風の回廊

松澤 俊郎


「案内へ戻る」

 

6. 湖畔の家

 

 佐和子とともに、あの家に行くいう渚の幸福は、少し遅れた。佐和子の勤務表の関係で、佐和子が日曜日に休暇となるのは、二週間後だった。佐和子は、渚の「秘密」が、自分たちふたりの幸福につながることと信じて、心を乱さなかった。看護婦たちの、嫉妬まじりの感情も、今のところは、渚と佐和子が具体的な関係になっている証拠があるわけでもなく、謙虚に、静かに働きつづける佐和子の人柄はもともとは愛されていたので、興味をもって見られてはいたが、日がたつにつれて、静かなものになっていった。渚もまた、何ごともなかったように、忙しく働き続けていた。主任の直井が、好意をもってふたりを見守り、必要に応じて、それとなくかばってくれていたことも、緩衝になっていた。

 

 その日、……ふたりは、新発田のひとつ手前の無人駅で落ち合い、渚の車で、水原に向かった。途中、新発田の郊外の、スーパー・マーケットで、渚は、佐和子に、車の中で待っているように言い、買い物をした。鍋やら、食器やら、食べ物やらを山のようにかかえて帰ってきた渚に、佐和子は、目を丸くした。何なのですか、いったい、という佐和子に、渚は、なおも、内緒、と言って答えなかった。車が、水原へ向かう県道に入った時、佐和子は、初めて不安そうな、怯えたような表情になった。道路の雪は、すでに溶けて、山々の麓に漂う霞みは、すでにそこまで春が来ていることを告げていた。県道から、いったん町に入り、再び抜けるようにして、車は、瓢湖のほとりに出た。湖畔ぞいの道を少し走り、その家に入る小道を曲がった時、佐和子はうしろの席から、「先生!」と、鋭く叫んだ。車は、その家の、小さな庭に入って止まった。

「ここが、今日からの、私たちの家だよ」と渚は、笑顔で言った。佐和子は、茫然として、言葉もなく立っていた。渚は、昔風の玄関の鍵を、少し軋ませながらあけ、ガラガラと玄関のガラス戸を引いて、佐和子に手を差し出し、少しおどけるように言った、
「私たちの、家です、どうぞ、お入り下さい」
 佐和子は、叫び出すまいとでもするように、片手で口を押さえながら、ぎくしゃくとした足取りで、玄関に入った。そして、そこでまた立ちすくみ、救いを求めるように渚の顔を見た。渚は、黙って微笑んだまま、さあどうぞ、というように手を差し伸べた。佐和子は、なお一瞬のためらいののちに、急に靴を脱いで駆け上がった。まあ! ……なんということ! ……という小さな叫びを上げながら、佐和子は、台所とふたつの部屋を駆けぬけた。そして、また渚の所に戻ってくると、
「先生は、いったい、何をしたの!」……と、こぶしで渚の胸を叩きながら、渚にしがみついた。渚は、その背を、優しくなで、佐和子は、渚の胸で泣きだした。
「先生は、……何もかも、みんな、知っていたんですか、……」
 と、佐和子は、濡れた目で渚を見上げて言った。
「いや、ここが、あの人の家だったということのほかは何も知らない。……私は、人を頼んで、この家を持ち主から買ってもらった。その人は、私が誰かは知らない。どこかの、もの好きな男が買ったとしか思っていないだろう。それに、そんなことはもうどうでもいい。この家は、私たちの家だ。誰にも、何の遠慮もいらないんだよ」
「私たちの家。……本当なの、……私は、今日から、いつでも、好きな時に、ここに来ていいの、……ここで、眠ることもできるの、……夢ではないのね、本当なのね、……」
 渚は、いくどもうなずき、しがみついている佐和子の体をそっと押しやって、二階へも上がってみるようにと促した。渚が、冬のあいだかかって拭き清めた階段を、佐和子は、おずおずと上がっていった。渚は、佐和子をひとりにしておいて、車から、途中で買った品物や、その前に今日のために買っておいた品々をトランクから出して、玄関に運び入れた。電気釜、石油ストーブ、スリッパ、浴室のマットや小物、折りたたみの小さなテーブルなど、ぎっしりと詰まっていた品物が、全部、運びこまれた。これらの物を、渚はあえて家には入れないでおいたのだった。佐和子には、余計な新しいものの何もない、昔のままの家、佐和子自身も生まれ、育った家をまず見せてやりたかったのだ。

