おとぎ話 は 預言書なのか
日本の近代歴史と
聖書の予言との検証
「おとぎ話」が「日本」の近代歴史に起こる「警告の予言書」であるなら、聖書のイエス様の「選民」に対する「警告の予言」といかなる関わりがあるだろうか
日本の近代に起こった歴史的事実と選民に起こるであろう予言の内容とを比較しながら深く考察して見よう。
又、あちこちに飢饉が起こり、又
地震があるであろう。しかし、全てこれらは産みの苦しみの初めである。・・又 多くの にせ預言者が起こって、多くの人を惑わすであろう。又 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 ……とある。
これを選民の次の(第二の艱難)と見る。 さらに、
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこのみ国の福音は、全ての民に対して証しをする為に、世界にのべ伝えられるであろう。 (真理の到来)
そしてそれから最後が来るのである。」……とある。
これが選民の最後の(第三の艱難)
このように、イエスの予言を、筆者は三段階に分けてみた。
そして、その時に起こることが詳しく書いてある。
以来、日本は急速に西欧に対抗して、植民地政策を取り、大国を向こうにまわして、領土を拡大して行った。世界大戦では、無謀な戦いをして多大な犠牲者を出していった。
神風が吹くと言われていた不滅の神国であった軍国主義の大日本帝国はついに壊滅した。軍閥の亡霊から開放されて、自由と民主主義の戦後の日本として生まれ変わった。
これが戦後復興の(第二の立て直し)となっていく。
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だが、焼け野原になった廃墟の中から、瞬く間にビルが生えてくるように立ち並び、急激な経済復興を果たし終えた今。
異常な株投資の財テクブームに踊らされ、本来の大和魂を忘れた経済偏重主義の歪みで、バブルが弾けるや、全てが行き詰まり、借金大国と成り果てた時、再び「立て直し」という、リストラの時代が始まった。
ここに最後の(第三の立て直し)が始まる。
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このように日本の近代における三つの節目の歴史が、聖書の選民に襲いかかる三度にわたる艱難の預言と、奇妙に一致するのに気が付く。
西欧列強の台頭によって、徳川幕府による鎖国下の日本は急激に目覚め始めていった。明治維新による日本政府樹立から第二次世界大戦まで、一挙に進んでいった。まさしく国民の全てが、戦争と戦争の うわさを聞いたのである。そして、大東亜共栄圏の夢果たせずしてついに敗戦を迎えた。
何かにつけ、「恐れ多くも天皇陛下におかれては・・・」と、口癖のように言った軍人や軍閥たちは、偽の主人の仮面を被った「にせキリスト」を演じきったのかも知れない。
そして、惑わされて死んでいった多くの英霊たちは、戦後の急激な経済復興の中で、次の第三の立て直しの時まで、どんな思いで見守って来たのだろうか。?。
世界に拡散したユダヤ民族と、小さな島国に閉じ込められた日本民族とは、極と極であり、正反対の裏返しの民族である。
だが、両国それぞれに役割があり、イエスを救世主として認めず、十字架につけてからも「メシアはまだ来ていない!」と、いまだに言い張り続けるユダヤ人にとって、
(もしかしたら、日本という国は、自分達のメシア神殿理想を実現する充分な資格を備えられた国であり、正統派の探し続けて来た同胞の失われた十部族ではないか・・?)と、注目して見つめているという。
そして、自分達の先祖が四千年の長きに渡って求め続けて来た、メシアを迎える為の全ての条件と資格とを、日本の歴史と文化の中に発見していく日が来る。
そして、今日まで語り継がれて来た、日本の「昔話の奥義」に光を当ててみると、「隠されて来た聖書の封印」の全ての謎を解く、大切な鍵があることに気づく。
み国の福音のよき知らせが、やがて全世界に述べ伝えられるであろう。
だが、日本は、隣の偽の主体から嫉妬心を受け、壊滅寸前の窮地に追い込まれていく。
そして仮死状態になってしまった日本民族が、神の臣民として、永い眠りから目覚めて甦り、失った宝を取り戻すのを見る時、初めて世界的次元のユダヤも、日本を守る側に立ち預言者の役割をするようになる。
誰もがこの事実に対して、反論の余地なく口をつぐんでしまう程の、正統の中の正統というべき、万世一系の系図。
そして、それを迎えるにふさわしい、 帝、(朝廷)を立てて来た忠実で従順な将軍達が、メシアの基台の絶対的信仰条件を造って来た歴史が、貫かれるように流れていた事を、多くの人々が気づくであろう。
そして又、昔から伝わって来た、日本の祭、伝統行事、慣習やしきたり、子供のあそびの中にも、隠された選民としての必要な条件を、知らず知らずに立てて来たことに気が付いて驚く。
この事については、「日本の真相」という本の中で、まとめて述べたいと思う。
イザヤが日本に渡ってきたという説だけではなく、「実は、モーゼやイエス・キリストも日本に渡ってきた。」という竹内文書による説もある。
モーゼは約束の地カナン(パレスチナ)を目前にして、神からこう言い渡される。
「モーゼよ、あなたはカナンを見ることは出来るが、カナンに入ることは許されない」…と言われた。 そこでモーゼは、
第一の弟子のヨシュアにアロンの杖と石板の入った「契約の箱」とを渡して、一人ネボ山に向かって去っていく。
「モーゼは失敗したので、カナンに入れなかったのだ」と見る解釈があるが、 「実は初めから、モーゼはイエスのゆくべき模擬路程を先んじて演じさせられていた。」と捉えたほうが正しい。
偽(にせ)預言者を象徴するアロンの杖と石板は、「契約の箱」に入れて、ヨシュアに渡したとされているが、
「主から再び頂いたものだ」とモーゼがヨシュアに口で伝えて、渡したという石板は、実を言うと偽物(にせもの)の可能性があるのだ。
一度、怒りに任せて神から頂いた石板を割ってしまった。
モーゼがシナイ山に再び戻って、神に深く謝罪すると、 「モーゼよ、貴方がもう一度同じ板を作ってくるならば、再び十戒の言葉を彫ってあげよう」と神様は言われた。
それでモーゼは再び40日の間、シナイ山にこもって自分の手で石板を削って作り、再び「主に十戒のみ言葉を彫って貰ったのだ」と語っている。
しかし、同じ石板の形をしたものが、何の条件もなく、イスラエルに再び与えられたとは考えにくい。
それは、例えば一度、高価な壷を壊してしまった相手に、あなたは二度も同じ高価な壷を平気で任せるであろうか?
