連作2
それ自体には特別なことはあまりなかった。
特に有名ということでもないし、逆にこれといった問題が起きることもない。
例年通りの役割を、例年通りにこなしていれば事は済む。
けれども、決して少なくない時間を費やす必要があるということで、部活に所属している生徒や、アルバイトに精を出している生徒、その他、自分の時間を大切にしたい生徒からは避けられがちだった。そしてそれらの生徒を差し引けば、後に残るのは数少ない、けれども各クラスに一人や二人は存在する「物好きな生徒」たちであった。
中田松葉は、そういった物好きな生徒に含まれることになったが、本人にはそのレッテルなんか気にならないくらいの動機があって、今まさにその動機が彼女の眼前で刷毛を握っている。
刷毛を握る腕は細く白く、もしかしたら自分のそれよりも女らしい。撫でるように、なぞるように、刷毛は白い糊を薄く透明に延ばしていく。その上に和紙を被せ、長くしなやかな指で貼りつける。
松葉はその動きに見とれながら、自分の手によって成された産物を視界から追いやる。糊は不均一で、和紙は傾いている。過剰な糊で和紙が破け、あるいは凹凸を作る。はみ出た糊に手垢が付いて黒く煤ける。
漏らしたため息は彼の動きに見とれたことにしても、だ。形作られてしまったそれは多くの人の目に映る。少なくとも彼は間近でこれを見ることだろう。
彼女はもう一度ため息をついて、刷毛を糊に浸した。
「そこで糊を付けすぎるから、紙が破れちゃうんだよ」
「ひあっ!」
突然声をかけられて、松葉は呻いた。
「もっと少しでいいんだ。紙は軽いんだし、そんなにベタベタさせる必要はないよ」
「あぅ、え、はい……」
頷いて、けれども声はほとんど頭に入ってなかった。頭にはすっかり血が上っていて、ただでさえ器用でない松葉はなおさら不器用に、手を震えさせた。
──その時。
「あっ……」
再び漏らした呻きは、しかし表情を曇らせて。
「? どうかした?」
不思議そうに首をかしげてくる。その優しげな瞳もどこか遠くで。
「なんでもありません」
呟いて、彼女は背の翼を折り畳んだ。つい今しがたまで、彼の身体を貫いていた翼。
貫いていた、といっても、それは松葉の目にそう映っただけ。彼はおそらくそれを知らないし、彼女の背に生えた一対の翼──黒い羽根に包まれた烏のような翼は、彼の瞳には映らない。触れることもない。
この翼は何なんだろう。天狗とは何なんだろう。考えることもある。一人の夜は特に。
私は死んだと言われても、死んで天狗になったと言われても、今ここに私はこうして生きているのだから、これといった感慨はない。
けれども、この翼を見るたびに、この翼が普通でないことに気付かされるたびに、たまらなく悲しくなる。私が私じゃなくなっているようで、涙だって出る。
それでも私をここにつなぎ止めているのは、やっぱりこの気持ちで、叶わないとわかっていたって、前に進むしかなくて。前に進んでいないと、どこか違う場所へ落ちていってしまいそうな。
「私、頑張ります」
松葉は笑って見せた。
「このくす玉、今日中に完成させましょう。こういう準備は前倒しにした方がいいんですよ。どうせギリギリにならないと、みんな本気にならないんですから」
「あはは、そうかも知れないね」
松葉の強がりを、しかし彼は気付いた様子もなくて、そういう鈍いところも含めて自分はこの人が好きなんだと、言い聞かせるように頷いた。
「そうなんです」