風の回廊

松澤 俊郎


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8. K

   

 四月の、粟島への出張は、一番年配の看護婦、Eを伴っていって済んでいた。渚が、今回はEを連れていく、と言うと、主任の直井は苦笑した。

 Eは、そろそろ停年近い一番古参の看護婦だった。県立病院の職員は、地方公務員であり、年金への考えもあって、停年まで勤務を続ける者が多く、このEもそういうひとりであったが、口先で若い看護婦たちを指図して動かしながら、自分自身は、よほどのことがなければ、看護婦室を出ない、という腰の重い働き方になっていた。

 病院の創立以来のできごとを知っており、彼女の「視点」を通して見た、病院の歴史、とりわけて、人物批評と、人間関係の解説を、この日、島への往復のあいだ、渚はたっぷりと聞かされる羽目になった。

 辞めた茂手木は、このEの言うことだけはよく聞いたらしいが、渚は、とくに彼女に重きを置くことはなかったし、むしろどちらかと言えば、うわさ話の大好きなEのようなタイプは好まなかったので、それを感じてはいたのであろう、Eの方もそれまでは渚に快く対応してきていなかった。しかし、今回は、渚が自分を指名したことと、渚に聞かせたかったことどもを思う存分に話して聞かせる時間があったことで、夕刻に岩船の港が見えてきた頃には、彼女は、上機嫌であったし、渚に対する気持も、好意的になっていた。

 

 七月が来て、また島への出張の時期が来た時、たまたま、その日に都合がつくのは、Kと、主任の直井しかいなかった。渚は、今回は自分ひとりでいいよ、と直井に言ったが、直井は、自分でよければ自分が行くし、Kも行ってもいいと言っているのだから、それをあえて連れていかないと言うと、またなぜだろうということになって、いろいろやかましくなる、女の職場だから、そういうことが大事件になってしまう、できればKを連れていって欲しいが、何かいやな理由でもあるのか、と言った。渚には、理由は言えなかった。では、Kにお願いしてくれ、と渚は言った。

 

 渚が、Kの同行にためらいを感じたのは、佐和子の言った「Kさんは、あなたを思っているのよ」と言う言葉のためもあったが、それが主たる理由ではなかった。
 もはやKの気持によって破壊的な影響を受ける渚と佐和子の絆ではなかった。渚は、Kの好意そのものに対しては、怯える気持も、厭う気持もなかった。寄せられているのは、やはり、愛という大切な心だ、その心を結果としてもてあそぶことになるような、あいまいな、幻想を与える応え方をしてはならない、ひたすらに静かな感謝をもって向き合っていくしかないのだと、渚は思っていた。ただ、Kの、傷つき果てた心が渚を求めている情念、……閉じ込められ、屈折し、それゆえに激しい愛の情念を思いやる時、そのKの思いに対して、何を自分が具体的には言ってやれるのだろうか、と心が重くなるのだった。

 Kは、実は、渚と入れ違いに辞めていったあの前任の医長、桐村の「恋人」だった。
 それを渚に言ったのは、Eだった。もちろん桐村は、あの、渚にしみじみ語った夜も、Kのことには何も触れず、「自分が辞めたのは、やはり、逃亡ではあったのでしょう」と言ったのだが、その時は、渚は、院長や茂手木との軋轢からの逃亡という意味として聞いていた。桐村としても、まさにあの時は、そういう意味で言ったのではあったろう。しかし、Eから無理やりに耳に入れられた、桐村とKの二年にわたる「関係」とその「破綻」を知ってみると、桐村の「逃亡」は、この病院からの逃亡である以上に、まさにKとの愛からの「逃亡」でもあったのだと、渚は思うのだった。

 桐村はもちろん既婚の身であり、Kとの愛は、外から言えば、「道ならぬ」ものと言われてもしかたがなかった。しかし、それは初めからそうだったはずであり、人々に知られたがゆえに「道ならぬ」ものとなったわけではない。

 ふたりが、越えられぬ壁の中で、どんなことを語り合い、どんなものを交わし合っていたのかは、もちろん誰にもわからないことだった。ただ、その愛を人々に知られてしまった時に、桐村が、Kひとりを残して、自分はその「苦痛」の場を去る、という道を選んだことは確かであり、残されたKの「苦痛」を思いやる時、桐村はなぜ、作ってしまった泥沼の道を、Kと「ともに」歩き続けることをしなかったのかと、渚は思うのだった。

 自分が身を引くことで、若いKに生き直して欲しいと願った、と言えば聞こえは良かった。しかし、「明日」という日の有無は、決してその人の年齢で決まるものでもないし、「やりなおし」ができる、できないも、決して年齢で決まるものではなかった。

 その後の、Kの心の道を思いやれば、一番そのうわさを言ってまわったひとりかもしれないEさえもが、Kさんは本当にあの先生を思っていたんですよ、私たちにも痛いほどよく感じられる気持だったんです、Kさんは、一時は、実際「死んで」いたし、また、本当に、死を図ったこともあるんです、と言ったほどに、Kが苦しんだことは推測された。

 それらのできごとは、渚が着任する数ケ月前のことで、渚が着任した時は、Kは、少し立ち直りかけていた時だったことになる。渚は、Kという人を、美しいが、暗い影を持ち、重苦しい瞳の色をした人だ、と思っていた。何かしら心にかかってはいたが、Eから聞かされるまで、そのKの過去の愛については何も知らなかったし、佐和子が言った「Kさんはあなたが好き」というKの情念の複雑な深さには、思い及ばないできていたが、Kの過去を知った今、Kとふたりで過ごすことになる時間が、ひどく重く感じられていた。

 

 その日、海は静かで、波はほとんどなく、外海に出ると、おおよそ三十キロの行程を、船は快調に進んだ。海水浴客や釣人たちは、すでに前日のうちに島に渡っているのだろう、この日曜日の、朝も遅い便の船は、すいていた。

 Kと一緒にいることを忌避する気はなかったが、涼しい風に当たりたくて、渚は客席の後部甲板に出て、そこの木製のベンチに腰を下ろし、遠い水平線と島影を見ていた。やがてKも上がってきて、渚の隣に腰を下ろした。Kの長い髪が、風になびき、並んだ渚の頬をなでた。ふたりは黙って座っていたが、しだいに、避けがたい「時」が迫ってきていた。

「穏やかな日ですね」とKは言った、そして、船の進路の方に遠く視線を向けたまま、「先生は、瓢湖のある、水原町の出身でしたね」と、言った。
「そうです」と、渚は答えた。
「野木さんも、水原の出身でしょう。……先生、ご存じでしたか」
「ええ」
「あの人は、いい人ね」
「ええ」
「先生は、……ああいう人が好きでしょう」
 渚は、少し、心で身構えたが、
「ええ」
 と、答えた。始まってしまった、……という重いものがあった。

「私は、新発田の生まれです、……水原の隣町」
「ああ、そうでしたか! ……新発田だったんですか、……」と、思わず渚は、一種の感慨をこめて言ってしまっていた。
「先生、知りませんでしたか」
「ええ」
「私のことなんか、関心もなかった。……」
「いや、そうではないが、出身がどこ、ということはあまり考えなかった」
「でも、私にとっては、大きなことなんです」
「そうですね、……」
 急に、Kは振り向くように渚をまっすぐに、キッと見て、言った、
「私の言う意味が先生にわかりますか」

