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悔しいということ

「あっ……」
 彼が入場してきたとき、思わず声が漏れた。不思議な感覚だった。後ろ姿が見えただけなのに。周りの女の子たちもざわめいた。シャッターを切る子もいる。名前を呼び、手を振る子もいる。私は何もできず、ただ柵をギュッと握りしめたまま見つめるしかできなかった。
 今日は彼が出場するって聞いたから、試合会場は遠かったけれど、お母さんに頼んで一緒に来てもらった。
「どうだった?」
 選手たちが皆──いや、ちょっとニュアンスが違う。私たちの目的はたった一人の選手なのだから──コートに行ってしまったので、席に戻るとお母さんが訊いてきた。
「よく、見えなかった」
 私は答えた。振り向いてもう一度コートを見る。私の視力は悪くはないけど、でも一人一人の顔が見分けられる距離じゃない。髪型とか体格ではっきり違うとわかる人はいるけど、でも見分けもつかない人もいる。みんな試合前のウォーミングアップをしている。軽くジョギングしたり、二人でボールを蹴りあったり。
「これ使う?」
 お母さんが双眼鏡を差し出した。うなずいて双眼鏡を目に当てた。だけど彼はちょうどこちら側に背中を向ける体勢になってしまっていた。私はかぶりを振って双眼鏡を返した。

 サッカーのことはよくわからない。だから試合が始まっても、何を見ていいのかよくわからなかった。ボールを蹴って相手のゴールに入れればいいってことは知っていたけれど、彼はあまり相手のゴールに近付こうとしなかった。すごく頑張っているようにも見えたし、かなり疲れているようにも見えた。
 結局彼のチームが二点取って、相手のチームが二点取って試合が終わった。周りの人たちは喜んだり悔しがったりしていたけれど、私はそうは思わなかった。試合中は風が強くて、せっかく綺麗にした髪が乱れてしまうのをずっと気にしていた。
 試合が終わって、彼が戻ってくる。客席は選手の控え室の上にあるから、選手が控え室に戻るときは、自然とこちらを向くことになる。周りの人たちにちょっと出遅れて、私も柵の前に立った。
 やがて顔が見えるくらいに近付く。周りの人たちが歓声を上げる。私もドキドキしながら見つめていた。右手を軽く振った。声は出なかった。
 彼がこちらを見上げて手を振った。歓声が一際大きくなる。だけど彼はあんまり嬉しそうではなかった。だからこんなに近くで彼を見られても、思ったより嬉しくなかった。

「勝てなかったから、悔しいんじゃないの?」
 帰りの電車の中で、お母さんはそう言った。今日初めて乗ったその電車の中には、彼のユニフォームと同じ色合いのマフラーを巻いている人たちが何人かいて、その人たちもやっぱりすっきりしない表情で何かを話し合っていた。ああすればよかった、これが課題だ、とか。
 その人たちの言っていることはやっぱりよくわからなかったけど、みんな悔しがっている、ということは少しだけわかった気がする。
 だから、試合に勝った彼を見てみたくなった。


文責:並丼