風の回廊

松澤 俊郎


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2. 確執

 

 盂蘭盆会が過ぎた頃、患者のSは、主任の直井に、自分の主治医を渚に変えてくれ、と申し出てきた。一時的な制癌剤の効果があって、呼吸が楽になっていたSは、数日前から、再び呼吸困難に陥っていた。渚は肺癌の診断後、Sを直ちに県立癌センターに移し、すでに転移を起こしている手遅れの状態であっても、せめては自覚症状を緩和するために、放射線療法も含め、可能な限りの治療法を検討してもらうべきだと思っていた。しかし茂手木は、休暇の間に渚によってこのSに対する自分の誤診を発見されたことを根に持っていた。カルテに記しておいた癌センターへの転院の件も、まったく無視されていた。確かに、いまさら癌センターへ送るのは、茂手木の数ケ月にわたる誤診を明らかにすることでもあり、茂手木にとっては自尊心からして耐えられないことではあったかもしれない。しかし、一義的に大切にされるべきは、患者の生命であって、医者の自尊心などではなかった。

 そんなある日、Sが呼吸困難を訴えていると、茂手木に看護婦が上申している現場に、渚は居合わせた。茂手木は、鎮静剤の注射と、吸入させている酸素量のアップを指示した。
「これ以上酸素を上げても、楽にはならない気がするのですが……。マスクですでに毎分十リッターになっています」と、主任が言った。茂手木は、私の指示に逆らうのか、というような目で、主任をにらみつけた。渚は口をはさんだ、

「先生、カルテに書いておきましたが、Sの癌センターへの転院はどうなったのでしょう」
 茂手木は、平静を装って、
「参考にさせてもらいましたよ」と言った。
 渚は、引き下がらなかった、
「しかし、転院はなされなかったし、かといって、カルテにも、ではどう治療するか、というお考えが、ディスカッションとして記載されることもなかった。こういう人をは、どう治療すべきなのか、教えて下さい」
「私には私の考えがあるんでね。……初めに言っておいたでしょう、私と私の患者とは、特殊な信頼関係で結ばれているんだと」
「それはつまり、……先生の患者には、かかわるなということですか」
「……まあ、そういうことだな」
 と茂手木は、居直って、傲岸な調子で言った。

 渚はこの言葉を、許せなかった。渚は、長いあいだ心にしこっていたことを吐き出した、
「わかりました。それでは言わせていただきます。先生は病院をしばしば留守にされています。何の用があって、どこへ行かれるのかはわかりませんが、どんなに先生にとって大切な用であろうとも、患者にとっては関係ありません。患者が苦しんでいる時、不在の先生とは、患者にとって何でしょう。先生がどんなに偉い先生だろうと、その先生が現実に自分の苦しみの前にいてくれないのなら、先生の存在は、その瞬間、ほとんど無です。そんな時、どんなに未熟な医者であろうとも、駆けつけてきて自分の苦痛の訴えを聞き、何かをしてくれる医者がいたら、彼らがそれを頼りにするのは当たり前のことです。それが、このところ起こっていることの主因でしょう。先生は、何かにつけて、自分の患者、と言われますが、患者は誰のものでもありません。しかし、今後、先生は、常に所在を明らかにして、患者と看護婦の求めに応えてやって下さい。主任さん、今後は、茂手木先生の患者さんのことは、かならず茂手木先生に連絡して指示を仰ぐようにして下さい」

 直井は、渚と茂手木のやりとりを、そばに立ってはじめは怯えたような表情で聞いていたが、渚の最後の言葉に、
「はい。……茂手木先生、それでよろしいですか」
 と、言葉に強い調子を含ませて言った。
「どうぞ、どうぞ」
 と茂手木はなげやりに言い、手にしていたカルテをテーブルの上に放り投げて出ていこうとした。渚はその背に向かって、さらに言った、
「先生。Sは、少し前から、主治医の変更を申し出ています。どうなさいますか」
 茂手木の足が一瞬止まった。茂手木は、背を向けたまま、押し出すような声で言った、「君にまかせますよ」……そして、そのまま、出ていった。