 Kは、佐和子と同じぐらいの背格好であったが、時折ひどく華奢で子供っぽく見えたりする佐和子とは違って、全体に作りが豊かで、大人びた、一種の豊満さを感じさせる人だった。大きめの二重の目の表情がもっと明るかったら、その豊かさが、美しさとあいまって、きっと華やかに人目を引く人なのだろう。しかし、渚が知るKは、いつも暗い目をしていた。それが彼女の美しさを翳らせ、彼女の豊かさを何かしらむしろ重苦しくしていた。 しかし、今日、その目は、渚が初めて見る、強い光を浮かべていた。それは、渚の目に向かって、さまざまのことを、激しく問うていた、 

 (あなたは、私について何を知っているの。……私を、どういう女と思っているの。……あなたは、私を軽蔑しているの。……それとも、それにもあたらない、要するに何でもない女でしかないの。……) 

「先生は、どうしてひとりで生きているのですか」と、Kは言った。
 渚は、私はもうひとりではない、と言いかけたが、それを飲み込んだ、
「それは、……説明できない」
 その渚の声に、冷たい拒否か怒りのようなものでも感じたのか、Kは、うろたえた、
「そうですね、……私、よけいなことを聞いてしまいました、ごめんなさい、……人には、説明できないことだって、ありますよね。……ただ、私、先生のことを、もっと知りたいと思っただけです、本当に、ごめんなさい」
 と、Kはくり返し詫びた。そこには、会話のとぎれることへの、怯えがあった。

「いや、そんなことは、いいんです。私は腹を立てたのでも、拒否したのでもありません。ただ、……自分の生きてきた道を説明することには、もう疲れたということでもあり、説明しようという考えそのものの中にある、偽善や欺瞞を捨てなければと思っているということでもあるんです。……もう、前向きに生きなければ、と思っているのです」
 と、渚は言った。

 Kは、渚が穏やかな気持のままでいることを知って、ほっと、肩で大きく息をした。そしてまた視線を遠くに戻しながら、言った、
「そうですね、……前向きに生きなければなりませんね。……でも、先生、どうしたら、人は、前向きになれるんですか。……教えて、……」
「……たぶん、自分の生命の意味を、見つけ直すことによってでしょう」
「では、……どうしたら、それを見つけ直すことができるのですか」

 渚は、次の言葉を、一瞬ためらった。しかし、今は、あえて言わなければならない、そしてそれによって引き起こされる感情の連鎖を、受け止め切らなければ、今日の、自分とKとの「旅」は終わりようがないし、これからの、自分とKとの、人間としての関係も始まりようがないのだ、と覚悟するように思った。渚は、言った。
「人を愛することによって、です」…… 

 Kは、明らかに衝撃を受け、急に立ち上がった。その体が一瞬ゆらぎ、海に向かってよろめきだすように見えた。渚は、思わず、Kの手をつかんだ、そして言った、
「Kさん! ……座って下さい! ……そして話しましょう。……ここにかけて下さい」
 Kは、素直に、というより少し放心したように、渚に引かれるままに、ざらついた木のベンチに再び腰を下ろした。渚が、手を放そうとすると、今度はKの方がすがるようにその手を握りしめ直し、放さなかった。そのKの手が、激しい感情でおののいていた。 

「先生、話して、……お願い、話して、……私、何でも、聞くから、……耐えて聞くから」 渚は、自分の手にしがみついているKの手の震えを通して、Kの感情が今、嵐のように渦巻いているのを感じた。もはや、Kのその心から逃げることはできなかった。何をどう話していけばよいのかと苦しみながら、言葉を探しつつ、渚は話し始めた、
「あなたが、ある人を愛したことは、聞きました。……そして、その人が、去ったことも」
 Kは、小さく、あっ、と叫んだ。
「いったい、誰に、聞いたのです! ……野木さんにですか」
「いや、あの人は何も言わない。……また、誰に、ということは、今、あまり問題ではないでしょう。……誰に聞いたにせよ、私がそれを聞いて考えたのは、ただただ、あなたの心、あなたの苦しみのことだけだったから。……あなたが、死を考えるほど苦しんだということも、私は聞きました。それを聞いた日から、あなたは、私の心には重い人になってしまいました。私は、あなたを担ってしまった、と言ってもいい。……それでも、私は、現実のあなたにかかわることを、たぶん意識的に避けてきていました。……それは、あなたの苦しみに対して、私が何もしてやれないと思う気持が強かったためでもあるし、また、人は、結局は、時をへて、自分自身で立ち直ることしかできないのだ、という気持のためでもありました。そしてまた、……男が立ち直るということと、女の人が立ち直るということには、何か違いがある、という気がして、あなたに何かを話して上げたくとも、あなたにとって真に必要なことは、たぶん言って上げられないのだ、と思ってもいたのです」
 Kは、しきりに、違う、違う、というように首を振っていた。しかし、何も言わず握りしめる手の力を通して、渚に、お願い、もっと話して、もっと話して、と求めてもいた。

 渚は、静かに、言った。
「女は、愛されることを待っているのではない、愛することを待っているのだ、と言った人がいました。……女の人にとっての一番の悲しみは、愛されないことではなくて、自分の愛を封じられることなのだ、と私はその言葉から考えさせられました。……そして、思った、あなたの悲しみは、まさにこの愛を封じられた人の悲しみなのだ、と」
「いや! 先生、やめて!」と、Kは急に小さく叫ぶように言った。そして、はらはらと、涙を落とし、自分の膝の上に、つっ伏した。
「あなたを傷つけるつもりはありません。あなたの心に、深入りしすぎているのなら、許して下さい。……でも、私は、あなたのことを深く考えてきていたのです。ずっと考えてきていたのです。……あなたの苦しみの中に見える、女性の普遍的な苦しみを考え、あなたにその苦しみを与えた人の中に見える、男性の普遍的な罪を私は考えてきました。……それは、突き放した言い方をすれば、あなたという人そのものを考えてきたのではなく、あなたの存在を通して与えられた問いを考えてきた、ということになるのかもしれません。……それでも、それはやはり、決して抽象的な考えではなく、生身のあなた、……心に血を流しているのだろうあなた、しかし耐えてあの場にとどまり、日々、働き続けているあなたを思うことによってしか進まぬ考えでもありました。……あなたの求めているものは、具体的、個別的な救いの道であり、愛の道でしょう。しかし、それを示してあげることは、私にはできません。……私はただ、あなたが語って下さるならば、それにひたすらに耳を傾け、あなたの苦しみ、悲しみを思い、その苦しみ、悲しみを普遍化した時に見えてくるものについて話してあげることしかできないのです。……私たちはみんな、同じ地平で苦しんでいるのです。あなたも私も、同じ人間の高さで、苦しんでいるのです。そして、歩いているのです、先になったり、あとになったり、時には立ち止まったり、脇道にそれたりしながら。……それでも、結局は、私たちは一緒に進んでいるのであり、伏せている心の目を上げ、怨嗟や身構えの帳を開いて見てみれば、本当は、一緒に歩いていることがわかるのです。……私たちは、そんなに遠く離れているわけではありません。今日、人の苦しみを聞く者は、明日は、自分の苦しみを聞いてもらう者でもあります。今日、人の手を引く者は、明日は、手を引いてもらう者でもあるのです。……幸・不幸はもちろん大切なことです。しかし、人は人生の岐路において、かならずしも、幸・不幸の予感によってのみ選択をしているわけではありません。人は、傷つきながらもなおくり返し、茨にみちた狭い道を選択し続けることもあるし、不幸をはっきりと予感しつつ、今現在のこの小さな歓びのために炎の道を歩き続けることもあります。……私の情熱、と私たちは言う。しかし私たちが情熱を持ち、それを燃やしているのではなく、情熱の方が私たちをひっつかんでいて、私たちの血を自分に捧げることを強要していることもあるのです。……信頼と言い、裏切りと言う。しかし、むずかしいことです。信頼という名の捕縛もあれば、裏切りという名の解放も時にあるのでしょう。問題は、名称ではなく、事柄の底にある真実です。……そして、また、信じ続けて裏切られた者が不幸であって、裏切った者の方が安楽だということでもないのです。信じている人を裏切った心が担い続ける苦しみよりは、裏切られ、捨てられても、自分の中で、悔いないと思い続けられる心があるのなら、その人は、深い意味では幸福なのであり、その人の愛は、この世の多くの愛の堕落を救い続けているのです。……捨てた人を責める資格は、捨てられた人にはあるのかもしれません。しかし、そんな資格など、新しい生きる力の何を生みだしてくれるものでもありません。……捨てられた人が、むしろ、捨てた人の不幸、そして、そんな不幸を強いてしまった自分の罪、というものを考えることもあります。……愛の始まりも、愛の持続も、さまざまな契機、さまざまな希望によっているのでしょう。しかし、愛は、決して契約でもなく、権利、義務の関係でもありません。それは、日々の、刻々の、たがいの選択によってのみ、愛であり続けるのです。……人類愛といわれるもの、これは説かれ続ける理念であり、遂にそれは『慈悲』と呼ばれる大いなる心、悟れる人の心です。男女の愛は、やはりその始まりにおいては、『愛の渇き』でしかないのでしょう。しかし、たとえそうであるとしても、それが煩悩と呼ばれるものであるとしても、私はそれを欲し続け、それを大切に思います。その愛に、悶える人々を、いとおしみます。……ただ、どこかで思い続けてもいるのです、ともに、この『渇きの愛』から始まるとしても、その個別の愛に支えられながら、いつの日か、その個別の愛を越えて、もっと広い愛、生滅を越えた愛に至りたいと」……

