しんぴん
体育館の掃除というのは、決して楽ではない。一般的に言えば、掃除というのは楽をしようと思えばいくらでもできるのだろうけれど、僕らの担任というのがまた重箱の隅をつつくような人間で、ある一定レベルに達していなければ、容赦なくやり直しを命じる。
体育館なんて、どんなに綺麗にしてもどうせすぐに汚れる。担任もそのことは理解しているが、「決められたことはきちんとやる。それが文明人としての最低限のルールだ」とかなんとか、説得力があるんだかないんだかよくわからない理屈を振りかざす。
それとは全く別に、部活とかで忙しいときには、掃除を抜けてもお互い何も言わない、というのが僕らのルールだった。たとえ偶然が重なって、僕一人しか掃除する人間がいなくても、それは一つのルールだった。
体育館の掃除というのは、たった一人で片づけるのは決して楽ではない。とりあえず担任の眼鏡にかなう程度に綺麗にしたときには、結構な時間が経っていた。やれやれ、僕はモップを用具置き場に戻して、ふと物音を耳にした。体育倉庫からだった。
重い引き戸をこじ開けて中に入ると、電気がついていた。消そうとして、ごそごそという衣擦れの音を聞いた。見ると、女の子が一人、真新しい体操用マットの上で転がっていた。
ブレザーはすっかりしわくちゃで、スカートも太股あたりまでまくれ上がっていた。だがそんなことなどまるで気にする素振りも見せずに、楽しそうに、鼻歌すら奏でながら転がっていた。
何度か転がるうちに、女の子はようやく僕に気がついた。足を真っ直ぐに延ばしたまま上半身だけ起こし、片手をあげて笑いかけた。
「おっす」
邪気のない笑顔だった。見つかったことを少しも後ろめたくは思っていないらしい。なぜなら女の子は再びマットの上に寝転んだからだ。その拍子にスカートの中が少し見えて、僕は赤面しながら立つ場所を変えた。
寝転ぶ少女の顔を覗き込むようにしゃがみ込む。女の子はマットの上に大の字になって、目を細めていた。
「……何してるの?」
僕が訊くと、少女は目を開けた。黒目は黒く、白目は白い、とても綺麗な目をしていた。でもまた目を細めてしまう。この少女は笑うと目が無くなるタイプらしい。
「においをかいでるの」
はっきりとそう言った。
「しんぴんのにおい。きもちいいよ」
言われて僕もマットに鼻を近づけてみたが、塗料だかなんだかの臭いがするだけだった──これが彼女の言う「しんぴんのにおい」なのかも知れないけれど。
「ね、一緒に」
いつの間にか少女は僕の手を掴んでいた。案外と強い力で引かれ、僕はつまずくようにしてマットの上に倒れ込んだ。
「きもちいいでしょ?」
「……痛い」
僕は倒れた拍子に擦った鼻の頭を指でなぞった。すると何がおかしいのか、少女はくすくすと声に出して笑った。不思議なことに、さっきスカートの中が見えたときよりも、ずっと恥ずかしかった。そっぽを向いて、薄汚い天井を眺めた。
「だいじょうぶ。すぐにきもちよくなるよ」
結局僕はしばらくの間彼女に付き合ってマットの上に寝転んでいたけれど、「しんぴんのにおい」はちっとも気持ちよくならなかった。代わりに、ずっと掴まれたままの右腕が、なんだかひどく熱を持っていた。
家に帰ってからも、彼女の掌の感覚は、なかなか消えなかった。