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ある日曜日、渚は、新潟市へ本を求めにいき、その足で、県立癌センターにまわった。Sを見舞うためだった。Sは、気管支の起始部の病巣に放射線照射を受けていた。すでに頸部に転移している状態では、根治手術はできなかった。しかし、放射線療法が思った以上の効果を上げ、完全閉塞になっていた左の肺には空気が通い始め、呼吸困難も消失し、酸素吸入も不要になっていた。渚が電話で主治医に容体を問うた時、彼はそう説明をし、再燃してくることは避けがたいが、その前のこの小康状態の間に、一度退院させ、家族とともに過ごす時を与えてやりたい、と言った。渚も、ぜひそうしてやってくれ、と頼んだ。
受け付けでSの病室を確かめて上がっていくと、廊下でSの妻に出会った。ちょうど良かったので、渚は廊下で彼女に、主治医との電話の話のことを言い、聞いていますか、と尋ねると、今朝、そういう話があって、主人ともども喜んでいる、と礼を言った。そして、でももしまた苦しくなった時には、先生が診て下さるんでしょ、と念を押すように言った。もちろんです、と渚は答えたが、医者としては、このひとたびの軽快はうれしくもあったが、やがてくるであろう病勢の再燃を確実に予測できるがゆえに、その時にはもはや、すべての治療がその効果を期待できないことを考えて、重い気持にならざるをえなかった。
その思いを入り口で振り払って部屋に入ると、Sは渚を認め、驚きと、喜びを見せた。やせてはいたが、表情は明るかった。先生、来てくれたんですか、もうすぐ帰れるそうです、ありがとうございました、とSは渚に頭を下げた。渚は、良かったですね、奥さんともども本当に良く頑張られましたね、と笑顔で言った。
その時、うしろから、先生、と小さく弾んだ声がして、振り返ると、野木佐和子が、花瓶に花を差したのを持って立っていた。
「少し前に来てくれたんです、病院の話をいろいろ聞かせてもらっていました。病院が懐かしいなんて変なもんだけど、でも何ケ月も暮らした所だから、自分の家のように懐かしくてね。先生もひとりになってしまって、大変だなあ、と思っていたんです」
と、床頭台(しょうとうだい)に花瓶を置いて花の形を整えている佐和子に代わって、Sが話をした。そうでしたか、と聞きながら、主治医の自分でさえ、自分の中にいろいろの弁解をしながらSを見舞うことなく過ぎていたのに、さりげなくこうしてSを見舞う心を佐和子が持っていたことに、胸をうたれた。このようにして帰っても、この人はあえて誰にも、Sを見舞ったことは言いもしないだろう、この言葉少ない人の心の中に、どんな豊かなものが包まれているのかと、渚は思った。
渚がベッドの脇の小さな椅子に腰かけてSと話しているあいだ、佐和子は渚の横に立っていた。時々見上げる渚と目が合うと、今日の佐和子は視線をそらすことなく、微笑した。
Sの部屋を一緒に出て、エレベーターに向かいながら、渚は佐和子に、今日は一緒に帰れますか、と聞いた。佐和子は、はい、と答えた。その声もいつもと違って、素直に明るく、うれしそうに聞こえた。
車に乗る時、佐和子は一瞬ためらった。渚が助手席をあけて、どうぞと言うと、
[私、……うしろの方に乗ってもいいですか」と言った。
「なぜ。……うしろと前では、何か話しにくいではないですか」
「いいえ、その方が、話しやすいんです」
渚は苦笑しながら、うしろのドアをあけてやった。それでもすぐに乗ろうとしないので、「どうしたの」と言うと、
「いいの! 先生は早く運転席に乗って」と、佐和子は言った。渚が、自分のドアの方へまわる間に、佐和子はうしろの席にすべりこんだ。シート・ベルトをしながら、バック・ミラーを見ると、鏡の中の佐和子と目が合った。佐和子は、にこりとして、言った、
「では、お願いします」
「何だか、タクシーみたいだね」
と渚は言い、佐和子は、くすくすと笑った。
