風の回廊

松澤 俊郎


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7. 佐和子

 

 

 渚が、この県北の小さな町の県立病院に来てから、ちょうど一年がたった。

 桜の花がほころび始めた頃、事務長の交替があった。前の事務長は他の県立病院へ移り、県庁の本庁から、新しい事務長がきた。長年、県の病院局にいて、この病院の実情は熟知している人だった。この異動で、一番緊張したのは、おそらくは院長だったであろう。

 新事務長は、自分はこの病院の再建のために県から派遣されたのだ、と言明していた。彼は、医師の人事やその処遇について、いちいち、院長の裁断を仰ぐことはせず、自らの目と耳で、この病院の病根を確認しながら、関連の大学の医局にも、他の県立病院にも足を運んだ。新潟県は、一県一医大の県で、大病院の人事は、大学の医局に握られていたが、個人の意志で、移動する者もないわけではなかった。しかし、どこへ足を運び、待遇の面でどんなに好条件を出しても、誰をも獲得することができなかった。

「お医者さんというのは、想像以上にむずかしい方々ですなあ、……今の倍の給料をもらっても、あそこにはだけは行きたくない、とおっしゃる。いや、まいりました」
 事務長は、渚には、率直によく話をした。
「医者というものを、世間ではどう見ておられるかわかりませんが、どんな医者にでも、医者になった動機、あるいは理念というものは、やはりあるものです、それに添った道であるなら、どんな僻地へでも行くでしょうし、それに添わない道なら、倍どころか三倍もらったって、行きはしないでしょう。また、心の大切なものを傷つけられれば、どんなに好条件の所でもただちに去るでしょう。良いか悪いかは別として、医者になろうと思った人間には、『宮仕え』のできない人間、節を曲げて人に頭を下げることだけはしたくない人間が多いのです。つまりは、わがままで、プライドの高い人間が多いのです。それが、医者の傲慢さ、ということにもなるでしょう。けれども、多くの医者は、自分に正直に生きたいと思ってこの職務を選んだのだと、私は思っています。私も、そうです。ひとりの患者さんに、深く頭を下げはしても、教授はもちろん、知事だろうが、総理大臣だろうが、納得しないものには頭は下げない、そういうところがあります。むずかしいと言われれば、たしかにむずかしい、けれども、医者の心情の根っこをつかまえることができれば、話の進むこともあるでしょう、そう思って頑張ってみて下さい、お願いします」
「わかりました。しかし、癌を手術してから出てこいと言われると、これはまいりますな」「院長のことですか」
「もちろん、そうです。大学に行っても、今の教授たちは、もうみんなうちの院長よりは年下の方ばかりです、自分が泥をかぶって院長に引導を渡す役目は、誰も引き受けてくれません。……お医者さんの世界の狭いのにも驚きました。はるか県南の病院に行っても、渚先生のことを知っている方がおられますな。私も長く病院局の仕事をしていたから、友達のようになっている先生もおられましてね。渚先生は、うちで引き取るから、いっぺん、あの病院をつぶしてやりなおしたらどうだなんて言われますし、県内でも、先生の大学出身の方も大勢おられて、渚君をつぶしたら承知しない、などと言われたりもします」

 渚は、こんな話の中で自分自身は良く言われても、思いは暗かった。誰もが拒むという「首に鈴をつける」仕事は、結局は、この地で最後の自分の仕事になるのかもしれない、という思いが、心に、日ごとに澱みのようになって堆積していくのを感じていた。

 

 あの家で、ふたりで憩う時は、その後、しばらくなかった。たがいの勤務の都合で、いつもすれ違っていた。しかし、佐和子は、ふたりの部屋に、一冊のノートを置いた。ふたりは、すれ違いにその部屋でひと時をすごし、時には、ひとりで眠り、そのノートに何かを書いた。とりとめのないことであっても、それを開いて、そこにたがいの息づかいを感じられることが、ふたりの幸せだった。また、たがいに語るべきことは、なお多くあったし、面と向かって話すよりも、書く、ということによって、より深く自制的に語ることができる事柄もあった。いつの日にか、本当に、ふたりで暮らす日はくるだろう、その日からは、もっと妨げなく、親密に話ができるだろう、しかし、また同時に、その日からは、語られなくなること、少なくとも、言葉にはされなくなることもあるだろう、それを、今のうちに言っておきたい、そんな思いが、ふたりともにあった。要するに、ふたりは、なおしばらく、「恋人」でいたかったのだ。一方、たがいに、たがいの親たちに対しては、自分が愛する人をえて、その人とともに生きていくつもりであることを、告げていた。だが、ふたりともに、自分の側の者たちに引き合わせようとはしなかった。それは、今は必要でもないことに思えたし、今は、何ものにも、ふたりの世界に侵入して欲しくなかった。

