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夏は、すでに終わろうとしていた。混沌のうちに、日々が駆けぬけていた。
九月初めの日曜日、渚は、車を走らせて、阿賀野川に鮎釣りにでかけた。遠く尾瀬と、猪苗代湖から源を発して流れ下り、新潟県を横断して日本海に注ぐ水量豊かなこの大河は、かつて上流のK電工から排出された水銀による汚染で、いわゆる新潟水俣病の患者を多発せしめた。今なおその痛みを引きずって苦しんでいる人々は少なからずいたが、川は、そのたゆまぬ自然の浄化力で、人間により加えられた汚れを、昼も夜も洗い清めてきていた。
川にも生命がある。……腰までつかり、瀬の水流に抗して竿をさばきながら、渚はいつも思うのだった。川が、そのふところに抱く魚たちの生命のことではない。川、そのものに、生命があるのだった。吹き過ぎる風、注ぐ陽光の翳り、そのひとつひとつに川は表情を変え、その声を変えた。その日、何かに憤ってでもいるかのように、ざわざわとつぶやき続けた川は、夕方、西の空に沈んでいく太陽の別れの放射の中で、今、もの悲しげな吐息をついていた。渚は、この川面の夕暮れ時の表情に、いつも深く魅せられ、青みを増していく水の中に立ち尽したまま、一種の放心に陥るのだった。そして、我に返ると、すでに対岸を見定めることもできない夕闇の中に、彼はひとり取り残されていた。
夜には川も眠るのであろうか。……しかし、いつの夜も、その眠りは安らかなものではないように、渚には思えた。すべての道具を片づけ終えて振りむくと、川面は闇の中で、何かしら幽鬼めいたものを、ゆらめき立たせていた。川は、己れを汚しながら生きる人間たちの生業(なりわい)の厳しさや、欲望の愚かしさを考えながらつぶやいていたのだろうか。それとも、己れの水の一滴一滴にとどめられている、かつて自分がその構成成分として存在した生き物たちの記憶を思い起こして語っていたのだろうか。いずれにもせよ、耳を澄ませば聞こえてくる夜の川面の夢のつぶやきは、いつも何かしら重く悲しげに聞こえた。……
渚は、また明日から始まるひたすらに多忙な日々を思いながら、自分は、どこからそれを担う力を汲み上げ続ければいいのだろう、と思った。土手の上の車に乗り込みながら、今日もやはり、すぐ近くの、兄の家には寄らずに帰ろう、と思った。父母には会いたいと思ったが、兄には会いたくなかった。同じ医者の道を歩みながら、人間としては、その情感のあり方において、渚は、兄に異質なもの、納得できないものを感じ続けていた。異質なものの漂う家で、耐えて笑っているよりは、誰もいない自分の部屋に帰って、自分自身がその責任において選び取ったそこでの孤独な時間に、身を沈める方がよかった。
自分はあの家で、誰かを、待ち続けているのか。……いや、そうではない、と渚は自分自身に言い聞かせるように、思った。
すべては「罪」になり終わったけれど、自分はその「罪」への悔いにとどまらずに歩くために、東京を離れ、この地に来たのだ、感傷的な傷心はもう捨てている、すべての辛さから逃れるためならば、自分はこんな新しい「人々」との交わりの生活など選びはしなかった、医者であることなど、いつやめてもよかった、しかし、今、再び医の道を選んだのは、どんなにしばしばそれが耐えがたい重荷に思えることがあるとしても、やはりどこまでも「人々」とともにあることの中でしか、自分が見失った「愛」の意味も、生きる意味も、再び見出だすことができないのだ、と思ったからだ、そう思って来たこの地で、早くも起こった人間の関係の摩擦と破綻に、自分は疲れてしまってはいるが、これはしかし、疲労ではあっても、生きることへの嫌悪や絶望ではない、だから、きっと私は耐えていけるだろう。……渚は、ふと、野木佐和子のことを思った。いつもさりげなく、すっと差しのべられる、寡黙なその人の、白い手を思った。