 Kは、顔を上げ、手の甲で涙をぬぐいながら、
「何ということなの、……何ということなの、……先生は、何もかも知っていたの、……」
 と言った。
「いいえ、知っていることは、わずかの、表面的なことだけです。真実は、あなた自身から語られない限り、誰も、知ることはできません。けれども、たぶん、あなたはこれまで、誰にも、語ることなくきたのでしょう」
「そう、……私は、語ろうとはしなかった。……でも、たったひとり、野木さんにだけは、私、話したの。あの人に対する警告の意味でね。あの人が、先生を静かに思っているということが感じられたから、……本当に渚先生を愛しているのなら、私のようになってはだめ、そのためには、職場の中では、自分の愛に蓋をしなければいけない、と」
「そうだったのですか。……でも、傷ついたあなたは、基本的には、心を閉ざして生きてきた。そうするほかに、これ以上、傷つくことを逃れる道がなく、生きる道がないと思ったのでしょう。あなたはそうやって、この一年半を生きてきた。……でも、Kさん、もういいでしょう。あなたから去っていった人も、かつてはあなたの愛を誹謗した人々も、今は、あなたに与えてしまった心の傷の深さを知っています。みんな、あなたを心配しています。……真に愛した者をは、決して許してはならない、それは過去の愛を汚し、すべての大切なものを虚無の中に投げ捨てることだ、許さない心に固執し続けることこそが、たとえその人をは失っても、愛そのものをは救い上げ続けることになるのだ、という考えもできます。それも真実でしょう。しかし、それでも、その真実を守りながらも、人は、新しい日を生きなければなりません。……人は、自分の生命の意味を自分ひとりで見出だしうるとは限りません。あなたの生命の意味をともに見出だし、ともに作ってくれる人がきっといます。新しい日に対して、心を開いて生きていけば、きっとその人に出会えます」 Kは、再び、渚の手を求めてきた。そして、言った、
「先生は、そうやって生きてきた、……そして、その人に出会ったのね、……」
「そうです」
「それは、……野木佐和子さんだった、……」
「そうです」
 と、渚は静かに言った。 

 Kは、また、すすり泣き始めた。渚は、もう何も言わなかった。Kは、泣きながら、渚の手を強く握りしめ、渚は、それを受け止めていた。Kは、しばらくそうして泣いていた。しかし、そのしゃくり上げも、段々に鎮まっていき、やがてKは、渚の手をそっと放して、胸のポケットから、ハンカチを出して、涙を拭いた。Kは、渚に顔を向けたが、まぶたが腫れ、きれいな顔が台無しになっていた。その目は赤く、悲しみをたたえていたが、しかし、Kは、今、何とか微笑もうとしていた。

「先生、……あの人と結婚されるのですか」
「ええ。……いや、今すぐには、形としては結婚はできない。……私は、戸籍の上で片づかない前歴がある。それが、いつ解決できるのかは、わからない」
「それでも、あの人は、先生についていく、……」
「ええ、そうして欲しいと思っています。……それに甘えて、解決すべきものを怠る気持は、私にはないけれども、……」
「そんなことは、……結局は、女にとっては、男の人が考えるよりずっと、大きなことではないのですよ。……一緒に生きていけるということが信じられさえすれば、それは、耐えられることなんです。女が、そういう形のことで男の人を責める時は、形ではない心の方に不安のある時です。不安があり、心もとなく、そしてその心もとなさを、わかって受け止め、甘えさせてくれないと思う時、女は、つい形のことを、口にしてしまうんです。すると男の人は、それは最初から承知の上のはずだった、と怒ります。でも、女が求めているものは、やはり愛だけなんです。愛されている、自分の愛が変わらずその人に届き続けていると、信じられること、それだけなんです。承知のはずだった、と言われるまでもなく、なお承知をし続けてはいるんです。ただ、淋しく、悲しいだけ、……そこには、その人を独占できない、というわがままな淋しさ、悲しさもあります、でも、その人が帰っていく時、そのうしろ姿に、残る心の余韻が見えるなら、女は耐えられるんです、その人の帰っていくうしろ姿を見て、ああ、もう自分は振り捨てられている、と思う時、女はその人に怒りを含み、その人の帰っていく先にあるものすべてを憎んでしまうんです」
 Kは、そこで少し沈黙し、自分の思いに沈んでいたが、また顔を上げ、渚を見て言った、
「先生は、……あの人との愛情が、みんなに知れたらどうなさるんですか」
「私がどうするというより、みんながどうするか、ということでしょう」
「それは、……想像がつくでしょう。先生も、あの人も、許されないでしょう」
「どうしてなんです」
「嫉妬です」
「嫉妬とは、好意の裏返しの気持ですか」
「いいえ! 好意のない人も、嫉妬するのです。それが女の心の狭さであり、女の職場の残酷さです。……陰口は、風の音のようなもの、戦いたくても戦えない、目に見えないものです、けれどもそれは、夜も昼も吹き続け、人の心を滅ぼしていきます、そしてそれは、やはり、ひと組の人たちを、現実に、そこで生きていけなくなるように追いつめる力をもっています。軽く考えてはいけません。……その時は、先生は、どうなさるのですか」
 渚は、一瞬考え、そして言った。
「その時は、……ここを、去ることになるでしょう」
「戦わずに、……」
「ええ。……そうした戦いに大切な心の力をすり減らすことは、今は、むなしく思えます」
「あの人を置いていくのですか」
「なぜ! あの人との愛情を捨てないがために去るのでしょうに」
「ああ、……そうよね、先生は、そうよね、……」
と、Kは言い、また涙声になった、
「先生は、連れていって下さる人だわ。そして私も、どんな所へでも、ついていくわ」