 二階は、しん、としていた。佐和子の足音もしなかった。渚は、不安になって、階段を軋ませながら、二階に上がっていった。奥の部屋に、佐和子は座っていた。東の窓も、北の窓も開いていた。東には、五頭の山が、北には瓢湖が見えていた。佐和子は、座ったまま、渚を振り向いた。子供のように、べそをかいていた。渚が隣りに座ると、佐和子は、やはり子供のように両手で目を拭きながら、
「すみません、先生……」と言った。
「これでよかったんだね。……私のしたことを、あなたも許してくれるんだね」
 と渚が言うと、佐和子は、強くうなずき、それからすっと立って、両側の窓を閉め、渚の前にあらためて座って手をつくと、
「先生、ありがとうございました」
 と深く頭を下げた。そして、急に、渚の胸に自分をぶつけるようにしてきて、
「先生、抱いて、……」
 と言った。渚は、強く佐和子を抱きしめた。佐和子は、息をつまらせて、うっと軽くうめいたが、目をとじたまま顔を上げた。その唇に、渚はそっと唇を合わせた。……あの、滝のしぶきの中でかわした口づけは、冷たく、悲しかったが、今は、ただひたすらにあたたかく、やわらかく溶けていく口づけだった。

「初めて出会った」あの日から今日まで、渚は、たまさかのふたりの逢瀬にも、佐和子を抱くということはしないできた。侘しさと背中合わせのような場所では決してこの人を抱いてはならないと思っていたためもあるが、自分はこの愛に今一度生きてよいのか、これは忘却のための愛でもなく、逃避のための愛でもなく、そして、贖罪のための愛でもないと、本当に言えるのか、というくりかえされた自問、また、佐和子というこの、汚れない生命に触れるには、自分はあまりにも汚れているのではないか、という切ない自戒のためでもあり、また、佐和子自身の混沌の心、真由美の愛と自分自身の愛とに引き裂かれた心に、いつか訪れるであろう静かな自己認知を待つ思いのためでもあった。真の結合に至るには、静かに過ごすふたりの時がもっともっと必要であることを、渚は知っていた。そして、今、そのために作った場を、佐和子が喜びをもって受け入れてくれたことが、何よりもうれしかった。……これは、愛の成就ではなく、始まりなのだ、と渚は佐和子のやわらかく溶けていくような体を抱きながら、思っていた。何ごとをも、不自然には跳び越えまい、ただ、たがいの愛の自然な導きに従っていけばいいのだ、それが、あるべきものの、あるべき時を、教えてくれるだろう、と渚は思っていた。これまでの過去において、いつでも、どの時にも、どの愛にも、必死に「理屈」を立てて生きてきた自分が、今、佐和子との愛の中にあって、何の身構えも持たず、自分自身でいられることが、幸福だった。

 

 その日、佐和子は、渚の運び込んだものをそれぞれの収まるべきところに収めた。電気はもちろん、水道も通しておいたし、ガスも入っていた。足りないものは多々あろうが、すぐにも食事も作れ、入浴もでき、暮せるはずだった。

 有り合わせの材料で、佐和子は夕食を作った。小さなテーブルに乗せられたそれは、ふたりには、どんな高級レストランの食事よりも豪華に思えた。渚は、押し入れの中に入れておいたブランデーの瓶を取り出し、グラスに少しずつ入れ、佐和子と乾杯をした。

「私たちの、新居に、乾杯」
 と渚が微笑んで言うと、佐和子は、何かを言いかけたが、それを飲みくだし、少し目を潤ませながら黙ってグラスを挙げた。

 質素な、けれども、心豊かな食事が終わった。

 流しで洗い物を始めた佐和子は、しばらくして、渚に背を向けたまま小さく言った、
「私たち、……今夜は……どうするんですか」
「ここで眠るのだよ」
 佐和子の手が一瞬止まった。しかし、また何ごともなかったように、洗い物を続けた。 渚には、佐和子の心の緊張が見えていとおしく、その背に向かって微笑んだ。
「一緒に、眠るのだよ、二階のあの部屋で。……一晩中、語り明かしてもいいし、眠くなれば眠ってもいい。……考えるなと言っても、あなたは考える人だけれど、その時間は、これから沢山ある、だから、今夜は、もうあまり考えないんだよ。ただ、ふたりで、枕を並べて眠れれば、それでいいんだよ」……それから、少し、笑いを含ませながら、言った、「あなたを今夜食べてしまうには、夕食の、ご馳走がありすぎた」

 佐和子が手を拭きながら振り返った時、その目は、明るかった、
「そうです、一度に食べ過ぎてはいけません」

 ふたりは、声を合わせて、笑った。

「私は、明日は朝早くに出るけれど、あなたは、ゆっくり眠っていなさい。二晩続きの深夜の明けなのだから、今日は疲れたでしょう。明日は、休みでしょう。鍵は、あなたの分がここにある。夜までに、寮の方へ帰ってくればいいのでしょう」
「このまま、帰らなかったら、……」と佐和子は、いたずらっぽい目で渚を脅かした。
「さあね。……たぶん私は、主任に、しめ殺されることになる」
 またふたりは、声を立てて笑った。

 

 今夜はもうあまり考えないで、という渚の言葉に従い、佐和子は、心の中の何かを片づけてしまったように、その夜はあどけないほどに明るく、楽しそうにしていた。渚も、佐和子も、あまり飲めない方なので、なめるようにしていたブランデーで、ふたりとも頬を染めていた。