 何人かの看護婦が途中から入ってきていた看護婦室に、気まずい空気が流れた。渚は黙って、茂手木の投げ出していったカルテをカルテ立てに戻した。渚が、階段を下りて自分の部屋に戻っていると、ためらいがちにドアをノックする音がした。あけると、主任の直井が立っていて、少しよろしいでしょうか、と悲しそうに言った。渚は、向かい側の大きな医局を見て、誰もいないから、こちらの方が良いでしょう、と言って直井を招いた。
「私が、いけなかったんでしょうか」
 と直井は、沈んだ声で言った。
「なぜ? 何もまちがってはいない」
「でも、……私が、茂手木先生と渚先生のあいだに石を投じたみたいで、……」
「誰かに、責められたの」
「いいえ。……まあ、古い看護婦の中には、茂手木先生びいきもいますから、……でも、あれでいいのよ、当然のことを言ったまでよ、という子もいます。そんな看護婦のあれこれなんか、どうでもいいんです。ただ、私が、この病院での先生の立場を傷つけることをしたのではないかと思って、……」
「そんなことこそ、どうでもいい。これは、私が、どうしても、一度は通らなければならないことだったんです。気にしないで下さい。……私は、人間としての彼の価値を云々する気はないのです。けれども、医者は、医者としてのあり方を問われる時は、否応なく人間としてのあり方をもともに問われてしまうものなんです。……彼は、哲学を学んだ人かもしれない、また、医学の知識も経験も豊富にあるのかもしれない、しかし、その彼の哲学をも、医学をも、生きた人間の関係の中で生かすための何かが欠けている。それは、愛情と言っても、共感と言っても、また畏怖と言ってもいい。ともかく人間をわかってしまっているような態度は取らないで、一緒に考え、一緒に悩んだり、悲しんだりして欲しいんです。問題は、不在時に所在を明らかにしておくとか、留守番をきちんと頼んでいくとかという技術的な問題ではないのです。それはもちろん必要です。しかし逆に、それを果たせばそれでいいだろう、ということではないでしょう。……昨日にしても、Sをはじめとして何人かの苦しんでいる患者を置いて彼はまたいなかった。彼らを置き去りにしていく時、彼は何を考えているのか。おそらく、彼は言うでしょう、私は患者が今後半日から一日のうちにどういうふうになっていくか、わかっている、だから、予想される訴えに対する処置も含めて指示はすべて出してある、とね。……ここで欠落しているものがあります。あの人には、それが欠落している、そして私にはまた、それしかない、そして私たち二人は、補い合い、助け合うことができない。それが残念なんです。……わかりますか」
「わかります」 
 と、直井は言った。その時、電話が鳴った。渚が出ると、婦長の高根だった。主任がそこにいるかと聞くので、いると言うと、婦長室に来るように伝えてくれと言った。直井にそう伝えると、彼女は、覚悟を決めたような固い表情をして立ち上がった。渚は、言った、
「主任さん、気にすることは何もないよ。あなたに何かあれば、私も行動をともにする」
 直井は、一瞬、目を見張って、渚を見つめた。そしてやがて、ふっと微笑して、私もです、とやわらかな声で言った。

 その夕方のうちに、渚は新潟市の県立癌センターに連絡をして、兄の友人で外科に入っている医師に、Sのことを話し、転院依頼した。患者のSには、主治医が自分になったことと、転院してもう少し詳しい検査と、良い治療法の検討をしてもらってくるようにと、説得した。Sは、黙って聞いていたが、最後に、費用がかかるだろうか、とだけ尋ねた。精密検査もいろいろあろうし、ある程度はかかるだろうが、一定の限度を越えた分は町から還付があるから、と言うと、女房にも苦労させているし、それだけが気になっていた、あとは先生にまかせる、と言った。