《今日は、深夜明けです。……着がえをすませ、すぐに寮を出てきました。Kさんが、この頃、野木さん、本当に変わったわね、きっといい人ができたのね、もうでかけるの、これからデート? でも、こんなウイークデーの昼間に、デートのひまのある仕事の人って、いったいどんな人? ……と、聞いたけど、私は何も言わず、笑っていました。変なもので、私がこうしてこんな時間にしきりと寮を離れるようになって、あなたは、もちろんそのあいだは仕事をしているわけだから、どうも私の『本命』は、あなたではないのではないかと、みんな思い始めたようで、その分、「きっと何も知らないで野木佐和子を思っている渚先生」がかわいそう、という雰囲気です。先生のこと、どう思っているの、って咎めるようにKさんは言いますが、私が、ただニコニコしているだけなので、渚先生を誰かに取られたって知らないからねって、おどかしたりするのです。誰かに、なんて言うけれど、本当は、Kさん自身があなたのことを思っているのです。知っていましたか。お願いだから「取られ」ないでね。……私は、いったい何を言っているのでしょう、ちょっぴり頭に霞がかかっています。少し眠らなくては、と思うのですが、変に神経が高ぶっています。そのくせ、たいしたことは、何にも考えてはいないのです。お茶を飲みながら、ノートを前にして、ぼんやりと、あなたのことを考えているだけ、そう、いつも考えるのは、あなたのことだけです。みんなは、私があなたを裏切っている、と思っている様子……。本当のことが知れたら、私、きっと、みんなに八つ裂きにされてしまいますね。その時は、私は幸福に顔を輝かせながら、死んでいくことでしょう。……ああ、私は、支離滅裂ね、本当にもうだめ、思考力ゼロ、これ以上変なことを書かないうちに、このノートを閉じて、眠ります、あなたの枕を抱いて。……ひと眠りしたら、花屋さんに松葉ボタンの種を買いにいきます。この家のまわりを、あなたの好きなあの花で、一杯にするのです。今のあなたの官舎のまわりには、松葉ボタンが沢山あるけれど、先日あなたがふっと言った、この地を去る日がくるかもしれない、という言葉が、私の胸に残り、私はあなたが行くところならどこへでも行くけれど、このふたりの「ふるさと」の家には、松葉ボタンを咲き乱れさせておいて上げたいと、そう思っているのです。……あなたは、今ごろ、遅い昼食でしょうか、あなたの働いている時に、眠るなんて、すまなく思います、ごめんなさいね、でも、明日、準夜勤で元気な顔で会えるように、少し眠ります。……お休みなさい》

 

《今日は、何ケ月ぶりかに、母の所へ行ってきました。一月に、あなたとの粟島への小さな旅のあとで、行ったきりでした。母のことはいつも思っているのですが、あの家のほかの誰にも会いたくないのです。母は畑仕事をしていました。何か、とてもその姿が小さく見えました。父が元気だった頃、私はまだ幼かったから、姉が学校から帰るまでは、父母の畑仕事のそばで、筵の上で、花の首飾りを作ったり、うたた寝をしたりして過ごしていました。あの頃は、父母の心はたしかにひとつだったと、信じられます。根拠はないけれど、子供の心は、そういうことには敏感で、それで幸福にも、不幸にもなるものなのです。今、母の心の中に、亡くなった父がどういうものとしてあるのかは、私にはわかりません。ただ、母は、一緒に畔道に腰を下ろしながら、何かしら考えていましたが、急に、言ったのです、お前は幸せかい、と。……私がうなずくと、母は、それはよかったね、お前の好きな方が、今すぐには形としては一緒になれない事情を持っておられると聞いて、私は、心を痛めていたが、それが世間から見てどんな生き方であろうと、お前自身が幸せだとうなずけるならば、それでいいと私は思っているよ。真由美のような結婚だけはして欲しくない。私の今のような生き方もして欲しくないんだよ。……母は、とても淋しそうでした。そして、こう言いました、父さんの位牌をお前が持っていってくれるかい、と。今の家の中では、父さんの位牌を出すこともできず、タンスの中に深く隠して、誰もいない時に取り出してはお参りをしていたが、そんなことそのものが、父さんのことを汚すことのように思えてきたんだよ、父さんの墓にお参りに行くにも、隠れてしか行けない私などの所に、このまま居てもらうより、お前の所に置いてもらう方がいいような気がするんだよ、お前が、その方と一緒に暮らす日がきて、それが妨げになるようになったら、父さんの墓に入れてもらってもいいが、それまでのわずかの日々でも、父さんを、陽の当たる場所に出してやってもらいたいんだよ。……私は、父の位牌を受け取ってきました。そして、この家の下の奥の部屋に小さな机を買って、そこに置きました。あなたが、それを許して下さることはわかっています。よかったね、と言って下さることも。これで、母の心の重荷がひとつ取れたことになるのか、それとも、母の淋しさがもうひとつ深くなることになるのか、……おそらくは、その両方なのでしょう。私は、母にこの家で暮らしていることは言いませんでした。知らないままの方がいいような気がします。いずれにしても、あなたの許しなしに、私は、この部屋のことを誰かに話すことは決してありません。ここは、私の心の幸福の場所であるとともに、あなたの心のたったひとつの安息の場所なのですから。……ひとつ、おねだりがあります、自転車を買ってもいいでしょうか。町なかへの用もあるけれど、この春の風の中を、あてもなく走ってみたい気がするのです》

 