 そう言ってから、Kは、自分の言った言葉に気づいて、悲しそうに笑った、
「でも、先生の連れていく人は、あの人だった。……私は、今度も、置いていかれるのよ」
「あなたを置き捨てていくことはありません、あなたは、これからは、深い意味で、私たちと、一緒に生きていくんです」
「ありがとう。……でも、先生、私のことは、背負わないでいいの。私、新しい日に対して、心を開くことができるようになるかもしれないから。……野木さんを、愛して、連れていってね、どこまでも、どこまでも。……そして、私を、おふたりの友だちとして、心に受け入れて下さいね。……私、先生が大好き。……これはもちろん恋だわ。……でも、それを、先生がわかって下さったこと、そしてまっすぐに受け止めて下さったことで、私はこの恋の思いを、おふたりへの静かな愛情へと、洗っていくことができるわ。あの人も、きっとそれをわかってくれるわね、先生、……」
 渚は、うなずいた。
「ああ、私は、ひとりぼっちではなかったのね、失ったばかりではなかったのね、……」
 Kは、渚の肩に、そっと頬を寄せ、今日だけは、許して、甘えさせて、とつぶやくように言った。……

 島から帰ったその夜、佐和子から電話がきた。やはり、渚とKとのふたりの時が、心にかかっていたのだろう。淋しそうだった。渚は、何も心配することはないと言い、佐和子の深夜勤の明けに、ふたりの家でともに過ごすことを約束し、佐和子の声が明るくなった。

 次の日の昼は、月に一度の、医局の会食だった。もはや、医局と言っても、院長と、外科、眼科、歯科の各医長と、渚の五人の医師しかおらず、院長が勝手にしゃべり、あとの者はそれぞれに黙々と食事をするだけの、侘しいものになっていた。

 事務長が、数日前、渚に、今月からは、婦長に、薬局長、薬剤師、それに自分も入っての会食とし、少しは賑やかにやることにします、婦長では「枯れ木も花のにぎわい」にもならんでしょうが、……と言っていた。しかし、この事務長の計らいも、水の泡となった。会食が始まるとすぐに、院長が、外科医長の梅田の近いうちの退職を告げたからである。 梅田は、一ケ月後の、八月一杯で退職する、と言った。この同じ町の中で、開業するとのことだった。まだ土地の取得をしたばかりだが、いろいろの準備に忙殺されざるをえないこともあり、早めに辞め専念する、と言った。最初に口を開いたのは、婦長の高根だった。あまり感受性が繊細とは言えない婦長は、それゆえに、遠慮もなく、はっきりと事務長に言った、後任の手配はどうなっているのか、いつからこのことを知っていたのか、と。事務長は、憮然としていた。自分が聞いたのはつい先刻だ、後任の手配など、何もできていない。……当の梅田を前にして、あまりそれ以上は言い争えなかった。みな、苦い顔をして、機械的に箸を運んだ。散会したあと、眼科の医長と、歯科の医長、そして渚の三人が医局に何となく残った。もう六十歳を越えている眼科の医長が、

「いよいよ、この病院も終りですな、我々もみんな開業しますか、するなら、今のうちですな。渚先生も、病院に対する心中だてはもうおやめになって、御自分のこれからの大切な歳月を考えられた方がいいですよ。見ていても、痛々しいし、先生のご苦労が報われる日がくるというより、先生が頑張れば頑張るほど、この病院の本当の立ち直りを遅らせていることになっているような気がしてなりません。いや、失礼なことを言って、気にさわったらご勘弁下さい。しかし、決定的な破局を迎えない限り、そして、それに対する院長の責任が問われない限り、この病院は、立ち直れませんよ。梅田先生が、辞めることだって、今の当院にとっては、破局的なことのはずですよ。だけど、院長は、そんなに深刻な顔をしていましたか、していないじゃないですか。あの人は、このままやっていきますよ、なあに、自分ひとりでもできる、大学から手術の時だけパート医を呼べばいい、ぐらいにしか考えていませんよ。地域の住民に対する病院の責任、医者の責任、その遂行能力なんてことは、何にもあの人の頭の中にはありはしませんよ。あるのは、自分の保身だけです。……渚先生が、決心されたら、我々も覚悟します。ねえ、先生もそうでしょう」
 と、歯科医長に向かって言うと、
「いいですよ、私なんかが辞めることがお役に立つのなら、いつでも一緒に。……何なら、三人で、この病院の目の前に、小さな病院でも立てますか、渚先生を院長にして、……」 と、歯科の医長が言った。これまで、何に対しても、ふたりとも、距離をおいた態度できていたのだが、腹の底では、この何年かのこの病院の崩壊の過程に、やはりやりきれない憤りを感じていたことが、初めて渚にはわかった。
「それは、いい! ……そうしましょう、そうしましょう、……ね、渚先生」
 眼科医長は、本当に、乗り気のような声で言った、
「本当に、考えてみて下さい。渚先生となら、我々はやれますよ。患者さんも、みんな来るでしょうし、職員だってついてきますよ。……責任感の強い先生のことだから、私らのように、軽くは考えられないでしょうが、でも、覚えておいて下さい、先生が、一緒に辞めようと言われれば、いつでも、一緒に辞表を出しますから。……まあ、三人で病院を作るというのは夢の話としても、行動をともにする、というのは本気ですからね」……

 

 約束の日、渚が仕事を終わって水原の家に行くと、佐和子は、夕食を作って待っていた。昼間、何時間か眠れたので、元気になったわ、と言って明るい笑顔を見せ、渚に甘えた。
 食事をとりながら、渚は、佐和子が問わないうちに、Kとの出張の日のことを話した。自分の思いを、ふたりへの静かな愛情に、洗っていくことができると思う、とKが言ったと話すと、佐和子は涙ぐんだ。……あなたは、Kさんから何を聞いていたのか、と問うと、いろいろ、と言った。でも、あまり言わなかったね、と言うと、そうね、私があなたに愛されているがゆえに、そのあなたに受け止めてもらえないKさんのことは、むしろ話せない、軽々しく言うことは、あなたの愛情の上にぬくぬくとして、Kさんを無みすることになる、そんな気がしていたんだわ、と言った。でも、今なら話せる、そしてKさんも、もっとあなたに知ってもらうために、それを望んでいるのかもしれないわね、と言った。

 ……渚が着任する直前の冬のある夜、桐村とKは、新発田で落ち合い、市郊外のホテルで一緒の時を過ごした。風が強く、夕方から吹雪いていたが、深夜、Kを病院のある北の町まで送るために国道を走りだし、途中まで行った所で、猛烈な地吹雪に襲われた。

 このあたりは、家も林もなく、田の中を北進する国道は、日本海から吹きつける寒風をまともに横腹に受ける所で、桐村の車の何台か前の車がまずスリップして、路肩の雪の丘にぶつかり横転し道路をふさいだ。そこへうしろからトラックが追突し、また、対向車線を来た車が、同じく横転した車にぶつかった。両側の車線ともに、車は数珠つなぎになり、猛烈な横なぐりの吹雪の中で、すべての車が見る見るうちに雪に埋まっていった。海側のドアは、もうあけることもできなくなり、反対側のドアを辛うじてあけて出て、人々は状況を見定め何とか脱出しようとしたが、前後とも数メートルから先は見えず、歩いて様子を探りにいった人が、前後とも、事故が多発していて、両側の車線とも身動きがとれない、バックしても脱出はできない、救援を待つしかない、とふれてまわった。