山の麓に沿って点在する村々を縫うように北上する道を走って、渚が病院の前に着いた時には、もう夜の闇は深かった。小さな田舎町の夜の暗さの中で、四階建ての病院の窓々には、煌ゝと、不夜城の如くに明かりがついていた。病院の横の道を裏へ抜けると、道沿いに、初めに院長宿舎、次に茂手木の住んでいた宿舎があり、いずれもが暗かった。三つ目が、渚の宿舎だった。車庫に車を入れ、自分の宿舎の暗い玄関前で、渚はもう一度、病院を振り返った。病院の明かりは、決して常に希望の灯なのではない。しかし、今夜はなぜか、その明かりが、渚の胸にしみた。目を返すと、道をへだてて、看護婦宿舎の明かりがあった。渚は、そのどこかの一室にいる佐和子のことをまた考えている自分に気づき、そんな自分を咎めるように頭を振って、玄関の鍵をあけて入った。
渚の、いつ終わるともない苦闘の日々が始まっていた。朝、病棟へ上がって変化のある患者の報告を受けて、必要な診察をし、指示を出し、そして下へ下りて、外来診療が始まると、もはや午後の二時ごろまでは、切れ目のない診療が続くのだった。渚は静かな信頼を受け、患者は確実に月を追って増え続けていた。あまり遅くなると、本来は医局で食べる渚の昼食が外来に運ばれてきた。患者さんたちも空腹のまま待っているのだから、と渚は断ったが、外来の看護婦たちは、渚の健康を案じて、無理やりに食べさせるのだった。診察、説明、検査、注意や叱責、励ましや慰め、……そしてまた、診察と、果てしなく作業はくり返された。その作業は、医師や看護婦から見れば、一連の「流れ」であった。しかし、ひとりひとりの患者にとっては、それは決して「流れ」ではなく、ようやくに自分の番となった、「一対一」の、絶対的に「個別」の大切な瞬間だった。ひとりひとりが、自分一個の切実な不安を抱き、希望や慰謝に渇いていた。ひとりひとりが、かけがえのない自分の生命を抱きしめていた。この矛盾、この乖離は、常に、医療の現場における答えのない問題だった。渚にできることはただ、時折ふと我にかえって、次の患者を呼びこむその一瞬の間に、自分の心を「一対一」のものに整え直す努力を続けることだけだった。
ようやくに外来を終えると、ほんのひと息入れただけで、病室の回診が待っていた。渚がトボトボとした足取りで上がっていくと、主任の直井は、職務と、渚への思いやりの、板ばさみになった表情をした。直井たち看護婦に、責任はなかった。渚は、つとめて元気な表情で入っていこうと、エレベーターの中で、心を励まし直すしかなかった。
回診を済ませて、カルテを書きながら指示を書いていくと、もうそれは準夜勤の時間帯になっていた。人手のある日勤の時間帯に出して処理されるべき指示が、準夜の看護婦の業務の中に食いこんでいった。渚は、すまない、と言ったが、直井はそんなこと気にしないで、と言い、結局は彼女自身が居残ってその処理をして帰るのだった。
直井は、ある時、渚に、
「先生は、お帰りになってから、御自分で夕食をお作りになるのですか」
と聞いた。渚が、そうだ、と答えると、直井は複雑な表情をして、
「そうですか。……病院では、もちろん夕食は出ない、こんな小さな町だから、先生がどこかの店で外食をなさっていれば、すぐに私たちには聞こえてくる、でも、何にも聞こえてこない。……そうですか、疲れた体で、帰ってから作っておられるのですか。でも、そんなことを続けておられたら、本当に体をこわしておしまいになる。私から言って、給食科に、夕食を出させましょうか」
と言った。渚は、ありがとう、でもいいんだ、そんなことが私の気分転換になっているのだから、と言った。直井は、買い物はどうしているのか、と聞いた。この町の店では、人目が多くて買いにくいから、日曜日に新発田の街へ行ってまとめて買っている、と渚は言った。直井は、なぜひとり暮らしをしているのか、とは遂に聞かなかった。そのデリケートな直感で、それは触れるべきことではないのだ、と感じとっていた。
