見つけた
その建物はいつも明るい。照明はいつも煌々としているし、中庭に面した部分は大きなガラス窓になっていて、晴れた日はいつでも太陽の光が差し込む。無闇に明るくて、でもそれくらいが丁度良いんじゃないかと思う。
彼女には見えているのだ。
天狗でない者にもこの羽が見えているのだ。
「ダメだよぉ、君ぃ」
そこにはいつでも緩慢な空気が流れていて、何を好き好んでそんな場所にと言う者もいたが、彼自身はわりと気に入っていた。天職とも思った。でも正直なところ、仕事なんてなんでもよかった。何もしないでいるよりはずっとマシだった。占い師以外だったらなんでも天職だった。
そこは老人ホームだった。中庭を中心に、四角形の建物を廊下が一周している。誰かが徘徊しても、延々と同じ所を回り続けるように作られている。扉は自動ドアで、でも扉を開くのはセンサーではなかった。受付に係員がいる間は開放されていて、そうでない時間は扉の脇にあるボタンを押すことで開くようになっている。これも判断能力の低下した入居者が勝手に外へ出て行かないための機構だった。
初めてこのホームに来たとき、彼はそんな風な説明を受けた。その時は別に感慨もなかった。感慨なんか持てるような状態ではなかった。そもそも、彼自身の意思で足を運んだわけでもなかった。精神科医の紹介に従っただけだ。ワークセラピーなんていう言葉があるのかどうかは知らないけれど、身体を動かすこと、忙しくすることが彼にとっていちばん良いと、誰かが判断したのだ。
果たして時間が過ぎて、確かに彼は笑うようになった。やや遅れて人を笑わせられるようにもなった。そのことに彼自身がいちばん驚いていた。もう一生誰かを笑わせることなんかないと思っていたのに、二年経った今では、ホームの同僚と次のホームのお祭りで披露する漫才のネタ合わせまでしている。一生なんて、一度終われば二度目なんて早いもんだ、と呟くと、それはネタですか、と訊かれたので、彼はネタだよ、と、短く言った。
「おばあちゃん、どうしました?」
打ち合わせを一時中断し、彼は受付のカウンターから身を乗り出して訊いた。ブルーの寝間着姿の老婆が、入り口付近をうろうろしていたのだ。彼の記憶が正しければ、この老婆には「そういった傾向」は見られないはずだった。
「ああ、中屋敷さん」
小柄な老婆はしわがれた、しかし元気な口調で彼の名を呼んだ。その表情はどこか嬉しそうで、また心配そうでもあった。福引きで四等を当てたけれど、景品が何なのかまだわからないような顔をしていた。
「今日、孫が来るんですよ」
「そうですか、それは良かった」
彼は心の底から言った。この場所にあっては、日々成長する子供の姿だけが時間の流れを感じさせてくれる。彼はテレビも雑誌もほとんど見なかったから、尚更だった。ついこの間まで乳母車で寝ていた子供が、いつの間にか一人で歩き、片言の言葉を話すようになっていることもあった。
「それが、一人で来るらしくて。大丈夫かしら……」
なるほど、道理で不安そうにしているわけだ。そんな時間であれば、いつもより余計にゆっくりと流れるだろう。彼は兎に角会話を続けることにした。
「お孫さんの年はいくつなんですか?」
「十四歳になるわ」
「もう中学生じゃないですか。それくらいの子なら大丈夫ですよ」
その孫がどこから来るのかは知らないが、このホームは最寄りの駅からバスに乗って十分くらいの場所にある。駅近くのバス停には大きくこのホームの名前が書いてあるし、バス停からこのホームは目の前だ。それほど多くのバス路線があるでなし、中学生にとってはおそらくそう難しいことではないはずだ。
でも老婆はそうかしら、と唸って、相変わらず眉をひそめていた。
さて、ここからどうやって話を広げるかと思案に暮れる間もなく、一人の少女が開け放たれた玄関から入ってきた。老婆の表情がみるみる喜色に染まり、少女は老婆に駆け寄った。
「おばあちゃん!」
「おぉ、千尋、よく来たねぇ」
「ね、アタシ、ちゃんと来れたでしょ」
老婆に抱きついて、見上げる。老婆は腰を曲げて少女の顔を覗き込み、細い手で頭を撫でた。
「そうねぇ。偉いわねぇ」
目を細め、老婆は少女の頭を撫で続けた。彼は同僚と顔を見合わせて、小さく笑った。
「おばあちゃん、よかったですね」
「ええ、ホントにもう……」
言いかけた。お嬢ちゃん、名前はなんて言うの、次にはそう訊こうと決めていた。それが自然な流れのはずだった。
少女は跳び上がった。中学生とは思えない跳躍力で受付のカウンターを跳び越えて、その右手が光った。彼は思わず両腕で頭を抱えた。少女は彼のすぐ横をすり抜けた。一瞬遅れて激痛が走った。
振り返ると、彼の羽の先端が消えかかっていた。糸がほどけるようにぼやけていた。
少女は右手に光る刀のようなものを握りしめていた。両の瞳は燃えるように紅く、彼を睨み付けていた。先ほど老婆に向けていた人懐っこさなど欠片もなかった。しかし彼はカウンターにもたれかかり、激痛に耐えるので精一杯だった。額に脂汗が浮く。喉から声にならない呻きが漏れる。
そして光の刀の切っ先が再び彼に向く。いや違う、正確には、その切っ先が向いているのは彼の羽だった。
同僚が、少女の両肩に手を置いた。すると少女の右手から刀が消え、瞳の紅も消えた。
「元気があるのはいいけれど、ここは跳び箱じゃないからね」
「はぁい」
何も握りしめていない右手を高く上げて、少女は言った。
「あの、ごめんなさいね、驚かせてしまって」
カウンター越しに老婆が謝った。彼は上着の袖で額の汗を拭ってから、いえ、大丈夫です、と言った。
やがて少女は老婆に手を引かれ、個室の方へと歩いていった。途中、一度だけ振り向いて、手を振った。バイバイ、お兄ちゃん、また遊ぼうね。
「中屋敷さんて、子供に好かれやすいんですか?」
何も知らない同僚は、手を振り返しながら訊いた。
「そうだね、そうありたいと思っているよ」
出会い頭に人の羽を切り裂くような子供でなければ。彼は心の中で付け加えた。
その頃には彼の羽は元通りに戻っていたけれど、痛みだけはジクジクと長いこと引かなかった。