 絶望的な状況だった。仮に歩いて近くの駅にたどりついたとしても、もうとうに終列車は終わっていた。救援が開始されるまで、凍死しないでいることがせめて必要なことだった。人々は必要なスペースをシャベルで除雪して、排気ガスが逃げる隙間を作りながら、車のエンジンを切らず、そのヒーターの風で暖を取った。眠ってしまえば、車は雪の中に埋もれて、排気ガスで死ぬことになるのは目に見えていた。バッテリーをあげないために、ライトも消すしかなかった。轟々と鳴る吹雪の音に包まれて、人々は、死と隣り合っていた。ガソリンの切れた車の人々は、車を捨てて、国道を歩きだした。

 桐村とKは、車の中で夜を送った。ふたりは、沈黙していた。たがいに、口にはしなかったが、これが自分たちふたりの道ならぬ愛に対する天からの罰であるかのように感じていた。ふたりともに、朝の勤務までに病院に行きつけないことは明らかだった。それでなくとも、すでに風評の立っていたふたりが、一緒に遅れるということがもたらす致命的な結果は、目に見えるように予測され、そして、もはや避けられなかった。

 未明から、前後数キロにわたる埋まった車の引きだしが、両端から始まったが、一台づつ掘り起こし、自力で動けるものはバックで脱出させていったが、遺棄された車が障害になって、作業ははかどらなかった。引きがねとなった事故に最も近かった桐村たちが脱出できたのは、もう朝の遅い時間だった。

 Kには、病院の人間たちの裁きが、そして、桐村には、加えて、妻の裁きが待っていた。
 桐村は、結局、この病院を去り、妻のもとに帰る「浄罪」の道を選択した。Kは、桐村の帰った町、自分の故郷でもある新発田の町にも帰ることができず、狭い医療の世界、とりわけて狭いこの新潟の地の、どこにも行く所がなかった。また、そうして生きる場を求める意欲、生きる意志そのものをすでに失っていた。……ある朝、Kは出勤してこなかった。寮の同僚が、手首を切っているKを発見した。……Kは、港のある北の町の病院に入院して、手首の傷をは治した。しかし、心の傷を癒すことはできなかった。Kは、少なくとも表立ってはKを咎める言葉を言わなくなった職場に戻り、堅い壁を心にめぐらせながら、今は、心は死んだままで、ここでただ一日一日を生きることを覚悟したのだった。

 桐村の姿が病院から消えた時、渇いたKの心は、すでに渚を見いだしていた。しかし、彼女の心の堅い壁は、島へのこの小さな旅の日まで、めぐらされつづけていた。

 

 渚は、半年前の冬、佐和子とのこの家を整えるために、幾度も通った、雪の国道を思い出していた。佐和子の話を聞いて、Kたちが埋め込まれて、絶望的な夜を送ったという場所の見当もついたし、この地で育った者として、その夜の吹雪の状況も想像できた。桐村の、その後の道の選択の是非を考えることとは別に、渚は、医師と看護婦との愛のある種の必然性について、自分に与えられた愛と併せて、あらためて考えるのだった。

 その、必然性を、医療にかかわりのない人に説明することはほとんど困難に思えた。わかりやすい説明を作るとすれば、それは、医師にとっては毎日の大部分の時を生きる場が、看護婦たちとともに働き、生きる場であって、異性とは、ほとんどすなわち看護婦である、ということであり、看護婦にとっても、異性とは、ほとんどの場合に医師であり、たがいに病院という場を離れて、まったく違う世界の異性に出会う機会は、驚くほど少ない宿命の職についている、ということであろう。……医師も看護婦も、患者としての異性には確かに日々に多く出会うし、患者の側から、医師が、あるいは看護婦が、異性として求められることはそれなりに多くあるのだが、愛として実ることはかなりまれなことであった。医師、看護婦ともに、やはり患者は患者として、けじめをつけて見ており、その無意識的な心理の壁は、極めて越えにくいのであった。

 しかし、渚は思っていた。医師が医療とは関係のない女性を妻とすることは多々あっても、医師として生きるその情念の部分が強ければ強いほど、そしてそれゆえの、苦悩が深ければ深いほど、それを医療にかかわりのない伴侶にわかってもらうことに、大きな困難を感じること、時には、理解してもらうことに絶望することが多いのだ、と。……極限的な、生の困難をかかえた人々、肉体的苦痛、精神的不安をかかえた人々と、くる日もくる日も接しつづけることのもたらす医師の側に生ずるものの重さは、説明しがたいものがあるのだった。単純に、渚が今の病院に来てからの一年を考えても、一日に百人の患者の診察をし、一月に三千人近く、そして、一年で三万人以上の人々を診、語り続けてきたということになる。その、どの人もが、自分一個の、かけがえのない生命をゆだね、希望と絶望に対して、医師に心と言葉を伴った助力を求めてきていた。その心と言葉が、対応の技術ではなく、愛に基くものでなければと考える医師にとって、疲労が極まり、心が涸れ果てたように思える時において、自分の明日の愛の源泉をどこから汲めばよいのかと、思わずつぶやいてしまうこともしばしばあるのであるし、自分自身をも含めて、人間に対する希望と絶望、愛と嫌悪を、血を吐くように叫びたい衝動にも、しばしば駆られることもあるのである。人間に、倦み疲れながら、なお人間に限りなく回帰しようとする医師の心の孤独な戦いは、極論すれば、同じ心をもつ医師にしかわからない。しかし、医師同志が、そうした己れの心情をしみじみと語り合うことは、ほとんどない。あえてなお、言葉として語り合うには、あまりに疲労しているし、自分の内面を吐露するには、羞恥があるのだ。

 そんな時、……あなたの苦しみのすべてを、同じ苦しみを知る者として、私は見ています、私の生があなたにとって、ひとつの泉となりうるのなら、ここに憩い、ここから汲んで、……という人に会えた時、彼は、その差し出された愛にすがりつくこともあるのだ。そしてその人はいつも、ほとんど一種の必然性をもって、看護婦であることになる。しかも、その看護婦たち自身もやはり同じ苦しみ、同じ飢え渇きの中に生きているのであって、ふたつの心がたがいを認め合う時、それは、すがりつき合うような愛になっていく。…… 渚は、看護婦たちを、部下と思ったことはなかった。いつも、それは、一緒に生きる同僚であり、終りのない戦いをともに戦い続けていく、戦友であった。医師と看護婦のあいだの懸隔を感じることはもちろん多々あっても、彼女たちは、やはりいつでも一番身近な友であり、限りある切ない人間の業を、担い続けていく、伴侶たちなのであった。

 渚と佐和子の愛は、運命の糸に引かれて出会ったひと組の男女の愛であると同時に、医師と看護婦としての、苦しみをわかち合い、たがいにたがいの泉になろうとする愛でもあった。自分の飢え渇きが、今、佐和子によって満たされ、潤されていることを思う時、渚は、桐村とKとの愛に、悲しい同情を覚えた。それはまさに「道ならぬ」愛ではあるのだが、では、それを裁く根拠として措定される「愛の道」とは何なのか、それは問われることのない自明のものとして本当にあるのか、と渚は考えこむのだった。

 自らを弁護する気はなく、桐村を弁護する気もなく、……自分自身も桐村と同じ状況に立てば、黙して語らないことはわかっていた。……こうした困難を伴った愛は、ことさらに医療の世界に生きる者たちに固有のものではないだろう、そうしたことは、それぞれの世界にありうることなのだろう。人は、絶対の思いを抱いて恋もし、伴侶も選択するのであろうが、ともに生き通すということをもって愛の成就とするのなら、愛の始まりは容易であっても、愛の成就とは、何とむずかしいことなのだろう、と思うのだった。……

 

