いまとあした
「失礼しまーす……」
少年がおずおずと引き戸を開けると、出鱈目な喧噪が溢れ出した。ひょいと首をすくめながら身を入れ、後ろ手に引き戸を閉める。誰一人こちらを見ない。みな酒精に顔を赤らめ、訳の分からないことを怒鳴りあっている。そんな居酒屋の風景を見回し、やがて少年はカウンターに座る女性に目を留めた。髪の長い、赤い服を着た女性だった。女性はカウンターの端っこに据えられたテレビを眺めているようだった。
「こ、こんにちは」
少年が後ろから声を掛けると、女性は振り向いた。彼女も出来上がっている方らしく、右手で透明な液体の入ったコップを揺らし、にへら、と笑った。
「よく来たね、まあ座りな」
そう言うと、彼女はまたテレビに目を戻した。テレビではサッカーがやっていた。青いユニフォームを着た若い選手たちがボールを追いかけていて、ああ、今日はオリンピックの予選だったっけ、少年は思い出した。
「サッカーを見るには、五月蝿くないですか?」
少年が訊いた。隣席の声ならば届くが、テレビからの音声はほとんど聞き取れなかった。
「誰かがサッカーボールを蹴ってるのが見られりゃそれでいいのさ」
彼女はテレビを見据えたまま答え、コップに口に付け、ちびり、と飲んだ。
「それに、あたしは大丈夫なんだ、そういうの」
誰かがシュートを打って、キーパーがそれを防いだ。少年にもわあという歓声が少しだけ聞こえた。
「それが、あなたの力、ですか?」
少年はごくりとつばを飲み込んだ。彼女の背中には、黒い羽が生えていた。広げれば三メートルくらいにはなろうか、その両翼を二つ折りにして、背中を覆っていた。
「そういうこったね」
少年の背にも、黒い羽はあった。彼女のそれよりはずっと小さく、両腕を広げた方がよっぽど長い。
「僕は、何ができるんですか?」
少年は重ねて訊いた。彼女はチラリとだけ見て、つと目を伏せた。
「あたしにゃわからないよ。あいつに訊いてみな」
「彼は何も答えてくれませんよ!」
少年は思わず激昂した。だが店内の誰も彼を見なかった。誰もが自分の声を振りまこうと必死だった。誰も他の誰かの話なんて聞こうとしていなかった。でも少年は周囲を気にするようにきょろきょろ、それから幾分小声で続けた。
「彼はニヤニヤ笑いながら思わせぶりなことを言うだけです。いきなり君は死んだなんて言われたって、訳わかりませんよ」
今度は彼女は少年の方を見なかった。テレビの方を見やりながら、しかしどこか別の所を見ている風だった。彼女が答えないから、少年は押し黙るしかなかった。カウンターの奥の厨房から、店員が突き出しを置いた。
そうこうしている内に、試合が終わった。点数はよくわからないが、青いユニフォームの選手たちが喜んでいるから、おそらく日本が勝ったのだろう。抱き合って喜ぶ選手たちを、彼女は愛おしそうな目で見ていた。
「ま、焦ることなんてないよ、今はね」
満足そうに微笑みながら、彼女は言った。
「少しずつ慣れていけばいいんだ。どっちも大した違いなんてないんだから」
少年は首をすくめた。ため息をついた。ため息くらいつかせてくれ。