資料10:呼称「アイヌ」について
今回の文章で「アイヌ」の呼称をもちいたことについて、少し補足しておきます。
私のこのHPで「アイヌ」といったり、ときに「アイヌの人々」といったりしたように呼称の統一をしませんでした。できればアイヌの人々、アイヌ民族といった言葉は「アイヌ」に統一したかったんですが、やはり現在おかれているアイヌの人々(アイヌ民族)の状況を考えると、不適切な感じがします。ありていにいえば差別発言に聞こえ、よくいってもきつく聞こえます。それで「アイヌ」といってしまうと、問題になりそうと思えるところは「アイヌの人々」などと書いてみました。(私に時間がないことや、「アイヌの人々」というより、「アイヌ」といいたい気持ちがあるので、慎重に言葉をえらんではいませんが)たとえばここで「生きているアイヌをたいせつにしよう」と書いたのですが、私の気持ちのなかでは、「生きているアイヌの人々をたいせつにしよう」ということです。しかしこのように内容は同じであっても、「アイヌの人々」といってしまうと、少しまのびがして文章にインパクトがありません。「滅びたアイヌ」といった偏見が現実に存在するこの日本で、「生きているアイヌ」は反語的で、また「生きているアイヌ」と「たいせつにしよう」のくみあわせはミスマッチでもあり、そこにこの文章のインパクトがあると思います。やはりここでは「生きているアイヌの人々をたいせつにしよう」ではインパクトにかけ、文章が死んでしまいます。わたしにはそんな思いがあったので、あえて「生きているアイヌをたいせつにしよう」とかきました。またすべてのことばをアイヌに統一したいというのは、北海道ウタリ協会などが「ウタリ協会」の呼称をもとの「アイヌ協会」にあらためようとされている精神と同じものです。しかし私の文章のなかで「アイヌ」に統一するのはまだ時期そうしょうという感じもします。でももうそろそろ、「アイヌの人々」といわずにずばり「アイヌ」といっていいのではないかとも思います。もちろんこれはわたし個人の思いいれなので、アイヌ(つまりアイヌのかたがた)から、「アイヌ」はやめてほしいといわれるのであれば、「生きているアイヌの人々をたいせつにしよう」といった表現にかえることに異存はありません。(文章はとびとびに書いていて「アイヌ」という言葉はいろいろなところにでていますが)
もうひとつつけくわえておきます。「生きているアイヌをたいせつにしよう」という言葉は、そこまでの文章を書いているときに突然わいてきた言葉です。この「たいせつ」という言葉は辞書(『国語大辞典』)によれば、「こころをくばってていねいに取り扱うこと。大事にすること。かけがえのないものとして心から愛するさま。」という意味です。私自身も「物をたいせつにしよう」「日本語をたいせつにしよう」「友人をたいせつにしよう」とかいった言葉を使ったことがあります。もちろん現代日本語では(でももう使わなくなってしまいましたねえ)この意味でまちがいはないのですが、天主教をひろめた宣教師たちは「愛」(英語でいえば、Love)を「たいせつ」と訳していたのです。たとえば『邦訳日葡辞書』(岩波書店 1980 p606)によれば、
「Taixet. タイセッ(大切) 愛 ・・・・・ Taixetuo tucusu.(大切を尽す)この上なく愛する,あるいは,深い愛と厚遇を示す.・・・・」
当時の宣教師たちの日本語のレベルの高さを見るおもいです。そして私がつかっている「たいせつ」という言葉はもちろん宣教師たちが使っていた「たいせつ」ということばです。しかし「たいせつ」という言葉じたいが、もうこの日本から消えさろうとしています。この「たいせつ」という言葉もやはり残していきたいものです。
付記:この「たいせつ」という言葉はもともと漢語であるとはいえ、いまや和語といってもよいでしょう。たしかに「愛」という得体のしれない漢語より、まだ英語の「Love」のほうが若者にはよく理解されるかもしれません。(でも若者が理解している「Love」はラブ2のラブかもしれませんが)このように漢語はいまだ日本語とおりあいが悪いのも事実です。そこで倭言の自然な発展をうながすのがよいのではないかという思いからこのHPをひらいたのですが、倭言作りの失敗作はこちら。
戻る(北海道の地名をカタカナにもどそう!)