「先生、お風呂のつけ方教えて下さい、前のとは釜が違っているから、自信がありません」 と言われて、渚は立った。前のボイラーは腐食していたので、これだけは新しくしたのだった。小さな字で書いてある説明書きを読んでいると、佐和子も一緒にのぞきこむようにしてきて、肩が触れ合った。仰向いて、渚は、佐和子の唇を、さっと盗んだ。
「もう、ずるいんだから、……まじめに読んで!」
 と、佐和子は肩で押し、そのくせ、渚が声を出して読んでいると、その背に、おんぶするように抱きついてきた。うしろから佐和子に抱かれたままで、渚は、説明書きを読んだ、「Aのレバーを真ん中にまわし、……Bの赤いボタンを十秒ほど押し続ける、……点火確認の窓から見て、……こら! 重い!」
「いやだ、離れない」
 と佐和子は、甘えて言った。 

「先生、お風呂が沸いたから、先に入ってね、でも、……パジャマ、ないでしょ」
 渚は、佐和子を連れて二階に上がり、押し入れの布団を示し、その横から、大きな紙包みを引き出した。佐和子が開くと、二組のバス・ローブが出てきた。
「まあ! ……おそろいだわ」
 と、はしゃいで言って、佐和子は自分用のをそのまま羽織ってみた。そして、少し長すぎたような袖の中に、手をすっぽりと入れたまま、うれしそうに少し跳びはね、渚のうしろにまわって、また渚に抱きついた。渚が、振り返って佐和子を抱こうとすると、佐和子は、だめ、と言った。何でおんぶだけなの、と渚が言うと、だって、恥ずかしいんだもの、と小さく佐和子は言った。そうか、と渚は言い、本当に佐和子をゆすり上げて、しっかりとおぶった。佐和子は、素直に背負われ、子供のように渚の首に頬を寄せながら、重い?と聞いた。渚が首を振ると、佐和子は、うれしいわ、と渚の耳元で言った、 

「私、……姉さんに、おんぶしてもらって育ったの。……母さんは、いつも忙しく働いていた。私は、いつも姉さんと一緒だった。歩けるようになっても姉さんの背中が好きだった。夜は、この部屋で、姉さんに抱いてもらって眠った。……姉さんは、いつも歌を歌ってくれた。私の歌える童謡はみんな、姉さんが教えてくれたものよ。……姉さんは、いろんな本を読んでくれた、いろんなお話もしてくれた。……人間の愚かな行いも、善い行いも、みんな神様が見ているんだって教えてくれた。神様ってどこにいるの、そう私が聞くと、姉さんは、ここよ、って自分の胸と、私の胸を指さした。悪いことをすれば、ここが痛くなるでしょ、善いことをすれば、ここがあたたかくなるでしょ、そう言ったわ。私はそれからはいつも、自分のしたことの意味がわからない時は、、自分の胸に手を当ててみる癖がついたの。……ごめんなさい、今日は、姉さんの話はしてはいけなかったの?」
「そんなことはないよ。……姉さんはね、いつも、私たちと一緒にいる。私たちが、姉さんのことを考える時も、……そして、姉さんのことを忘れている時も、……」
 と、渚は答えた。佐和子は、黙って、いっそう強くその身を渚に押しつけた、そして、「あたたかいわ、先生」と言った。 

 渚が、入浴をすませて出ると、佐和子がテーブルの上を片づけていて、渚のバス・ローブ姿をまぶしそうな目で見て、言った、
「よく似合うわ」
 そして、微笑みながら、
「……先に、二階に行っていてね」と言った。
 二階に行くと、もう布団が敷いてあった。ちょうど、たがいの手を伸ばせば届くような空間を置いて、敷いてあった。渚は、明かりを小さくして布団に入り、天井を見上げた。
 古い木目の天井板のあちこちに、雨漏りのにじんだような跡があった。暗がりにかすむ木目を見ているうちに、渚は、茫洋とした思いに沈んでいった。

 