新潟の市街を抜けた時、渚は、前を見たまま、
「あなたの、今日の、これからの予定は……」
と聞いた。「何にも……」
「じゃあ、ほんの少しだけ、まわり道をしていいですか。五頭山の麓の小さな滝を見ていきたいんです。水原で暮らしていた子供の頃に行ったきりなのだけれど、……」
「ええ。……行きましょ」渚は進路を東にとった。阿賀野川の長い橋を渡ると、正面に五頭の峰々が見えてきた。 やがて水原の町に入り、国道ぞいに細長い水原の家なみを抜けながら、渚は、
「私は、二十歳まで、この町で生きていました」
と言った。佐和子は、その渚の言葉を飲みくだすように、少しの間を置いて、
「はい」と、言った。そうですか、ではなく、はい、と佐和子が言ったことに渚は違和感を一瞬感じたが、深くは考えずに、運転を続けた。町はずれの小さな湖、瓢湖を左手に見て車を走らせながら、渚は、右手の家なみが切れた所に、やや奥まってある小さな古い家を見た。それは明らかに無人で、雨戸は固く閉ざされていた。渚の胸に、覚悟していた以上の、鋭い痛みが走った。
もともと積極的には話さない佐和子の声が、何かしら沈んできたのを、この頃から合わせて感じて、渚は黙って車を走らせた。県道は、山に向って直進し、刈り入れもとうに終わって、落葉した稲架(はさ)掛けの木の向こうから、紅葉し始めた五頭(こず)の山が、夕日を浴びてそそり立ち、迫ってきた。
麓の村落に入る道を左に曲がって、山麓ぞいの道をゆっくりと車を走らせながら、渚は、右手にあるはずの滝に入る道を探した。もう十年以上も入ったことのない道だった。
見逃して通り過ぎてしまったのか、と思い始めた時、木々に隠れたその小道を、渚は見つけた。車は何とか入れそうだったが、すれ違いはもちろんできそうにもなく、先でUターンするスペースがあるとも思えなかったので、入り口の近くの空き地に車を止め、歩いて入っていくことにした。
「少しだけど、歩けますか」と渚は、急に元気がなくなってきたような佐和子に聞いた。「はい」と、佐和子は答え、自分でドアをあけて降りた。
先に立って、ゆっくりと細い山道を登りながら、渚は、佐和子を時々、振り向いて見た。そのたびに、佐和子は渚に微笑を返したが、やはりどこかしら、淋しそうに見えた。どうしたのと聞くことが、なぜかはばかられる気がして、渚は黙って川沿いの道を歩いた。
やがて滝の音が聞こえ始め、突然に木々の茂みの中から、水しぶきを含んだ風が、さっと、吹き抜けてきた。
「魚止めの滝」の名の通り、道に沿っていた川は、そこで滝つぼとなり、紅葉し始めた鬱蒼(うっそう)たる木々のあいだから、水はしぶきを立てて轟き落ち、霧が流れていた。もう夕刻近くなってもいて、人影はなかった。渚は、一瞬、佐和子の存在を忘れて、その霧の中に立ち尽した。……子供の頃、兄たちとともに、真夏にはいくどかここへきて、飯盒(はんごう)で飯を炊きながら、この滝つぼで泳いだことがあった。水は、身を切るように冷たくて、二、三分も入っていると、唇は紫色になり、歯の根も合わないほどに震えがきたものだった。あの頃は、この滝が、もっと高く、大きく見えた、それは、自分が小さかったからだ、……でも、大きくなったとは、一体どういうことなのだろう、あの頃の、言いようのない人恋しさも、生きていることの心もとなさも、何にも変ってはいないのに……。
ふと、渚は、佐和子の存在を思い出した。振り向くと、自分を見つめている、佐和子のきらきらした目と出会った。
「すみません」
と渚は言い、滝から少し離れた、あまり濡れていない川べりの倒木に腰を下ろし、ポケットのハンカチを出して敷いて、佐和子に、自分の横に来てかけるようにと、手で示した。佐和子は、素直に腰を下ろした。一瞬の沈黙が、息苦しく流れ、……それに怯えるように、佐和子は、つぶやいた、
「魚止めの滝。……懐かしい。……」
渚は、驚いて、
「知っていたんですか」