 佐和子もまた、Kのことを語りつつ、自分の愛の内容を考え、その愛の行方、愛の生きる道を考えていた。……この人は、何があっても、自分を連れていってくれるだろう。そして、自分も、何があっても、この人についていくだろう。しかし、そう思い、そう言うことで、生きる道が自然に開けるわけでもないのだ。自分は、社会が許さないのなら、そしてこの人が許すなら、仕事を辞めてこの家にこもって暮らすこともできる。しかし、この人は、医師としての社会的存在を貫けなければならない。それは経済的な問題ではなく、この人の存在理由にかかわる問題なのだ。この人は、単に医師である、という人ではなく、医師であることによって最もよく人間として自己を発現している、そういう人だ。私は、この人の生きる道を守って上げなければならない。今、この人は、私があって生きられると言ってくれている、しかし、いつの日か、その私がいることが、この人の社会的な生にとっての躓きの石にならないとは限らないのだ、その時、私はどうしたらよいのだろう。

 ふたりは、それぞれに、それぞれの思いをたどっていた。そして、ふたりともに、自分の思いを口にはしなかった。覆ってくる黒い雲のようなものに自らは怯えながら、愛する人をは怯えさせまいと、思いやっていた。

 

 Kは、渚に自ら言ったように、新しい日に対して、新しい心で生きようと、努力し始めていた。しかし、渚への思いは、恋の切なさを伴い続けていたし、あの日の、ふたりの小さな「旅」によって、Kの思いはむしろかつてなく深いものになっていた。

 佐和子に出会うと、その胸が痛んだ。だが、嫉妬の感情を、Kは、自分に許さなかった。渚と佐和子を悲しませるくらいなら、まさに自分が今度こそ生命を断つべきだと思っていた。しかし、渚の、あの日の優しさが、佐和子との愛のゆるがぬ基盤があってこそのものであったと思う時、渚が自分の思いを目をそらさずに、まっすぐに受け止めてくれたことを喜びとしながらも、どこかに言葉にできない悲しさがあった。

 

 愛とは何なのだろう。……Kは、今、あらためて、この根源的な問いを自らに向って発していた。一年半前、Kは、やはり同じ問いを発し続けていた。しかし、あの時の問いには、「なぜなの! 何だったの! 」という救われぬ呻きに似たものがあり、問いと裁き、渇望と嫌悪がないまぜの暗い炎となって、Kの胸を焼き、滅びへと導いていった。しかし、今、同じ問いを発しながら、Kの心は切なくはあっても、暗いばかりではなかった。Kは、自分の切なさ、苦しさを通して、今、「愛」を真に考察し始めていた。

 人は、自分が「存在」していることを自覚するとほとんど同時に、「愛の渇き」をも自覚する。幼い頃のその「愛の渇き」は、生存のおぼつかなさとひとつのものだった。それゆえに、母なる人の胸のあたたかな安らぎの中で、それはみたされうる渇きだった。しかし、今、「大人」になり、「女」としての性を受認して生きる歳になって、「愛」と言う時、それはいつかしら、「抱きあって離れがたく思う男女の愛」――「性愛」へと変わっていった。そういう「愛」の蓋を開き、そういう「愛の渇き」を教え、そういう「愛」のみたされ方を教えた人がいた。しかし、やがて去ったその人は、自分の「開いた」ものが何であるのかを本当に知っていたのだろうか。……

 あの人との、短い船の旅。……あの旅の中で、あの人は言った、「愛」の蓋を開くということは、いわば、「パンドラの箱」の蓋を開くということなのだ、と。……「パンドラの箱」って何、と私は聞いた。あの人は答えた、それは、神が人の世に送った懲罰の箱、希望と不幸とを詰めた箱だ、と。なぜ、懲罰を、と私が聞くと、遥かな昔、天上の世界にしかなかった「火」をプロメテウスという人が盗んで人間の世に与えたからだ、とあの人は答えた。……私には、なぜそれが罪であるのかはわからない。どう考えても、「火」を独占しようとしていた天上の神々の方が、意地悪だと思う。でも、あの人の言う、「愛」は「パンドラの箱」だ、という意味は、私には突き刺さるようにわかった。それは、希望と不幸とを詰めた箱だ、と言われて、私の胸は本当に痛かった。

 それは、すばやく、うまく閉めれば、希望だけを取り出して不幸は漏らさないですむ箱でもあった、とあの人は言ったけれど、そんな器用な閉め方はできませんでした、と私が言うと、きっと私が悲しそうだったのだろう、あの人は、静かに言った、私もです、と。 あの人の、過去の愛の道程を、私は知らない。しかし、それが決して幸福に満ちたものではなかったのだろうということは、わかる。あの人もまた、人を苦しめ、自らも苦しみながら生きてきたのだ。

 けれども、私は、それでもあの人が好きだ。なぜなら、あの人は、自分が「開いた」ものが何であるかを知っている人だからだ。人が、人に対して「責任」を取るなどということは、できるはずがない。あの人は、最初の結婚が法的には解消しえていない、と言った。それはつまり、あの人が、最初の愛に対して、裏切りをなして生きてきたということだ。人を不幸にして生きてきた、ということだ。しかし、私は、あの人を許して上げたいと思う。私は、許す、許さないを言うべき当事者ではない。だからこそ、あえて言えるのだし、言ってやりたいと思う。私だけは、許して上げます、と。……もちろん、野木さんも、許して、あの人とともに生きているのだけれど……。

 佐和子のことに思いいたって、Kの胸はまた疼いた。

 しかし、Kは、自分は佐和子を裏切る内容においては渚を求めてはいない、と思いたかった。渚という人の実在を、今この瞬間にも切実に自分のこの肉身の隣りに求めてはいても、……そして、その人の顔を見つめ、その人の手に触れ、その人の肩にもたれて自分のすべてを語りたいとは思っていても、それ以上のことを求めてはいない自分を知っていた。それは、苦しい抑制ではなかった。渚を思う時、そこには、かつての日々、自分を焼き焦がした「性愛」の渇きは、不思議なほどになかった。渚に対する自分の愛が、遂に精神的なものであることを、Kは深い所で知っていた。そしてそれは、渚が自分を「女」として見てくれないためではなく、まさに「女」としての現身の重さをその肉身に現実に触れた人以上にまっすぐに見てくれており、大切に思ってくれていることを知っているがゆえの、静かな認識、少しばかり淋しさをにじませた認識であった。

 この日々、渚を思い、渚を求める「苦しみ」を担いながら、Kは、しかし、「幸福」であった。この「苦しみ」は、Kのかつての「苦しみ」とは違うものだった。この「苦しみ」は、Kをやつれさせながら、Kの精神を深め、その瞳を澄ませ、「人々」へのあたたかい、繊細な思いやりの心を深めていった。今、Kは、もう一度、生きることを受容していた。自分の生と性を素直に受容し、すべての「人々」のそれをも受容していた。この心の深化は、もともと美しい人だったKを、今、いっそう深く美しい人にしてきていた。

 

 ある日曜日の朝、Kはひとりで、自転車に乗って、町の北側を流れる川を渡ると、隣の村に入り、川沿いに下って海岸へ出た。まだ涼しい早い時刻でもあって、一時間ほどの行程でもあまり汗もかかず、さわやかなサイクリングだった。塩谷という部落の集落が河口にあり、その部落の中を抜けていくと、そこはもう日本海の海辺だった。

 砂浜の入り口で自転車を捨て、果てしなく続く砂の上をKは歩いていった。ところどころに群生している、うす紅いろの自生のハマナスをあいだを歩きながら、Kは潮の香りを胸一杯に吸っていた。少し小高くなっている砂丘の、ハマナスの隙間に腰を下ろすと、左手にはるかにかすんで佐渡の島陰が見え、右手には、粟島が小さく見えていた。沖合のある部分から海の色が濃く変わっており、それが、北進する滔々たる海流だった。