《湖畔の桜も、すっかり葉桜になりました。五頭山の山腹には、まだ白く雪が残っていますし、そこから北に見える飯豊山は、まだ、全山純白です。雪の溶けた湖面に、今年取り残された数羽の白鳥が見えます。どれも、さまざまな傷が治癒せず、仲間たちの群れとともには、遂に飛び立てなかったのだと言います。のんびりと、穏やかな春の陽射しを浴びているように見えますが、私には、その鳴き声が、平穏をではなく、屈辱と悲嘆を叫んでいるように聞こえてなりません。あなたが、いつか言ったように、私たち人間は、この天駆けるものの孤独な誇りを、愛という名の網でからめ取って、結局は駄目にしているのでしょうか。あなたの心が私の心となり、しばらくは、今日こそは飛び立ちなさい、今日こそは羽ばたくのです、と祈るような思いで励ましの視線を送っていました。でも、彼らは、もう二度と飛び立たない鳥となりました。なぜか、そのことが、自分に深く関わりのあることのように感じられてなりません。私の愛が、あなたの飛翔を妨げるものとなりませんように、……私が、飛ばなくなる時があるとしても、それは、あなたを飛び立たせるための踏み石となる時でありますように。……日に日に、私は、あなたと同じように考える心になっていきます。あなたの言葉が、私の心にしみ入ります。そして、私は、その言葉を学んだ言葉としてではなく、まるで私自身の内奥からにじみ出た自然な言葉のように語っている自分に気づきます。あなたの言葉、あなたの思いが、私に接ぎ木されるのではなく、まさに私自身の言葉、私自身の思いになっていくのです。そこには、努力も、迎合もありません。不思議なことです。それでは、私自身がなくなったのかといえば、私は、過去のどの時よりも生き生きと私自身であり、自分が自分であるという自覚を持って生きています。あなたは、いよいよ鮮明にあなたであり、私もまたかつてなく、私の心と体の存在を実感しています。その私が、あなたを求めています。独立した一個の存在として、しかし、自分ひとりでは、その生命に託されたものを顕現できない根源的な飢えを持って、あなたを求めています、この飢えが、愛と呼ぶものなのでしょうか。……明日の土曜日の夜は、あなたと一緒に過ごせるのですね、うれしくて外に向かって叫びたいようです。でも、じっとその喜びを抑えて、一所懸命に拭き掃除をし、お布団も干し、窓々をあけ放って、春の風と花の香りを一杯に家の中に入れておいて上げようとしています。なるべく、一時間でも、一分でも早く、来て下さいますように、……ほかのことは、今日と明日は忘れましょう。あなたの恋人の、ただの佐和子になって、待ち焦がれているのです》

 

 穏やかな、春の夕べだった。渚が車で着くと、佐和子が玄関の戸をあけた。かわいい、小さなエプロンをしていた。渚が入って戸を閉めると、佐和子は、目をきらきらさせて、渚を一瞬見つめ、その胸に飛びこんできた。渚がよろけるような、激しさだった。玄関の土間でのたがいにむさぼり合うような抱擁が続き、佐和子は、うれしいの、うれしいの、とつぶやきつづけた。そのつぶやきも、唇が重ねられてとだえ、……永遠の時が流れた。 佐和子は、ようやくに渚を押し離して、肩で息をしながら、
「私、……死んでしまう……」と言った、
「死んでもいいのよ、もう、死んでもいいの。でも、私は、あなたと生きる。……あなたに、私のすべてを上げなければ……」
 渚は、もういちど、佐和子を強く抱きしめた。

 その夜、渚は、佐和子を初めて抱いた。……もはや、たがいに、言葉はいらなかった。解きほぐされた佐和子の長い髪を、優しく指で梳くようにして始まった愛撫は、いとおしむような口づけを交わし合ううちに、燃え上がってきた内なる熱いものによって、たちまちに、炎となって燃え上がった。身につけていたわずかの衣類をたがいにむしり取り合い、たがいの肌を合わせながら、その肌さえもが、より深い合一のためには邪魔だというように、ふたりは身悶えし、もっと深く、もっと強くと、抱きしめ合った。

 渚が、佐和子の中に入っていった時、佐和子は、小さく苦痛を叫び、一瞬、無意識に渚を押し離そうとしたが、次の瞬間には、いっそう強く渚を抱きしめて、愛している! と泣くように言った。渚は、佐和子を抱きしめながら、動かなかった。やがて、結ばれ合った体の一点から、熱い潮のようなものが体中に満ちて広がっていき、それがまた新しい炎となって、己れを焼き、愛する人を焼き、さらにほとばしる道を求めて、たがいの体の動きを呼んだ。渚は、もっと深く佐和子の中に溶け入ろうとし、佐和子もまた、生命の炎の導くままに、いっそう強く渚を引き寄せた。今や、たがいの生命は、ひとつだった。愛する人の歓びを我が歓びとし、愛する人の苦痛を我が苦痛とし、歓喜と苦痛をひとつのものと感じながら、……幸福に悶えあっていた。そして、遂に来た、渚の歓喜の迸りを佐和子ははっきりと知り、それが引き起こした佐和子自身の至福感の中で、もういちど、愛している! と小さく叫んだ。……

 

 次の朝、渚が目をさますと、隣りに佐和子の姿がなかった。枕元にたたんで置いてあったバス・ローブをまとって階下に下りると、佐和子が、もうきちんと身仕舞いし、長い髪をざっくりと無造作にうしろに巻き上げて、食卓の上でノートを書いていた。渚を見ると、顔を赤らめてうつむき、小声で、お早うございます、と言った。そして、渚が近づいていくと、ノートの上におおいかぶさるように顔を隠し、来ちゃだめ! 見ちゃだめ! と言い、お風呂を沸かしておいたから入って下さい、そのあいだに食事の支度をしておきます、と早口で言った。しかし、渚は、そのままかがみこんで、佐和子の顔を上向かせ、そっとその額に口づけをした。一瞬、抗うように首をすくめた佐和子は、次の瞬間、ああ、と吐息をつきながら、渚の頭を抱き寄せ、頬を合わせて、渚の耳元に、うれしい、……とささやいた。佐和子は、もうシャワーでも浴びたのか、少し髪が湿っていて、湯上がりのさわやかな匂いがしていた。