と、佐和子の横顔に言った。佐和子は、うなずいたが、その体は小さく震え、顔色は蒼白となっていた。目は水面をにらむように見つめていた。今度は、渚が怯えた。渚は、自分の上着を脱いで、佐和子に着せかけた。佐和子は、これも黙って受け入れ、胸元で前を合わせるように、ひしと抱きしめた。
「どうしたんです、気分が悪いのですか」
佐和子は、首を横に振ったが、喘ぐように、肩で息をしていた。
「でも、顔色が悪い。寒いんですか」
佐和子は、もう一度、激しく首を振った。
「野木さん、……」
帰ろうか、と渚が言いかけた時、佐和子は、つきつめたような表情で、川の流れを見つめたまま、言った、
「先生、ごめんなさい。……私、……私、……先生を、だましていたんです」
渚は、黙っていた。何も言えなかった。佐和子が、何を言い出そうとしているのかはわからないままに、今、佐和子が自分自身と闘いながら言おうとしていることが、自分の運命をも決めかねないことなのだと直感し、身を固くしていた。
「ごめんなさい、先生。……」
と、もう一度、佐和子は言った。
「何でも、言って下さい」
と、渚はようやくに言った。
「先生。……教えて、……先生は、私のこと、何を知っていますか。……主任さん、私のこと、何か言っていましたか。……」
佐和子は、一語、一語、押し出すように言った。
「あなたが、苦しむようなことは、何も。……ただ、あなたが、素質のある優秀な人だと」「それだけ、……」
「それだけです」
「そう。……先生、ひとつだけ、聞いてもいいですか。……きっと、答えて下さいますか」
「ええ。……きっと、答えます」
「先生。……先生は、私のこと、……好いてくれていますか。……」
佐和子は、顔を上げて、渚の目をまっすぐに見つめ、その答えを求めていた。なおも蒼白な顔をし、震えていたが、その瞳は、ひたむきに見開かれていた。
「ええ。大好きです」
と、渚は即座に答えた。何のためらいもなくそう答えた自分に驚きはなかった。むしろ、今、問われてみて、自分が、遠い昔から、この人を知っており、愛し続けていたことを、心の深い所で、はっきりと悟った気持になっていた。佐和子は、その目に、見る見る涙をあふれさせた。そして、その涙を拭こうともせず、泣きじゃくった。そして、泣きながら、とぎれとぎれに言った、
「ごめんなさい。……私、怖かったんです、何もかもが怖かったんです。……だから、何にも言えなかった。……先生に、初めて会った時から、私は、口がきけない女になってしまっていた。……先生が、どうか私を見ないでくれますように、私に気がつかず、たとえ気づいても、私をきらってくれますように、と祈っていた。……それなのに、私の目も、心も、いつも先生を探し求め、気がつくと、いつも先生に手を差しのべていた。……そして、その心も、どこまでが自分の心であり、どこは、あの人の心なのかとわからず、自分に問い続けていた。……」今は、渚も何かにおののいていた。
「あの人、とは……」
「私は、……先生と同じ、水原町の生まれです。中学も、高校も、先生と同じです。私は、先生の後輩です。……でも、私は、……先生と、一緒だったの。中学も、高校も、一緒だったの。一緒に生きていたの。……私は、……中条真由美の妹です。……」
渚は、弾かれたように、立ち上がった。
「中条、真由美さん! ……どうして、そんな、……」
「本当です。真由美は、私の、実の姉です。……姉が嫁いだあと、私たちの父は亡くなり、母は、まだ中学生だった私を連れて、野木という人と再婚しました。ですから、……私は、野木佐和子、……姉は、中条真由美なんです」
佐和子も立ち上がっていた。霧が、向かい合ったふたりのあいだを流れた。渚は、震える両手を伸ばして、涙に濡れた佐和子の冷たい頬に触れた。佐和子は、その手を受け入れ、また新しい涙を流した。渚は、胸をしめつけられながら、ようやくに言葉を押し出した、