茂手木が辞めたあの日、院長も事務長も、茂手木の後任を一日も早く探す、と言ったが、それの決まる気配はまったくなかった。当直だけは週に四日は大学から来て埋めてくれてはいたが、あとの三日は、常勤の医者たちで埋めるほかなかった。院長の下にいる四十半ばの外科の梅田という医長と、眼科の老いた常勤の医長が二日を埋めたが、残りの一日は結局、渚が埋めるしかなかった。深刻な顔つきで、何とか頑張ってくれと渚に言った院長自身は、泥をかぶる気はまったくなかった。
事務長は、奔走していたが、大学からも他の県立病院からも、まったく何の助けもこなかった。そしてそれが、消極的な非協力ではなく、積極的な忌避、拒絶であることを、渚はやがて、自分と入れかわりに去っていった前任の医長の口から聞かされることになった。 彼は秋のある日、ふいと訪れて、陣中見舞いにきました、お疲れでしょうが、今夜はその辺で一杯つきあって下さい、仕事の終わるのを待っていますから、と言った。私はあまりアルコールの方はいけませんが、と渚は言ったが、何とか早めに仕事を切り上げて、桐村というその前医長と一緒に、その町で一軒だけのスナックに出かけた。
桐村は、何もお手伝いもできず、申しわけなく思っていた、と詫びながら、自分がこの病院を去るに至った当時の心境を、その日、初めて語った。
桐村がこの病院に来たのは七年前で、当初は、まだ茂手木はおらず、院長も別の人だった。内科は、桐村を含めて三人、外科は院長以下やはり三人、あとは今もいる眼科と歯科の医師がひとりづつのスタッフで、みんな生き生きとしてやっていた。内科と外科は車の両輪として、この当時はたがいに良い影響を与え合っていた。手術のレベルも高かった。 しかし、院長が病気で引退し、後任の院長が赴任してきてから、すべてが変っていった。この人は人柄に癖があり、行く先々の病院で摩擦を起こしてきていた。外科医は、技術家肌で個性の強い人は多いが、結局はその腕、外科医としての技量のあるなしが、すべてを決める。この人は、癖だけが強く、技量はあまり伴っていない人だった。しかも、一番悪いことに、その自覚、言わば病識を欠いていた。
新潟県は、一県一大学で、昔から学閥は強く、大学に逆らっては、もはや人はえられないものと覚悟するしかなかった。この、癖の強い、そして腕のない人が、トラブルをくりかえしつつ、なお勤める場をえて、しかも、結局は病院長にまで登りつめてきたのは、どこまでも大学の出身医局の庇護と、同窓会の会長だという彼の権力基盤のおかげだった。 もう七十歳半ばを過ぎていて、普通の自覚があれば後進に道を譲るべき時にきていたが、依然として権力欲はあり、医局も同窓会も、この「長老」の処遇を考えあぐね、結局、この病院の院長の後任に据えていた。大学とすれば、それで厄介払いをすることができたのかもしれないが、この病院と、この地の患者さんたちは、この人事の犠牲になった。
この人が院長になってくると決まったとたんに、まず外科の医長が辞めた。さらに、一年もたたぬうちに、残るもうひとりの外科医師も辞めていった。院長は、すべての手術に手を出し、術後経過は芳しくないことが多かった。彼は、悪い結果はすべて、下の医師のせいにした。容体が悪くなってくると、その患者の所へは顔を出さず、下の医師に押しつけた。良い結果の患者の所へは、自分でしばしば顔を出した。泥は自分でかぶり功績は部下のものとする、というような気持ちは微塵もなく、まさにその逆のことをやっていた。患者からの金品の付け届けで、いくらでも態度は変った。すべての部下が去って、外科としての機能がほとんど麻痺しても、もはや大学からはひとりの医師の派遣もなかった。どんなに医局の上の者が頼んでも、誰もこの院長のもとでは働く気持にならなかった。