 言われる通りに入浴して出ると、もう食卓の支度ができていた。いつのまに作ったのか、茶碗蒸しもあり、味噌汁の香りがただよっていた。佐和子は、まだ恥ずかしそうに渚と目を合わせないようにしていたが、時々、渚を盗み見るようにしているのが、わかった。渚は、佐和子を見ないままで言った、
「何で私の顔をそんなに見るの」
 佐和子は、うろたえた。
「見てないわ」
 渚は、笑った。
「いや、見ている、上目づかいで見ている」
「まあ!……どうしてわかるの」
「私の視界は、広い、……うしろにいたって、見える」
「まあ!」と、また佐和子は言いながら、笑った、「怖いのね」
「怖いのは、あなたの目の方だ。その目から出る放射線で、私は、冒されてしまった」
「ひどいわ、何てことを言うの、冒されてしまったのは、私でしょうに」
 ふたりは、この朝、初めて、まっすぐに顔を見合わせて、笑った。

 

 渚に、食後のお茶を出しながら、佐和子は、少しためらいがちに言った、
「もうひとつだけ、おねだりが……あるのですが」
「何でございましょうか」
 渚は、佐和子が言いやすいようにと、わざとふざけた調子で言った。
「でも、もうお金、無いでしょ、……このお家買うのに、みんな使ってしまったでしょ」
「お金は、最初から無いさ。この家も、銀行のローンで買ったが、お母さんたちの方へは、全部すんでいる。だから、あとは、毎月のんびり十年かけて払っていけばいいんだよ、それでも私の給料は少しは残るから、そんなに気にしなくていい。何か必要なものがあるの」
「私ね、自分のお給料は、ほとんど全部、あなたのために貯金することにしたの。そして、ここでの生活は、みんなあなたに甘えることにしたの。あなたに甘え、あなたに感謝し、あなたの心に報いることを考え、……そうやって暮らしていくことにしたの」
「ありがとう、それでいいんだよ」
「よかった。……私、もしできるならでいいんだけれど、……お洗濯機がここに欲しいの」「ああ、そうか、そうだったね、それがなかったね、なんとなく、向こうの宿舎に持っていって洗えばいいように思っていた」
「恥ずかしいから、ここで自分で洗いたいものもあるのよ」
 と、佐和子は、本当に恥ずかしそうに言った。

 その朝のうちに、渚は洗濯機を買いにいき、すぐに運んでもらった。佐和子は、あなたは町の本屋さんにでも行ってらっしゃい、そのあいだにお洗濯をすませておくから、でも、あまり長くいてはだめよ、誰かに見つかるわ、あなたは、この町出身の名士、わが母校の伝説の人物なんですからね、と言って、渚を追い出した。出がけに、渚が、この家に、電話がある方がいいかなあ、と言うと、佐和子は、いらない、と即座に言った。電話は、心を拡散させるわ、話したくても話せない淋しい時も人には必要なのよ、だから、今はつけないで、と。……渚は、本屋には行かず、久しぶりに父母を訪うた。昼食を食べていけ、と言われたが、約束があるからと言って、食べなかった。母親は、そっと、お前は今、おだやかな心で暮らしているかい、と聞いた。渚がうなずくと、母親は、そうなの、よかったね、私たちのことは気にせず、今は、自分自身を精一杯生きてね、と言った。

 

 その年の冬のあいだ、猛威をふるった流行性感冒も、徐々に下火になり、ひとりで苦闘してきた渚の外来も、昼少し過ぎには、何とか終わることができるようになってきていた。病室には、慢性の疾患の高齢の患者が多く、時折に甲状腺機能の異常からの心不全や、腎盂炎、肺炎、胃潰瘍などの若い人が入ったが、それぞれに軽快もし、ほかへ精査に送ったりもして、新しい結核患者の発生・入院のないこともあり、ほんのわずかではあったが、渚の心にやわらかな春の緑と風を認めるゆとりが生まれていた。その根底には、佐和子との愛があり、その幸せが、渚の精神からトゲを抜き、穏やかな気持にしてくれていた。

 主任の直井は、何も言わなかったが、他の看護婦たちのさまざまな憶測をよそに、渚にとっても、佐和子にとっても、今や、おたがいが、かけがえのない大切な人になっていることを、直感していた。渚の、穏やかさ、優しさを深いところで支えているのが、佐和子の愛であることを知っていた。佐和子の、職場での静かさに変わりはなかったが、その目が輝き、表情に深まっていく情感の豊かさが見え、ふとした時に口にする言葉が、いかにも渚の口にしそうな言葉であって、それを佐和子自身は意識せず自分の言葉にしきって話していることに、ふたりはすでに結ばれ、幸福な交感の中に生きているのだと察知していた。かすかな嫉妬めいた感情を自分の中に時に感じたりもして、直井はひそかにうろたが、ああ、私もまだこんなものを持っている女なんだわ、と微笑む余裕もある感情だった。

 五月の勤務表を作る時、直井は、さりげなく、深夜勤の明けから、準夜勤の入りまでを利用して、佐和子が実質三日の休みを渚の祭日に合わせて取れるように組んでくれていた。佐和子が、夜、弾んだ声で電話をよこし、二泊三日で一緒にいられるのよ! と言った時、渚はすぐに、ああ、直井がふたりの時間を作ってくれたのだな、と思ったが、その言葉は言わず、一緒に旅に行こう、と言った。どこへ行くの、と聞かれたが、内緒、と渚は言った。内緒、内緒、っていつも言うんだから、……でもいいわ、待っているわ、私、あなたの内緒が好き、と佐和子は笑って言った。次の日、たまたま、結核病棟の回診についた主任の直井に、渚は、回診後の手洗いをし、白衣を着替えながら、
「いろいろと、ありがとう」
 と言った。直井にはすぐに通じて、
「いいえ、どういたしまして」と、まだマスクをしたままの、くぐもった声で答え、
「ふたりで、どこかへお出かけになるといいわ」と言った。
「ありがとう。……小さな旅をすることにする」
「どちらへ」
「富山県の、……八尾(やつお)という町だよ」
「八尾、……先生にとっての、何かの思い出の町ですか」
「そう、……行ったことのない町だけど、ずっと心にかかっていた町だ」と、渚は言った。