「あなたが、真由美さんの妹さん。……そうだったのか。……いや、私は、わかっていたような気がする。あなたの目にも、あなたの口もとにも、私は、なぜか懐かしく、見覚えがある気がしてならなかった。……そして、あなたがそばにいてくれる時、私は安らぎと幸せを感じていた、あなたにそばにいて欲しかった。……あなたの姿をいつも探し求めていた」
「先生は、私の中に、姉の幻を見ていたんです。歳は離れているけれど、昔から、よく似ていると言われていたから。……でも、……でも、……求めて下さっていたのは、……姉の幻……、それとも、この私……、ねえ、先生、教えて、……ね、答えて、……」
渚は、その問いには、答えられなかった。激しい感情に打ちのめされていた。
「お姉さんは、今は、……」
「姉は、……去年、亡くなりました」
「嘘だ!」
と、渚は叫んで、佐和子の顔から、手を引っこめようとした。しかし、佐和子は、しがみつくように、その手をとらえ、放さなかった。そして、息せききって叫ぶように言った、
「姉は、乳癌の手術をしました。私は、それがきっかけで、看護婦になりました。でも、姉は、癌が再発して、肺や胸膜や心嚢に転移して、呼吸困難に苦しみながら、亡くなりました。ちょうど一年になります。私は、仕事を休んで、付き添って看病しました。……」
佐和子は、両手で渚の手を握りしめ、涙で頬を濡らしたまま、言葉を続けた、
「姉は、……自分に残された時がもう短いことを知っていました。……最後の、苦しい日々の中で、姉は、先生のことを話していきました。……先生とともに学んだ日々のこと、先生との愛、結ばれなかった愛のことを、私だけに話していきました。……姉は、先生も結婚されたことを、知っていました。姉は、先生が、幸せであってくれるようにと、祈っていました。……私が死んでも、あの人には言わないでね、でも、もしも、神様があなたをあの人に会わせてくれる日があったら、私は、苦しみだけを抱いて死んだわけではないと言ってね、と私に約束させました。……姉が胸の水を抜いてもらって、つかのま眠っているのを見つつ、私は、いくど先生の連絡先を探して来て頂こうと思ったことでしょう。でも、姉は、それを望んではいない気がしたんです。私も、女だから、わかるんです、姉は、昔のきれいだった頃の自分の面影だけを先生の心に残していきたかったはずです。お呼びすれば、先生はきっと、とんできてくれたでしょう。けれども、その時、姉は、醜く衰えた自分を見せるしかなかったことで、病気の苦しみ以上の苦しみを感じながら死んでいかなければならなかったでしょう。だから、私は、自分ひとりの胸の中に、あの人の思いをしまいこんで、あの人を見送りました。……私は、そのあと、何ケ月か放心していました。そして、この春、気を取り直して、あの病院に勤務したんです。姉の苦しみの刻まれた病院ではどうしても働く気持になれなかったから。……それなのに、…それなのに、……なぜなの、なぜ先生が来なければならなかったの、あんまりです。……初めて先生とふたりきりになった、あの準夜勤の夜、私は、自分があの人の妹だということを、今、言うしかないのだと思っていた。でも、遂に、私は、言わなかった。私は、先生と向かい合って、仕事をしているひとときの幸せを、壊したくなかった。……あの夜から、私は、姉を裏切り続け、先生をも裏切り続けて、今日まできてしまったんです。……私は、いったい、どうなってしまったのでしょう。……姉さん、許して、……先生、許して、……」佐和子は、最後の言葉を、消え入るように言って、目を閉じ、ふわりと倒れかかった。渚は、思わず両腕で佐和子を抱きとめた。あっ、と佐和子は小さく言って、渚の胸にしがみついた。渚は、佐和子を抱きしめ、……どっと、涙をあふれさせた。佐和子は、渚の胸の中で、いやいやをするように頭を振りつづけていた。その髪に、渚の、言葉にならない涙がしたたり落ちた。
「ああ、……姉さん、……姉さん、……」と、佐和子は言いながら泣き続けた。