 Kは、海が好きだった。泳ぐことはあまり好まなかったが、海を見るのが好きだった。潮の香りに包まれて、とりとめもなく考えている時が好きだった。

 

 思いみれば、渚との、島への小さな旅の時まで、二年あまりも、この海に近い町で暮らしていながら、海を見ることがなく過ごしてきていた。去っていった人との、ともに過ごした場所は、ほとんどいつも薄暗いホテルの一室であり、そこへの道筋のほとんどを、Kは、助手席で、シートを倒して、隠れるようにしていなければならなかった。それを、あの当時は、悲しくは思わなかった。あわただしい愛の時でしかなくとも、その人とともにいられることの喜びの方が大きかった。

 しかし、今、風に吹かれながら海辺に腰を下ろしていると、あの日々の中で、熱くも暗い情熱に流されるようにして生きていながら、決してこれを悔いまいと思いつめていた自分が、本当に自分だったのだろうかと、不思議に思えてもくるのだった。

 去った人への屈折した怒りも、自分を追いつめた諸々のものへの鬱屈も、今は、少しずつ遠い感情になってきていた。しかし、それはなお「過去」と呼んでは片づけきれないものだった。捨て去るべきものと、決して捨ててはならないものとがあるはずだった。それを、どう分ければよいのかがまだよくわからなかった。愛の真実と、愛執の悲しさとが、なおKの心の中で混沌としていた。

 Kは、いつとはなく、左の手首の傷をなでていた。……底無しの虚脱感と絶望との中で、もう一歩も歩けない、もうひと言も話せない、目に見えぬ何かが自分の呼吸することさえも許さなくなっている、と思ったあの朝、自分ではほとんど覚えのないままに、手首に刃を当てていたのだったが、その日からのち、ちょっとした時に、無意識に左の手首の細い傷跡をなぞるのが、Kの癖になっていた。今も、海を見ながら、Kは、傷跡をなぞっていた。ふと、それに自分で気づき、その手を離して、ああ、この癖をやめなくては、と思った。

 再びKは、発作のように、渚に会いたい、渚に会いたい、と思った。

 救いを求めるようにあたりを見まわすと、遠く、塩谷の部落の浜辺で、小さなきょうだいらしい二人が、波打ち際でたわむれているのが見えた。子供たちは、飽きることなく、追いかけ合っていた。やがて、母親らしい人が出てきて、何かを言い、子供たちは、家なみの中に消えていった。あとは人影がなかった。

 

 Kは、再び、自分の思いに沈んでいった。……また、渚に会いたい、という気持がほとんど心に血を流すような切実さで迫ってきた。……私は、この混沌とした情念のすべてを、あなたにひとたび託したい、もう一度だけでいい、私を受け止めて! ……とKの心は叫んでいた。 

《……私は、あなたの中で眠りたいの。ひと時を、あなたの優しさの中で眠りたいの。ぐっすりと、赤ん坊のように眠りたいの。……あなたの中で、私の傷ついた心が眠り、私の引きずってきた思い出たちが眠り、さまよった距離と、さまよった時たちが眠り、私のすべての罪と罰が眠り、……あたかも、あなたの中で眠るために生まれ、二十四年を生きてきたかのように眠ることができた時、……私は、初めて本当に、あなたの言うように、新しい朝に目覚めることができるのよ、わかって下さい。……》             

 Kの心は、愛の大きさに、張り裂けそうになっていた。Kは、心が破れるのを防ぐかのように、両手で自分の胸をしっかりと抱きしめていた。

 

 この時、ひとりの若者が、砂を踏みしめながら、静かに近づいてきていた。

 彼は、朝の海辺に出て、ふと、遠くに座って海を見ている人の姿を認めたのだった。顔立ちもわからない距離のはずなのに、彼には、即座にその女性がKであることがわかった。それは、求める人の姿を、群衆の中からでも見分ける、愛の直感だった。 

 このAという名の若者は、同じ病院の事務職員だった。この塩谷の浜の、漁師の次男で、Kとは同い年だった。彼は、すでにずっと以前から、Kを深く愛していた。しかし、彼は、その愛を告白することができなかった。そしてある日、内気なこの若者が、ほとんど死ぬような思いで告白の決意をした時に、彼は、Kと桐村との関係を噂として聞いたのだった。彼は、桐村と戦う勇気はなかった。勝てる戦いではないと思った。彼は、恋する者がひたすらに深めていく謙虚さの中で、自分をじっと見つめていた。愛して欲しいと、差し出しうる自分は、ただただ、貧しく、小さく思えた。Aは、戦わずして敗れていた。厳しく思いつめた視線をしながらKが自分のかたわらを通り過ぎていくたびに、Aの苦痛と絶望は深まっていった。

 桐村がKを捨てて去った時、彼は、Kの悲しみのために桐村を殺したいほどに憎んだ。Kが死を図った時、彼もまたもう少しで死を選ぶところだった。そして、この一年余、Kの暗い表情を見続けながら、彼もまた暗い心で生きてきていた。

 そして今、Kが不意にその目の光を取り戻し、どこか悲しげに、だが、かつての暗い悲しみとは違うやわらかさを含んだ表情で生き始めるのを見た時、恋する者の直感で、Kが再び愛に心を開いたことを悟った。

 しかし、その愛は、自分に開かれたのではなかった。この誠実で内気な若者は、Kの視野の中には、なお自分が存在しないことを知っていた。彼は、Kが自分を見てくれることを、焼けるような思いで祈り続けていた。ちらりと向けられる一瞬の微笑に、彼の希望はふくらみ、はじけそうになった。しかし、次の日、Kは彼の存在に気がつかないように通り過ぎていき、彼の希望は、ガラスのように砕け散った。……そうして苦しみながらも、この善良な心は、恋する人が、誰を愛しているにせよ、幸せであってくれればよい、生きていってくれればよいと、日々、自分に言い聞かせていた。 

 今、Aは、「自分の」海に、その恋する人の姿を認めたのだった。いつもの彼であれば、その人に近づくことなど、ほとんど不可能であっただろうが、この朝は、何かが、彼の過剰な抑制の鎖を解き放ち、彼の生に秘されていた使命を果たすことを促した。そこが、「自分の」海、「自分の」浜であることも、彼の心を自然なものにしていた。彼は、ゆっくりと、砂を踏みながらKに向かって歩いていった。上がり始めた太陽に照らされて、砂浜の温度も上がり、Kの姿は、蜃気楼のようにゆらめいて見えた。Aは、Kが、幻のように、ふっと消えてしまうのではないかと、かすかに怯えたが、彼の歩みにつれて、Kの姿は、いよいよ確かな実在となっていった。彼の心は、その一歩ごとに、言い知れぬ幸福で満たされ、彼の表情は限りなく優しいものとなり、その目は、喜びに輝いていった。

 Kは、なお自分の思いの中で、一種の放心に陥っていた。さくさくと砂を崩す足音に、Kは気づかなかった。Aは、Kのうしろに立って、すぐには声をかけず、今、歩き去りもせず、逃げ出しもせず、自分の目の前に、まったく無防備に座っている、愛しい人を、じっと見守っていた。腰まで届くような長い髪を、無造作にうしろにたばねているKの、襟足の乱れた毛が、いとおしくもあり、また、少し悲しくもあった。