 すべてを終えた時は、もう準夜勤の時刻になっていた。直井は、少し前に婦長室から帰ってきて、渚に、大丈夫、と言うように笑顔でそっとうなずいて、帰っていった。

 渚は、準夜勤の看護婦と向かい合わせになって、Sのカルテを記載し、癌センターにあててのSの紹介状を書いていた。書きながら、今日という一日のさまざまなことが、今さらのように心に重くのしかかってき、またSの顔、Sの妻と五歳、三歳ほどの二人の子供の顔が思い起こされて、暗く沈んだ気持になっていった。……渚は、うつむいて、無意識に、ボールペンの端で机をコツコツ叩いていた。どれくらいの時がたったのだろうか、白い手がスッと伸びてきて、自分のボールペンを優しくとりあげたので、渚は我に返った。 目を上げると、向かいに座っていた、看護婦の野木佐和子が、渚から取り上げたボールペンを自分の白衣の胸に抱き、両手で隠すようにしながら微笑んでいた。渚の胸に、つん、と何か熱いものが走った。
「先生、……そんなに自分を苦しめないで下さい」と、野木佐和子は静かに言った。
 渚は、うなずいて、ありがとう、と言いながら、なぜか、(ああ、私はひとりぼっちというわけではないのだ)と思った。

 カルテのワゴンを引き寄せて、仕事を続けようとして、渚は、ボールペンを取り上げられたままなのに気づき、黙って手を差し出した。佐和子は自分の胸に抱いていたボールペンを、もう一度、手に包んでから、そっと返してよこした。その笑顔の優しさと澄んだ目に、渚は、不思議な深い懐かしさを感じた。……私は、この人に、どこかで会ったことがあるのだろうか、と渚は思った。 

 野木佐和子は、いつも静かな存在だった。目立たないというより、その静かな挙動と、穏やかな、言葉少ない話し方で、何かしらひっそりと存在していた。高校を出て看護学校に入り、卒業して二年目ということだった。だとすれば、二十二、三歳のはずだった。けれども、その日、その日の表情に流れるものの微妙さで、可愛らしい少女のように見えたり、しっとりと成熟した女性にも見えたりした。卒業して初めの一年は、Sを送った県立の癌センターにいたが、この春から、渚に少し先だって、この病院に入ってきていたという。主任の直井は、あの子は素質のある優秀な子なんですよ、少し内にこもりすぎるところがあるけれど、……と言ったことがあった。しかし、思い返してみれば、渚が何かをしようとする時、すっとさりげなく手が差しのべられることが折々にあり、その手が、いつもこの、野木佐和子の手であったことに、今、渚は初めて気がついたのだった。

 渚は、あらためて顔を上げて、佐和子を見た。佐和子はもう、何ごともなかったように、目を伏せ、看護日誌を書いていた。しかし、そのあたたかさを感じさせる口もとに、微笑があった。渚は、自分もカルテを書く仕事を続けた。もう、言葉を交わすことはなかったが、渚は、そこに佐和子がいてくれることがうれしかった。何かしら不思議に、今日という一日の苦しみが消え、幸福な、安らいだ気持になっていた。

 次の日の朝、Sは酸素を吸入しながら、病院の搬送車で新潟へ送られていった。渚は、玄関で見送り、早く良くなって帰ってきて下さい、と言った。Sは、かすれた声で、ありがとう、と言ったが、その声には悲しみと、押さえきれぬ不安がこもっていた。

 渚との公然たる衝突のあと、茂手木は、それまで以上に病院を留守にして、大学へ足しげく出かけていた。連絡先は言っていくという約束は守られていたが、彼が病院の業務を実質的に放棄していることは、もはや明らかだった。