渚と、佐和子は、たがいの、言葉にならない激情に駆られて、しがみつくように抱擁し合った。滝のしぶきと、霧が、ふたりの髪も顔も冷たく濡らしていった。……時は流れていた、しかし、ふたりにとって、時はもはや存在していなかった。ともにすがりつき合うような抱擁の中で、もはや感覚そのものが燃え尽き麻痺したように、ふたりは動かなかった。轟々たる滝の音も、ふたりにはもう聞こえなかった。ただ、たがいの腕の中にあるものの存在の確かさだけを、たがいに感じ合っていた。手を離せば、……そして、目を開けば、……すべてが夢であったと知るのではないかと、恐れ、怯え、いっそう、ひしと、抱きしめ合い、たがいを確かめ合っていた。
しかし、やがて、渚の耳に、滝の轟きが再び聞こえてきた。佐和子の泣き声はもう聞こえなくなっていた。渚は、佐和子の背にまわしていた手をそっと離し、自分の胸に押しつけられている佐和子の顔に手を添えて、そっと上向かせた。佐和子は、そのまつ毛を濡らしたまま、目を閉じていた。その顔はなお蒼白で、息をしているのさえ、感じられなかった。しかし、佐和子は、自分の力で立っていたし、その胸は、渚の胸に触れながら激しく波打っていた。渚は、その固く引きしめられた唇に、そっと唇を寄せた。
佐和子のまつ毛が、渚のまつ毛に触れて小さく震え、その唇がふっとやわらかく、かすかに応えたが、それ以上は佐和子の唇は開かず、ただ、渚を抱いた手に力が入っただけだった。渚もまた、目を閉じたまま、佐和子の冷たい唇に触れているだけだった。心は炎に焼かれていても、それは、性愛の感覚を伴わない口づけだった。それは、たがいの懺悔と、許しと、祈りと、……そして言葉では言えない、ある誓約の儀式のようであった。
「佐和子さん。……」
と、渚はつぶやくように言った。佐和子、とつぶやいてみて、その名が、いつの頃からか、淋しいにつけ、苦しいにつけ、深く心に谺する名となっていたことに、今さらのように渚は気がついた。佐和子さん、と、渚は、もう一度その名をかみしめるように言った。佐和子は、仰向いた顔を動かさないまま、静かに目をあけた。そして、自分を見つめている渚の目を、黙って見つめ返した。その目は、なお濡れて、深い色をしていた。
「はい。……」
と、佐和子は、凍ったような唇をかすかに動かして答えた。
渚は、ひと言、ひと言に、心を込めて、言った、
「ありがとう。……私には、今、わかった。……この日までのすべては、あなたにめぐり会うための道としてあったのだと。……」
「はい。……」
と、佐和子は、もういちど小さく言った、そして、渚の目を見つめながら、言った、
「私にも、わかりました。……私もまた、先生にめぐり会うために、この道を歩いてきたのだと。……」いつのまにか、夕暮れが迫ってきていた。
渚は、もういちど、そっと佐和子をいたわるように抱き、それから、佐和子の体を支えるようにして、ゆっくりと山道を下りた。
車に戻っても、渚は、すぐには走り出さなかった。胸が苦しく、痛くて、走ることができそうになかった。
佐和子は、うしろの席に、深く沈み、目を閉じていた。その白い顔にも苦悩がはっきりと見えていた。渚は、自分の席を立ち、うしろの扉をあけて、佐和子に並んで腰を下ろした。佐和子の肩に手を添えて引くと、佐和子は、倒れるように渚の膝の上に頭を乗せた。渚が、佐和子の湿った髪にそっと手を触れると、佐和子は、自分の両手で、その渚の手を引き寄せ、自分の胸の所でそれを抱きしめるように包んだ。
「でも、……これから、……私たちは、どうしたらいいのですか」
と、佐和子は、目を閉じたまま、つぶやくように言った、
「めぐり会えたのに、なぜ、こんなに苦しいのですか。……」
「……すべては、私が引きずってきた罪のためかもしれない」
「いいえ、……いいえ、……先生の過去に何があろうとも、今の私には、なんでもないことなの。私は、今は、先生に愛されていることがわかる、それでいいの。……私は、幸せなの。それでも、苦しいの。とっても、苦しいの。……幸せなのに、この苦しみのために、生きていかれないような気がするの。なぜなのでしょう。……苦しんでいるのは、私ではなくて、あの人なの? ……それとも、幸せなのはあの人で、苦しんでいるのが私なの?」