事務長は、医師向けの雑誌に求人広告を出し続け、ようやくひとりの医師が応募してきた。年は取っていたが、きちんと技術を磨く場で働いたことがなく、外科医とはいうものの、ひとりではあまり手術もできない医師だった。この人を雇い入れて、院長は、すべてを「教え」込んだ。虫垂炎の手術からすべて「教えた」のだと言うのが院長の自慢だった。 すべて「教えて」もらったこの医師は、院長に頭が上がらなくなった。持ちつ持たれつで、二人の関係は、うまくいっているように見えた。しかし、それこそが、この病院の病根となった。病院の評判は、まず外科の部分から悪くなり、連鎖反応と悪循環の中で、病院全体の評価も落ちていった。
悪いのは外科で、内科はその被害者だったと言うのは、医者としては恥ずべき弁明だっただろう。医者が医者をまっすぐに批判しないで、誰が誤りを正せよう。いろいろと吐かれる言葉はあっても、それが陰で言われている限り、所詮は陰口であって、それが仮に耳に届いたとしても、そんなことで考えるような院長ではなかった。この泥沼に対する「解決」の道を探すかわりに、内科の医者たちは、ただ矛盾を「解消」する道を選んでいった。つまり自分が辞めてここを去る、という道を……。
院長に、自分の担当患者の胃潰瘍の手術を頼んで、結果としてはその患者を死なせてしまった内科の医師がまず去った。そして、悪化していく一方の病院経営の責任を内科に転嫁するような発言――内科が積極的に手術をする患者を見つけないから外科は腕の振るいようがない――を医局の会食の席で院長がした日、残りのひとりの内科医も辞表を出して去った。桐村はひとりになった。まもなく、地元の大学に、京都から新しい内科の教授の着任があり、それを追ってきた茂手木が、大学にポストをえられず、この病院に入ってきた。この間、眼科医と歯科医は、第三者的に、自分の領域の中にとじこもっていた。
「それから先は、先生のご存じの通りです」
と、桐村は苦い表情で言った。「先生御自身は、なぜお辞めになったのですか」
と、渚は皮肉な気持ちは何もこめずに聞いた。「やはり、逃亡ではあったでしょう」と、桐村は答えた、「私は、新発田市の生まれです。いずれ近い内に新発田で開業するつもりでいました。そのためには、その前に新発田の県立病院に移って、開業の基盤を作っておきたいという事情はありました。しかし、それは私個人の利害にからんだ事情であって、患者さんにも、職員たちにも、関係はありません。私の転勤は、逃げ出す折を待っていた転勤だったのです。たまたま、先生が郷里の地に帰られる、ということでここに赴任されることになった。私としては、絶好の機会だったのです。けれども卑怯な私は、先生には何も言わずに去りました。そこにはもちろん、先生が御自分でこの病院の矛盾を理解し、先生なりの闘いをしていくことに、先入観を与える資格は、逃亡していく自分にはないのだ、という思いもありました」
桐村は、年下の渚に対して、丁寧な言葉づかいで話していた、
「今日、私が、あえて来たのは、先生の今の苦境の根を張ったのは、先生に先立ってここで働いてきた、意気地のない私たちであったことを、どうしてもお詫びしなければと思ったことと、陣中見舞いと言ったけれど、本当に先生には頑張って欲しいと、……今、この病院を支えているのは、まさに先生であり、その先生の苦闘は、私たち、私も、新発田の連中も、もっと言えば、大学の連中も、みんな見ているのだ、ということを伝えたかったからです。何ひとつ具体的には手助けしない、しかし、見ているのだと言う、こんないい加減なことはありません。それでも先生は見られているのだし、そして、先生に対する皆の評価は高いのです。この病院の真の癌は、院長です。