 誰もが驚いたのは、茂手木が自分の医長室を片づけ始めたことだった。夕方になると、ダンボール箱を重そうに持って、自分の宿舎のほうに歩いていく茂手木の姿があった。

 そんなある日、結核病棟で、ひとつの出来事があった。渚がここに着任したその同じ頃に入院した三十半ばの男の結核患者が、外で飲酒して非常階段を上がってきて、中の仲間に扉をあけさせているところを看護婦に見つけられたのだった。看護婦の注意に対し、ひどく反抗的な態度で怒鳴り続けているということで、その患者は茂手木の受け持ちだったが、この日も午後から茂手木は不在だったので、主任に請われて渚が上がっていった。

 このTという患者は、ふだんでもヤクザっぽい態度をしていたが、渚が結核病棟の小さな看護婦室で待っていると、挑戦的に肩を怒らせて入ってきて、突っ立ったまま、
「何の用だい」と言った。
「それは、わかっているでしょう」
「わからんね」
 Tは、右頬に斜めに走る深い刃物の傷跡を引きつらせて、口元をゆがめた。かっては、その醜さに苦しんだことであろうその傷跡が、今は彼の「自慢」だった。屈折した誇り、……病菌にいまやほとんど両肺を穴だらけにされ、なお生きるために病院に救いを求めざるをえなくなっていて、彼の誇りはその傷跡の「すごみ」にだけかろうじて託されていた。

「なぜ飲んだのですか」
「何をだい」
「もちろん、お酒をです」
「飲みたいからに決まってるじゃねえか!」
 渚は、黙った。Tは、自分に挑んでいる、……いや、たぶん、自分にだけではなく、彼を「管理」しようとするもののすべてに、挑んでいるのだ、医者に、看護婦に、病院の規則に、そして、何よりも、自分をそうしたものに従属させている自分の病気そのものに。渚は、彼の居丈高さの中に、いわばねじ伏せられた彼の自尊心の悔しさを見ていた。しかし、だからといって、彼の飲み歩きを容認するわけにはいかなかった。

 渚は、Tのカルテをめくり、Tのレントゲン・フイルムを出して、黙って見つめた。両側の上肺野に、大小の融合した空洞があり、胸膜はぶ厚く両肺を押しつぶすように包んでいた。Tは、もともと大工職人だったが、自営ではやっていかれなくなり、何年か前から、大手の土建会社の土方仕事をしていた。どうしてこんなにひどくなるまで、放置していたのだろう、日雇いの彼らには、健康診断さえなかったのだろうか、と渚はTの肺の空洞をにらみつけるようにしながら、考えに沈んでいた。

 何分かが、たっていた。急にTは、この沈黙に耐えられなくなったように、言った、
「茂手木さんは、わかってくれていたんだ。俺に見えないように、そして看護婦に見つからないように、飲みにいってくれ、って言ったんだ」
 その声は、弁解がましく、どこか弱々しくなっていた。渚は、苦笑して言った、
「だけど、見つかったじゃないですか」
「まずかったよ」と、Tはやはり元気なく言った。
「飲んだことがですか」
「見つかったことさ」と、Tは元気のない声で、なおも意地を張っていた。
「茂手木先生が、酒を飲んでいいなんて、言うわけがないじゃないですか」
「いや、飲んでいいとは言わない、見えないように行ってきてくれ、って言ったんだ」