「いつか、……わかるでしょう」と渚は言った、
「それを知るためにも、一緒に歩いていかなければならない」
「一緒に、……私たちは、本当にこれから、一緒に歩いていくのですか」
「そうです」
と、渚は言った。佐和子は顔を仰向かせ、まだ濡れている目で、渚をじっと見つめた。
「私は、何をしたの。……先生に、……いったい何を背負わせてしまったの」
「何も背負わされてはいない。……ただ、私は、あなたを愛していると、知っただけです」「あの人への愛は、……そして、私の中にある、あの人の、幻は、……」
「そのすべてを認め、慈しみましょう、……そして、そのすべてを、あなたとの愛の中に溶けこませていきましょう」
「できるでしょうか、……」
「私たちが、真実に目をそむけないで生きていくのなら、できるでしょう。……許しは、いつかきっと来るでしょう」
「いつか来る、……そうですね、……きっと、いつか、許される時が、……」ふたりは、静かに見つめ合っていた。そしてこの時、ふたりは、気づかなかった、……深まりゆく夕闇に溶けこみながら、ふたりにとって、限りなく懐かしいひとつの魂が、微笑みながら、ふたりを見守っていたことを。……
渚と、佐和子は、この日、こうして、たがいの生命を認め合い、ともに歩みだした。それは、始まったばかりの歩みではあったが、もはや、たがいを見失うことはなかった。
今日という一日を生きる力の源を、どこから汲み上げればいいのか、という渚の絶えることのなかった淋しい問いに、佐和子は今、私の生命から、と答えてくれていた。生活の形にも、労働の形にも、何も変化はなく、多忙な日々が続いたが、渚はもう孤独ではなかった。佐和子とともにあり、佐和子の声を聞き、ふたりだけにしかわからない小さな微笑みを交わし合う時、渚の心はあたたかく、やわらいだ。
苦しみがあるとすれば、それは、ふたりでともに過ごす時がほとんどなく、ともに過ごす場がまったくないことだった。渚の宿舎と、佐和子の宿舎とは、小道一本をはさんで立っていたが、この距離は、遠く、埋められぬ距離だった。小さな町の、どこででも忍び会うことはできなかった。渚が、佐和子の寮に電話することもできなかった。佐和子も、寮から、渚に電話することはできなかった。触れ合わんばかりに近くにいながら、ふたりの身は、目に見えぬもので遮られ、引き裂かれていた。
佐和子は、それでも、夜遅く町に出て、公衆電話から渚に電話をかけてよこした。しかし、それは、普通の恋人たちのように、これから会う喜び、次に会う約束で弾むものにはならなかった。この町の周辺にいる限り、渚も、佐和子も、どこに行っても、知らないうちに誰かに見られていた。悪意でもなく、詮索でもないのだが、渚は、きのうどこそこで先生の車を見た、と言われ、佐和子は佐和子で、あんな所で夜遅く、誰に電話をしていたの、とからかわれていた。近くの山へ行っても、川へ行っても、海へ行っても、隣りの駅、その隣りの駅へ行っても、どこにも自由はなかった。佐和子は、硬貨を握りしめて、夜中に公衆電話に出かけるしかなかった。大切なことは何もまだ話さないうちに、硬貨は、カチャリ、カチャリと非情な音を立てて落ちていき、佐和子は追い立てられるように、何かを言わなければと思いながら、いっそう言葉を失うのだった。最後の一枚よ、と言う佐和子の悲しそうな声に、渚の胸はいつもつまった。渚が、明かりを消した二階の窓から見ていると、しばらくたって、寒そうに胸を抱きながら帰って来る佐和子の姿が見えるのだった。その姿を見ながら、渚は、どうしてもふたりでともに過ごす場所を作らなければ、と思った。佐和子は、何をどうして欲しいとは、言うことがなかった。それだけに、渚はいっそう佐和子のことを考えた。そして、心の中でひそかにある決意をした。……
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