(……十年前、あなたは、ここから旅立っていった。その旅路がどんなものであったのか、私は知らない。言えることはただ、あなたが病に苦しみ、闘っている時、私はそのそばにいてやれなかったことだけだ。……あなたは、かつて言ったことがあった、「あなたが、単なる医者になり終わらないためには、きっと、私という人間が必要なの」と。……私は、その言葉をその時、理解しなかった。私が、あなたに背を向けて歩いていた道が、遂には人間を「手段」と見る道となる危険を、あなたは、あなた自身の味わう疎外感の中で直感していた。あなたは、私に警告し、また、訴えてもいたのだった。それが私にはわからなかった。……それがわかりかけてきた頃、あなたは生と死の狭間にあって苦しんでいた。しかし私は、それを知らず、ただ身勝手な苦しみを苦しんでいた。……私は、一体、何のために医者になったのか。愛する人を見捨て、愛する人のためには何ひとつしてやれず、……そのくせ、ただ観念の中にしか存在しない「人々」なるものを愛し、それに奉仕するのだと、自分に言っていた。足元の小さな花を踏みにじりながら、世界中に花々を、と叫んでいる愚か者だった。何ということだろう。……私のたどったすべての道程が、あの人に会い、あなたに会い直すための道であったとしか言わなければ、それは嘘になるだろう、そして、私がたどった道筋において出会った人々の魂を汚すことになるだろう。……私は、私の過去を自分に引き寄せて論理化することをあえて禁じ、それを引きずったままでの今日という日の中で、新しい愛に出会い、懐かしいあなたに出会ったことを、そのままに、心に認めようと思う。過去の正当化も、現在の正当化も、ともに欺瞞をはらまざるをえない。……あの人が、そしてあなたが、今あるこの私、消しえぬ過去のすべてを生きてきて今ここにある私を、許してくれるというのなら、その愛が、今日という日からの私の存在理由となり、生きる喜びとなるだろう。……あなたは、私を許してくれますか。)

 佐和子のそっと上がってくる足音で、渚は、我に返った。渚が起き上がると、佐和子は、自分の布団の枕元に正座して、バス・ローブの胸元を合わせ、まっすぐ渚の目を見た。渚も静かに佐和子の目を見た。佐和子は、ずっと考え続けてきたことを言うように、言った、
「先生、……もう一度、言わせて下さい、……この広い世界の中から、私を見出して下さって、ありがとう。……私は、先生に上げられるものなんか、何にも持っていない気がします。ただ先生を思うこの心ひとつ、この身ひとつを、上げるしかありません。……私は、もうすぐ二十三歳になります。この歳まで、私は、無我夢中で生きてきただけで、人を愛することを知らないできました。自慢にもなりはしない、自分はどこか何かがいびつなのだと思ったこともありました。……でも、今、私はうれしいんです、先生に、生まれて初めての愛で包んで自分を差し出せることが。……先生に、上げられるものは、それだけです、……本当に、それだけです。……それを、……受け取って下さい」

 渚は、熱いものがこみ上げてくるのを感じた、それを隠すように、渚は、自分の布団の中で体を寄せ、ここにお入り、と言った。佐和子は、素直にそこに身を入れてきた。渚は、手を伸ばして、佐和子の布団から枕を取り、佐和子の頭の下に入れてやった。ふたりは、たがいのあたたかみを感じながら、仰向いていた。渚には、わかっていた、佐和子が、なお自分の心の中の話を続けていることが。……やがて、佐和子は、また語りだした。
「……姉は、この私の歳に嫁いでいきました。父方の、遠縁の人でした。姉が、本当のところ、どんな心で嫁いでいったのか、そして、その人と夫婦として、どんなものを分かちあえたのかは、私にはわかりません。ただ、姉は子供を生みませんでした。……人の幸・不幸は、私には言えないけれど、姉の生命は、単に病気によって滅ぼされたというだけでなく、もっと違う意味で、何か完結しえないものとして終わった、という気がしてなりませんでした。佐渡の義兄は、姉を看とることがありませんでした。母もそうでした。……姉のあの苦しみのそばで、私は、ひとりぼっちだったんです。姉の涙を拭いてやりながら、では私は、私の涙をどこでどう流せばよいのかと、苦しんでいたんです。……姉は、先生との愛を語っていきました。そして何冊かのノートを私に託していきました。最後の入院の時、姉は、義兄に隠すようにそれを持って入院してきたんです。私がいなくなるまでは、読まないでね、と姉は言いました。けれども、姉がいなくなったあとも、私はそれを読みませんでした。私はそれを抱いて、あの寮に来ました。それは、今もなお、開かれないままに、私の机の中にあります。それを開くべき人は私ではないのだと、私は思ってきました。自らそれを焼き捨てることができず、私に残していった姉の心を、何と呼べばいいのでしょう。……先生にめぐり会い、先生を求めている自分の心に気がついた時、私は、なぜか、姉の生命が完結しえなかった訳が、わかったような気がしました。姉の生命は、どんなに姉が、これでよかったの、と言おうとも、挫折に終わったんです。姉の心は、どのように姉自身が自分に説明していたとしても、遂に、先生ひとりにしか差し出しえないものだったんです。……でも、先生、私は先生を責めているのではありません。ただ、先生が言ったように、真実から目をそむけてはならないと、それが、許しへの道だと、……そう思って、姉にとっての真実、私にとっての真実を、ずっと考えてきたんです。……」
 渚は、耐え切れず、唇を噛みしめて、泣いた。

 