 茂手木なら言いかねない、これも『阿吽(あうん)の呼吸』というやつか、と渚は思った。そしてふと、少し前に、看護婦のひとりが腹を立てて、同僚に茂手木のことを話していたのを思い出した。食事制限をされているある糖尿病の患者の床頭台の中から、バナナ、菓子パン、ジャム、おびただしい数の魚や肉のかんずめ、……ちょっとした売店でも開けそうなほどの食べ物が見つかったのだった。その患者は、血糖値の起伏が激しく、高血糖だったかと思うと翌日には低血糖の発作を起こし、ほとんど二、三日ごとに、インシュリンの注射の指示量が変わっていた。多量の食料の隠匿を発見したこの看護婦が、茂手木にそれを報告すると、茂手木は平然として、
「糖尿病の患者というものは、かならず隠れて食べるものなんだ。私は、患者がおそらく隠れて食べるであろうカロリーをちゃんと計算して、それで食事のカロリーと、注射の量を決めているんだ」
 と言ったというのである。
「神様じゃあるまいし、隠れて食べるであろうカロリー、なんて計算できるわけがないじゃない、だからこそ、こんなに血糖値のバラつきが大きいんでしょう」
 と、看護婦は憤然としているのだった。はっきりとものを言う看護婦だったから、彼女の報告の仕方が茂手木の自尊心を傷つけたのかもしれないが、それにしても、これはいささか強弁にすぎると言わざるをえなかった。その上、茂手木は、この看護婦が患者の床頭台を見たことを逆に非難して、治療とは、主治医と患者の信頼関係の上にのみ成り立つものであり、患者を信頼していないと表明するような行為は慎んでくれないと困る、と言ったというのである。……それだけを切り離して聞けば正しい内容に聞こえても、茂手木の診療の現実のありようとからみあわせると、これもまた、話のすりかえに思われた。

 今、結核患者のTを前にして、渚は、茂手木の言ってきた『阿吽の呼吸』なるものが、人間の感性や情念に対する真にあたたかい思いやりであるよりは、茂手木の自信のなさや怠惰さやの自己弁明にすぎないのではないか、と思い始めていた。

「ともかく、飲んでいいなんてことには決してならないのです。あなたは両肺を侵されていて、両側に空洞がある。今月の検痰では菌が出なくなったように見えるが、培養の結果が二ケ月後に出るまでは何とも言えない。とても気をぬける状態ではないのですから……。あなたは私より年上だ。そして、あなたは、二十年も建築の仕事をしてこられた。あなたは、いろいろの意味で、人生の先輩だ。私のような者に、とやかく言われることは、不快かもしれない。けれども、私は言うべきことは言うしかないのです。それが私のあなたに対する義務であり、責任なのだから。……けれども、ひとたび、あなたが治って退院をされて、町で私と出会う時には、あなたは人生の先輩であり、建築の専門家であり、そうした問題に関しては、私は、あなたに教えを仰ぎ、その指導に従う関係であるのです。こうしたことは、人間としての上下の関係ではありません。それは、専門という分業の問題なんです。家を建てるためには私はあなたに助力を求めていき、健康を取り戻すためにはあなたが私たちに助力を求めてくる、そういうことなんです。わかって下さい」

 Tは、相変わらず腕組みをしたままで、しばらく黙っていた。そして、ふっと腕組みを解くと、静かに言った、
「先生、あんたが家を建てる時は、言ってくれよ。俺が建ててやるよ」……
 それは、Tの、精一杯の表現だった。渚は、それを喜びをもって受けとめた。 

 その夜、渚は茂手木の家に電話をかけた。そして、特に病棟に変わりはなかったが、結核病棟のTが飲酒してきたので、注意した、と報告をした。茂手木は、ハイ、ハイ、と聞き流すように返事をしていたが、やがて、
「今後は、どうぞ、何でもあなたの思うようにやって下さい、私は、今日限りでこの病院を辞めることになりましたから」
 と、ひどく明るい調子で言った。渚は、驚いた。しかし、驚きながらも、心の底で、予期し、わかっていた、という意識があった。渚は、自分でも不思議なほど、平静に言った。
「そうですか。……わかりました。患者の引き継ぎは、いつして頂けますか」
「やはり、しなくてはいけませんかね、私は一応、今日限りのつもりでいたんだが……」
「ぜひ、お願いします」と、渚は言った。 

 翌日は、土曜日だった。渚は、前夜の茂手木の電話のことについては、誰にも何も言わず、黙って病棟の仕事をしていた。十時近くになって、外来から、茂手木が朝から来ないので外来患者が怒りだしている、という半分べそをかいた看護婦の電話があった。渚は、わかった、と言って一階へ下り、外来の診療を果たした。