 八尾。……それは、北陸本線の富山から、高山線に乗りかえて行く、小さな町だった。地図の上では、幾度か確かめて見ていながら、遂に行くことがなかった。その町を訪ねる日のくることを深く予感しつつ、その予感に怯え、……すでに十年がたってきていた。

 渚が、大学に入って二年目の秋、……一週間ばかりの秋休みがあり、渚は、夏のあいだ働いて貯めたお金を使って、京都への旅をした。中学、高校と、修学旅行のコースには、京都も入っていたが、渚はどちらの旅行にも参加しなかった。中学の時は、その前日になって扁桃炎にかかり、高熱を発して参加できなかった。高校の時は、真由美が体調不調で(本当のところは、経済的な辛さだったのだが)行かないと言い、渚は自分も行く気を失って、学校には適当なことを言って、やはり参加しなかった。そののち、ほかの所はどうでもよかったが、京都にだけは、いつかゆっくり行ってみたいと思っていた。

 その旅を、渚は、真由美を失った(自ら別れを言った)年の秋にしたのだった。安宿に泊まって、路面電車や、バスに乗り、また多くの道をひたすらに歩きながら、渚は京都の秋の大原や高雄の紅葉を見た。週日でもあって、どこも人は少なかった。百万遍から、銀閣寺の方へ上がっていきながら、自分が医学部に入ってから始まった真由美との疎遠化を考えていた。自分は、やはり文学の道に進むべきだったのだろうか、そうすれば、この別れもなかったかもしれない、この地に来て学んでいたら、今、歩む自分のかたわらに、あの人がいたかもしれない、……それは、渚の感傷だった、論理ではなかった、しかし、その感傷にひとたびは自分をゆだねきってみなければ、この心の傷から脱しえぬ気がしての旅だった。自分が失ったものの大きさと、それをまさに失ったことを確認する旅だった。

 何かを脱した、というよりも、自らの情念との向かい合いに疲れ果てて、……渚は、新潟へ向かう列車に乗った。郷里に帰る気はなかった。ただ、東海道線をへて、同じ道筋で帰るのがなぜか物憂くて、長岡まで北陸線経由で行き、そこから夜行の上野行きに乗りかえて、東京へ帰るつもりだった。まだ休暇は残っており、急ぐ旅ではなかった。

 列車は、ガラガラに空いていた。金沢あたりから、日が暮れはじめ、富山を過ぎる頃には、もう海側の窓から見えていた西の空の残照も、迫る闇にかき消されていた。 

 富山の駅から、ひとりの女性が乗ってきて、廊下側に座っていた渚の斜め前、窓側に腰を下ろした。和服姿の、若い女性だった。渚に、軽く頭を下げて腰を下ろし、あとは何も見えない窓の外の闇の奥を、じっと見つめながら、静かに揺れていた。

 渚は、この人に、妙に心がひっかかった。惹かれた、というよりは、ひっかかった、という方が合っていた。渚と同じ、二十一、二歳に見えるその人が、古風に、和服姿だったためもあるが、その姿の、どこにとは言えず漂う、ある種の暗さ、何かしら侘しげな疲労の色が、渚の心にひっかかったのだった。

 口元に、あどけなさを残している、小振りのかわいい顔立ちだった。しかし、一方で、その歳には不似合いの、もの悲しげな表情、今にもそのきちんとした姿を乱して頽おれていきそうな危うさが漂っている人だった。

 新潟との県境に近づくと、トンネルが多くなった。もう、外の景色は見えなかった。それでも、その人は、窓枠にひじをつき、その手の甲に頬をついて、外を見続けていた。もちろんその人の見ているものが、外の闇の中の何かではないことはわかっていた。渚は、半ば放心し、半ば魅せられて、その人の横顔と、少しほつれ毛のある首筋を見続けていた。 ふと気がつくと、窓に映ったその人の目が、じっと渚を見つめていた。窓のガラスを介して、ふたりは見つめ合った。……ほんの、一、二秒か、数十秒か、数分か、……渚には、わからなかった。それからその人は、ゆっくりと、窓に向けていた顔をまわして、正面から渚を見た。渚も、その人を見た。視線がまっすぐに交わり合い、ふっと、何かが、ふたりの中に流れ合った。その人は、かすかに微笑んで、渚に向かってまた小さく頭を下げた。

 あとで不思議に思ったことに、内向的な渚が、自分で口を開いていた、
「どちらへ、いらっしゃるのですか。……」
「新潟です」
 その人は、答えてまた微笑んだ。その頬から首筋にかけての淋しげなものは消えなかったが、今、渚に声をかけられたことによって、自分の内心の暗い思いから、ふっと解き放されたような、安らいだ目をし、その目の中に、愁いに隠れていた知的な光が現れてきていた。その人は、渚に静かに目を合わせながら、耳にかかっていたおくれ毛を指でかき上げ、少し首を傾けたが、その無意識のしぐさが、美しかった。渚は、なお魅せられて、放心したように、その人のしぐさのひとつ、ひとつを見つめていた。