 その夜、渚は、佐和子の心を確かに受け取った。それ以上のこと、……佐和子を現実に抱くということを、その夜、渚はなぜかしたくなかった。もはや、佐和子はすでに自分のすべてを渚に差し出していた。それで十分だった。今、渚はあまりに深く、佐和子の言葉に胸を衝かれていた。寡黙だった佐和子の中に、こんなにも多くのものがあったこと、そして、それを彼女が黙して担ってきたことに、渚は心をうたれていた。ひたすらに情念の人だった真由美、……その人と似た感性を持ち、似た面影を持つこの人は、しかし、違ったひとつの人格を持つ女性であった。強い克己心を持って自分を抑制することもできれば、また、自分の愛の感情を率直に、あふれんばかりに表すこともできる人だった。佐和子の生命は、清洌な流れのようだった。すべての流れが、大地の傾きに逆らわないように、この生命もまた、自分の運命を拒否せず、屈曲し、時には、伏流となって潜み、……今、噴き上げるように、その生命の歌を歌いながら、しぶきを立てて流れ始めていた。

 この人の生命に託されたものを、実らさなければならない。この人が、いつの日にか、「私の生は完結した、私の生は成就した」と言えるような、生き方をさせてやらなければならない。生の完結、生の成就とは、どういうことなのかは、なおわからないままに、渚は、それを祈り、そのために自分の愛が意味を持つことを祈った。 

「先生のお話しをして、……先生の小さかった頃のことや、育ったお家のことや、お父さんや、お母さんのことや、……一緒に生きなおすことはできなくとも、私、もっともっと先生のことを知りたいの、……でも、先生が話したくないことは、何も話さないでね、それはきっと、私が知らない方がよいことなのだから、……人は、何もかも知らなくてはならないわけではないのだし、心が豊かであるか、貧しいかは、きっと、知ったことの量ではないのでしょうから、……私はただ、もっともっと先生を、いとおしみたいだけ……」 流れた渚の涙を、佐和子は、自分の指で拭き、悲しませてごめんなさい、と言ってから、気持をとり直すように明るく渚にそう言った。 

 渚は、自分はこの町の、母の生家で生まれ、中学に入るまで母の生家で祖母に育てられたこと、小学校のあいだは、父母とは一緒に暮せない事情があったこと、人をいつも恋ながら、人に触れることに怯える、内向的な子供だったこと、幼い頃から叱られると閉じこめられた土蔵で、亡くなった祖父の蔵書を読んでいたこと、旧家ではあったが戦後の没落で、貧しく飢える日々だったこと、などを、とりとめなく語った。

 まあ、とか、そうなの、とか言っていた佐和子が、次第に静かになり、……佐和子は、いつかしら、渚の胸に顔を寄せたまま、小さな寝息を立てていた。

 豊かで、長い一日だった。前夜は、深夜勤で、仮眠しか取っていなかったはずの佐和子は、気持ちの高ぶりで、一日もちこたえたようなものだったのだろう。その、安らかな寝息に渚もまた心が安らぎ、その豊かな髪をなでていとおしんでから、渚は、そっと、腕を抜き、自分の布団に佐和子を寝かせたままで、自分は、佐和子の布団の方に移った。佐和子を、ゆっくりと眠らせてやりたかった。月明りが障子を通して射しこんでいた。

 

 夜半、いつのまにか自分も眠っていた渚は、ふと、夜空を切る鋭い音で目を覚ました。 それは、目の前の瓢湖から、北の大地へと向かうべき時の来たことを感じ取って、内なるものに突き動かされながら、飛翔の訓練をしている、白鳥たちの羽音だった。シュッ、シュッ、シュッ、シュッ、……と、その鋭く強い羽音は頭上の闇を切り裂きながら続いた。この湖に白鳥たちが冬になると渡ってきて、町の人々の「保護」の下で餌を受け、早春までとどまるようになって久しかった。しかし、渚は、この「保護」、この「愛」をなぜか昔から好きになれなかった。白鳥たちが、その白い翼とともに、天駆けるものの孤独な誇りをも折りたたんで、「愛」という名の見えざる網にからめとられ、その純白の身に、灰色めいた何かをこびりつかせていくのを見るのが、いつも苦しかった。

 目を開け、よどむ水面を蹴って、明けゆく空の高みに向かって、飛び立て、胸深く射こまれた「愛」と言う名の矢を抜きとって、お前の厳しい、そして聖なる孤独のために、今、飛び立て、……と、この早春の夜の羽音を聞くたびに、渚はいつも思ってきた。今、愛する人をえて、信じきって眠っているその人を見ながら、渚は、自分たちの愛を、決してたがいの「からめとり」にしてはならない、と心に誓っていた。

 

 夜が明けると、渚は、佐和子が目覚めないように、そっと起きて下に降り、石油ストーブをつけ、テーブルの上で佐和子への短い置き手紙を書いた。……幸福な夜をありがとう、まだいろいろのものが足りないので、ここに少しお金を置いていきます、買うものがあったら使って下さい、でも、あまり早く、この幸せを駆けぬけないで、貧しさをも楽しんで暮らしていきましょう、今夜、帰ったら、電話して下さい。……

