしなければならず、選ぶ事・選ばれる事・選ばれない事に伴う悲哀・悲劇に多くのエロゲーマーが涙したものである。

 一方で、こういった展開は一部オタク達には厳しすぎるものがあったのか、「鬱ゲー」なる言葉が出現したことも記憶している。こういった背景もあってか、「鬱ゲー」と呼ばれ得るジャンルは諸影響をエロゲー界隈に残したものの、大きな潮流を形成するには至らなかった。また、ネット上では「鬱ゲー」という表現こそあちこちでされていたものの、「複数の可能性から一人を選ぶ事のかけがえのなさ」といった面について言及しているレビュアーが非常に少なかった事も印象的に残っている。誰も傷つかない、傷つけない事を希求する萌えオタ達…。

 ちなみに、この『君が望む永遠』の魅力的な女性キャラがオタク達の脳内ハーレムに禁忌となったかというと、そうはならなかった事を付記しておく。確かにゲームのストーリーはシリアスなものだった。だが、キャラ萌えにおいては、オタク達はストーリーをかなりのところまで無視する事すら可能なので、都合の良いところだけを切り取ってきて、後は脳内補完(やその産物の同人誌)で補ってしまう事も出来る。例えばシリアスな雰囲気が邪魔なら、ほのぼの・ギャグで補って毒気を取り除いたり、スパロボ的な他の作品との組み合わせを企図したメタな消費法を選ぶというのもアリなのである。

 また、心の棚(斉藤環先生の多重見当識も実は心の棚に近かったり?)を構築できるオタク達は、脳内ハーレムを造っても、自慰の際にはマンツーマンの純愛関係を脳内で築く事でゲーム内のストーリーに示されたコンフリクトを回避出来てしまう、という方法もある。リアルではとても不可能ではあっても、脳内補完では十分に可能で、また多用される手法である。





 【※6戯言との非難を免れまい。】

 かような言説は、リアル女性へのルサンチマンに凝り固まったオタク達に快哉を叫ばせる効果はあるにせよ、オタク界隈に対する周囲の見る目をむしろ厳しくしたり、萌えオタ達の識見の幼稚さを嘲笑されたりする契機を与えてしまうのではないか、と私は危惧する。彼らのなかには、“自分は、オタクの清純で優しい心を知って貰いたい”という文脈で発言している人もいるが、双方向的な関係を志向している男女からみればチェリーの戯言としか思えない痛い文章が多く、むしろ“俺達って、こんなに自分本位で恩着せがましいんだよ”とわざわざオタクの悪口を宣伝しているように見える文章すら見受けられる。頼む、もうちょっと冷静なタッチでやってくれ。