その癌を育ててきたのは、学閥であり、また前時代的な、不明朗な、医者の世界の義理人情です。患者さんのために病院があるのであって、病院のために患者さんがあるのではない、と先生が訓示されたということは、私たちの耳にも聞こえてきました。この当たり前のことが、当たり前でなくなっていて、新鮮に聞こえるというところにこそ、医療の世界のぬるま湯にどっぷりと漬かってきた私たちの堕落が見えます。これからも、私自身には、何のお手伝いをするという力もありません。けれども、この病院をどうするのか、この院長をどうするのか、ということは大学でも議論され始めています。自分たち自身が学閥の恩恵に浴し、大学を通してのポストの利益にありついてきた者たちが、この病院について、どこまで自浄をなしうるのかは疑問もあります。けれども、何かが少しずつ動き始めてはいるのです。それをわかって下さい。そして、道の開ける事を信じて、踏みとどまって下さい。お願いします」……
桐村の話によっても、酒によっても、渚は正直のところ慰安を得ることはできなかった。 桐村は、誠実な人柄ではあるのだろう。彼の中にあり続けた自責の念が、さして親しくなるひまもなかった年下の渚にわざわざ会いにきて、このような言葉を言わせたのだろうと思えば、これで彼の苦しみが、少しでも軽くなればいいがと、渚は考えた。しかしまた、桐村の「励まし」は、渚の苦しみを軽減はせず、むしろ、桐村の主観的意図とは別に、すでに立ち往生している渚をさらに網でからめ取るということにもなっていた。本当にこの人は、自分を「励まし」にきたのだろうか、と渚はどこかで苛立っていた。いろいろの地で自分を見守っていると桐村が言う人々の優しい気持よりも、むしろ、徹底的にひとりなのだという孤独感が、渚の中に沈澱してきて、渚は酔えなかった。
あの五百日余に及ぶ大学の闘争が、国家権力の実力行使で物理的に圧殺された時、ある学友は、この闘争ののち五十年、いや百年は、二度とこのような闘争は起こりえないだろう、と言って山の中に去っていった。大学の「自浄」などがありうるのなら、とうにあの時に変わっている、と渚は心の中でつぶやいていた。
すべての仲間たちが心に傷を負いつつ、それぞれの生きる道に散っていった。自分自身の苦しい葛藤から解放されたいために小ぎれいな「総括」を述べて転進した者もなくはなかったが、ほとんどの仲間たちはむしろ重く沈黙して語らなかった。たまに出会うことがあり、やあ、と手を上げることはあっても、どう生きているかと、問い合うことはなかった。問い合うまでもなく、それぞれに捨てることのない、捨てえぬものを持ち、それにこそ自分の退路を断たれながら生きていることは、わかりあっていた。もはや論理ではないその情念を、言葉にすることはできなかった。言葉にしようとしてみれば、「それ」は言った当人が苦笑せざるをえないほど卑小なものになってしまう。しかし、生きている現実の中では、「それ」はほとんど細胞の中に溶けていて、生きる原理となっているのだった。 それにしても淋しいな、……桐村がタクシーで去るのを見送って、夜の道を宿舎に向って歩きながら渚は思った。人間に、日々に倦み、疲れながら、しかし、人間に固執する道を選び続けている自分、……明日という日にまた人を愛し続ける力を、どこから汲み上げればよいのか、……仲間たちよ、みんな、どうしているんだい、と渚は心でつぶやいた。 見上げる星空の透明さが、もう秋だ、と言っていた。宿舎の玄関わきの大待宵草の花が終わり、宿舎を包むように咲きつづけていた松葉ぼたんの群生も萎え、裏庭の秋海棠の薄紅色の花も散り、今はすすきの間で野生のコスモスが揺れているのだった。無我夢中のうちに、時は流れていた。
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