 その夜、渚が宿舎に帰るとすぐに、電話が鳴った。佐和子だった。帰ってきたの、と言うと、いいえ、まだ水原よ、と言った、でも大丈夫、終列車で帰るから、……今日はね、先生にお手紙を書いていたの、この町で投函していくわ、二日くらいで着くわね、それを読んで下さった頃にまたお電話します、……淋しがらないでね、私はもう、いつ、どんな時でも、先生と一緒なの。……

 あくる日、佐和子は日勤で、渚とはたびたび顔を合わせたが、静かに微笑むだけで、何も言わなかった。しかし、渚は満たされていた。佐和子の愛から汲み上げることのできるものによって、渚はそれまで耐えられなく思った多くのことに、耐えられるようになっていた。渚の宿舎と、佐和子の宿舎は、なお道で隔てられていたが、渚はそれを淋しくは思っても、もう苦しむことはなかった。……

 二日後、水原の消印の佐和子の手紙が届いた。

 看護日誌で、佐和子の字は見慣れていたが、この手紙の字は、どこかしら違っていた。

《あなた――先生と書かず、あなたと書くことをお許し下さい――あなたが、お帰りになるのも知らず、眠り惚けていたのかと思うと、申し訳なく、また、どんな寝顔を見られたのかと、とても恥ずかしくもあります。あなたのお話を子守歌に、いつのまにか眠ってしまったのですね。限りなく幸せで、限りなく安らかだったこの夜を、私は生涯忘れることはありません。私は、あなたの胸の中で溶けていました。そして、私のこの十年の、あらゆる苦しみ、悲しみも、みな一緒に溶けていったのでした。

 貧困は、世間にありふれており、親たちの争いも、死別も、再婚も、連れ子だった者の切なさも、……すべてが、ある意味では、ありふれたことばかりでした。しかし、その、ありふれたことが、その渦中に生きる者にとっては、時には、自分の存在の認否にかかわる重大事であり、何のために生まれたのか、何のために生きなければならないのかと、思いつめることの多い歳月でありました。

 あなたを姉が愛していた日々は、とりもなおさず、幼い私が母のように慕っていた姉の愛情を、あなたに奪われた日々でもありました。あの頃、姉は、まだ小さかった私には、あなたのことを何も話してはくれませんでした。それでも私は、自分本位な子供の直感で、姉が私以外の人にその心を与えていることを知っていて、嫉妬し、見えぬあなたという人を、憎んでさえいました。……その、憎んだ人が今、私が生命をかけても守りたい人となりました。運命と言えば、まさに不思議な運命です。

 しかし、姉があなたを愛し、愛しながらの別れがあり、その愛の消せない未練をまるで私に託すように語っていった日々があり、姉の体は葬っても、葬りきれないものを持って、逃げるようにあの病院に勤めるに至った私の側の道程があり、その病院に、あなたが生きる場を求めてきたあなたの側の道程があり、そのあなたの苦渋の道程が、やはり、姉との、愛と、別れから始まっていることを理解する時、私たちのめぐり会いは、偶然の運命ではなく、何かしらたがいの根源的な意志によって選び続けてきた道であったような気がしてなりません。

 愛する者たちは、偶然を必然とみなすものなのでしょうか。……いいえ、偶然を、必然と化すために努力するのです。私は、私の意志によって、この偶然を自分の生の道とし選択したのです。したがって、これからこの道は、私の道であり、その道におけるすべての決定の責任は私にあります。私は、あなたに甘え続けるだろうけれども、決してあなたを私の愛のくびきに繋ぐことはありません。私は、私もまたあなたの日々の選択によってのみ、あなたの恋人であり続けうるのだと知っています。 

 こんな話をすることは恥ずかしいのですが、お手紙の形なら何とか書けます、昨夜、私は、こんな私ですけど、受け取って下さい、と言いました。私は、あなたに、文字通りの意味で抱いて欲しかったのです。けれども、そのあと、私が、あの人の話をしてしまったことが、結果としては、あなたに私を抱けなくさせてしまったという気がします。

 でも、今、静かに思う時、あなたの心はそんなに単純なものではなく、ある意味では、現実に抱く、という以上に深く、あたたかく、私を抱いてくれていたのだと、わかります。ただ、私は、言います、そのことに、そんなにこだわらないで、と。そのことを、そんなに重く考えないで、と。それは、あなたが考えているより、ずっとずっと私には自然なことになっているのですから。いつでも、それは私の歓びなのですから。…… 

 今日、私の帰りが遅くなった訳を言います。私は、姉の墓に詣でてきたのです。……姉が亡くなった時、その遺骨は、当然の如くに、佐渡の嫁ぎ先の墓に入れられました。しかし、私にとっては、それは、当然のことではなかった。最後の日々において知った姉の心、そしてそういう姉に対して、冷たかった向こうの人々の心、それを思う時、私は、姉が燃え尽きていきながら何かを叫んでいる気がしたのです。私は、姉の遺骨のひとかけらを、持ち帰りました。そして、私の部屋に置きました。幾十夜を、私はあの人と語り合ったことでしょう。そして、今の町に行く日、私は、この水原の寺の、父の眠る墓に、その小さな姉の体を納めました。誰にも言わない、お坊さんもいない、私だけの法要でした。咲きそめた梅の花を、雨が濡らしていました。その梅の小枝をその墓に供えて、私はあの人に言ったのです、姉さん、父さんとともに眠ってね、私は、今日からまた旅立つけれど、その旅を見守っていてね、と。