 とうとう、その人が、白い歯をみせながら、若々しい声を小さく立てて笑った、
「なぜそんなに、私を見るのです!」
 渚は、どぎまぎした。言われてはじめて、富山からのこの時間のあいだ、ずっとその人を見続けていたことに気がついたのだった。急に恥ずかしくなって、渚はうろたえたが、まだ心のどこかがコントロールをはずれていたのであろう、思わず答えていた、
「あなたが、きれいだから、……」
 その人は、驚いたように目を見開き、それから少し頬を赤らめて、またふっと笑った。 笑顔の方がいい、この人に悲しい顔はして欲しくない、と渚は勝手に思った。
「あなたは、……どこへ」
 とその人が、言った。
「故郷は、新潟の近く、……でも、今夜は、長岡で降りて、夜行で東京に帰ります」
「あなたは、学生さん、……」
「ええ」
「そう、……いいわね、……」
 と、その人は少し悲しそうに言った。
「新潟へ、お帰りになるのですか」
「いいえ。……私は、富山の人間だから、……旦那の船が、今夜、新潟に入るの」
「ああ、……」
 と、渚は小さくうなずいた。……私は、結婚しているの、相手の人は船乗りなの、とその人は答えているのだった。しかし、「旦那」という言葉が、なぜかひどくその人には不似合いに思えた。その人の、生々しい生活の匂いのようなものが、急に漂った。
「新潟だったり、舞鶴だったり、神戸だったり、時には、呉だったり、……そのたびに、私は呼ばれて行くの、一週間ごとに呼ばれたり、三ケ月も呼ばれなかったり、……」
 その人は、再び、自分の中の何かに向き合い、何かに憤り始めたようだった。
「お子さんは……」
 と渚は、なぜか聞いていた。その人がすぐに答えず、なぜそんなことを聞くの、というような目で、一瞬、じっと渚を見つめたので、渚は、ああ、自分は立ち入ったことを聞いてしまった、と思った。たしかに、渚は疲労の中で、何かしら、まともでなくなっていた。
「いません」
 と、その人は言った。そこにも、やはり、憤っているような調子があった。渚は、うなずいたが、ふたりともに、何かしら屈折した会話になってしまったことを感じながら、それを解きほぐすすべも知らず、しばらくたがいに少しうつむいて黙っていた。それをふっ切るようにその人が顔を上げて何かを言った時、列車はトンネルに突入し、その言葉が聞き取れなかった。渚は、窓側に身をずらし、その人にまっすぐ向かい合った。渚が、今の言葉が聞き取れなかった、と身振りで示すと、その人は、片手を口元に立てて、言った、
「あなたは、どこへ、行ってきたのですか」
「京都、です」
「旅行を」
「ええ」
「おひとりで」
「ええ」
「何を、見てきたのですか」

 いつのまにか、ふたりは、トンネルの中を疾駆する列車の轟音に負けまいと、顔を近づけ合って、話していた。渚が、答えようとした時、列車は、トンネルを抜け、ふたりは、急に、たがいの距離の近さに気がついて、離れた。

「何を、見てきたのですか」
 と、またその人は、言った。
「大原や、高雄の、山里の秋を。……でも、……」
「でも、……何ですか」
 渚の答えが、まるで自分にとって大切なことであるかのように、その目はまじめだった。
「でも、思うんです、……私は、寺や紅葉を本当に見にいったのかどうか、と」
「では、……何を見にいかれたんです」
「……たぶん、……自分の心をでしょう」

 その人は、何も言わなかった。そして少し目を伏せて、下唇の端を噛みながら、じっと沈黙していた。渚ももはや、何も言わなかった。何を言ってよいのか、わからなかった。県境を抜け、トンネルが終り、見えぬ海からの潮の匂いが入ってきていた。レールの継ぎ目の音が、規則正しく、響いていた。ふたりは、ともに黙って身を固くしていた。…… 

「次は長岡……」
 という放送に、渚が立ち上がった時、その人は急に、思いつめたような目で渚を見て、何かしら激しい感情をこめて、小さく叫ぶように、ひと息で言った、
「私の町は、越中八尾。……小さな菓子屋の、跡取り娘。……九月には、風の盆の祭りがあります。一度、私の町に、来て下さい」

 渚は、うなずいた、そして言った、
「風の盆を見に、……ですか」
「はい。……いいえ、……あなたの心を見に、ね」と、その人は、微笑んだ。

 

 それから、十年がたっていた。

 今、佐和子とともに、海の見える窓べの席に向かい合って座り、線路を洗うほど近くに波しぶきを上げる海を見やりながら、渚は、あの日のことを語っていた。佐和子は、ひたすら黙って聞いていた。自分が口をはさむことで、渚が心の道筋を見失い、自分に伝えたいと思っているものを見失うことを、恐れるように、深く沈黙し、ただ、静かなうなずきで、聞いていますよ、だから話し切ってね、と言っていた。

「あのあと、思い返すたびに、あの人と会い、話した時間が、疲れていた私の夢、幻だったような気がしてならなかった。私は雪女に会ったのかな、と思ったりしたこともあった」(そんなに、きれいな人だったのね)と、佐和子は思った。胸の中で、小さく何かが痛んだ。しかしなお、佐和子は、黙っていた。

