ここにいる理由
混雑もピークを過ぎた夜の食堂は、先刻までの盛況ぶりを考えると尚更広く感じるその隅っこで、幸乃は緑色の悪魔と格闘していた。
(なんでこんなものが食べ物としてまかり通っているの? 信じられない……)
悪魔とはすなわちブロッコリー。好物のトンカツ定食だけれど、このブロッコリーだけはいただけない。しかし幸乃はそれを残すことをよしとしなかった。かといってトンカツ定食を遠ざけることもしなかった。
(まずはひとつ……)
幸乃は思い切って鼻をつまみ、目をつぶってブロッコリーを口の中に放り込んだ。味を誤魔化すためにかけたソースの甘辛い感触が残る内に一気に飲み込んだ。そして間髪入れずに水で口の中に残る味を消す。
「ぷはあっ」
小さく呻いて、息を整える。ブロッコリーはまだ一つ残っている。ため息をついた。早くしないとトンカツが冷めてしまう。揚げたてが一番美味しいのに。
「アンタ、よくやるねぇ。一つもらうよ」
脈絡のない展開。広い食堂の中で幸乃の正面を選んだ褐色の少女は、言うが早いか幸乃のトンカツを一切れ指でつまみ、そのまま口に運ぶ。
「あっ……」
幸乃はもごもごとやっている少女の口元と、抜けた歯のように空いたトンカツの隙間を交互に見やった。
「トゥーリ、人の楽しみを取らないで」
感情を控えめにした幸乃の口調は、あるいは凄味を感じさせるかも知れないが、トゥーリは軽く受け流す。
「早く食べてあげないと、料理が可哀想じゃない」
悪びれる様子もなく、トゥーリはさらりと言った。そんな態度を見せられると、幸乃は二の句が継げない。押し黙り、ささやかな抵抗かツンと目を逸らし、残るブロッコリーに対峙した。
「あ、そう来るんだ」
トゥーリはわざと拗ねたような声を出し、幸乃の視界に入るよう机に頬を寄せ下から覗き込む。幸乃はそれもあえて無視し、ブロッコリーを頬張った。ソースをかけ忘れたことに気付いたが、今さら後戻りはできない。沸き上がる不快感ごと嚥下し、コップの水を飲み干した。今度は呻くこともせず、目を伏せたまま。
「そんなに嫌いなら、無理して食べなきゃいいのに」
「トゥーリには関係ないでしょ」
答えてしまってから、口を押さえる。相手にすまいと決めていたのに、十秒と保たなかった。諦めて、言葉を続ける。
「私に構わないで」
「そうは行かないでしょ。数少ないタメだもの」
「だからって、馴れ馴れしいのよ。それにあなた、先輩にもそんな喋り方でしょ。礼儀くらいわきまえたら?」
幸乃の強い拒絶も、トゥーリは肩をすくめていなす。それからその瞳に遊びが消える。
「礼儀なんて、糞食らえ、だわね」
射るような視線に、束の間幸乃は捕らわれた。
「礼儀なんかで強くなれるんなら、いくらでも礼儀正しくしてあげる。あたしたちに一番必要なのは、礼儀なんてもんじゃないはずよ」
鋭い言葉で幸乃を釘付けにしながら、トゥーリは大盛りのカレーを平らげていく。
「でっ、でも、私たちの方が年下で……」
「年なんか関係ない。ついでに言えばあたしたちが後から参加してるってことも関係ない。大切なのは強いチームを作ること、そうでしょう?」
トゥーリの言っていることはわかる。そしてまったく同感でもある。けれども。
「あの人たちだってそれをわかってる。礼儀なんて壁を作るだけよ。ここじゃ何の役にも立たない」
「でも……」
「あたしにはあたしの武器がある。ユキノにもユキノの武器がある。あたしたちはその武器で戦っていくしかないでしょう? それに武器を持ってたって、試合に出られなければ使うこともできない。試合に出るためにも、後から来たあたしたちは余計にアピールしなきゃいけないのよ」
「それは、そう、だけど……」
幸乃が口ごもっている間に、トゥーリの皿はすっかり綺麗になっていた。ガタガタと椅子を揺らして立ち上がり、うつむいている幸乃を見下ろした。
「アンタがただのいい子ちゃんだったら、とんだ期待はずれだわね。さっさと荷物をまとめて東京でも札幌でも帰っちゃいな。そうすりゃ喜ぶ人の一人や二人いるかもね。だけどアンタが喜ばせるはずだった何万人だか何十万人だかには、もう二度と会えないだろうけど」
言い捨てて、トゥーリはさっさと歩き出す。皿を返却棚に戻し、振り返らずに出ていく。
幸乃は何も言わず、何も言えず、ずっと箸を握りしめていた。
そして、こんな冷えたトンカツはもう食べたくない、と、そう思った。