 昼近くには、茂手木が辞めたらしいという話は病院中に広まっており、外来が終わると、渚は院長室に呼ばれた。

 憮然とした顔の院長と、神経質にボールペンをいじくりまわしている事務長と、背広にネクタイ姿の茂手木が、向かい合って座っていた。院長は渚に着席を求め、改まった口調で、茂手木医長が本日をもって退職されることとなり、まことに突然の事で、病院としては後任のあてもなく大変困るのであるが、大学を介しての御栄転とあれば、強いてお止めすることもならず、……と、紋切り型の口上を言い、後任の補充は、一日も早くできるように事務長ともども努力するので、大変とは思うが、渚先生には何とかそれまで頑張って頂きたい、と言った。事務長も、先生、どうかお願いします、頼みますと、くり返し言った。渚は、わかりました、できるだけのことはします、と答えながら、自分と目を合わせることを避けている茂手木のネクタイを見て、「体制内的なスタイル」という茂手木自身の言葉を思いだしていた。

「引き継ぎは、どういたしますか」
 と渚は、茂手木の顔を見ながら言った。
「まあ、すべて、カルテを見て頂ければわかることだから」
 と茂手木は、やはり目を合わさずに言った。渚は、苦笑した。何も書いていない茂手木のカルテ、そして、曰く言いがたい『阿吽(あうん)の呼吸』から、自分は何をどう引き継げばよいのかと……。苦笑しつつ、しかし、外来と、一般病棟と、結核病棟と、すべてをひとりでやってくれ、と言う院長たちの負託の過大さに、心が重く沈んでいくのを感じていた。

 しかしまた、その重い気持を振り払うように顔を上げて、茂手木の、いつもはいくぶん猫背の背中が、今はシャンと伸ばされているのを見て、渚はそこに、今、確かに、ひとつの呪縛から解放されたのではあろう人間の明るさを見た。彼の真に内的な変化を伴わない限り、どこに「栄転」しようとも、彼は再びそこで新しい自縄自縛に陥るだけであろうが、今ここでは、茂手木の新しい出発を、素直に祝福してやるべきなのだろう、と渚は思った。

 病棟に上がると、看護婦室の中は騒然としていた。渚を見ると、急に声をひそめる看護婦もいたりして、古い看護婦の中には茂手木先生びいきの者もいますから、と言った主任の直井の言葉を渚に思いださせた。渚は、何も言う気はなかったが、直井が、自分からは一応説明はしたのだが、皆の動揺を鎮めるために、何かひと言、言ってやってくれ、と頼んだ。渚は、直井の助けになるのならと、重苦しさを振り払うように、言った、
「茂手木先生の、これからの新しい人生の出発を祈って、お送りしましょう。そして、残る私たちは、病院も、医者も、看護婦も、すべて患者さんのためにあるのであって、患者さんが私たちのためにあるのではないことを心に銘記して、力を合わせて頑張っていきましょう」…… 

 次の日、日曜日ではあったが、渚は病棟に行き、茂手木の残した全患者の病状とこれまでの診療内容を把握しようと苦闘した。丸一日がかりで何とか終え、片隅のソファーの前に立って、朝日連峰の上に盛り上がる、夏の最後の積乱雲を、半ば放心して見ていると、うしろで、小さく、
「先生、お茶をどうぞ」
 と言う声が聞こえた。振り向くと、白衣に着がえた、野木佐和子だった。髪をうしろにまとめていたが、まだキャツプはかぶっていなかった。
「これから、準夜のお仕事ですか」
と、渚が言うと、はい、と小さく答えて、あとは何も言わず部屋を出ていった。そのうしろ姿を見送りながら、渚はまた心が不思議になごむのを感じ、(ああ、この人も、ともにいる、……私は、やれるかもしれない)と、なぜか思った。

 部屋を出ると、キャップをきちんとかぶった佐和子とすれ違った。佐和子は静かに目礼したが、その目と唇にやわらかな表情があった。


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