不思議
な
日本
の
風習
と
イスラエル
の
風習
の
近似性
編 集 中
今回は聖書を中心に調べてみましょう
聖書の正しい解釈
普段、日本人にあまりなじみの少ない聖書が
どんなに深い関わりがあるか調べてみましょう
日本人と聖書の正しい解釈が出来れば、
今までとは違う見方で歴史を捉えることが出来ます。
日本人の原動力は、
「錦の御旗」
であり、
その中心の主体の為に
どんなに苦しくても乗り越えていく
忠誠心には敬服するところがあります。
「天皇陛下万歳!」
と言って命を捨てていった
数多くの日本兵がいました。
神が備えてくれたというべき従順で、
けな気なこの日本の特質を完全に奪って、
本来のもの
(本物の主人)
がくる前に、
先に現れて
(仮の主人)
を演じ、
神の願いとは正反対の方向に
悪用する存在
があるということに気をつけて頂きたい。
その存在とは主人に成りすました
「 軍 閥 」や「
にせキリスト 」
であり
「良い指導者に恵まれない日本国民は不幸だよ・・」
と言いながらも、
今では多くの日本の青年たちを
信仰とは関係のないお金で(経済、経済と)追い込んで、
使い捨てて、とうとう社会に全く役立たない
人間の屑にまでに陥れてしまったことを
いったいどのように弁明するのか問いたいものです。
本来、
日本人の
この
特性
は、
静かで穏やかな
皇室の為に備えられた
もので、
事実、メシアを迎えるにふさわしい歴史と文化の中で、
見えざる訓練を受けてきた
この誇りある国に僕らは生まれてきているのです。
かつて、ある新興宗教の呪縛を受けていた青年が、
どうやって洗脳を抜け出すことが出来たのか
を少し書いてみましょう。
日本的な柔らかい発想を否定され、
極端な指導の仕方にいつも矛盾を感じ、
「本当に、こんな極端な発想の国から
メシアが来るのだろうか?」
「何故、選民は日本ではないのだろうか?」
教義をそのまま信じて、
「神が決めた真理だから仕方がない・・」
とあきらめたり、
教義を超えた納得いく真理を求めて、
いつも無いものねだりばかりしていた。
組織のやり方が日本人としての誇りを傷つけて、
どうしてもついていけないところがあって、
脱会して以来ずっと疑問を持ち続けてきた。
ある日、青年は聖書の
「偽キリスト出現」
の
警告の記述
の箇所を読んでいた。
その時不思議な
閃きが起こった。
(ハッ、もしかしたら・・・)
教祖の立場をにせキリストに当てはめていくと、
今まで悩み続けていた、多くの疑問や矛盾が
スッキリと整理され納得できたのです。
発想の転換
ポイント
新約聖書には、
終末に現れる兆候として、大半が
「偽預言者」
や、
「偽キリスト」
が現れて
選民を惑わすであろうから
「あなたがたはよくよく
注意しなさい!」
という、
イエスさま
の
警告の言葉
に満ち満ちていたのです。
マタイ24/24
に、
「その時、誰かがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこに居る』と言っても、それを
信じるな。
偽キリストや偽預言者が起こって、大いなるしるしを奇跡とを行い、出来れば選民をも惑わそうとするであろう。
見よあなたがたに前もって言っておく。
だから、人々が『見よ、彼は荒野に居る』と言っても
出て行くな。
また、『見よ、部屋の中に居る』と言っても
信じるな。
ちょうど
稲妻が
東
から西に閃き渡るように、
人の子
も現れる
であろう。
死体
のあるところには、
はげたか
が集まる
ものである。
地球的に
光
の通信網が張りめぐらされる頃、
東方(アジア)にメシヤがやってくる。
だが、
悪魔に骨抜きにされた信者が
集まる所には
死肉をあさる
(にせメシア)も集まる
クラゲのように腑抜けになった
信者
を食い物にする
羊の衣を被ったオオカミ
と同じ意味
しかし、その時に起こる艱難の後、
たちまち
日
は暗くなり、
月
はその
光
を放つことをやめ、
星
は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、
人の子
のしるしが天に現れる
であろう。
父
と
母
を語る存在の惑わしの
言葉
が地に落ち
信者たち
がつまづき落ちる。
イチジクの木
からこのたとえを学びなさい。その
枝
が
柔らかに
なり、
葉
が出るようになる
と、
夏
の
近いことがわかる
。
そのように全てこれらのことを見たならば、
人の子
が戸口まで
近づいている
と知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が
ことごとく起こるまでは
、
この時代
は滅びることがない。
イスラエルの国木
1948年独立建国から、
一世代
(約50年)が過ぎた頃にやっと
本物
がくる。
ということは、1920年とか、
その前に現れた存在は全く的はずれの論外である。
この一連の記述から、
偽キリストが「
偽りの福音」
を携えて現れて、
盛衰興亡を演じきるまでは、
歪んだ
偽りの時代
は決して終わらない…
ということをイエスキリストは明確に予言されているのだ。
天国と地獄の分かれ道について、
その後もイエス様のたとえ話はつづく。
ノアの時と同様、洪水が襲ってきて、
いっさいのものをさらって行くまで、
彼らは気がつかなかった。
人の子の現れるのも、そのようであろう。
主人の帰りを待つ
忠実な僕
と
思慮の浅い僕
明かりと油を用意していた5人の
思慮深い乙女たち
と 5人の
思慮の浅い乙女
5タラント 2タラント 1タラント
をそれぞれ渡された
僕たち
の行方
明暗を分ける二つの選択肢
人間に与えられていた創造性、可能性を意味している
羊を
右
に、ヤギを
左
に分けられる。
左にいるたち人は持っているものまで取り上げられ、
「この役立たない僕を外の暗い所に追い出せ!」
彼らはそこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。
とあります。
神の裁きは決して、意外なところでされるのではなく、
ごく普通のさりげない人間的な営みの中に現れていく。
二度とない青春の日々に、自分らしい道を探し、
個性や才能を発見して伸ばし、
人生観を他人任せではなく、
自分の人生として捉えて、あらゆる可能性を求めて
自分で選んだ理想の相手と結ばれて、
愛のある家族の暮らし、
普通に生きている人を
右
に置かれるように思います。
「聖書は矛盾に満ちている」
と言う人がいますが、
テモテU3/16
には、聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって神の人があらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全に整えられた者になるのである。
とあります。
テモテU4/4
そして真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていくと時が来るであろう。
と書いてあるように、ある極端なオカルト推理小説
まがいのものが出てくるであろう予言もあります。
ある教義では、
聖書
をまるで、古いランプの
ともし火のように軽く捉えるところがあります。
また、聖書の解釈について軽視しがちな
とんでもない指導をしています。
終末の本舞台が始まる
現代
に生きる
私達に対して与えられた警告の言葉が
たくさん盛り込んであり、
警告として捉えるべきものです。
この講座を学ばれる方は、
どうかこれまでの思い込みの教義を一旦、白紙に戻して
自分が、果たして
羊
なのか、
ヤギ
なのか…
聖書をもう一度じっくり読んで調べて頂きたい。
明かりと油
聖 書
聖書の正しい解釈
おわり