 Aは、Kのうしろの砂丘に、そっと腰を下ろし、自分も同じように海を見やった。もの心ついた時から、見あきるほどに見てきたこの海が、今は、かつて見たこともないほどに澄み、光り輝いて、生きているように見えた。Aは、思った、……この人は、「私の」海に来たのだ、この海から、多くのものを汲み、漁ることはあっても、この海で苦しみに溺れることはない、私が守り抜くからだ、この人は、もうどこへも行かないのだ、と。…… Kは、ふと振り向いた。そして、微笑んでいるAを見いだした。Kは立上がりもせず、逃げだしもしなかった。自分の隣りにきて腰を下ろすように、と彼女は黙って身振りで示した。ふたりは、並んで座り、しばらく何も言わずに、同じ海を見つめ合っていた。そしてふたりは、静かに語り合い始めた。……こうしてこの日、Kは、この世界で、自分の生の意味をともに探し、作ってくれる人にめぐり会ったのだった。

 

 人々は、Kの、固く凍ったままでいた表情がやわらぎ、微笑が浮かび、その瞳が澄んで、優しく深い色をたたえ始めるのを見ていた。その変化が、渚との、あの島への小さな旅のあとで始まったことであり、Kの蘇生に渚の存在が根底でかかわっていることを、すべての人々が感じていた。

 Kは、職場では、なお、ある距離をもって渚に接していた。しかし、渚と出会う時、彼女はいつも、内から自然にあふれだしてくるような微笑を隠さなかった。渚もまた、人目を恐れずに、微笑を返していた。

 Kは、日ごとに、透明感をもって美しくなっていった。渚は、その美しさを、驚嘆に近い思いで見ていた。女性とは、心のあり様ひとつで、こんなにも生命を輝かせうるものなのか、と。……佐和子の、愛による変化も大きかったが、Kのそれは、それに先立つ姿があまりにも暗かっただけに、際立って目立ち、渚に感動を与えていた。渚は、思っていた、この人の微笑はどこか、白い芙蓉の花のようだ、と。そしてこの白さは、彼女が、自らの血で心を洗うことによって、初めて獲得した白さ、深く、あたたかい白さなのだ、と。

 

 人々は、少し、混乱していた。……渚の思う人は、野木佐和子だと、みんなが思っていた時期があった。しかし、やがて佐和子が、渚に会うためとは思えない時刻にどこへともなく出かけていき、渚が病院で当直していたり、宿舎にいることのはっきりしている時に、佐和子の不在の夜がある、ということで、佐和子の相手は、渚ではない誰か、この病院とはかかわりのない誰かなのかもしれない、と思い始めていた。渚の様子にもわからないところがあり、佐和子が夜勤の夜に、渚の宿舎が暗く、朝になってひとり帰ってくることがあることに、渚にもまた、佐和子とは違う人がいるのではないかと、思い始めていた。

 佐和子の相手が誰であるのかはともかく、渚の思う人が誰なのかということには、みな関心があった。それはKである、と考えることができれば、すっきりしただろうし、そう信じている者も多かった。しかし、どうもそうとも言い切れない、と思う者もいた。渚とKが一緒の時を持っている様子はなく、渚の外出と、Kの外出は、どんなに疑い深い者にとっても、一致しなかった。渚とKの愛情が、信じがたいほど精神的なものであることを、結局みなは認めざるをえなかった。いずれそれは、かならず、生々しい関係になるはずだ、と思いながら見ていた人々も、決してそうはならないことを、やはり認めざるをえなくなった。ふたりの愛が、たがいに真に生きるための伴侶を持ちながらの、精神的な愛であることには、誰も気がつかなかった。

 渚と佐和子の愛の家は、なおふたりのほかには、誰ひとり知る者がなかった。Kさえも、知らなかった。あなたたちは、どこで会っているの、とKは佐和子に尋ねたが、佐和子は、言わなかった。幾度目かには、夢の中でよ、と笑って答えた。Kは、まあ、私を信用しないのね、と言って怒ったふりをしたが、しかし、彼女は、ふたりがどこに愛の巣を持っているにしても、それは、そっとしておくべきものなのだ、愛を守りなさいね、と言ったのは、ほかでもない、この私だった、と少し淋しく思うのだった。

 

 渚に対するKの気持は、きわめて精神的ではあっても、なお恋心ではあった。K自身が約束したような、「静かな気持」には、まだなりきっていなかった。渚も、佐和子も、それを知っていた。しかし、佐和子は、渚を信じていたし、渚は、佐和子が自分を信じていることを知っていた。そしてKもまた、その愛を受け入れて交わり始めた人――Aの、自分に対する信頼を知っていた。

 人は、愛をさえも裏切り、それに対する「論理」を作る時もある。しかし、無私の信頼を裏切ることは、はるかに困難なことだった。

 Kは、佐和子に語っていた、――渚を愛していると。そしてまた、語っていた、しかし自分は今、新しい人にめぐり会い、その愛を現実に生きようと育てている、来春には、結婚するつもりである、と。

 それを言ったKの表情は、明るく、幸せそうだった。佐和子の心はそれによって救われていた。もしも、同じ内容のことを、Kが悲しそうな表情で言ったら、佐和子は、Kの歩む道を、姉、真由美の歩んだ道に重ね合わせて、救われぬ気持になったことだろう。

 Kは、つけ加えて言った、私を信じられないことがあるとしても、あの人をは、かならず信じて上げてね、あの人は、あなたを心から愛しているわ、あなたが疑うことがあっても、私はそれを疑わないわ。……佐和子は、答えた、私は、あの人も、あなたも、ともに信じています、と。

 三人は、それぞれに、たがいを愛し、守り合っていた。……渚は、Kの新しい愛が妨げなく育つことを祈って、あえてKの恋人が自分だという誤解を解こうとはせず、嫉妬まじりの揶揄を引き受けて微笑んでいたし、Kもまた、佐和子の役割を演じ、佐和子が受けるべき反撥を我が身に引き受けて微笑んでいた。そして佐和子は、そのふたりを愛しながら、ふたりを信じ、会えないふたりのために、たがいの思い、たがいの言葉を伝える役目を果たしていた。

 

 Kは、休日には、塩谷の浜のAの家に行っていた。彼女は、Aはもちろん、Aの家族たちにも愛されていた。Aは、彼女の過去など、身内の誰にも話さなかった。彼女は、もはや、マイナスの形では過去を引きずっていなかった。彼女は、何も知らないがゆえの純潔ではなく、知って、それを洗い落としえた、白い純潔の心をもって、Aを愛していた。

 Aは、自分が、この人の視野の中に入りえなかった日々の、あの言い知れぬ淋しさを忘れなかった。その淋しさの思い出を、今与えられたものに対する喜びにつないで、深く感謝していた。Kもまた、このAの感謝に対して、奢る気持はまったくなかった。ふたりは、たがいに、自分に生きる意味を与えてくれた人、生きる意志を与えてくれた人に、謙虚な愛を抱いていた。

 Aは、渚に対するKの思いを知っていた。あの初めて肩を並べて語り合った夏の日、Kは包み隠すことなく、渚の心との出会いが自分を救い、生かしてくれたことを語っていた。 Aは、それに嫉妬するほど愚かではなかった。愛の直感が、信じることがすべてだと教えていた。ふたりは、今はもう「ふたりの」ものとなった浜辺を、肩を並べて歩いた。夏は去り、人々の影も消え、あのハマナスの砂丘にも、清澄な秋の風が立ち始めていた。

 Aの両親は、ふたりのために、小さな家をこの海辺に建て始めてくれていた。私はこの海が好き、とKは言った。そのKの心を、Aも、Aの家族たちも、喜びとしていた。


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