「でも、私は、いつかあの人のことも、あの人の町のことも、心の底にしまいこんでいった。……しかし、何年かして、そう、あれは、大学の闘争の頃だった、ある晩、大学前の食堂で、テレビを何気なく見ていた時、その画面の、夜のぼんぼりの町が、あの人の町、八尾であると言っているのに気がついた。おぼろな明かりの通りを、静かな男女の舞いが、胡弓と三味線と太鼓の音、そして何かしら切なげに高く切り裂くように歌われる節回しの歌に合わせて、ひたひたと進んでいた。真っ黒な法被姿の男衆と、淡い桃色の着物姿の女衆が、添っては離れ、離れては添いながら、二列になって進んでいた。みんな、笠を目深にかぶっていて、特に女の人たちは、なにかつきつめたように、うつむき加減に舞い続けていて、その表情は、時折の、はらりと仰向く一瞬の舞いの動作の時にしか見えなかった。……でも、その笠の下に見たひとりの人のつきつめた表情が、あの日の夜汽車の中の表情に、はっきりと重なって見えた。私は、あの人が幻でなかったこと、あの人の町が、現実にあったことを、あらためて知った。……あの頃、私の心は、自虐的に、また破壊的になっていた。でも、その不思議な舞いを見ているうちに、私はなぜか涙が流れて、すっと素直な気持になれていた。……それが、あの人との再会だった。笠の下に見た面影のその人が、あの人だとはもちろん言えなかった。でも、それでよかった。それでもそれは、私にとっては、まぎれもなく、あの人との再会だった。そして、それでもうよかった。…私は、それからも、私自身の生活を生き、……遂に、その町を訪うことはなかった」 

 渚の話は、終わった。渚は、優しい目で、佐和子を見ていた。佐和子は、静かに言った、
「なぜ、今、私とともに、その町へ行くのですか、……」
「なぜだろう、よくわからない。……でも、この十年、どこかで私は思っていた、……あの町へ、ひとりで行ってはいけない、と。……本当に、愛する人にめぐり会えたら、その時、初めて、その人とともに、怯えることなく、あの町に行ける、と」
「その人が、……私でしたか」
「そう、あなただった」
 と渚はやはり優しい目で言った。

 

 富山駅で乗りかえて、高山線に入ると、線路は大きくカーブして、飛騨の山なみに向かって進んだ。両側は田畑となり、しだいに人家はまばらになった。

 越中八尾の駅で降りると、駅前の小さな広場の左手に町の案内図があった。おおよその見当をつけて、ふたりは歩いた。駅前にもまばらに商店街はできていたが、本来の八尾の旧町内は、谷田川という川を渡った先で、道なりに歩いていくと、橋の先から急に道は登りとなった。左手の崖上の古い寺を横目に見つつ上がると、道が別れていた。宿の名を言って尋ねると、この真ん中の道を上がっていけばわかる、と言われた。その宿は、古い町なみに埋もれたようにあった。格子戸をあけ、数歩の石畳を歩くと玄関になっていた。

「ようおいでに、……そうですか、駅から、歩いてこられましたか、それはそれは、……」
 と、髪の白くなった老女将が出迎え、ふたりを部屋に案内した。部屋は、廊下の奥の階段を上がって、二階だった。その部屋だけが、ほかの二階とは庭を挟んで離れ、独立していた。八畳ほどの主室と、簾をはさんでの四畳半ばかりの寝室が続いていた。

 渚が、病院からここの町役場に電話を入れ、紹介してもらった、町で一番古い宿だった。電話をした時は、ちょうど最後の日に「曳山祭り」があり、常客が前の年から予約していかれるので、いまのところは一杯だが、それぞれの客にこれから確認の連絡をとるので、もしキャンセルがあれば、お知らせするということだった。そして、運よくあきができた、と病院の方に電話があった。その時、たぶんこの老女将だったのだろう、お医者さまだからというわけではないが、あいにくあいた部屋が、一番高い部屋になるのだが、お許し頂けようか、と言った。渚は、それでいい、と言った。

 部屋は古かったが、どことなく格式があり、主室の床の間には、刀掛けと、鎧が一領置いてあった。寝室との境の簾には、金糸が織り込んであった。渚が、何かゆかりのある部屋なのかとたずねると、昔、いろいろの方がお泊まりになった、さる宮様もお泊まりになった、と女将は答えた。

 風の盆に来てと、ある人に言われたが、来ることもなく過ぎていた、今年ようやくに来れたが、秋ではなく、春になってしまった、と渚が言うと、女将は、そうですか、風の盆、風の盆、と皆様が言って下さいますが、私どもからすれば、子供の時からの、身についた祭り、人様をお呼びしてお見せするという気張ったものはないのだが、多くの方が見えられます、昔、宮様がお泊まりの時も、祭りは終わった遅い秋でしたが、請われて、私が町内の地方を呼んで、踊って差し上げました、あの頃は、私も娘ざかりでした、と言った。 渚が請えば、舞ってくれる雰囲気だったが、渚は、そうでしたか、と言い、請わなかった。どうぞ、私たちに気を使わないでくれますように、私たちも気をつかわず泊めて頂きますから、と渚が言うと、わかりました、若い者たちにも言っておきます、どうぞ、ゆっくりおくつろぎ下さい、と品よく手をついて下へ降りていった。佐和子は、立派なお部屋ね、と言い、気品のある方ね、きっと昔もきれいな人だったんでしょうね、と言った。

 

 渚が頼んだ通り、宿の人たちは、食事と風呂の案内を階段の中ほどから声をかけるだけで、布団も奥様にお願いいたしますと言い、渚たちを妨げることなく、静かに滞在させてくれた。その夜は、月明りの部屋で、夜勤明けの佐和子は、すぐに眠りに落ちた。

