この世に、わからないことはいくらもある。
でもわからないからといってそれが致命的ということは決してなく、せいぜいちょっとした恥をかくとか、ある程度の財産を失うとか、あるいは何かの機会を逸するとか、それくらいのことで。
けれどもわかったところでそういった問題が解決するかというとそうとも限らず、余計に厄介な問題を抱えるだけかも知れない。「知不知」などとわかったように呟いても、結局のところ世界は知っていることと知らないことに別れているだけなのだ。
杉山知孝にとってわからないことでわかりたいことといえば、見ず知らずの──あえて誤解を生むように表現してみれば「一夜を共にした」──少女が、どこから来て、そしてどこへ向かっているのかということだった。
「いや、一夜かどうかはわからないな」
思い直した。彼女は自分が寝ている間に消えてしまったのだ。礼の一つ、書き置きの一つも残さなかったことを恨むほどいじましい男ではないと思いたいが、しかし彼女の呟いた「助けてよ……」という言葉が妙に耳に残っている。
もし本当に彼女が助けを求めているのならば、それに応えるくらいの暇はある。もしあの言葉が冗談や演技の類であればそれはそれでよい。自分は自分の天狗的生活に戻り、資格の勉強に打ち込むのだ。そう、自分が勉強に集中できないのは、彼女のことが気にかかっているからなのだ。
決して参考書が買えないからとか、図書館が近くにないからとか、遠くたって行けない距離じゃないのに行く気になれないからとか、そういう理由ではないのだ。
ひとしきり自分の中で折り合いを付け、さしあたり解決すべき問題と、その具体的方策について考えた。
でもあんまり浮かんでこなかった。一つしか浮かんでこなかった。
答えが一つしかないとは思っていないが、まず一つあるならそれでいいじゃないか。答えを確かめてみて、間違っていたら改めて考えてみればいいのだ。
一つだけ思いついた具体的方策というのは、端的に言えば「木を探すなら森の中」である。
「……あれ、違ったかな」
その慣用句が適切かどうかはわからなかったが、さりとてわかりたいことでもなかった。要は、彼女が浮浪者然としていたことであり、それならば浮浪者然とした人々の集まる場所で探してみようということだった。
隣町との境界を流れる一級河川は、両岸が完全にコンクリートで固められていて、その上は遊歩道になっていた。遊歩道に沿って延々と桜が植えられていて、毎年この時期には大勢の花見客で賑わう。今年は開花予想が例年より幾分遅れており、そのため役所による『強制撤去』もまだだった。
「アンタ、誰だい」
その女性は気怠そうに首の後ろを掻きながら言った。
まず最初に目についた男性に、「若い女性の浮浪者を知りませんか?」と訊ねたところ、この女性を紹介されたのだ。その女性は登山用と思しきテントで暮らしていて、しかも朝に弱いらしく、和孝はテントの外で二時間ほど待たされた。
「絶対に彼女を起こしちゃなんねえ」
案内してくれた男性は、冗談と本気とが適当に混じり合った口調で言った。つまり、その女性はひどい低血圧か何かで、寝起きが悪いということだった。
そういう手間をかけさせられたが、その女性は和孝の探している少女ではなかった。確かに先の男性よりは若かったが、あの少女よりは一回りほど年を重ねているように見えた。でもそんな見た目の印象など全然役に立つもんじゃないと、和孝はすぐに理解した。
彼女の背には、黒い羽が生えていた。彼女の表情と同じく眠たげに、だらりと地面に垂れていた。
特筆すべきはその大きさだった。伸ばせば三メートルにはなるだろう。和孝の背にあるそれとは桁違いの大きさだった。
「えっ!?」
その女性が告げた言葉に耳を疑う。
「あなたは、止めなかったんですか?」
「あたしは止めないよ。もちろんあんたのことだって止めないから、好きにしな」
好きにしろと言われても、あまり選択肢はなかった。しかもそのうちの一方には時間制限がある。どちらを選ぶにしても、選択肢がある状態を保つためには、まず動かなければならない。
和孝が礼も言わずに走り出して、女性は大きくあくびをした。テントの中には空になったビールの缶が転がっていて、そろそろ片付けなきゃな、と思った。
少女はあの時と同じおんぼろで、川と遊歩道とを隔てる手すりに手をかけていた。思い詰めた表情で、風に揺れる水面を見つめていた。
「この町に来れば、『天狗』になれるって聞いた」
和孝の説得に、彼女はそう答えた。
「この町で死ねば、『天狗』になれるって聞いたの」
「天狗」って何なんだ。和孝は自問した。わからない。わからないし、さしあたりわかりたいとも思わなかった。人には見えない羽を持ち、ちょっとやそっとでは死ななくなる。それ以外に何があるのか、和孝は知らなかった。
この少女は「天狗」が何かを知っているのか。少女の言葉は、和孝の知識にはなかった。微妙に言い換えたその違いも、すぐにはわからなかった。真実であるか否かを確かめる術もなかった。
わからないことずくめで心に隙ができた、とも言える。
人はそんな簡単に自分の命を絶てるはずがない、という思い込みもあった。
ともあれ手を伸ばす暇もなく少女は視界から消え、ふと見るとすぐ近くの欄干に腰掛け、どこかあどけないながらも人を見下すような目で笑う少年がそこにあった。和孝も、一度だけ会ったことがある。
「willing or not...『天狗』になることを望むというのは、こういうことなのか?」
朝の光を浴びて、少年の折りたたまれた羽の闇色はいや増した。
「まだこれだけじゃわからないね。彼女は彼女次第で、君は君次第だから」
輪郭だけは厭になるほどはっきりとしているのに、少年の論旨は相変わらず曖昧だった。
「僕は期待しているだけだよ」
「誰もが君の思い通りに動くわけじゃないと思うけど」
「別に構わないよ。僕が期待しているのは、そんなお仕着せではないから」
少年は両足をぶらぶらと揺らし、川面を眺めた。その仕草だけは、年相応に見えた。和孝が少年の視線を追うと、さっき飛び込んだ少女が浮き上がって、ゆらゆらと漂っていた。その背中には、小さな黒い羽根が、デコレーション・ケーキの飾りみたくちょこんと生えていた。生きていること、天狗であることを主張するように、その小さな羽はひくひく、ひくひくと弱々しく動いていた。