 今日、その姉の墓に詣でて、私は、あなたにめぐり会い、今、愛し合う道をともに選びとったことを、報告しました。あの人にめぐり会うことがあったら伝えて、と言われたことを伝えたことも報告しました。……いずこにももはや存在せず、しかし、思う人たちにとっては、どこにでも存在する人となった姉は、言葉としては、何も答えてはくれなかった。けれども、私には、わかったのです、姉は、もうずっと前から、私たちのことを、微笑んで見ていたのだと。そして、もうとうに私たちのことを認知し、祝福してくれていたのだと。でも、それを知るために、私はやはり一度は姉のところに行く必要があったのでした。

 このことをあえてあなたに伝えるのは、あの日、あの滝のところで私が口走った言葉の数々に対して、けじめをつける私の心の作業が終わった、ということをあなたに言わなければならないと思ったからです。

 けれども、あなたにとっては、何ひとつ終ったことにはならないのかもしれません。あなたは、あなたの心において、その作業をし続けていくしかないのでしょう。ただ私はもはや、私の心の葛藤のゆえにあなたを苦しめることはないでしょう。私は、今、私自身になりました。私、佐和子は、佐和子としてあなたを愛しており、佐和子としてあなたに愛されてまいります。それでいいのですね。……

 今度は、いつまたふたりでこの家で眠れるでしょう。私は、それを楽しみに、また頑張ってまいります。その日、私は、聞きそこねたあなたのお話を、また聞かなければなりません。……あなたの心の飢えに対して、私が何をして上げられるのか、心もとないのですが、私は、思うのです、あなたが一番飢えてきたものは、その、飢えている心の悲しみを知ってくれている心、それなのだ、と。だから、私は、ただただあなたに対して自分を開き、そこにあなたが注ぎ入れてくれるものを受入れ、あなたが語ることに耳を傾け、あなたを理解する努力を続けていけばいいのだ、と。……私は、あなたをわかって上げたい、しかし、大切なのは、まさに、わかること、なのであって、わかった気になることではありません。そして、わかるためには、愛が、……裁く前にまずその生命を受容し、いとおしむ心が必要なのです。今の私には、その愛しかありません。……》

 佐和子の手紙は、さらに続いていた。……それは、真由美が嫁いだ前後からの、佐和子の家の変転について、淡々と書いていた。真由美が嫁ぐ少し前から胃の不調を感じていた父親は、まもなく大量の下血をし、町の病院に入院をした。十二指腸潰瘍ということであり、確かにそれはあったのだが、潰瘍の方が落ちついても貧血は改善せず、便の出血反応は強く続いた。さらに検査が進められ、大腸癌が発見された。手術をしたが、すでに肝臓に転移しており、根治的手術にはならなかった。半年後、黄疸と腹水が出現し、急速に衰弱して、父親は亡くなった。小さな田畑でわずかな自作をしていたが、それではとうてい娘たちをまともに学校へやることもできず、秋から春まではいつも東京近辺へ出稼ぎに行っていた父親だった。向学心はありながら、家の貧しさゆえにあきらめたものを、子供たちにだけは、悔いなく学ばせてやりたいのだ、と言っていた父親だった。

 父親が亡くなって一年後、母親は、ある人と再婚をした。水原町の隣村で、村役場に勤める人だった。いつ、どこでどう知り合ったのかは佐和子にはわからなかったし、説明されることもなかった。ただ、突然に、このたびこういう人と一緒になることになった、と告げられて、中学三年だった佐和子は反撥したが、それは母親の人生であり、それを認めない権利は佐和子にはなかった。相手の人も再婚であり、佐和子をはさむような年頃の二人の子供があった。佐和子は、あと半年の中学校を変わりたくないと言い張って、母親のもとへは行かず、湖畔の家でひとりで生活しながら中学を終えた。

 町の県立高校に入った時、佐和子は、なおひとりでこの家で暮らす、と言ったが、継父は認めなかった。佐和子は自分を新しい父親として認めようとしない、学費も生活費も誰に出してもらっているのか、わからせる必要がある、と言って、湖畔の家を閉鎖し、隣村の家に一緒に住まわせた。新しい「きょうだい」だ、新しい「父親」だ、と言われても、繊細な年頃の佐和子には、受け入れられなかった。しかし、母親は、なぜか卑屈で、この継父の顔色ひとつに、いつもはらはらしており、佐和子を叱ってばかりいた。高校の帰り道、自転車で、かつて親子四人で住んだ、湖畔の家に立ち寄り、釘を打ちつけられた家のまわりをまわり、自分が半年をひとりで暮らした二階の窓を見上げては、胸がつまった。