 あくる日の朝は小雨が降っていた。渚と佐和子は、宿の傘を借りて、八尾の町を歩いた。 宿の前の通りから、直角に路地を下ると、雨を集めた谷田川が音を立てて流れていた。八尾は、まさに「坂の町」だった。右手に川の音を聞きながら、上がっていく左手には、石組みの土止めの上に家々がまるで城壁のように重なって立ちのぼっていた。その所々に、細い石段が、家のあいだを縫うように、折れ曲がりながら上の通りにつながっていた。ふたりは、だらだらと、川沿いの道を上がっていき、途中から上の通りへの石段を上がった。 辻々には、道祖神の小さな社と、「おわら」の音頭の歌碑が立っていた。明日の「曳山祭り」のための、ぼんぼりが、そぼ降る雨に濡れていた。町の中央の道をひたすらに道なりに上がりきると、突然に町はとぎれて断崖のように切りおろした坂となっていて、その眼下に幾筋もの川が、山間から流れ出し、合流し、また分流しているのが見えた。

 その坂の下り口に、道の脇の雪流しの水路に向かって、崖から流れ落ちている湧き水があり、そこに、柄杓が添えられていた。ふたりは、その水でのどを潤した。冷たく、胸の中にまでしみいるような水だった。

 ふたりは、少し疲れた足でまた町なみに戻り、今度は、来た時と反対側の、諏訪町とぼんぼりに書いてある通りを下がっていった。寺や神社を交えた、ひっそりとしたたたずまいの古い家なみだった。ここにも、辻々に、道祖神と、「おわら」の歌碑が立っていた。

「おわらの町ね、……あなたはなぜ、昨夜、あの人に、おわらを踊って頂かなかったの」
 と、佐和子が言った。
「おわらは、風の盆の夜の踊りだ。見るのなら、見るべき時に、見るべき所で、と思った」
 と、渚は答えた。
「じゃあ、今度は、風の盆の時に来るのですか」
「いや、……来ない」
「……あの人の、お店、……探しますか」
「いや、……探さない」
「もう、いいの」
「そうだよ、もういいんだよ」
 と、渚は静かに答えた。

 佐和子は、自分の傘を畳んで渚の傘に一緒に入りにきて、渚の腕につかまり、渚の肩に頬を寄せて、濡れた声で言った、
「もういいんだよ、って言うために、……私に対しても、あなたの心自身に対しても、もういい、と言うために、……私とともに、ここに来たの」
「そう、……その通りだよ、それが、今、私にはわかった」
 佐和子は、強く渚の腕を引き、ほとんど自分の胸に抱きしめるようにした。
「あなたは、この町が、好き」
「好きだよ」
「私も、この町が好き、……そして、あなたが大好き、……」

 

 こうして、この春の、渚と佐和子の、ひとつの旅が終わった。それは、小さな旅ではあったが、多くのものを含んだ旅でもあった。渚は、引きずってきたひとつの怯えのような思いを、今、克服しえていた。その思いから逃げ続け、その人の地から、逃げ続けることによってではなく、その思いを直視し、その人の地をあえて歩むことによって……。そうする勇気を与え、ともに歩いてくれたのは、佐和子であった。渚の心は、佐和子への信頼を深め、その愛をさらに深くしていた。何があろうとも、信じ合ってふたりで歩めばいい、それで私たちはどんな苦しみにも耐えていけると、今は素直に思え、うれしかった。

 佐和子もまた、同じ思いだった。渚の回想のある部分は、たしかに女としての佐和子の心にある辛さを与えはしたが、佐和子は、渚を信じ、思っていた、……ひとりで乗り越えることのむずかしい過去の道ならば、愛する人とともにあえてその道を歩き直せばいい、人は、そんなに器用に、過去をひとつひとつ消しては新しい今日を生き始めるというものではないのだろう、過去の上に重ねるように今日という日を生きることが、人には許されなければならない、それは、不純ということとは違う、それは人の悲しい弱さかもしれないが、あるいは、それが、人の素晴らしさかもしれないのだ、と。……渚が、心にかけていたことを、包まず語ってくれたこともうれしかったし、この乗り越えの道を自分とともに歩むことを選び、望んでくれたことが、何にもましてうれしかった。

 この旅は、語り合いつつ添い寝しながらの、静かな旅だった。しかしこれは、ふたりにとっての、「新婚旅行」であった。自分の、そしてたがいの内奥への旅であった。過去の事柄のすべてをは、なお語り尽してはいなくとも、核心となるべき真実は、語られていた。そしてもう、ふたりは、たがいに自分の心の鍵を相手に渡しあっていた。現実の扉の鍵ならば、濫用することもできようし、また、疑念を持って、その鍵を変えることもできよう。しかし、今、渡しあった心の鍵は、私はあなたに何も包み隠さない、という「証しの鍵」であった。私は信じます、という心にとっては、それは使う必要のない鍵だった、なぜなら、たがいの心の扉は、もはや愛する人に対して、常に開かれていたからである。

 あの道ぞいの崖から流れだしていた、清洌な水を飲んだふたりは、この旅の中で、より清洌な、澄んだ愛の水をも飲んでいた。この水は、肉体の渇きではなく、魂の渇きを癒してくれる水、……それを飲みえぬ人々が、しばしば、そのオアシスの蜃気楼を追ってさまよいながら、その一滴を得られぬがゆえに、魂を枯死させていくこともある水だった。

 湖のほとりの家のまわりの、緑が深まっていった。ふたりは、家のまわりに、花々を植えた。家の中のほころびは、そのほころび自体をいとおしむ心によって、優しく修復されていった。しかし、暗黙の通じ合う思いによって、家の基本的な構造には、手が加えられなかった。この家は、ふたりの家であると同時に、ふたりにとって、懐かしい魂たちの、ともに住まう家でもあったからである。


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