(また壊すかも知れない・・)と警戒して、本物の高価な壷は密かにどこか隠し持っていて、代わりにそっくりな偽物か、質を落とした安物を置くとか、レプリカを渡すのが普通の考えである。
また仮に本物の石をもう一度渡すとしたならば、たぶん、もっと割れにくいもの、別の丸い形をしたものであろうか。
モーゼはその本物の石を密かにふところに隠し持って、どこか予定の地に消えていくのが定めの道であろうか?。
もし、モーゼがイエスの模擬者であるならば、当然、イエスもまた、モーゼと同じ運命と路程を辿っていかざるを得ないことになる。つまり、
イエス自身が自らの体を使って死へのトリックを演じて、本物の復活した体を隠し持ってどこかに消えていくようになる。
このような同時性の宿命や必然性が出てくることになる。
十字架にこれから挑んでいかねばならなくなった直前に、イエスの前にモーゼとエリヤの霊が現れて、何かを話していたとある。これはこれから起こる危機から逃れる仕組みの道を示す重要な霊との話し合いである。
これからイエスが取るべき行動の手はずと打ち合わせ。詳細な説明をモーゼとエリヤから受けていたのか?
「万が一、十字架にかかるような事態になるならば、弟のイスキリがあなたの身代わりになるであろう。
確かに彼の手足は釘で十字架に打ち突かれて、死ぬほどの激しい苦しみを受けるであろうが、それでも間一髪で死だけは避けられるかも知れないから、それを信じてあなたは遠い外国に逃れなさい。」
という天の仕組みの指導を受けていたかも知れない。
ゲッセマネでの血の汗が滴るような祈りは、やはり、自分の身代わりに弟を磔の苦しみを背負わせることを絶対に避けたかった必死の兄の祈りであったとすれば、この不可解であった疑問は理解できる内容となる。
やはり自分の命を惜しむ、ただの人間的に弱い祈りではなかったのだ。
「主よ、願わくばどうか(弟のイスキリの命を)十字架を避けさせて下さい…」という、弟の命を心配する心優しい兄の壮絶な苦しみの祈りであった。といえる。
イエスに間違えられてローマ兵士に捉えられていくある男がいた。イエスのことを心配して、そのあとをペテロが、いつまでもついていく記述がある。
その時「アッ、この人はたしかイエスという人と一緒にいた」と傍にいた誰かがペテロの顔を見つけて言った時、あわてて彼は「そんな人、私は知らない」と否定する。そして三度同じような状況になり、その質問に合うが、ペテロは三度に渡って否定してしまう。
その直後に、イエス様の予言されていた言葉どうりに急にニワトリがけたたましく夜明けを告げて鳴いたとある。ペテロは本当に、この先生の身代わりに捕らえられていくイエス様によく似た男のことについては、全く知らなかったのかも知れないという可能性があるのだ。
これが歴史の事実とするならば、十字架にかかったイエス様を信じる現代のクリスチャン(キリスト教の信仰者)の行為は、身代わりの弟(ニセモノ)を偶像崇拝しているという結果になる。
確かに、人をはりつけて死刑にする道具の十字架という忌まわしい道具が、信仰の対象になっていることは、キリスト教が人をいたずらに犠牲の道を強いる、ニセのメシヤの幻を追っていく暗く悲劇的歴史を演じる結果になってしまったのではないだろうか…。
逆に、日本に再臨のメシアが現れる時、決して再び不信して殺害することがなく、抵抗なく自然に受け入れる「備えられた選民」ある民族(国)を用意すると神は約束されている。
その条件を日本が立てるためには、モーゼやイエスがこの日本に生きて石板や自身の体を持ち帰ってきて、再臨の時が来るまで封印し、誰にも奪われないように隠しておかねばならなかったと推察される。
「メシヤの神殿理想」が出現する必然的な歴史が流れていることや、三種の神器や契約の箱などのイスラエルの正当なる系統を証明する事実が明らかになる時が近づいている。
そのための信仰条件がことごとく起っていくべきであり、その足跡や証拠がこの日本のどこかに封印されているのは、当然のことと言える。
したがって、私はこの「竹内文書」(たけうちもんじょ)という書物も、決して捏造された偽書であるなどとは言えなくなってしまった。「今までの固定概念や思い込みを捨てて、信仰する姿勢や心の持ち方を全くの白紙に戻して研究していくべき時であろう」と思います。
おわり
キラめき講座を学び頂き、
ありがとうございました。
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申し訳ありません。 時が来るまで、
まだ公開することが許されていません。
最後の封印が解ける時まで、今少しお待ち下さい。 |