 佐渡に嫁いだ姉、真由美が、佐和子が高校三年生だった時に、乳癌の手術をした。

 佐和子は、母親からお金をもらっては、新潟市の病院に入院していた姉を見舞ったが、母親は二度ほど行っただけで、あとは継父の機嫌が悪くなるのを気にして行けず、佐渡の嫁ぎ先の人々も、船で渡ってくるのが大変だし、金もかかる、と言って、入院の時と、手術の日と、退院の時に来ただけで、真由美はいつもひとりぼっちだった。佐和子が行くと、涙ぐんだが、真由美は、母親のことも、嫁ぎ先のことも、批判することはなかった。

 佐和子は、高校を卒業すると、新潟市の看護学校に入り、月々の仕送りと奨学金で暮らしながら、継父たちとの生活から離れた。三年間の寮生活は、淋しくはあったが、姉が嫁ぐ時に残していった沢山の本を寮にすべて持ってきていたし、姉の真由美との手紙の往復もあって、それで心に慰めをえていた。あちらこちらに細かい書きこみのある姉の本を、次々に読み、自らの心を育てながら、また、姉の心をたどりなおしてもいた。その、書きこみの所々に見え隠れするひとりの人の影があり、それが、かつて自分が嫉妬した姉の恋人の影であることを感じながら、今は、不思議に嫉妬も恨みもなかった。

 看護学校を卒業して、県立ガンセンターに勤めたその夏、姉の真由美は乳癌が再発し、この佐和子の勤める病院に二度目の入院をしてきた。もはや病状は、絶望的だった。佐和子は、仕事をしながら、そして最後は半ば休職の形を取って、真由美の看病を続けた。

 この時も、母親と、嫁ぎ先の人々は、ほとんど来なかった。そして、真由美は、滅んでいく最後の日々に、かつて自分が愛した人のことを語っていった。……母親の冷たさが、継父に気がねしての、悲しい冷たさであることは、佐和子にはわかってはいたが、佐渡の人々の冷たさの原因が、いまひとつ見えずにきていた。今、姉、真由美の、捨て切れなかった愛の心を聞いて、佐和子には、それが姉たち夫婦の微妙な齟齬の原因となっていたのだろうと、理解できた。この時の佐和子には、姉の愛も、その恋人だった人の心の道すじも、かならずしも素直に受容はできなかった。だが、その愛は、姉の生涯でただひとつの愛であり、それは、姉の愛であって、自分の愛ではなかった。是非も、善悪も、今、滅んでいく人に対して言う気はなかった。自分はただ聞き手として選ばれただけだ、と佐和子は考えた。……しかし、姉の体が燃え尽きていく時、佐和子の心に、お願い、助けて! と叫ぶ姉の声が聞こえた。姉の心がまだ残っている、「あの人」の上に残っている、と佐和子は思った。めぐり会うことも、まして自分から会いにいくこともないはずのその人に、姉から託されたものを伝えるまでは、姉を真に葬ることはできないのだ、と佐和子は戦慄しつつ思った。佐和子は、姉の遺骨の一片を請い受け、抱いて帰ってきた。

 

 佐和子は、淡々と書いていた。それはたしかに、過去ではあった。しかし、今、佐和子が、淡々と書くのは、それが過ぎ去ったことだからというのではなく、佐和子が自分の苦しみを、真由美の残した思いも合わせて、自分の情念の渦の中から抽出し、客体化した、ということだった。今、それらは、佐和子の中に依然存在しつづけながらも、彼女の生きる日々の情念とは、わずかの距離をおいて存在していた。冷たくない距離、静かに見やり、優しく思いやることのできる距離をおいて。……手紙は、渚にあてて書かれていた、しかし、佐和子は、たぶん、これを自分自身に対しても書く必要があったのだ、と渚は思った。

 佐和子が言う通り、自分にもまた自分の心の作業が違う形で求められている、そこには、佐和子とはまた違った困難がある気もする。しかし、愛とは、何なのか。……太古の昔から、人は、愛の課題を担って生きてきた。愛について書かれたものは、まさに万巻の書としてある。しかし、結局、人は、己れの愛の道を、まさに己れの十字架の道として、その初めの一歩から歩き直すしかないのだ。神は、私たちのすべての罪を背負ってあの十字架への道を歩んだのかもしれないが、愛の十字架はなおも個別のものとして、私たち個々に担わされ続けている。だが、……愛についての賛歌は限りなくあり、愛についての戒律も限りなくあるとしても、ついには、愛とは、ただひたすらに純一で、簡明なものでもあるのかもしれなかった。……自分が、どんな生き方をし、どんな思考の道をたどるとしても、それが、ついに、純一で、簡明なものとならない限り、かならずそこには、虚偽があると思わなければならない、と渚は考えた。


7へ

このページのトップへ戻る

 

 

広告

無料レンタルサーバー ブログ blog